[過去ログ] アイヌの歴史 Part7 (1002レス)
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11: 2020/12/19(土)15:11 ID:0(11/1000) AAS
文盲チョン「神話ですらどう読んでも支配層は朝鮮半島からやってきて日本人を征服したとしか読めない 」

夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀9年(200年)3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自ら神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服(降伏)して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという[4]。

渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた。月延石は3つあったとされ、長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納。また、播磨国風土記逸文には、播磨で採れた顔料の原料である赤土(あかに)を天の逆矛(あまのさかほこ)や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊の管川(つつかわ)の藤代(ふじしろ)の峯に祭ったとある[5]。

皇后は帰国後、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えた。また、新羅を鎮めた証として旗八流を対馬上県郡峰町に納めた(木坂八幡宮)。

神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。
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