無差別級 (157レス)
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98: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉集の極彩色●●●(5/6) さてそれで漸く短歌の話ですが、この辺の歌を読むと、 生活に密着したその歌いぶりは素晴らしいですね。 これに比べ、平安時代以降の短歌は、より洗練されてはいますが、 まるで生活感にかける気取った歌ばかりですからね。 万葉の短歌は生活感にあふれ、バラエティに富んでいる点で、 現代から見ると、遥かに価値が高いような気がしてきました。 最初の贈答歌11首(3578〜3588)は『女男女男女男女男男女男』 という構成になると思いますが、冒頭二首などは、 何やら、かなりの年の差カップルを思わせますね。 武庫の浦の 入江の洲鳥 羽ぐくもる 君を離れて 恋に死ぬべし (むこの浦の入り江にいる州鳥が親鳥に育てられるように、 私を育ててくれたあなたから離れた私は、恋しくて死にそうです) 大船に 妹乗るものに あらませば 羽ぐくみ持ちて 行かましものを (遣新羅使の大船にあなたを乗せて良いものなら、 今まで通り、羽根に包むようにして連れて行きたいのだが……) 例えば、光源氏が紫上を誘拐して来て育て上げ、自分の妻にしたように、 幼い頃から育てた上げたみたいな印象を受けますよね。 その場合、作者を単なる下男と見なす発想はちょっとそぐわないですから、 ここでも、歌日記説による解釈の方が辻褄があうかもしれません。 この後に続く3〜4首目が、例の霧の歌ですね。 君が行く 海辺の宿に 霧立たば 吾が立ち嘆く 息と知りませ (旅先の海辺の宿で霧が立ったら、私が嘆く息だと思ってください) 秋さらば 相見むものを 何しかも 霧に立つべく 嘆きしまさむ (秋にはまた会えるのに、どうして嘆息が霧になるほど嘆くのですか) これに対置する形で、安芸国の風速(かざはや)の浦の歌がある分けですね。 我がゆゑに 妹歎くらし 風速の 浦の沖辺に 霧たなびけり (私を思って恋人が嘆いているらしい、風速の浦の沖に霧が流れている) 沖つ風 いたく吹きせば 我妹子が 歎きの霧に 飽かましものを (沖風がもっと強ければ、恋人が嘆く息の霧を飽きるほど吸い込めるのに) その後の5〜6首目に海路の安全を祈る歌があって、 それに続く7〜8首目が色々と意味深でしたね。 別れなば うら悲しけむ 吾が衣 下にを着ませ ただに逢ふまでに (別れたら悲しくなるでしょうから、 また直接会うその時まで、私の下着を身につけていて下さい) 我妹子が 下にを着よと 贈りたる 衣の紐を 吾解かめやも (彼女が下着として身につけるようにとくれた衣の紐は、決して解くまい) ここでは、女が『再会する時まで着ていて下さい』と下着を男に与えると、 男は『その下着の紐を絶対に解かない』と約束するというわけです。 何カ月もの間、洗濯もせずに同じ下着をつけるというのは、 現代では考えられないですが、その点では、防人の歌にも、 垢がつくまで同じ着物を着ている、という話がありましたね。 当時はまだ虱なんてものは、余りいなかったんでしょうかね!? 講師はここを男女共通の歌と解釈し、下着の紐を解かないことを、 相手を裏切らないことのように言っていたと思いますけどね。 ただ、この場合の下着の紐というのは、 西洋でいう所の貞操帯の鍵とは大分、違うでしょうね。 結局、この時代の下着が、どんなものだったかが問題ですが、 当時、ブラジャーだのパンティだのがあったはずがないですよね。 そんなものなら、男が身につけることも出来ませんしね。(^^;) そう言えば『関東大震災の時、デパートの窓から飛び降りた女性は、 お尻がむき出しになった』という有名な話がありましたね。 当時の女性は、着物の下にパンツなんてものは着けてなくて、 それをはくようになったのは、これ以降だという説がありました。 ですから、江戸時代以前は言うまでもありませんが、 奈良時代ともなれば、尚更でしょうね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/98
99: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉集の極彩色●●●(6/6) 結局、当時の下着と上着の差は、その材質や厚さの違いだけで、 さしたるデザインの違いがあったわけではないんでしょう。 多分、下着としては、無地で柔らかい物を身につけ、 上着の方は、厚くて模様が付いていたりするわけでしょうね。 その場合、金持ちほど沢山の着物を重ね着する分けで、 その発展形が平安時代の十二単になるのかもしれませんね。 その場合、下着の紐を解くということには少し別の意味があるわけです。 これはもっと後の平安時代の話ですが、男女が共寝をする時には、 互いの着物を下に敷いたり掛けたりして、夜具の代わりにしたそうですね。 空蝉の場合も、夜具代わりの着物を残して逃げ出したわけですしね。 つまり、当時はまだ専用の寝具などというものはなくて、 互いの着物を夜具の代りにしていたようですね。 その意味では、起き出す時に間違えて相手の下着を着る、 ということもあったでしょうし、男女が下着を交換するという風俗も、 現代人が考えるほど不自然な事ではなかったんでしょう。 遣新羅使の後に並ぶのは、中臣宅守と狹野茅上娘子の相聞歌ですね。 この場合も、狹野茅上娘子は宮女で、二人の関係に怒った天皇が、 中臣宅守を越前に流刑にしたんだそうです。 その場合、流刑にする時は当然、女を同行することが許されないのに、 二人の手紙のやり取りを仲介するのが許されたのは、不可解ですけどね。 一説によると、万葉時代の後半には重婚を禁止する傾向が強まり、 この場合も、中臣宅守はその禁を犯したのだという話がありました。 中臣宅守と狹野茅上娘子:天平の悲恋 http://blog.hix05.com/blog/2007/04/post_180.html 当時の天皇は仏教に深く帰依した聖武天皇ですから、或いは、 邪淫を禁ずる仏教思想に影響された面があるのかもしれません。 ただ、流刑になったのが739年であるのに対し、763年には、 彼が都で出世した記録があるそうですから、少なくとも24年後の、 淳仁天皇の時代には、都に帰っていたことになりますね。 その場合、彼の流刑が許された理由が気になりますが、 天皇が変わったせいというよりも、狹野茅上娘子と交わした恋歌が、 一定の評価をされた結果である、と考えるのが良いような気がします。 その場合、これまた一種の歌徳説話ということになりますね。(^^;) それから、以前に書いた件でちょっと気になることがありました。 例の人麻呂の熊野の歌で百重成を『ももへなす』と読みましたが、 前後のつながりからして、ここは『ももへなし』とすべきでしたね。 つまり『みくまのの うらのはまゆふ』は百重を導く枕詞で、 『ももへなし こころはおもへど ただにあはぬかも』と続く、 と見る方が、歌としては自然でしょうからね。 最後の『だだにあはぬかも』の『かも』を『鴨』と書いた点からして、 もし、ここを敢えて『ももへなす』と読ませたければ、 百重成でなく百重茄と書いたんじゃないでしょうか。(^^;) あるいは、百重梨とすればむしろ、誤解が無かったでしょうね。 当時、茄や梨があったかどうかが問題かもしれませんが……。 因みに、鴨なんていう字を当てた所は少しふざけている感じもあり、 キョンキョンあたりが聞いたら喜びそうな気がしますね。 実を言うと昔、あの人が言っていたことなんですが、 気象観測システムのアメダスという名前を子供の頃に聞いて、 『何をふざけた名前をつけてるのか』と思ったそうですね。 ところが、大人になって、それがAMeDAS、つまり、 『Automatic Meteorological Data Acquisition System』 の省略形であると知って納得したそうですが…… 実を言うと、この手の省略名なんていうものは、 本当の所はどうにでも、でっちあげる事ができるんですよね。 ですから、これはやはり当初、ふざけていると考えたのが、 むしろ、アタリだったんじゃないでしょうか。(^^;) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/99
100: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉解釈とタミル語起源説●●●(1/4) また少し間があきましたが……人麻呂刑死説に関しては、 古典講読の第31回で、更に決定的な証拠が出てきましたね。 持統天皇の伊勢行幸の時、人麻呂が都で留守居役をしたようですが、 その時に彼が詠んだ『伊勢留京歌』というのが、三首ありました。 その三首の内の最後のものが、これなんですね。 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/one/m0042.html 潮左為二(しおさひに) 五十等兒乃嶋邊(いらこのしまべ) 榜船荷(こぐふねに) 妹乗良六鹿(いものるらむか) 荒嶋廻乎(あらきしまみを) (うしおが騒ぐ中、伊良虞島の付近を漕いで行く小舟には、 あの子も乗っているだろうか、島の回りは波が荒いはずだが。) 三首とも宮女に関する歌ですが、ここはそれを妹(いも)と表現してますから、 『宮女の中に人麻呂の恋人がいた』と見て間違いないのではないでしょうか。 講師は何故か、そうした見方を敢えて否定していたようですけどね。 という分けで、私としては色々と空想を巡らすことになったわけですが…… 一つの可能性として、次のようなことが考えられると思います。 前にも少し書きましたように、女帝の持統天皇時代には、 宮女もある意味で、暇と体を持て余していたんでしょうね。(^^;) ですから、人麻呂が後宮に入り込むことが黙認されていた可能性があり、 その結果、この歌が示すように、人麻呂の恋人がいたと考えられます。 ところが、持統天皇が譲位して文武天皇に代替わりすると、 後宮への出入りが厳しく制限されるようになって、その結果、 人麻呂は彼女に会えなくなってしまったのではないでしょうか。 例の『ただにあはぬかも』の歌は、その辺の事情の表現とも思われます。 ひょっとすると、その歌自体、人麻呂が彼女との密会を画策して、 こっそりと彼女に送った歌と考えるべきかもしれませんね。 その手紙がばれたか密会現場を直接、抑えられたかは知りませんが、 このことが原因で、人麻呂は刑死したと考える可能性があります。 仮にそうだとすると、例の鴨の当て字にしても、単に『ふざけている』 という以上に、何か密会の現場を暗示する符丁かと最初は思いました。 つまり、鴨と言えば二人にはピンと来る場所があったということです。 でも、色々調べた結果、助詞の『かも』に鴨という字を当てる書き方は、 人麻呂が作った他の歌にもあって、この発想は駄目のようです。(^^;) 因みに、直不相鴨(ただにあはぬかも)という全く同じ表現が、 万葉集には、もうひとつあるのを発見しました。 この歌は人麻呂よりも後代の歌ですから、この場合は、 人麻呂の歌の表現をそっくり借用したのかもしれませんけどね。 http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/68.htm 安太人乃(あだひとの) 八名打度(やなうちわたす) 瀬速(せをはやみ) 意者雖念(こころはもへど) 直不相鴨(ただにあはぬかも) 全く同じ表現と言えば、以前に引用した人麻呂の歌とそっくりの歌が、 第35回の笠女郎が大伴家持に贈った歌に出てきたのには驚きました。 思ふにし 死にするものに あらませば 千たびぞ我は 死に還らまし 以前に引用したのは次の歌ですが、発想や表現が酷似していますから、 これまた、人麻呂のパクリと考えるのが自然のような気がします。 http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1162001315.html#4 恋するに 死にするものに あらませば 我が身は千たび 死にかへらまし http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/100
101: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉解釈とタミル語起源説●●●(2/4) 実は、笠女郎の歌には、他にも人麻呂の歌に良く似たのがありますね。 先ず、壬申の乱の英雄・高市皇子の死に際して、 人麻呂が詠んだ歌がありましたが、その格調の高さは、 万葉集の中でもピカイチですから、私が好きな歌の一つです。 因みに、ここでも最後の『かも』は鴨となっていました。(^^;) ひさかたの 天知らしぬる 君故に 日月も知らず 恋ひ渡るかも (昇天して、ひさご形の天空を支配なさっているあなたですから、 私は時間が経つのも忘れ、ひたすら思い焦がれています。) それに比べ、次は笠女郎が大伴家持に贈った歌の一つですが、 先の例ほどではないにせよ、これまたかなり似ていますよね。 ここでも、笠女郎が人麻呂の歌を参考にしたような気がします。 朝霧の 鬱(おほ)に相見し 人故に 命死ぬべく 恋ひ渡るかも (朝霧の中で見るように、かすかに見初めたあなたでしたが、 今の私は死んでしまいそうなほど深く恋し続けています。) ところで、私も古典は素人なので凡ミスをやらかしたようですが、 『……ませば……まし』は、いわゆる反実仮想という奴ですから、 『恋重荷』の所で付けた訳は、大分ずれていたことになりますね。 つまり『もし、恋するたびに狂い死にする宿命にあるのなら、 私は千回死んで、千回生まれ変わろう』と訳しましたけどね。 最後のましが反実仮想なら、後半部は決意表明ではなく、 『私は千回死んで、千回生まれ変わっただろう』となりますね。 結局『もし恋で死ぬものなら、私は千回生まれ変わったはずだが、 実際はそんなことはなかった』ということですよね。 ですから、この歌の主張は恋重荷の歌とは正反対になります。 その時『千人に恋をした』と見なすなら、大分軽い内容になって、 『柿本人麻呂はプレイボーイだった』ということになるかもしれません。 しかし、あの歌が例の恋人に送った歌であり、 同じ人に対して千回分の恋をしたと解釈するなら、 必ずしも軽いとは言えないことになるでしょうね。 笠女郎の歌にしても『自分はあなたに千回分も恋をしたのだ』 という主張でしょうから、それなりに重いですよね。 実は昔、人麻呂の人物像を探ろうとして万葉集をあさっている時、 人麻呂歌集の中にこの歌を見つけたのでした。 当時から『人麻呂歌集の歌は必ずしも人麻呂自身の歌ではない』 という説があるのは知っていましたが、自己流解釈に基づいて、 人麻呂の歌で間違いないだろうと考えていたのでした。 でも、こんなに似た歌があるとなると、あの歌自体、 人麻呂の作ではないという可能性が出て来ましたかね。 万葉集という作品も、中々一筋縄ではいかないようです。(-_-;) 無論、時間的に言えば人麻呂歌集の方が古い分けですから、 笠女郎の歌を人麻呂歌集の真似と見ても良い分けですが、 更に古い古謡のようなものがあって、両方とも、 そこから取ったと見なす方が自然でしょうか。 それから、例の伊勢留京歌の第三首に出てくる伊良虞の島を、 伊良虞岬と解釈するのが現代では通例のようですが、私の考えでは、 それはむしろ、岬の手前にある神島のことではないかという気がします。 というのも、当時の交通事情の悪さを考えると、 宮女たちの行動半径は、余り広くないだろうと思われるからです。 例えば、一首目の歌に出てくる『あみの浦』を『あごの浦』と読んで、 『英虞湾』と解釈する立場があるらしいですが、 当時の交通事情からすると、それは到底ありえませんよね。 彼らが鳥羽までどういう方法で行ったかは良く知りませんが、 鳥羽から『英虞湾』に回るとしたら、それ自体が大旅行ですからね。 というのも、当時は山中を行く道が整備されていなくて、 海岸伝いに海を行くのが普通だったらしいからです。 その意味で『あみの浦』というのはやはり、 鳥羽駅の最寄りにある湾(鳥羽湾)内の地名だろうと思います。 先ずはそこで浜遊びをしてから、小舟に乗って、 二首目に出てくる答志島に渡ったと思われます。 となると、次の三首目の舟遊びにしても『伊良虞岬まで、 わざわざ海峡を越えて行く』とは考えにくいので、 その途中にある神島を一巡りした、と考える方が、 旅程としては自然のような気がする分けです。 それなら、島を強引に岬と読み替える必要もありませんしね。 無論、その場合には『伊良虞岬の手前にある神島を、 当時は伊良虞の島と呼んでいた』と考える必要があります。 その証明が出来ないと、仮説の域を出ませんけどね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/101
102: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉解釈とタミル語起源説●●●(3/4) 第32回では武市黒人の歌を取り上げていましたが、 その中で『あけのそほ船』というのが話題になっていましたね。 http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/25995464.html 客為而(たびにして) 物戀敷尓(ものこひしきに) 山下(やましたの) 赤乃曽保船(あけのそほぶね) 奥榜所見(おきにこぐみゆ) (旅の途中でふと、もの恋しい気分になっていると、 山下にあった赤土を塗った船が、沖へと漕いでいくのが見えた) 『あけのそほ船』というのは『赤土を塗った船』のことで、 赭土(そほ、赤い土)というのが、魔よけだとか、官船の印だとか、 更には船食虫を防ぐ為だとか、様々な説があるそうですけどね。 私としては、ここはやはり魔除けと考えたい所なんです。 その場合、どうして魔除けをする必要があったのかが問題ですが…… 私の考えでは、これは葬送の船と見るのが良いような気がします。 つまり、遣新羅使のところでも色々書きましたが、 当時はしょっちゅう伝染病がはやっていて、 伝染病で死ぬことは日常茶飯事だったわけですね。 その時、伝染病の死者はうっかり地上には葬れないですから、 海に捨てるというか、水葬したのではないかという気がします。 そしてその水葬の船には、伝染病のこれ以上の拡散を防ぐという意味で、 魔よけのおまじないとして、赤土を塗っていたのではないでしょうか。 その後の第33回では、戯れ歌が取り上げられていましたが、 その中で『意味の通らない歌を作る』という話がありました。 でも『単にでたらめな歌を作るだけなら誰にでもできるはずで、 そんな歌に2000文もの賞金を与えるのはおかしい』 というのは、次のサイトの主が言う通りだと思います。 その場合、二つ目の歌については男性器の暗喩だという話があったので、 少し気になって捜し回ると、出て来たのがこのサイトなんです。 ここの話によると、でたらめに見えるあの歌には実は裏の意味があって、 タミル語の語彙を使って解釈すると、良く分かるというんですね。 万葉集難解歌の解読 http://homepage3.nifty.com/umoregi/sakusaku/1_1.htm 日本語の起源がタミル語にある、とする説には聞き覚えがありましたが、 それがこんな所で出てきたのには、私もビックリしました。 『万葉時代の和語には、タミル語由来の言葉が沢山あったが、 その時代に中国語が入って来た結果、その多くが死語になった』 と考えると、これらの歌の持つ二重の意味がわかるらしいです。 ただ……幾つか疑問に思える点もあって、例えば、 なぜ褌(ふんどし)をピンクに染めるのかが解せませんでした。 そんなものに何故、わざわざ染色する手間をかけるのかということです。 で思い至ったのは、前に書いた男女が下着を交換するという話ですね。 その時は、その下着を襦袢みたいなものだろうと考えていたんですが、 後になって、着物をとめるのは紐ではなく帯じゃないかと気になり出し、 紐でとめるなら、むしろ褌みたいなものかもしれないと気づいた分けです。 実際問題として、女性が生理の時に身につける褌みたいなものがあり、 男の褌はそこから派生したものであるという説を聞いたことがあります。 仮にそうだとすると、下着の交換というのは『経血に染まった褌を、 男女で実質的に共有していた』ということなのかもしれません。 男の褌がピンク色だったというのも、それなら納得が行きます。 何しろ、当時の布は大変な貴重品である一方、 衛生状態の悪さは、現代からは想像もつかないレベルですからね。 他方では『吉野が桜の名所だから、桜のピンクに、 褌のピンクをかけたのだ』という点もひっかかりました。 古典講読の講師によると『吉野が桜の名所になるのは後世のことで、 吉野のイメージは明日香時代は川、奈良時代は雪』だそうですからね。 それでも尚『吉野には万葉の時代から自生した桜が多かった』、 つまり『名物になるほど有名ではなかったにせよ、 春には山が赤く染まっていた』と考えることは可能でしょうか。 あるいは……経血で染まった褌なら、むしろ桜の花ではなく、 紅葉に染まった吉野に掛けていると見るべきでしょうかね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/102
103: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉解釈とタミル語起源説●●●(4/4) ただ……こうした解釈の最終的な信憑性に関しては、 タミル語の専門家でない素人には、判断のしようがありません。 それを支持する学者にしても、日本には数名しかいないんだそうです。 実際問題として、タミル人が住むのはインド南部ですし、 その顔だちも、日本人と共通性があるようには見えませんからね。 それでも、私の考えでは、この説は一般に思われているほど、 突飛なものではないんじゃないか、と言う気がします。 というのも、私が以前から考えていることとして『日本人の祖先は、 何万年か前には中国大陸にいたんじゃないか』と思うからです。 例えば、例のブータン人と日本人が良く似ている件ですけどね。 ついこの間も、国王夫妻が国賓として来日していましたが…… あまりに日本人と似過ぎていて、威厳をそがれた感もありました。 つまり、ブータンの国王は、日本では例えば、 その辺の長屋に住んでいるあんちゃんみたいな風貌ですからね。(^^;) 他方では、日本人とモンゴル人の類似性もあったわけですが、 そうしたことを総合的に考えると『何万年か前には、 日本人の祖先が、今の中国大陸に住んでいた』と考えると、 色々なことの説明がし易いように思う分けです。 そこへ中国人が後から侵入して来たので、日本人は東へ、 モンゴル人は北へ、ブータン人やタミル人は南へと、 それぞれ弾き飛ばされたんじゃないか、という気がします。 つまり、ブータン人と日本人が似ている原因として、 南海方面を経由して日本人の祖先が渡ってきたと考えるより、 この方が、ずっと自然に両者の関係を説明できるでしょ!? 似たようなことで言うと、インド北部のアーリア系インド人も、 数千年前に、インドに渡ってきたことが知られている分けですね。 多分インド人の祖先は今のヨーロッパ大陸にいて、 そこでの争いに敗れた結果、東に逃れ来たんでしょうね。 ですから、インド人にとっての憧れの理想郷が、 西にある(つまり、西方浄土)のもその帰結と思われます。 中国人の場合、そのインド人よりも更に古い昔に、 やはり、西から逃れて来たのではないかという気がします。 もしそうなら、それ以前の先史時代の中国大陸に日本人やモンゴル人、 更にはブータン人やタミル人がいたとしても、不思議はないですよね。 日本語とタミル語が同じ言語から分離したという説も、 そうした展開の中で見れば、それほど不自然ではないと思う分けです。 そうした日本語のタミル語起源説に関しては、 以前から私が一つ気になっていることがあります。 万葉集では『まくらをまく』という表現が良く出てきますよね。 その場合、まくらという言葉の語源は『まく』という動詞に、 接尾語の『ら』が付いて名詞化したものではないかと思う分けです。 それと同様に、似た表現で『さくらがさく』というのがありますよね。 この場合も『さく』という動詞に『ら』という接尾語が付いて、 さくらという名詞になったのではないか、 というのが私が受ける印象であるわけです。 更に言うと『もぐる��もぐら』や『あぶる��あぶら』があるし、 『あぐら』も似たように説明できるかもしれませんよね。 だとすると、この『ら』という接尾語がタミル語では、 一体どう解釈できるのかが気になる所なんです。 それがうまく行けば、タミル語起源説の補強因子になりますよね。 他方では、日本語と朝鮮語の近縁関係を言う説がありますから、 朝鮮語の位置づけをどうするのかも一つの焦点でしょうね。 例えば『海の幸・山の幸とは言うのにどうして、 畑の幸とは言わないのか』という問題があります。 この場合、さちの語源が朝鮮語のサルであって、 そのサルが矢尻を意味するという話がありました。 つまり、海の幸は漁の獲物、山の幸は猟の獲物というわけで、 共に、モリとか矢とかで仕留める生き物のことなんですね。 ですから『畑でとれる作物は畑の幸とは言わない』というわけです。 そうした朝鮮語と日本語の近縁関係を考えるなら、 朝鮮語の古語もタミル語から説明できないとおかしいですよね。 もしそれがうまく行けば、日本語のタミル語起源説も、 今より遥かに信憑性が高まるのではないでしょうか。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/103
104: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(1/6) ちょっと間が空き過ぎて、うまくまとまる自信がありませんが…… 今回は、先ず『さつや』の話から始めようと思います。 以前に『何故、海の幸・山の幸と言って畑の幸と言わないのか』 という話をしましたが、それに関し、笠金村の歌には驚きました。 それは古典講読の第44回に出てきた志貴皇子の挽歌でしたが、 その冒頭付近に『ますらをの さつやたばさみ』とあった分けですね。 訓読表記の場合、ここの『さつや』を『幸矢』と書く人が多いですが、 原文を探すと、何とそこが『得物矢』となっていたんですね。 これだと『幸』が『獲物』を意味することは、ほぼ自明ですね。(^^;) 志貴皇子,笠金村,白毫寺,萩 http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/108.htm 因みに、志貴皇子が葬られた高円山は、皇子の別荘があった所らしいですが、 実は、この山は奈良の大文字焼で火床となることでも有名のようですね。 つまり、大の文字に薪を並べる為の台座が置かれている山だった分けです。 更には、以前にビデオ評で取りあげた映画『殯の森』にしても、 この高円山を舞台にしていた、という話が出て来てびっくりしました。 志貴皇子と言えば、何と言っても新古今集の歌が有名ですよね。 岩そそぐ たるひの上の さ蕨の 萌えいづる春に なりにけるかな いかにも新古今集にはぴったり、という感じのキラキラした感性ですが、 そんな斬新な感性を持つ人が、これほど昔の人だったというのも驚きでした。 彼は天智天皇の第七皇子でしたが、権力が天武天皇の系列に移った結果、 生臭い政治の世界からは身を引いて、専ら歌の世界に没頭したようです。 そうした点を考えると私は、例の東歌が献上された相手というのも、 他ならぬこの志貴皇子だったんじゃないか、という気がし始めています。 結局、一般論として言えるのは、こうした文学というものが権力者よりも、 権力から疎外された人々によって担われることが多い、ということですね。 ただ志貴皇子の場合、彼の存命中は傍流に落ちたかもしれませんが、 結果的には、その後も政治的キーパーソンであり続けたわけですね。 というのも、後々になって天武系の血筋が途絶えた時に、 彼の息子が光仁天皇として即位し、その血筋が、 平安時代へと受け継がれて行くことになったからです。 ひょっとすると、彼の歌人としての名声も、 そうした復権に寄与したんでしょうか。 政治的な疎外という点で言うと、大伴旅人や山上憶良にしても同様ですね。 恐らく当時、都で権力を独占しつつあった藤原氏にとっては、 彼らが煙たい存在だったからこそ、この二人を左遷して、 太宰府のような遠隔地に追いやったのではないでしょうか。 その結果、筑紫歌壇とか筑紫文学圏と言われる状況が現出した分けですが、 第45回に取り上げられていた『酒を讃むる歌』などを読むと、 旅人のかなり鬱屈した心情が反映されているように感じられます。 大伴旅人・酒を讃むる歌 http://www.h6.dion.ne.jp/~jofuan/myhaiku_065.htm 例えば、次の歌などは都の藤原氏へのあてこすりと見る説がありましたが、 それは多かれ少なかれ、当たっているのではないでしょうか。 つまり、都でまじめくさって政治を取り仕切っている藤原系の人々を、 猿に見立ててあざけっているとも読めますよね。(^^;) あな醜く 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む (ああ嫌だ。大切な仕事があるとかいって、 酒を拒む人の顔を良く見ると、猿にそっくりな気がする。) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/104
105: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(2/6) 他方では、笠金村を調べている最中に、とんでもないものを見つけました。 旅の途中で見かけた美女を一夜妻として迎えた、という長歌ですが、 もし本当なら、現代の男から見ても垂涎の体験でしょうね。(*^^)v 平成万葉歌仙三十「秋の百夜」の巻〜起首 http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/60718606.html 三香の原 旅の宿りに 玉桙の 道の行き逢ひに 天雲の よそのみ見つつ 言問はむ 由の無ければ 心のみ 咽(む)せつつあるに 天地の 神事依せて 敷栲の 衣手交へて 己妻と 恃(たの)める今夜 秋の夜の 百夜の長さ ありこせぬかも (美香の原で旅宿した折り、道中で偶然見かけた美女を、 遠くから見るばかりで、何もできなかったのを悔いていた所、 天地の神々の御加護か、一夜の妻として迎えることが出来た。 この春の短夜が秋の百夜分あれば、と願ったことだった。) 但し……この旅というのが個人的な旅ならともかく、 実は、天皇の行幸にお供した時の話のようですからね。 本当にそんなうまいことが出来るのか、と疑問が生じるのも当然で、 『この歌は、あくまで夢想の産物である』と見なす説がありました。 でも、ドン・ジョバンニのレポレッロとか、光源氏の惟光とか、 昔の貴族には、その意を受けて働く部下がいた分けですからね。 こういうおいしい話が絶対なかった、とも言い切れないでしょうね。 ですから、この歌を味わう現代人の立場としては、やはり素直に、 書いてある通りの事実として、受け取りたいような気がします。(^^;) 以前の記述に関する話で、もうひとつ言うと、 例の霧の歌の連作に関しては、その作者が一体誰なのかが気になりました。 というのも、もし遣新羅使の歌群が特定の人物の歌日記なのだとすると、 万葉集の大歌人の一人として、彼の名を加える必要がありそうですからね。 それで、後から読み直す内に気づいたんですが、仮にこれが歌日記なら、 その作者は、3589番歌の作者として名が見える人物、 つまり、秦間満(はだのはしまろ)ではないんでしょうか。 万葉集 巻15-3589夕さればひ… | NipponArchives 万葉集 http://www.podcast.tv/video-episodes/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86-%E5%B7%BB15-3589%E5%A4%95%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%B2%E2%80%A6-13404631.html 夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてそ吾が来る 妹が目を欲り (夕方になるとひぐらしが鳴いてうるさい生駒の山々を、 私はとうとう越えてきてしまったよ、あの子の目を見たいばっかりに。) 当時の遣亜使の船旅では、正式な出航前に何日か海上に出て、 訓練のようなことをしたと講師が言っていましたね。 そうした訓練期間中に、二人の間で取り交わされたのが、 例の冒頭の11首の贈答歌だったと思われます。 で、この3589番歌はその贈答歌の直後にある分けですが、 作者はその訓練の途中、抜け出して家に帰ったみたいですね。 『こんなに時間が余るのなら、もっと彼女と一緒にいればよかった』 なんていう歌も3594番にはありましたしね。 潮待つと ありける船を 知らずして 悔しく妹を 別れ来にけり (潮待ちで船が出航できないことを知らなかったばっかりに、 私は残念にも、あの子と早々に別れて来てしまったことよ。) ここ以外には彼の名は一切、出てきませんが結局、この位置に名前を出せば、 後は繰り返して書く必要を感じなかった、ということではないんでしょうか。 因みに、ひぐらしが鳴くのは6月下旬から9月中旬と言われますから、 『春に出て秋には帰る』という当初の旅程からすると、 何かの事情で随分、出発が遅れていたということになりますかね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/105
106: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(3/6) それから第41回で額田王を取り上げた時、その最初の歌に関して、 天皇が本当にそんな粗末な宿に泊まったのか、と疑問が出されていました。 秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処(みやこ)の 仮廬(かりいほ)し思ほゆ (秋の野の草を刈り、それで屋根を葺いて明かしたあの夜の、 宇治の粗末な仮御所のことが、懐かしく思い出されます。) でも……当時の貧しさは今日、我々が想像する範囲を軽く越えるだろう、 ということを、我々は十分に想定して置く必要があると思います。 天皇がそういう粗末な宿に泊まっても、別に不思議はないということですね。 第48回で、大伴氏の家族が稲刈りに出かける話にしてもそうですよね。 講師は、稲刈りの間に彼らが寝泊まりした仮屋の『たぶせ』というのは、 いくらなんでも謙遜した表現だろうとか言っていましたが、これまた、 当時の貧しさを考えるなら、そうとは言い切れない気がします。 更には、山上憶良の貧窮問答歌は、彼が死ぬ暫く前に作られたようですが、 そこに描かれている貧しさも、我々の想像を軽く越えていますね。 第五巻 : 風雑り雨降る夜の雨雑り雪降る夜は http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/five/m0892.html 人並に 我れも作るを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け (私も人並みには働いているのに、綿も入っていない麻衣で、 海藻のように切れ切れになった、ボロだけを肩にかけて) いくら何でも、一度は地方の長官まで勤め上げた人物が、 その晩年に、こういう悲惨な状況に置かれるというのは、 現代人には、にわかには信じがたい話ですよね。 無論、晩年の彼は藤原氏に冷遇された可能性が当然ありますが、 それにしても一度落ちぶれると、ここまで行くという事の背景には、 当時の圧倒的な貧しさを考える必要があるのではないでしょうか。 で再び、天皇の描写に話を戻しますが結局、明治期以降、 天皇の権威が極端に肥大化した、という事情がありますよね。 そうした近世の常識に捕らわれると、間違えるのではないかと思います。 万葉集の色々な所を読むと、当時の天皇の権威というものは、 せいぜい、今日の我々が考える地方豪族に、 毛の生えた程度のものだったようなふしもありますからね。 彼ら自身、そのようなものと意識していたような気配もあります。 その点では『天皇を神として讃える歌』をしきりに作った人麻呂などは、 例外とも見えますが……だからこそ、渡来人説が出るのかもしれません。 つまり、当時の政権を安定させる上で、天皇を権威付けすることが、 必要不可欠だったと思いますが、その意味で渡来人の人麻呂が、 政権に多少とも迎合的だったことが、好都合だったとも考えられます。 そういう近世的に肥大した天皇の権威を常識とする立場からすると、 万葉集の歌が相聞歌・挽歌・雑歌の三分野に別れていて、 皇室行事の歌が雑歌に入っていることを、奇妙に思う人も多いようです。 この講師の場合、そこを逆に解釈して『雑歌というのは、 現代人が考えるような「その他もろもろの歌」 という意味ではない』とか言ってましたけどね。 でも、それはむしろ明治期以降に肥大化した天皇権威に流された結果、 生じる歪みであって、むしろ逆立ちした発想ではないんでしょうか。 つまり、万葉の編者にしてみれば、この歌集は別に、 天皇の権威を高める為に作った分けではなく、あくまで、 歌の価値に重点を置いているのだ、と考えれば良い分けです。 言い換えると、皇室の権威を讃える為の歌集を編みたいのなら、 それ専用の歌集を作れば良いわけで、万葉の編者には、 必ずしも、そういう意識は無かったということなんでしょう。 その意味で、皇室行事の歌は挽歌でもないし相聞歌でもないから、 自動的に雑歌に入った、ということに過ぎないだろうと思います。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/106
107: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(4/6) そうした万葉の編者の心情に、更に分け入るとすれば、 一つ絶対に落せない要素として『書き言葉というものを、 始めて手にした人々の衝撃』ということがあると思います。 それまでは、たとえどんなに優れた歌を詠んだとしても、 ただ口承として伝えるしか無い時代が、長く続いていたわけでしょ!? それがある時、漢字が伝来し、それを万葉仮名として用いて、 和歌を書き言葉として記録する道が突然、開けた分けですね。 例の東歌にしても、ひょっとすると東国の人が和歌を教わったのは、 万葉仮名の使い方を教わったのと同時だったのではないでしょうか。 その時、人々が感じた驚きや興奮というものは、例えば、 明治にガス灯の明かりを初めて見た人の驚きや興奮よりも、 小さかったはずはないだろうと思います。 ですから、彼らは始めて手に入れた文字というものを使って、 それ以前に蓄えられていた知識や情報を後世に伝えることに、 重大な責任を感じていたのではないかという気がします。 その点では、古事記や日本書紀にしても同様ですが、 詩歌の世界では、この万葉集が重要な役割を担ったんでしょうね。 という分けで、例の仮庵は天皇が泊まった宿と見て良いと思いますが、 もし額田王も一緒に泊まったのだとすると、天皇は女かもしれませんね。 男の天皇なら当然、妻と共寝をしますから他人は入り込めませんが、 彼女が天皇の妻として同宿した、というのも考えにくいですからね。 彼女の場合、天武天皇との愛人関係が良く知られていますが、 それは天武の皇太子時代の話ですから、話が合いません。 他方、仮にこの天皇を天智天皇とすると近江宮時代になりますが、 例の歌が熟田津の歌の前に置いてある点からすると、 それもやはり、辻褄が合わないように思います。 というのも、熟田津の歌は西暦661年に百済救援の為に、 斉明天皇が出航した時の歌とされている分けですね。 その後、663年の白村江の戦いに敗れた結果として、 都を近江に移した分けですから、例の歌を近江宮時代とすると、 時間的に逆順になってしまう分けてす。 その意味で、この歌に出てくる天皇というのは、 女帝の斉明天皇あたりと考えるのが良いような気がします。 ところで、万葉集の編纂者に関しては様々な説があるようですが、 近年は、大伴家持がその大半を編纂したという説が有力のようですね。 ならば、例の大和三山歌にあった『第二反歌は反歌として相応しくない』 とかいう注釈も、他ならぬ家持が付けたものと見るべきなんでしょうか。 最初に見つけたwikiの記述では『第一巻と第二巻が先ず最初に作られ、 第三巻以降とは区別される』とか書いてあったので、 ならば最初の二巻は相当、古いものかと思っていたんですけどね。 実は第一巻の63番に山上憶良の歌があって、それは、 704年の文武帝の時代に、唐で彼が作った望郷歌であるわけです。 いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ (さあみんな、早く日本へ帰ろう。我々が出航して来た、 大伴の御津の浜松も、我々を待ちわびているはずだ。) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/107
108: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(5/6) よって編纂の開始は、少なくともそれ以降ということになりますね。 因みに、家持は718年頃の生まれとされていますから、 彼が物心が付くころには、憶良の望郷歌は、 既に四半世紀も昔の話ということになります。 他方では、家持の死後にも万葉集が編纂された形跡があるのに、 その人物は不明ということで、講師はそれをXと読んでいましたね。 でも、そうなると、その謎の編者というのは、 家持の正妻であった大伴大嬢ではないかという気がします。 つまり全く外部の、例えば大伴家以外の人物が、 万葉集の最終的な編纂に関わったのだとすれば、 その名が痕跡として残されていないことは考えにくいですよね。 それに比べ、家持の死後に残された大伴大嬢が、 夫の遺志を継いで万葉集を最終的に完成させたのだとするなら、 その名がどこにもないとしても、驚くには値しないと思います。 その点で少し興味を引かれたのは、家持と大嬢の関係でした。 家持は16才位の時に、既に大嬢に贈った恋歌があり、 一説によると、もう当時から二人は出来ていたとも言われます。 でも、その後、家持は別の女を妻にして子まで作ったらしく、 その女が早死にした時に、彼は悲痛な挽歌を残していますね。 大伴家持:青春と恋(万葉集を読む) http://manyo.hix05.com/yakamochi/yakamochi.seishun.html その後、改めて家持は大嬢を正妻として迎えたようですが、 実を言えば、家持には生涯に10人以上の女がいたとも言われる分けです。 第35回に出てきた笠郎女も、その一人だった分けですけどね。 そうした事情からすると、第47回に取り上げられた、 家持の大乗への恋歌が大変ナイーブなのが気になりました。 万葉集の風景 http://viewmanyou.web.fc2.com/081630_kaobana.html 第八巻の1629番と1630番で、長すぎるので引用は省きますが、 仕事が忙し過ぎて、同居する家にほとんど帰れないのを恨んで、 『どうしたらあなたへの恋心を忘れられるのか』と歌っています。 家持がこんな恋歌を作ったとすれば、それは最初の恋の時で、 二人とも二十歳未満だったような気がする分けです。 ひょっとすると、万葉集の最後の編者としての大嬢が、自分が贈られた、 若き日の恋文を覚えていて、こんな形で収録したのかもしれませんね。 因みに、こうした歌を紙に記録することが何度か話題になりましたが、 自分で俳句や短歌を作る人なら良く分かると思いますけど、 そうしたものは特に書き留めておかなくとも、 当事者は決して忘れないものですよね。 ですから、例えば遣新羅使の歌日記にしても、あれは秦間満が、 後から全てを思い出して、紙に書き留めた可能性があります。 例えば、将棋のプロ棋士は勝負が終わった後で何も見なくても、 最初からの全ての手を盤上で再現できると言いますよね。 へぼ将棋ではそうは行きませんが、プロの勝負ともなると、 結局、盤上の一つの駒の位置が全体の形勢に影響するので、 各駒の位置関係は有機的に関連付けられている分けですね。 ですから、勝負を再現するのに苦労はしないのだろうと思います。 その点、和歌や俳句にしても似たようなもので、 一つ一つの言葉は、互いに有機的に関連付けられていて、 『ここにはこの言葉が不可欠である』という所まで練り上げ、 推敲に推敲を重ねた上で、詩歌として成立している分けですね。 ですから多少、時間が経っても忘れることはあり得ない分けです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/108
109: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(6/6) それから第45回では、大伴坂上郎女の724番歌の解釈が気になりました。 朝髪の 思ひ乱れて かくばかり 汝姉(なね)が恋ふれそ 夢に見えける (朝、髪がくしゃくしゃになるように、 心がちぢに乱れて、あなたが私のことを思うから、 私の夢にまで、あなたが出てきましたよ。) この講師の解釈は、もう一つ明確ではありませんでしたが、 『こんなにもあなたを恋しがるから、 あなたが私の夢に出てきた』とか言っていたと思います。 ということは『母親の郎女が娘の大嬢を恋しく思った結果、 母親の夢に娘が出てきた』ということになりますね。 ネットでは両様の解釈があるようですが、 例えば、このサイトの解釈も講師と同じになっています。 万葉集 水彩画 http://blogs.yahoo.co.jp/nosolu2003/archive/2011/10/14 でも、実を言うと、夢についての考え方は、 現代人と古代人とでは正反対である分けですね。 つまり、現代人は『自分があの人のことを思うから、 あの人が自分の夢に出てくる』と考えますが、 古代的な発想では『あの人が自分のことを思うから、 あの人が自分の夢に出てくる』となる分けです。 言わば、一種のテレパシーみたいなもので、 『相手の念力のようなものが空中を伝わってきて、 自分の夢の中に現れる』と考える分けですね。 その意味で、古代人の発想は現代人とは逆になるわけです。 ですから、ここで朝髪の乱れる如くに思い乱れているのは、 母ではなく、娘の方であると解釈する必要があると思います。 それから第44回では、例の赤人の歌を改めて取り上げていましたね。 朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に 河蝦はさわく http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/36.htm その場合『かむなびやま』がどの山かハッキリしないとか言っていましたが、 私の考えでは、ここは天香具山とするのが順当であるような気がします。 何と言っても明日香を代表する神聖な山と言えば香具山ですし、この場合、 飛鳥川との地理的関係に、余り捕らわれる必要はないのではないでしょうか。 ところで、最後にもうひとつ、気になっていることがあります。 万葉歌人の名で、黒人・赤人・旅人などはそれなりに意味が分かりますが、 山上憶良の『おくら』とは一体、何を意味するんでしょうか。 『さくら』や『まくら』からの連想で言うなら、ここでも、 『おく』という動詞が名詞化したものと考える手はありますが、 それにしても、具体的に何を意味するのか皆目、分かりませんよね。 これは、和語としては既に廃れてしまった言葉の一つで、 本来は何か意味があったのかもしれませんね。 その点では、大伴家持の『やかもち』と言う読みも不審ですね。 『やもち』とか『かもち』、或いは『いえもち』ならまだ分かりますが、 どうして『やかもち』なんでしょうか。(^^;) 因みに、黒人に関しては >>102 で凡ミスをやらかしました。 そこでは、うっかり『武市黒人』と書きましたが、 『たけちのくろひと』の『たけち』は、 高市皇子と同様に『高市』とするのが正解でしたね。 ですから、正しくは『高市黒人』です。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/109
110: あぼーん [あぼーん] あぼーん http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/110
111: あぼーん [あぼーん] あぼーん http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/111
112: あぼーん [あぼーん] あぼーん http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/112
113: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●続・放射線ホルミシス効果は天才を産むか?●●●(1/5) 〜〜〜原発反対で大騒ぎする残念な人々について〜〜〜 既に、お気づきの方も少なくないだろうとは思いますが、 >>88 で書いた件では、やはりデータが出てきましたね。(*^^)v つまり『紀元前6世紀末頃の自然放射線が、本当に多かったのか』 と書いた点で案の定、その証拠となるデータが見つかった分けです。 というのも、実は例の『炭素14による年代測定』においては、 地上に降り注ぐ自然放射線の増減が、その攪乱要因となるために、 時代毎のそうした増減について、詳細な調べが存在するようなんです。 今年の6月頃、名古屋大学の論文にその話がありました。 宇宙線量が奈良時代に急上昇!超新星爆発!? http://ameblo.jp/jokeness1445/entry-11269318378.html 日本の奈良時代にあたる西暦774年から翌年にかけて、 宇宙から飛来した宇宙線が過去3000年で最大の増加率だったことを、 名古屋大太陽地球環境研究所の増田公明・准教授(宇宙線物理学)や 中村俊夫・名大年代測定総合研究センター教授(加速器分析科学) らのチームが明らかにした。 英科学誌「ネイチャー」電子版に4日掲載される。 この話によれば、過去に自然放射線が急増した時期が三回あるらしく、 更に探し回った末、名古屋大学のPDFにこんなのを見つけました。 8世紀における宇宙環境の大変動を発見 −屋久杉年輪に大きな宇宙線変動の痕跡− http://www.nagoya-u.ac.jp/research/pdf/activities/20120604_stelab.pdf 【本研究の内容】 IntCal データから、過去3,000 年の間に炭素14 濃度が 大きな増加率(3‰/10 年以上:‰は千分率) を示した時期が3回あったことがわかります (紀元前600 年、西暦780 年、西暦1800 年頃)。 つまり、紀元前600年頃に一度目の増加があったという分けですからね、 例のブッダ・孔子・ピタゴラスの時代と、ほぼドンピシャリですよね!? こうなると他の二回の増加で、どんな変化があったのかが気になりますが、 世界史の年表をひっくり返しても『西暦780年や1800年の後に、 大天才が特に集中した』という証拠は、残念ながらないようです。 その点では、もっと詳しい自然放射線の経年変化グラフが欲しい所ですが、 ちょっと探しても、それは見当たりませんでした。 ネットには情報が氾濫しているとは言え、専門的なデータともなると、 まだまだ『なんでも見つかる』というレベルには、ほど遠いようですね。 ただ……大天才の集中という観点から少し離れて、 国内に目を転じると、案外ヒントがあるかもしれません。 結局、世界の中で、日本は自然放射線が比較的に少ない所のようですから、 こうした増減の影響を、よりハッキリと受けやすいのかもしれませんね。 因みに、日本の場合『その民度が高い割には、ヨーロッパに比べて、 大天才が少ない』と良く言われますが、ひょっとすると、その原因も、 日本では自然放射線が少ない、という事実によるのかもしれません。 さてそれで、先ず西暦780年の場合ですが、 日本では、奈良時代の末期にあたりますよね。 で気づいたんですが、奈良時代の印象が何やらくすんでいるのに比べ、 その後に来る平安時代は、パーッと明るく華やかな感じがしませんか? この落差に、実は放射線の影響が絡んでいるのではないでしょうか。 つまり、780年頃に降り注いだ放射線の影響で、人々の知的レベルが向上し、 あの華やかな平安文化が生み出されたと考える分けです。 その後、数百年の繁栄が続く間に、放射線の影響が徐々に失われて、 源平の騒乱という暗黒時代に陥って行く分けですね。 それは丁度、BC600年頃の放射線の効果でローマに生まれた共和制が、 その数百年後、放射線が残した効果が薄れると共に、 暗黒の帝政に陥ったのと良く対応しているように思います。 但し……平家物語などを読み慣れている皆さんの場合、 そこでは、合戦がいかにも華やかに描かれているので、 暗黒時代と言っても、余りピンとは来ないかもしれませんね。 でも、こうした戦乱の時代が暗黒を意味することは、 一般庶民から見れば、疑いのないことではないでしょうか。 例えば、奈良焼き討ちに伴う文化財の大量消失もそうですが、 確か、義経が北陸を経由して京都に攻め登った時なんか、 夜間の照明代りに、道中の家々に火を放ったそうですからね。 火を放たれる側からしたら、たまったものじゃないですよね。(-_-;) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/113
114: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●続・放射線ホルミシス効果は天才を産むか?●●●(2/5) 〜〜〜原発反対で大騒ぎする残念な人々について〜〜〜 ならば、もう一つの1800年の後はどうかというと、 日本では一茶や良寛が活躍した化政時代に当たる分けですから、 これまた放射線の影響と見なすことも、不可能ではないでしょうね。 もっとも、この辺になると少し、こじつけ臭い感じがなくもないですし、 その前の元禄文化はどうしてくれる、ということにもなりますかね。(^^;) ところがところが……案外そうでもないようなんです。 以上のデータは、あくまで『放射線が急激に増えた時期が過去に三回ある』 という意味で、超新星爆発との関連も疑われている分けですけどね。 でも『自然放射線の増加が天才を産む』と言う私の観点からすると、 『超新星の爆発で放射線が急増した』という説は余り面白くありません。 というのも、超新星の爆発の場合、放射線の増加はほんの一時ですから、 天才を生み出す効果は、余り大きくないと予想されるからです。 それに比べ、増え方は遅くても量的には更に多かった時代がある分けです。 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1226114724/62 つまり、以前に少し触れた太陽黒点の変動に関してですが、 『マウンダー極少期にはテームズ川が凍りついた』という話があります。 そのマウンダー極少期というのは、1645〜1715の70年間に渡るわけですが、 この時代が丁度、元禄時代と重なりますし、西洋ではニュートンや、 大バッハが生み出された時代でもある分けですね。(*^^)v このケースでは、詳細なグラフも見つかりました。 wikiにあるこのグラフを見ると、1645〜1715の Maunder Minimum と、 1790〜1820の Dalton Minimum という二つの谷が明瞭に分かりますよね。 因みに、太陽黒点の谷は、即ち自然放射線の山を意味する分けです。 400 Years of Sunspot Observations http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sunspot_Numbers.png ここで注目すべきは三回目の急増が、ダルトン極小期にあたることです。 ということは、他の二回の急増にしても、超新星の爆発などではなく、 やはり、太陽黒点の谷の時代にあたる可能性が出てきますよね。 そして、その方が天才輩出の条件としては都合がよい分けなんです。 まとめると『太陽黒点が消える時代には、地球が寒冷化すると共に、 沢山の天才が輩出される』ということになるのではないでしょうか。 因みに、戦後の核実験に伴う放射線の増加に関しては、 以前にビートルズの例を引きましたけど、 改めて日本の場合を考え直してみると、 日本のフォーク・ブームの黄金時代は、 結局、1943年生まれの小室等に始まり、 1965年生まれの尾崎豊に終わった、と言えるような気がします。 これは核実験による放射性物質の降下が続いた期間に該当しますよね。 その関係のグラフはあちこちで見かけますが、例えば、 ここのグラフを見ると、放射線が増え始めた時期は分かりませんが、 1965年頃から急速に放射線が減って来ているのが分かると思います。 右の縦軸は放射性物質の降下量を対数スケールで示していますが、 1965年頃から10の三乗を下回って来ていますよね。 7/20 今年の米の放射性セシウムによる汚染具合を予想する! http://tsukuba2011.blog60.fc2.com/blog-entry-297.html http://www2.tba.t-com.ne.jp/a-z/omake/img/kakujikken.jpg ついでに、もう一つ例を上げるなら、 昔から私が気になっていたこととして『戦後の日本で何故か、 広島出身者が目立つ』という現象がありました。 それで当時の私が考えていたことは、広島が原爆で廃墟となり、 その中心部が空洞化した結果、戦後にその真空を埋めるように、 周辺から沢山の人々が集まってきただろうということです。 その結果、それが生み出すシャッフル効果が一種の刺激となって、 戦後の広島に沢山の才能が生まれたのではないか。 それが当時私が思いついた仮説でしたが、今になって考え直すと、 それよりも、むしろ『広島では放射線による効果で、 才能が生まれ易かった』と考える方がスッキリしますね。 同様のことは、長崎についても言えるのではないでしょうか。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/114
115: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●続・放射線ホルミシス効果は天才を産むか?●●●(3/5) 〜〜〜原発反対で大騒ぎする残念な人々について〜〜〜 さてそこで次は、例の原発反対デモの話になるわけですが、 その場合『デモの中心はノーベル賞受賞の某文学者を筆頭に、 理系よりも文系の人が多い』という話を聞きました。 それで思い当たったことなんですが、ここでは結局、 『桁の違いというものを、肌で直感的に理解できるかどうか』 という点が、分かれ目になっているんじゃないでしょうか。 そうした桁の差への一般人の無知に付け込み、 不安を煽るユダヤ主義の工作があるようですが、 我々はそうしたデマゴーグに惑わされるべきではありません。 以前に紹介したビデオでは、福島第一原発の正門前まで、 無防備で出かけた学者がいましたけど、彼にしても、 桁の違いが分かっているから、何の不安も無かったんでしょうね。 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1226114724/55 ごくごく大ざっぱに言うと、毎時数シーベルトは必ず死ぬレベル、 それより3桁少ない毎時数ミリシーベルトは、将来の発癌が心配なレベル、 そして、更に3桁少ない毎時数マイクロシーベルトは、 健康増進のホルミシス効果が期待できるレベルということですよね。 少し乱暴かもしれませんが、これを重さの単位に置き換えてみると、 一般の人にも、その差が遥かに分かり易くなるように思います。 1トンの放射線が必ず死ぬレベル、1キログラムの放射線が発癌性のレベル、 1グラムの放射線が健康を促進し、天才を産むレベルと考えてみて下さい。 例えば、毎日1グラムの塩は人が生きるのに不可欠ですが、 毎日1キログラムの塩を食えば、確実に死ぬでしょ!? 3桁の差というのは、それくらい大きなものなんですね。 その点で私が一つ考えているのは、桁の違いの分かる人々が、 率先して範を垂れるべきではないかということです。 例えば、全国の大学の理学部で、そのキャンパスの中心に、 使用済みの核燃料とか、或いは除染作業で出る廃棄物とかを、 置いてみてはどうなんでしょうか。 それにより、毎時数マイクロシーベルトの放射線を、 人々が浴びられる状態を人工的に作り出す分けですね。 今の時点では、それは尚、多少とも、 人体実験的な意味あいを持つかもしれません。 でも、元々マイクロシーベルトなんて、 恐れるに足りないレベルですからね。 それは一方で、健康増進効果が期待できると同時に、 他方では、以上の例からしても、日本の科学界に、 天才を量産することになるのではないでしょうか。 何故、私がこんなことを言うのかというと、 ただでさえ落ち目な日本が、今や原発を動かせず、 宝の持ち腐れ状態になっているわけですよね!? こうして原発が動かない間は、日本の国は確実に、 それだけ貧しくなっている、ということを忘れてはいけません。 その時、理屈の分かる大学人が、率先してこうした行動を取れば、 結果的に、日本を救うことになるのではないでしょうか。 結局、少なくとも我々が感覚的に理解できる世界においては、 物理現象の連続性という常識が成り立つ分けですね。 つまり、どんな現象でも、いきなり突然に変化することはなくて、 結果に一定の変化を起こすには、原因に一定の変化が必要な分けです。 そうした常識に照らすなら、毎時数マイクロシーベルトの放射線が、 有害なんてことはあり得ない分けですが、一般人の無知につけこみ、 一部のユダヤ主義の御用学者が、不安を煽り立てている分けですね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/115
116: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●続・放射線ホルミシス効果は天才を産むか?●●●(4/5) 〜〜〜原発反対で大騒ぎする残念な人々について〜〜〜 あれは今年の2月頃だったと思いますが、 『福島の野鳥が放射線の影響で減った』とか騒いでいましたね。 その後どうなったのか、ユダヤ・マスコミは報じませんが、 『毎時数マイクロシーベルトの放射線で野鳥が減った』なんて、 私なんかからすると、チャンチャラおかしい話なんですよね。 野鳥の減少には、もっと別の要因があるに違いないわけで、 例えば、あの事故の結果、福島原発の周辺では、 色々な工事車両が走り回っていた分けですね。 更に言うと、暫くの間は、放射能を測定する為とか言って、 米軍機が上空を定期的に飛び回っていたようですからね。 それで野鳥が逃げ出さないとしたら、むしろ不思議でしょ!? 何しろ、その野鳥の減り方はチェルノブイリの時より、 福島の方が激しいという分けですからね。 こうした事故の場合、日本では特に大騒ぎする分けで、 その騒ぎ方に比例して野鳥が減ったと考えるなら、 チェルノブイリより福島の方が大きく減るのは、 当然の帰結ではないでしょうか。 それから、そのチェルノブイリに関しては、少し前のNHKで、 ウクライナのコロステンという町の話をしていましたね。 私もあの番組をざっと見てみましたが…… 『放射線の影響が癌だけにとどまらない』 という話は、まんざら嘘ではないのかもしれません。 『放射線を浴びると免疫系が劣化して、 様々な病気を引き起こす』という可能性について、 医学に素人の私が、否定すべきではないでしょう。 ただ……その影響を生み出した放射線というのは、 現在も残る毎時数マイクロシーベルトのレベルではなく、 事故の直後に相当ひどい被曝があったんじゃないでしょうか。 何しろ、当時のソ連の秘密主義のせいで、 最初の3年間についてのデータは存在しないそうですからね。 その上、コロステンの人々は、山のキノコなどを採取する、 自給自足の食生活を昔から送っていて、 あの事故の後も、それを続けていたらしいですからね。 内部被曝も、当初は相当ひどかったと予想されます。 『その結果、体の免疫能力が落ちて癌以外の病気にもなりやすい』 と考えれば、今回の話は矛盾なく理解できると思います。 つまり近年になって、過去のひどい被曝の影響が、 現れてきたという分けですから、福島の人々が、 あれを見て不安になる必要は微塵もないでしょうね。 それから『年間100mSvを越すと癌のリスクが増える』 というのが、最近では医療関係者の定説らしいですけどね。 因みに、コロステンの話でも積算500mSv以上が危ないとか、 積算250mSv以上で白内障が問題になるとか言ってましたが、 何度も言うように、問題は積算値ではなく、毎時の放射線量なんですね。 でも、そもそも癌だけを心配しても仕方ないでしょ!? 人間が死ぬのは、別に癌に限らないわけですし『どうせ死ぬなら、 癌で死ぬのがベストだ』という人だっている分けですからね。 というのも『寝たきりで管につながれ何年も生かされる位なら、 癌でスッパリ死ぬ方が楽だ』という理屈も成り立つからです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/116
117: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●続・放射線ホルミシス効果は天才を産むか?●●●(5/5) 〜〜〜原発反対で大騒ぎする残念な人々について〜〜〜 その点、例のネズミの長寿化実験が重要なのは、 それが全ての死因を総合した話だからです。 毎日1.1mSv(年間402mSv)を浴びたネズミが、 最も長生きしたという分けですね。 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1226114724/66 この話が示唆するのは、微弱な放射線を浴びた場合、 仮に、癌で死ぬ可能性がほんの少し増えるとしても、 それ以上に、他の病気で死ぬ確率が減るということですよね。 その意味では、あの実験の詳細なデータを知りたい所なんですが、 あの実験の元データを探しても中々、見当たりません。 まさかでっち上げではないだろうと思いますが、ここでも、 ネット上のデータ蓄積がまだまだ、不完全なのかもしれませんね。 もっと詳しい実験を国家的にやるべきだ、書いた件では、 以上の観点からすると、その時はきちんと、 死因も含めたデータを取るべきでしょうね。 直近では、ユダヤ・マスコミが『福島と同レベルの原発事故が起こると、 半径30kmを越えた範囲でも避難が必要になる』とか騒いでますね。 でも……何百年も先の事故を今から心配してどうするんですかね!? そもそも、将来の原発は例の水没式になっているでしょうし、 更には、核融合炉が実現している可能性もありますからね。 福島と同じ事故がまた起こる、なんていう想定自体が間違いですよね。 そんな遠い先の心配より『現在の日本では経済的な苦境の中で、 沢山の自殺者が出ている』という深刻な問題がある分けでしょ!? その為にも、原発を再稼働し、日本経済を立ち直らせることの方が、 より緊急の課題であるように私には思われます。 最後に、一つ気になっていたことですが、以前に書いた内容に、 ひとつ凡ミスがあったようなので、念の為に訂正しておきます。 つまり、時事放談で皮膚ガンのグラフに線を書き加えた件ですね。 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3729/1226114724/62 http://www2.tba.t-com.ne.jp/a-z/omake/img/hormesis2.png 元のグラフでは3つの仮説に基づく線が書いてあったのですが、 肝心のホルミシス説に基づくグラフがないのが気になって、 その時、ざっと書き加えたように記憶します。 でも、私が書き加えた曲線では、原点との交点が2を越しそうですね。 これは『線量がゼロの場合に比べた相対リスク』ですから、 曲線は、あくまで原点を通らないといけません。(^^;) 但し、元々のグラフが甘く、目盛り軸が原点を通ってませんからね。 正確には『横軸0.0を通る垂線と、縦軸1.0を通る水平線の交点』 を通ると言う必要があるでしょうね。 因みに、このグラフ自体、横軸が線量の積算値で、 毎時線量についてのグラフにはなっていないわけです。 その意味で、目盛り軸を余り気にせずに、 書いてしまったのが、失敗の一因かもしれません。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/117
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