無差別級 (157レス)
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91: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●東歌の起源について●●●(1/3) さて、久々に古典講読の万葉集についてですが、今回は先ず、 東歌の由来について、私が感じたことを書いてみようと思います。 この東歌に関しては、当時の民謡であるとか、労働歌であるとか、 様々な人が様々な意見を言っているようですけどね。 でも先ず、ハッキリしていることは、それを民謡だとか、 労働歌だとか考える説は、全く駄目だろうということです。 なぜなら、もしそれが本当の民謡や労働歌であるなら、 57577という短歌形式におさまるはずがないからです。 近代の民謡や労働歌にしたって、57577にはなっていないでしょ!? で、私が最近、考え始めているのはこういうことです。 結局、今までの私は『和歌が時間と共に東国へと伝播して行って、 その結果、東国の各地では自然発生的に和歌が作られていたが、 それを、誰かが収集・採録したものが東歌である』 という風に考えていた分けですけどね。 でも、今回の講読の内容を色々聞くにつけ、どうも、 そうではないんじゃないかと気がついた分けです。 むしろ、これは割と短い期間に、狭い地域内において、 一気に作られた作品群と考えるのが良いように思います。 使われている方言にバラエティが少ないという事実にしても、 そうしないと、うまく説明できないですしね。 他方、この東歌というものは私が少し調べた限りでは、 短歌ばかりで、長歌は見当たりませんね。 (旋頭歌については、あったのかもしれませんが、 一々語数を数えなかったのでハッキリしません。(^^;)) もし、東歌が東国で自然発生的に作られていたものなら、 その中に長歌がないというのは、何とも不自然ですよね。 で、そうした疑問を解決する為に、次のように考える分けです。 例えば、梁塵秘抄を編纂した後白河院の例もあるように、 いつの時代にも、文芸好きの天皇がいた可能性がありますよね。 その時、東国にくだる役人が万葉集編纂の話を聞きつけて、 『東国の人々も和歌を作って天皇に献上するように』 と命令したとか、或いは推奨したのではないでしょうか。 その場合、当時の東人は、まだまだ生活の為の労働に手一杯で、 和歌なんてものにはまるで縁がなかったのでしょう。 ですから、役人は『短歌というものはこうやって作るんだよ』 と言って、自分で幾つかを作って見せたのではないでしょうか。 冒頭の五首は『方言も少なくて都の人が作ったとも見られる』と言いますが、 その五首がまさに、役人が例示した作品ではないかという気がします。 例えば、その三首目にある『自分は絹の下着も持っているけれど』 なんていう所は、実際に絹の下着を着た経験のある、 都の貴人でないと、なかなか出て来ない発想ですよね。 http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/mny1401.htm 筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも そういう分けで、この東歌というものは、 案外短い期間にまとめて作られたものであり、それを実際に作った人々も、 役人の出先期間の周辺に住む人々に限定される、と考えるわけです。 これなら、その方言にバラエティが少ないことも説明できますし、 東歌に長歌がひとつもないことも、納得が行きますよね。 で、仮にそう考える場合、東人たちが短歌を作らされるにあたって、 自分たちの持つ知識を総動員したであろうことは、想像に難くないですよね。 つまり、短歌の材料として、当時はやっていた民謡や労働歌、更には、 誰もが知っている伝説などを利用したのはしごく当然でしょうね。 ですから、形式は57577であっても、内容的には民謡みたいだったり、 労働歌みたいだったりするものが沢山あるんでしょう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/91
92: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●東歌の起源について●●●(2/3) 東歌の次のテーマとして、今度は防人の歌が取り上げられていますが 実は、その防人の大半も東国の出身で、その歌は東国を立ってから、 難波の港を出るまでに作られたものだという話が出ていました。 とすると、そうした防人の歌が作られたのは、 短歌を作る習慣が東国に根付いた後の時代、つまり、 例の東歌が作られた後の時代と考えないと辻褄が合いませんよね。 その意味では、両者の時間的な前後関係が気になりますが、 実は、その防人の歌を採録したのが大伴家持なんだそうです。 彼は万葉集の中でも最後尾にあたる第四期の歌人ですから、 防人の歌にしても、万葉集の中では最も新しい部類に属すると見れば、 その点でも、矛盾が生じることはないように思います。 防人の歌(万葉集を読む) http://manyo.hix05.com/shomin/shomin.sakimori.html つまり、東歌が採録された後、東国にも次第に和歌が定着する中で、 東国出身の防人には、和歌の心得のある者がいたということになりますね。 その防人には、インテリが多いという話も出ていましたが、 当然ながら、和歌を作る素養があるとなれば、作者の多くは、 防人の中でも、将校クラスの人物ということになるんでしょうね。 ところで、東歌ではひとつ疑問が出されていましたね。 竹取翁と万葉集のお勉強 http://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/6de132e85416ba04782fbc54bc61a24e 筑波祢尓(つくばねに) 由伎可母布良留(ゆきかもふらる) 伊奈乎可母(いなをかも) 加奈思吉兒呂我(かなしきころが) 尓努保佐流可母(にのほさるかも) (筑波山に雪が積もったのかなあ。いや、そうではなくて、 いとしいあの子が、沢山の布を干したのかなあ。) その場合、これは実景として『雪』を見ているのだという説と、 『干した布』を見ているのだという説と、二説が対立しているそうです。 その意味では『かも』が両方に付いているのがポイントかもしれません。 ですから、どっちが実景でどっちが譬喩か区別がつかなくなる分けですね。 でも、更に良く見ると、雪につく『かも』に関しては、 『雪ではないかもしれない』としか解釈のしようがありませんが、 布につく『かも』に関しては、布自体ではなくて、 布を干している人にかかる、と見る手がありますよね。 つまり『布ではないかもしれない』と解釈する代りに、 『実際に白い布が干してあるが、それを干したのは、 いとしいあの子ではないかもしれない』とする分けですね。 そういう風に解釈すれば、この歌はやはり雪が幻想で、 布が実景とみる方が自然ということになりますが…… これは、ちょっと無理なこじつけでしたかね!?(^^;) それから、少し前になりますが、熊野に関する歌で、 例の柿本人麻呂が作った歌が紹介されていましたね。 三熊野之(みくまのの) 浦乃濱木綿(うらのはまゆふ) 百重成(ももへなす) 心者雖念(こころはおもへど) 直不相鴨(ただにあはぬかも) (み熊野の海岸に咲く浜木綿が百重をなして咲くように、 私の心も幾重にも重ねて、あなたのことを思っているのに、 どうしても、直接あなたに逢えないのはつらいことです。) >>90 では『柿本の人麻呂の恋の相手は、農民でなく貴族だろう』 と書きましたが、この歌の内容からしても、 こうして簡単に逢えない相手というのは、 やはり、貴族以外にはありえないでしょうね。 で、更にその周辺でデータを漁る内に、 人麻呂刑死説というのを発見しました。 柿本人麻呂:熊野の歌 http://www.mikumano.net/uta/hitomaro.html 万葉集の中では、彼の死去が『死』と表現されているので、 江戸時代の学者は、彼の身分を六位以下と考えたそうですね。 というのも、三位以上の死は『薨』、四位と五位の死は『卒』 と表現するのが、当時の習わしだったからです。 ところが、様々な証拠からすると、彼の身分は決して、 そんなに低くはないはずだ、と考えたのが梅原猛氏で、 その結果、彼は人麻呂の死を刑死とする説を唱えたそうです。 刑死の場合、身分に関わらず『死』と表現されるからですね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/92
93: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●東歌の起源について●●●(3/3) 彼が死にのぞんで作ったという歌の詞書きに『臨死自傷』 という表現があるのも、その傍証であるという話が出ていました。 因みに、これが梅原猛氏の説の一部なのか、このサイトの人の意見なのか、 日本語の文章表現が甘いので良く分からない点がネックですけどね。 こうなると、気になるのはその刑死の理由ですよね。(^^;) 私が前に書いた内容と照らし合わせると、これはやはり、 女性問題以外にあり得ないだろう、というのが私の印象です。 実は『人麻呂は持統・文武の両天皇に仕えた』 と同じサイトに書いてあります。 ということは、つまり『女帝の持統天皇の時代に、宮女を相手に、 恋を繰り返していた人麻呂が、次の文部天皇の時代になっても、 その女癖が抜けなかった』と考える手がありますね。 その結果、うっかり文武天皇の女に手を出してしまい、 それが元で刑死した、考えると辻褄があうように思います。 ひょっとすると、前述した歌の『ただにあはぬかも』の女が、 文武天皇の宮女だったのではないでしょうか。(^^;) 因みに、古典講読では、その熊野の歌に関して、熊野船というのが、 当時は特別な意味を持っていたことが語られていましたね。 日本の各地で、その熊野船が用いられていて、 遠くから見るだけで、熊野の船と分かったんだそうです。 ということは恐らく、当時の明日香に渡ってきた渡来人の中で、 造船技術を持つ技術者が熊野地方に定着したのではないでしょうか。 そして彼らが大陸の先進的な造船技術を用いて作ったのが、 問題の熊野船である、と考えるのが良いように思います。 その意味で、熊野船は古来からある日本の船とは、 構造的にも外形的にもかなり違っていたんでしょうね。 そうしたすぐれた造船技術や操船技術が熊野にもたらされたことが、 平家物語の時代に熊野水軍が活躍した一因なんでしょう。 それから、更に少し前の古典講読では、有馬皇子の作品が出てきましたね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%96%93%E7%9A%87%E5%AD%90 磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る その場合、私が昔から気になっているのは、 特にこの二首目の歌が、良く教科書に出てくる事なんですね。 はっきり言って、一首目はまだしも、二首目の歌は、 どこからどうみても下らない、というか何の技巧も工風もない歌ですよね。 『だから何なんだ』といった感じの愚作ですから、わざわざ教科書に、 どうしてこんな下手な歌を乗せるのか、私は理解に苦しみました。 まあ、彼が刑死に向かう途中、その旅のわびしさを詠んだ、 と見れば多少の感慨も沸くんでしょうけど、この歌は、 万葉集全体で見ても一二位を争う駄作でしょうね。 近頃は小学生だって、もう少しましな短歌を作りますからね。 実は、このサイトに『これらの歌が実は、彼自身の作ではなく、 後世の人が有馬皇子に仮託して詠んだものである』 とする折口信夫の説を見つけたんですけどね。 でも、以上の点を考えると、私には全く賛成できません。 なぜなら、もし後世の人が仮託して作ったものなら、 その人には、少なくとも最低限の歌の素養があったはずで、 こんな駄作を作るとは思えないからです。 つまり、こんな駄作がそのまま残されているということ自体、 『当人が作った歌だったから』という以外の理由は考えられませんよね。 この有馬皇子という人も、大した人物ではなかったんでしょう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/93
94: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉集の極彩色●●●(1/6) 私の周辺は例によってゴタゴタ続きで余裕をなくし、それで、 また少し書き遅れていますが、久々に万葉集についてです。(^^;) 今回は遣唐使というか、遣新羅使の歌から始めますが…… この時代の外交使節として、有名な遣隋使や遣唐使以外に、 遣新羅使や遣渤海使があったというのは、少し意外でしたね。 その場合、その手の遣何々使といった渡航使節全体を現す、 適当な呼び名がないのが、また何とも不便な気がします。 例えば、近代には遣欧使なんていうのがありましたから、 それに対置させて、遣亜使なんてのはどうでしょうか。(^^;) さて、それでさっそく本題に入りますが、 実を言うと、今までの私は万葉集の世界を、何か、 色のない白黒の世界のように感じていたんですね。 ところが、今回その遣新羅使の歌を聞いていて、突然、 目の前に鮮やかなカラーの世界が開けたように思ったのでした。 まあ、それは一つにはこの講師の功績と言うべきでしょうね。 というのも、彼の焦点の当て方はかなり独創的ですからね。 以前に明日香の所で出てきた山部赤人の歌にしてもそうですが、 今回の講読で、万葉集には私が今まで一度も聞いたことがない歌にも、 まだまだ素晴らしいものが沢山ある、ということを知りました。 但し、その解釈の仕方に関しては、少なからず異論があります。 例えば『遣亜使は何度もあったはずなのに、資料が沢山残る所と、 何も残らない所があるのは何故か』という疑問に関して、 『戦乱などで失われてしまう偶然性』を挙げていましたけどね。 私としては、むしろ必然性の方を敢えて強調したい所なんです。 例えば、日本の物語文学としては、色々な歴史の資料から、 源氏物語以前にも沢山の物語があったことが知られているわけですね。 ところが、残念ながらそれらの多くは失われてしまっていて、 今残されているのは、宇津保物語とかほんの一握りに過ぎないわけです。 その場合、当然ここでも戦乱などで失われたものが多いのでしょうが、 私は、失われたものにはそれなりの理由があると考えたい分けです。 つまり、もし本当に面白くて価値がある物語なら、それは、 次々と沢山の人々によって書写されて行くはずですよね。 ですから、仮にその多くが戦乱や大火で失われてしまったとしても、 一部は必ずや、どこかに残されて行くに違いないと思います。 その意味で、歴史の中で消え去ってしまうものには、 それなりの必然性がある、というのが私の考え方なんですね。 その場合、以前に少し触れましたが、歴史資料に関しては、 家康が頼朝暗殺の記録を抹殺したような例もある分けですから、 そうして意図的に消される場合は、また別と見るべきかもしれません。 http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1102295096.html#120 ただ……その点で言うと歴史上、最も有名な事件として、 秦の始皇帝による焚書坑儒というのがあった分けですね。 あの場合、実用書以外の書物は全て焼き捨てられ、 460人以上の儒者が生き埋めにして殺されたそうですけどね。 それにも関わらず、現代の我々が論語を読めるというのは、 よくよく考えて見ると不思議な気がしませんか!? だって、実用書以外は全て燃やしちゃったはずでしょ!? 答えを言うと、この場合、生き残った弟子たちが、 記憶に頼りつつ、論語全体を復元したんだそうです。 まあ、論語読みは今でもそうかもしれませんが、 暗唱できる位にまで読み込んでいますから、 そうした復元も案外、難しくは無いんでしょう。 ただ、今残されている論語を読むと、その一部には、 焚書坑儒に伴う傷が残っているのが分かります。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/94
95: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉集の極彩色●●●(2/6) と言うわけで、この例ひとつとっても『大切な書物というものは、 たとえどんなことがあっても、それを支持する人々により、 時代を越えて残されていく』ということが良く分かりますよね。 その意味で、ある文献が残るか残らないかという問題には、 単なる偶然性という以上に、後世の評価というものが、 多かれ少なかれ関わってくると私は思う分けです。 ですから、遣亜使の資料の残り方についても、 それと全く同じように考えて良いのではないでしょうか。 つまり、遣亜使がどれだけ沢山あったとしても、 彼らが残した歌が後世に残るかどうかという問題は、 結局、その中にどれだけ優れた歌があったかによって、 決まってくると言えるような気がします。 その意味で、遣新羅使の歌が万葉集に一括して残っているとすれば、 それは、その中に優れた歌人がいたからに違いないんですね。 その遣新羅使の歌ですが、万葉集第15巻の前半にあるのがそれですね。 訓読万葉集 巻15 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyok15.html その場合、冒頭に並ぶ11首の贈答歌について、講師がそれを、 『編者によって意図的に編集されたもの』としていたのも引っかかりました。 その末尾には『右の十一首は、贈答』とハッキリ書いてありますし、 私としては、それを素直に受け取っても良いんじゃないかと思った分けです。 一体どういう理由で、敢えて『贈答歌を装って編者が作り上げたもの』 と見なすのか、その点が説明不足というか納得が行きませんでした。 私は、この11首は文才に長けたある男女の贈答歌そのものと見なせるし、 後に出てくる関連歌2首(3615-6)にしても、私の考えでは、 同じ作者(男)によるものと考えて、間違いないだろうと思います。 と言うのも、才能のある歌詠みがそんなに沢山いるはずがないですし、 霧を恋人の息と見立てる点も、余人の思いつかない独創的な発想ですからね。 それにも関わらず、この男女の名前が一切記されていないというのは、 恐らく、よほど身分が低い人物だったんでしょう。 例えば、貴族の乗組員の下の世話をする下男とかね、 そういう人物なら、敢えて名前を記さないのも当然でしょうね。 実際の船上に、そんな下男がいたのかどうかは良く知りませんが……。 もう一つ付け加えると、この遣新羅使の特殊性があるかもしれません。 というのも、遣唐使などに比べると、その路程はずっと短い上に、 海路での難所も、玄界灘を渡るところだけですからね。 その意味で、遣唐使などに比べれば遥かに安全で、 気楽な旅だったのではないかという気がします。 その意味で案外、物見遊山の気分が強く、あちこちで道草したり、 宴会ばかり開いたりして、タラタラ旅したんじゃないですかね。(^^;) 何しろ、出かける時は『秋にはまた会える』とか歌っているのに、 実際のその秋には、まだ往路の九州にいたようですからね。 人麻呂の歌を沢山、引用しているのも気の緩みとも見えますし、 それで、自分たちが歌を作る余裕もたっぷりあったんでしょう。 運悪く、壱岐の島で使節団の一人が病死してしまい、 彼を悼む挽歌が沢山作られていますが、その後も、 対馬の『竹敷の浦』という所に長逗留して、 遊女を呼んで宴会をやったりしている分けですね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/95
96: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉集の極彩色●●●(3/6) ただ、一つ気になったのは、その後に新羅で作った歌が一首もなく、 3718番から突然、帰途の歌に転ずることなんですね。 ですから私は最初、ひょっとして彼らは目的を果たすことなく、 途中で引き返したんじゃないか、とさえ思いましたが…… 色々調べてみると、彼らが新羅まで行ったのは事実のようです。 実は、この使節団が行った先の新羅でも、戻った後の日本でも、 その直後には疫病がはやったので『彼らは行路の途中で疫病にかかり、 行く先々でそれを広めたのではないか』とも疑われているようです。 因みに、この時の大使と副使も、帰途に病没したそうですね。 他方、これらの歌の素性に関して、ここに面白い説を見つけました。 遣新羅使の歌(万葉集を読む) http://blog.hix05.com/blog/2007/07/post_304.html 万葉集に収められた一群の歌は、 この船旅を記録した歌日記のようなものだ。 だがそれは使節団の成員一人ひとりの歌を集めた アンソロジーというようなものではなく、ある特定の人物が、 自分の歌を中心にして、時折他の人々の歌を交え、 全体として旅の雰囲気が伝わるようにと纏め上げたものである。 つまり、遣新羅使の歌は特定の人物の旅日記だ、という分けですが、 もしこの見方が正しいとすると、作者名があるのは他人の歌で、 無署名の部分は全て、当人の創作ということになるんでしょうね。 (因みに、このサイトでも冒頭11首は贈答を装った創作としています。) こうして、ひとりの人物が書き残した旅の歌日記が、 何らかの形で見いだされて、そっくり万葉集に取り入れられた、 と考えるのが案外、妥当な解釈かもしれません。 その場合、玄界灘の向こうで作られた作品が一つもないことは、 ひょっとすると、この人だけ半島に渡らずに残ったのかもしれません。 それなら、玄界灘の向こうの作品が全くないのも、納得がいきますよね。 例えば、彼も同じ伝染病にかかってしまった結果、 その地で療養することになり、帰途に合流したと考える分けです。 或いは、3718番からの歌はたった5首しかなくて、全て無署名ですから、 むしろ、帰途は使節団とは別途に帰った可能性が高いですかね。 仮に、帰途に使節団と合流したのなら、 大使や副使の病没に関する挽歌があっても良いですしね。 因みに、そもそも遣唐使とは別に、遣新羅使がなぜ必要なのか、 その存在理由が私には、もう一つ良く分からなかったんですね。 新たな文物を手に入れる為なら、遣唐使で十分のような気もしますが、 敢えて、新羅や渤海に使者を送る意味は何だったのかということです。 考えて見れば、少し前に戦争をしたばかりの唐や新羅に使者を送り、 親しくつき合うというのも、現代からはもう一つ解せない所ですよね。 実際問題として、白村江の戦いに大敗した後『唐と新羅の連合軍が、 その余勢を駆って日本まで攻め込んでくるんじゃないか』 と心配したからこそ、防人による防衛を固めたわけでしょ!? でも実を言うと、こうした遣亜使には他国の情勢をさぐったり、 国際関係を修復して日本への脅威を減らす役割があったみたいですね。 ですから、遣亜使の主眼が新たな文物の入手になるのは、むしろ、 そうした国際緊張が和らいだ結果である、というのが真相に近いようです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/96
97: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉集の極彩色●●●(4/6) それから、遣亜使に関しては、その船の構造の話も色々ありました。 帆船に詳しくない人は『帆船というものは、ただ風上から風下に、 風まかせで流されていくだけ』と思っているかもしれませんが、 実際の帆船は、必ずしもそうではないわけですね。 ヨット競技をする人は良く御存知でしょうが、 ヨットは風上に向かって斜め前方に進める分けですね。 ですから、先ず風上に対して右斜めに前進し、次は、 帆と梶を切り替えて、左斜めに前進するという繰り返しで、 ジグザグに進めば、幾らでも風上に行ける分けなんです。 これを英語ではタッキング、日本語では間切り走りと言います。 その場合、本質的に重要なのは、帆が可動式であることと、 船底に横滑りを防ぐ、滑り止めがあることの二点である分けです。 その点、古来の日本の船というのは、底が平らな上、 帆も固定されていて、風上には行けなかったみたいですね。 例えば、七福神が乗っている宝船なんかがその典型ですが、 あの場合の帆は、その中心が帆柱に固定されてますよね。 ですから、帆の角度を切り替えてジクザグに風上に進む、 なんていう芸当は、できるはずがない分けです。 その意味では、例の熊野船の場合も、もし大陸式の作りなら、 そうした可動帆を備えていたのではないでしょうか。 例えば、中国式のジャンク船みたいなもっだったかもしれませんね。 でも日本というのは不思議な国で、外国から進んだ技術が入っても、 敢えてそれを捨ててしまうようなところがある分けです。 例えば、江戸時代の日本では、鉄砲を禁止する一方で、 大井川に橋をかけることすら、許さなかった分けですね。 それは全て、徳川幕府が日本を統治するのに都合がよかったからで、 それと同じ意味で『鎖国政策を推進する幕府が、 外洋航海が可能な帆船を禁止する為に、 可動帆の船を造らせなかった』という説があります。 その点では、中国などに出かけて海賊行為を働いた倭寇の場合も、 彼らの帆船は固定帆だったので『東シナ海を渡るのにひと月もかかる』 とか言って、明時代の中国人に馬鹿にされたという話がありました。 遣唐使船の構造的欠陥 http://www.kougakutosho.co.jp/mathematics/mathematics_73.htm 但し、倭寇というのは鎌倉から室町時代の話ですから、 この場合の固定帆は、鎖国政策のせいとはいえないでしょうけどね。 ただ、倭寇はともかく、例の鑑真和尚を日本に送り届ける際にも、 敢えて、そんな危険な固定帆の船を使ったんでしょうかね。 その点が、どうも私には解せない所なんですが……。 因みに、江戸時代後期には弁財船(べざいせん)というのが発達し、 これは間切り(ジグザク)帆走をやったようですし、 時代と共に改良されて、性能もどんどん上がったらしいですね。 ですから外洋船を禁じたのは、江戸時代初期の話かもしれません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E6%89%8D%E8%88%B9 弁財船という名は、恐らく七福神が乗った宝船になぞらえて、 縁起を担いだんでしょうけど、特に弁財天の名を選んだのは、 元々、弁財天が河の神様であることに由来するんでしょうね。 その意味では、弁財船の帆が宝船と良く似ているのは当然ですが、 ポイントは宝船の場合、帆を固定する横棒が上下にあるのに対して、 弁財船の場合、横棒は上に一本あるだけで、下にはない所ですね。 http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/C20/c2023.jpg ですから、帆の下側を綱で操作して、間切り走りが出来たようです。 但し、一説によるとヨットが風上に対して45°の角度まで進めるのに比べ、 弁財船は60°が限界で、しかも強風には対応できなかったそうです。 ヨットのような三角帆と違って、弁財船のような帆の形だと、 高い位置で風を受けますから、強風で不安定になるのは当然でしょうね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/97
98: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉集の極彩色●●●(5/6) さてそれで漸く短歌の話ですが、この辺の歌を読むと、 生活に密着したその歌いぶりは素晴らしいですね。 これに比べ、平安時代以降の短歌は、より洗練されてはいますが、 まるで生活感にかける気取った歌ばかりですからね。 万葉の短歌は生活感にあふれ、バラエティに富んでいる点で、 現代から見ると、遥かに価値が高いような気がしてきました。 最初の贈答歌11首(3578〜3588)は『女男女男女男女男男女男』 という構成になると思いますが、冒頭二首などは、 何やら、かなりの年の差カップルを思わせますね。 武庫の浦の 入江の洲鳥 羽ぐくもる 君を離れて 恋に死ぬべし (むこの浦の入り江にいる州鳥が親鳥に育てられるように、 私を育ててくれたあなたから離れた私は、恋しくて死にそうです) 大船に 妹乗るものに あらませば 羽ぐくみ持ちて 行かましものを (遣新羅使の大船にあなたを乗せて良いものなら、 今まで通り、羽根に包むようにして連れて行きたいのだが……) 例えば、光源氏が紫上を誘拐して来て育て上げ、自分の妻にしたように、 幼い頃から育てた上げたみたいな印象を受けますよね。 その場合、作者を単なる下男と見なす発想はちょっとそぐわないですから、 ここでも、歌日記説による解釈の方が辻褄があうかもしれません。 この後に続く3〜4首目が、例の霧の歌ですね。 君が行く 海辺の宿に 霧立たば 吾が立ち嘆く 息と知りませ (旅先の海辺の宿で霧が立ったら、私が嘆く息だと思ってください) 秋さらば 相見むものを 何しかも 霧に立つべく 嘆きしまさむ (秋にはまた会えるのに、どうして嘆息が霧になるほど嘆くのですか) これに対置する形で、安芸国の風速(かざはや)の浦の歌がある分けですね。 我がゆゑに 妹歎くらし 風速の 浦の沖辺に 霧たなびけり (私を思って恋人が嘆いているらしい、風速の浦の沖に霧が流れている) 沖つ風 いたく吹きせば 我妹子が 歎きの霧に 飽かましものを (沖風がもっと強ければ、恋人が嘆く息の霧を飽きるほど吸い込めるのに) その後の5〜6首目に海路の安全を祈る歌があって、 それに続く7〜8首目が色々と意味深でしたね。 別れなば うら悲しけむ 吾が衣 下にを着ませ ただに逢ふまでに (別れたら悲しくなるでしょうから、 また直接会うその時まで、私の下着を身につけていて下さい) 我妹子が 下にを着よと 贈りたる 衣の紐を 吾解かめやも (彼女が下着として身につけるようにとくれた衣の紐は、決して解くまい) ここでは、女が『再会する時まで着ていて下さい』と下着を男に与えると、 男は『その下着の紐を絶対に解かない』と約束するというわけです。 何カ月もの間、洗濯もせずに同じ下着をつけるというのは、 現代では考えられないですが、その点では、防人の歌にも、 垢がつくまで同じ着物を着ている、という話がありましたね。 当時はまだ虱なんてものは、余りいなかったんでしょうかね!? 講師はここを男女共通の歌と解釈し、下着の紐を解かないことを、 相手を裏切らないことのように言っていたと思いますけどね。 ただ、この場合の下着の紐というのは、 西洋でいう所の貞操帯の鍵とは大分、違うでしょうね。 結局、この時代の下着が、どんなものだったかが問題ですが、 当時、ブラジャーだのパンティだのがあったはずがないですよね。 そんなものなら、男が身につけることも出来ませんしね。(^^;) そう言えば『関東大震災の時、デパートの窓から飛び降りた女性は、 お尻がむき出しになった』という有名な話がありましたね。 当時の女性は、着物の下にパンツなんてものは着けてなくて、 それをはくようになったのは、これ以降だという説がありました。 ですから、江戸時代以前は言うまでもありませんが、 奈良時代ともなれば、尚更でしょうね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/98
99: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉集の極彩色●●●(6/6) 結局、当時の下着と上着の差は、その材質や厚さの違いだけで、 さしたるデザインの違いがあったわけではないんでしょう。 多分、下着としては、無地で柔らかい物を身につけ、 上着の方は、厚くて模様が付いていたりするわけでしょうね。 その場合、金持ちほど沢山の着物を重ね着する分けで、 その発展形が平安時代の十二単になるのかもしれませんね。 その場合、下着の紐を解くということには少し別の意味があるわけです。 これはもっと後の平安時代の話ですが、男女が共寝をする時には、 互いの着物を下に敷いたり掛けたりして、夜具の代わりにしたそうですね。 空蝉の場合も、夜具代わりの着物を残して逃げ出したわけですしね。 つまり、当時はまだ専用の寝具などというものはなくて、 互いの着物を夜具の代りにしていたようですね。 その意味では、起き出す時に間違えて相手の下着を着る、 ということもあったでしょうし、男女が下着を交換するという風俗も、 現代人が考えるほど不自然な事ではなかったんでしょう。 遣新羅使の後に並ぶのは、中臣宅守と狹野茅上娘子の相聞歌ですね。 この場合も、狹野茅上娘子は宮女で、二人の関係に怒った天皇が、 中臣宅守を越前に流刑にしたんだそうです。 その場合、流刑にする時は当然、女を同行することが許されないのに、 二人の手紙のやり取りを仲介するのが許されたのは、不可解ですけどね。 一説によると、万葉時代の後半には重婚を禁止する傾向が強まり、 この場合も、中臣宅守はその禁を犯したのだという話がありました。 中臣宅守と狹野茅上娘子:天平の悲恋 http://blog.hix05.com/blog/2007/04/post_180.html 当時の天皇は仏教に深く帰依した聖武天皇ですから、或いは、 邪淫を禁ずる仏教思想に影響された面があるのかもしれません。 ただ、流刑になったのが739年であるのに対し、763年には、 彼が都で出世した記録があるそうですから、少なくとも24年後の、 淳仁天皇の時代には、都に帰っていたことになりますね。 その場合、彼の流刑が許された理由が気になりますが、 天皇が変わったせいというよりも、狹野茅上娘子と交わした恋歌が、 一定の評価をされた結果である、と考えるのが良いような気がします。 その場合、これまた一種の歌徳説話ということになりますね。(^^;) それから、以前に書いた件でちょっと気になることがありました。 例の人麻呂の熊野の歌で百重成を『ももへなす』と読みましたが、 前後のつながりからして、ここは『ももへなし』とすべきでしたね。 つまり『みくまのの うらのはまゆふ』は百重を導く枕詞で、 『ももへなし こころはおもへど ただにあはぬかも』と続く、 と見る方が、歌としては自然でしょうからね。 最後の『だだにあはぬかも』の『かも』を『鴨』と書いた点からして、 もし、ここを敢えて『ももへなす』と読ませたければ、 百重成でなく百重茄と書いたんじゃないでしょうか。(^^;) あるいは、百重梨とすればむしろ、誤解が無かったでしょうね。 当時、茄や梨があったかどうかが問題かもしれませんが……。 因みに、鴨なんていう字を当てた所は少しふざけている感じもあり、 キョンキョンあたりが聞いたら喜びそうな気がしますね。 実を言うと昔、あの人が言っていたことなんですが、 気象観測システムのアメダスという名前を子供の頃に聞いて、 『何をふざけた名前をつけてるのか』と思ったそうですね。 ところが、大人になって、それがAMeDAS、つまり、 『Automatic Meteorological Data Acquisition System』 の省略形であると知って納得したそうですが…… 実を言うと、この手の省略名なんていうものは、 本当の所はどうにでも、でっちあげる事ができるんですよね。 ですから、これはやはり当初、ふざけていると考えたのが、 むしろ、アタリだったんじゃないでしょうか。(^^;) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/99
100: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉解釈とタミル語起源説●●●(1/4) また少し間があきましたが……人麻呂刑死説に関しては、 古典講読の第31回で、更に決定的な証拠が出てきましたね。 持統天皇の伊勢行幸の時、人麻呂が都で留守居役をしたようですが、 その時に彼が詠んだ『伊勢留京歌』というのが、三首ありました。 その三首の内の最後のものが、これなんですね。 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/one/m0042.html 潮左為二(しおさひに) 五十等兒乃嶋邊(いらこのしまべ) 榜船荷(こぐふねに) 妹乗良六鹿(いものるらむか) 荒嶋廻乎(あらきしまみを) (うしおが騒ぐ中、伊良虞島の付近を漕いで行く小舟には、 あの子も乗っているだろうか、島の回りは波が荒いはずだが。) 三首とも宮女に関する歌ですが、ここはそれを妹(いも)と表現してますから、 『宮女の中に人麻呂の恋人がいた』と見て間違いないのではないでしょうか。 講師は何故か、そうした見方を敢えて否定していたようですけどね。 という分けで、私としては色々と空想を巡らすことになったわけですが…… 一つの可能性として、次のようなことが考えられると思います。 前にも少し書きましたように、女帝の持統天皇時代には、 宮女もある意味で、暇と体を持て余していたんでしょうね。(^^;) ですから、人麻呂が後宮に入り込むことが黙認されていた可能性があり、 その結果、この歌が示すように、人麻呂の恋人がいたと考えられます。 ところが、持統天皇が譲位して文武天皇に代替わりすると、 後宮への出入りが厳しく制限されるようになって、その結果、 人麻呂は彼女に会えなくなってしまったのではないでしょうか。 例の『ただにあはぬかも』の歌は、その辺の事情の表現とも思われます。 ひょっとすると、その歌自体、人麻呂が彼女との密会を画策して、 こっそりと彼女に送った歌と考えるべきかもしれませんね。 その手紙がばれたか密会現場を直接、抑えられたかは知りませんが、 このことが原因で、人麻呂は刑死したと考える可能性があります。 仮にそうだとすると、例の鴨の当て字にしても、単に『ふざけている』 という以上に、何か密会の現場を暗示する符丁かと最初は思いました。 つまり、鴨と言えば二人にはピンと来る場所があったということです。 でも、色々調べた結果、助詞の『かも』に鴨という字を当てる書き方は、 人麻呂が作った他の歌にもあって、この発想は駄目のようです。(^^;) 因みに、直不相鴨(ただにあはぬかも)という全く同じ表現が、 万葉集には、もうひとつあるのを発見しました。 この歌は人麻呂よりも後代の歌ですから、この場合は、 人麻呂の歌の表現をそっくり借用したのかもしれませんけどね。 http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/68.htm 安太人乃(あだひとの) 八名打度(やなうちわたす) 瀬速(せをはやみ) 意者雖念(こころはもへど) 直不相鴨(ただにあはぬかも) 全く同じ表現と言えば、以前に引用した人麻呂の歌とそっくりの歌が、 第35回の笠女郎が大伴家持に贈った歌に出てきたのには驚きました。 思ふにし 死にするものに あらませば 千たびぞ我は 死に還らまし 以前に引用したのは次の歌ですが、発想や表現が酷似していますから、 これまた、人麻呂のパクリと考えるのが自然のような気がします。 http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1162001315.html#4 恋するに 死にするものに あらませば 我が身は千たび 死にかへらまし http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/100
101: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉解釈とタミル語起源説●●●(2/4) 実は、笠女郎の歌には、他にも人麻呂の歌に良く似たのがありますね。 先ず、壬申の乱の英雄・高市皇子の死に際して、 人麻呂が詠んだ歌がありましたが、その格調の高さは、 万葉集の中でもピカイチですから、私が好きな歌の一つです。 因みに、ここでも最後の『かも』は鴨となっていました。(^^;) ひさかたの 天知らしぬる 君故に 日月も知らず 恋ひ渡るかも (昇天して、ひさご形の天空を支配なさっているあなたですから、 私は時間が経つのも忘れ、ひたすら思い焦がれています。) それに比べ、次は笠女郎が大伴家持に贈った歌の一つですが、 先の例ほどではないにせよ、これまたかなり似ていますよね。 ここでも、笠女郎が人麻呂の歌を参考にしたような気がします。 朝霧の 鬱(おほ)に相見し 人故に 命死ぬべく 恋ひ渡るかも (朝霧の中で見るように、かすかに見初めたあなたでしたが、 今の私は死んでしまいそうなほど深く恋し続けています。) ところで、私も古典は素人なので凡ミスをやらかしたようですが、 『……ませば……まし』は、いわゆる反実仮想という奴ですから、 『恋重荷』の所で付けた訳は、大分ずれていたことになりますね。 つまり『もし、恋するたびに狂い死にする宿命にあるのなら、 私は千回死んで、千回生まれ変わろう』と訳しましたけどね。 最後のましが反実仮想なら、後半部は決意表明ではなく、 『私は千回死んで、千回生まれ変わっただろう』となりますね。 結局『もし恋で死ぬものなら、私は千回生まれ変わったはずだが、 実際はそんなことはなかった』ということですよね。 ですから、この歌の主張は恋重荷の歌とは正反対になります。 その時『千人に恋をした』と見なすなら、大分軽い内容になって、 『柿本人麻呂はプレイボーイだった』ということになるかもしれません。 しかし、あの歌が例の恋人に送った歌であり、 同じ人に対して千回分の恋をしたと解釈するなら、 必ずしも軽いとは言えないことになるでしょうね。 笠女郎の歌にしても『自分はあなたに千回分も恋をしたのだ』 という主張でしょうから、それなりに重いですよね。 実は昔、人麻呂の人物像を探ろうとして万葉集をあさっている時、 人麻呂歌集の中にこの歌を見つけたのでした。 当時から『人麻呂歌集の歌は必ずしも人麻呂自身の歌ではない』 という説があるのは知っていましたが、自己流解釈に基づいて、 人麻呂の歌で間違いないだろうと考えていたのでした。 でも、こんなに似た歌があるとなると、あの歌自体、 人麻呂の作ではないという可能性が出て来ましたかね。 万葉集という作品も、中々一筋縄ではいかないようです。(-_-;) 無論、時間的に言えば人麻呂歌集の方が古い分けですから、 笠女郎の歌を人麻呂歌集の真似と見ても良い分けですが、 更に古い古謡のようなものがあって、両方とも、 そこから取ったと見なす方が自然でしょうか。 それから、例の伊勢留京歌の第三首に出てくる伊良虞の島を、 伊良虞岬と解釈するのが現代では通例のようですが、私の考えでは、 それはむしろ、岬の手前にある神島のことではないかという気がします。 というのも、当時の交通事情の悪さを考えると、 宮女たちの行動半径は、余り広くないだろうと思われるからです。 例えば、一首目の歌に出てくる『あみの浦』を『あごの浦』と読んで、 『英虞湾』と解釈する立場があるらしいですが、 当時の交通事情からすると、それは到底ありえませんよね。 彼らが鳥羽までどういう方法で行ったかは良く知りませんが、 鳥羽から『英虞湾』に回るとしたら、それ自体が大旅行ですからね。 というのも、当時は山中を行く道が整備されていなくて、 海岸伝いに海を行くのが普通だったらしいからです。 その意味で『あみの浦』というのはやはり、 鳥羽駅の最寄りにある湾(鳥羽湾)内の地名だろうと思います。 先ずはそこで浜遊びをしてから、小舟に乗って、 二首目に出てくる答志島に渡ったと思われます。 となると、次の三首目の舟遊びにしても『伊良虞岬まで、 わざわざ海峡を越えて行く』とは考えにくいので、 その途中にある神島を一巡りした、と考える方が、 旅程としては自然のような気がする分けです。 それなら、島を強引に岬と読み替える必要もありませんしね。 無論、その場合には『伊良虞岬の手前にある神島を、 当時は伊良虞の島と呼んでいた』と考える必要があります。 その証明が出来ないと、仮説の域を出ませんけどね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/101
102: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉解釈とタミル語起源説●●●(3/4) 第32回では武市黒人の歌を取り上げていましたが、 その中で『あけのそほ船』というのが話題になっていましたね。 http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/25995464.html 客為而(たびにして) 物戀敷尓(ものこひしきに) 山下(やましたの) 赤乃曽保船(あけのそほぶね) 奥榜所見(おきにこぐみゆ) (旅の途中でふと、もの恋しい気分になっていると、 山下にあった赤土を塗った船が、沖へと漕いでいくのが見えた) 『あけのそほ船』というのは『赤土を塗った船』のことで、 赭土(そほ、赤い土)というのが、魔よけだとか、官船の印だとか、 更には船食虫を防ぐ為だとか、様々な説があるそうですけどね。 私としては、ここはやはり魔除けと考えたい所なんです。 その場合、どうして魔除けをする必要があったのかが問題ですが…… 私の考えでは、これは葬送の船と見るのが良いような気がします。 つまり、遣新羅使のところでも色々書きましたが、 当時はしょっちゅう伝染病がはやっていて、 伝染病で死ぬことは日常茶飯事だったわけですね。 その時、伝染病の死者はうっかり地上には葬れないですから、 海に捨てるというか、水葬したのではないかという気がします。 そしてその水葬の船には、伝染病のこれ以上の拡散を防ぐという意味で、 魔よけのおまじないとして、赤土を塗っていたのではないでしょうか。 その後の第33回では、戯れ歌が取り上げられていましたが、 その中で『意味の通らない歌を作る』という話がありました。 でも『単にでたらめな歌を作るだけなら誰にでもできるはずで、 そんな歌に2000文もの賞金を与えるのはおかしい』 というのは、次のサイトの主が言う通りだと思います。 その場合、二つ目の歌については男性器の暗喩だという話があったので、 少し気になって捜し回ると、出て来たのがこのサイトなんです。 ここの話によると、でたらめに見えるあの歌には実は裏の意味があって、 タミル語の語彙を使って解釈すると、良く分かるというんですね。 万葉集難解歌の解読 http://homepage3.nifty.com/umoregi/sakusaku/1_1.htm 日本語の起源がタミル語にある、とする説には聞き覚えがありましたが、 それがこんな所で出てきたのには、私もビックリしました。 『万葉時代の和語には、タミル語由来の言葉が沢山あったが、 その時代に中国語が入って来た結果、その多くが死語になった』 と考えると、これらの歌の持つ二重の意味がわかるらしいです。 ただ……幾つか疑問に思える点もあって、例えば、 なぜ褌(ふんどし)をピンクに染めるのかが解せませんでした。 そんなものに何故、わざわざ染色する手間をかけるのかということです。 で思い至ったのは、前に書いた男女が下着を交換するという話ですね。 その時は、その下着を襦袢みたいなものだろうと考えていたんですが、 後になって、着物をとめるのは紐ではなく帯じゃないかと気になり出し、 紐でとめるなら、むしろ褌みたいなものかもしれないと気づいた分けです。 実際問題として、女性が生理の時に身につける褌みたいなものがあり、 男の褌はそこから派生したものであるという説を聞いたことがあります。 仮にそうだとすると、下着の交換というのは『経血に染まった褌を、 男女で実質的に共有していた』ということなのかもしれません。 男の褌がピンク色だったというのも、それなら納得が行きます。 何しろ、当時の布は大変な貴重品である一方、 衛生状態の悪さは、現代からは想像もつかないレベルですからね。 他方では『吉野が桜の名所だから、桜のピンクに、 褌のピンクをかけたのだ』という点もひっかかりました。 古典講読の講師によると『吉野が桜の名所になるのは後世のことで、 吉野のイメージは明日香時代は川、奈良時代は雪』だそうですからね。 それでも尚『吉野には万葉の時代から自生した桜が多かった』、 つまり『名物になるほど有名ではなかったにせよ、 春には山が赤く染まっていた』と考えることは可能でしょうか。 あるいは……経血で染まった褌なら、むしろ桜の花ではなく、 紅葉に染まった吉野に掛けていると見るべきでしょうかね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/102
103: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●万葉解釈とタミル語起源説●●●(4/4) ただ……こうした解釈の最終的な信憑性に関しては、 タミル語の専門家でない素人には、判断のしようがありません。 それを支持する学者にしても、日本には数名しかいないんだそうです。 実際問題として、タミル人が住むのはインド南部ですし、 その顔だちも、日本人と共通性があるようには見えませんからね。 それでも、私の考えでは、この説は一般に思われているほど、 突飛なものではないんじゃないか、と言う気がします。 というのも、私が以前から考えていることとして『日本人の祖先は、 何万年か前には中国大陸にいたんじゃないか』と思うからです。 例えば、例のブータン人と日本人が良く似ている件ですけどね。 ついこの間も、国王夫妻が国賓として来日していましたが…… あまりに日本人と似過ぎていて、威厳をそがれた感もありました。 つまり、ブータンの国王は、日本では例えば、 その辺の長屋に住んでいるあんちゃんみたいな風貌ですからね。(^^;) 他方では、日本人とモンゴル人の類似性もあったわけですが、 そうしたことを総合的に考えると『何万年か前には、 日本人の祖先が、今の中国大陸に住んでいた』と考えると、 色々なことの説明がし易いように思う分けです。 そこへ中国人が後から侵入して来たので、日本人は東へ、 モンゴル人は北へ、ブータン人やタミル人は南へと、 それぞれ弾き飛ばされたんじゃないか、という気がします。 つまり、ブータン人と日本人が似ている原因として、 南海方面を経由して日本人の祖先が渡ってきたと考えるより、 この方が、ずっと自然に両者の関係を説明できるでしょ!? 似たようなことで言うと、インド北部のアーリア系インド人も、 数千年前に、インドに渡ってきたことが知られている分けですね。 多分インド人の祖先は今のヨーロッパ大陸にいて、 そこでの争いに敗れた結果、東に逃れ来たんでしょうね。 ですから、インド人にとっての憧れの理想郷が、 西にある(つまり、西方浄土)のもその帰結と思われます。 中国人の場合、そのインド人よりも更に古い昔に、 やはり、西から逃れて来たのではないかという気がします。 もしそうなら、それ以前の先史時代の中国大陸に日本人やモンゴル人、 更にはブータン人やタミル人がいたとしても、不思議はないですよね。 日本語とタミル語が同じ言語から分離したという説も、 そうした展開の中で見れば、それほど不自然ではないと思う分けです。 そうした日本語のタミル語起源説に関しては、 以前から私が一つ気になっていることがあります。 万葉集では『まくらをまく』という表現が良く出てきますよね。 その場合、まくらという言葉の語源は『まく』という動詞に、 接尾語の『ら』が付いて名詞化したものではないかと思う分けです。 それと同様に、似た表現で『さくらがさく』というのがありますよね。 この場合も『さく』という動詞に『ら』という接尾語が付いて、 さくらという名詞になったのではないか、 というのが私が受ける印象であるわけです。 更に言うと『もぐる��もぐら』や『あぶる��あぶら』があるし、 『あぐら』も似たように説明できるかもしれませんよね。 だとすると、この『ら』という接尾語がタミル語では、 一体どう解釈できるのかが気になる所なんです。 それがうまく行けば、タミル語起源説の補強因子になりますよね。 他方では、日本語と朝鮮語の近縁関係を言う説がありますから、 朝鮮語の位置づけをどうするのかも一つの焦点でしょうね。 例えば『海の幸・山の幸とは言うのにどうして、 畑の幸とは言わないのか』という問題があります。 この場合、さちの語源が朝鮮語のサルであって、 そのサルが矢尻を意味するという話がありました。 つまり、海の幸は漁の獲物、山の幸は猟の獲物というわけで、 共に、モリとか矢とかで仕留める生き物のことなんですね。 ですから『畑でとれる作物は畑の幸とは言わない』というわけです。 そうした朝鮮語と日本語の近縁関係を考えるなら、 朝鮮語の古語もタミル語から説明できないとおかしいですよね。 もしそれがうまく行けば、日本語のタミル語起源説も、 今より遥かに信憑性が高まるのではないでしょうか。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/103
104: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(1/6) ちょっと間が空き過ぎて、うまくまとまる自信がありませんが…… 今回は、先ず『さつや』の話から始めようと思います。 以前に『何故、海の幸・山の幸と言って畑の幸と言わないのか』 という話をしましたが、それに関し、笠金村の歌には驚きました。 それは古典講読の第44回に出てきた志貴皇子の挽歌でしたが、 その冒頭付近に『ますらをの さつやたばさみ』とあった分けですね。 訓読表記の場合、ここの『さつや』を『幸矢』と書く人が多いですが、 原文を探すと、何とそこが『得物矢』となっていたんですね。 これだと『幸』が『獲物』を意味することは、ほぼ自明ですね。(^^;) 志貴皇子,笠金村,白毫寺,萩 http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/108.htm 因みに、志貴皇子が葬られた高円山は、皇子の別荘があった所らしいですが、 実は、この山は奈良の大文字焼で火床となることでも有名のようですね。 つまり、大の文字に薪を並べる為の台座が置かれている山だった分けです。 更には、以前にビデオ評で取りあげた映画『殯の森』にしても、 この高円山を舞台にしていた、という話が出て来てびっくりしました。 志貴皇子と言えば、何と言っても新古今集の歌が有名ですよね。 岩そそぐ たるひの上の さ蕨の 萌えいづる春に なりにけるかな いかにも新古今集にはぴったり、という感じのキラキラした感性ですが、 そんな斬新な感性を持つ人が、これほど昔の人だったというのも驚きでした。 彼は天智天皇の第七皇子でしたが、権力が天武天皇の系列に移った結果、 生臭い政治の世界からは身を引いて、専ら歌の世界に没頭したようです。 そうした点を考えると私は、例の東歌が献上された相手というのも、 他ならぬこの志貴皇子だったんじゃないか、という気がし始めています。 結局、一般論として言えるのは、こうした文学というものが権力者よりも、 権力から疎外された人々によって担われることが多い、ということですね。 ただ志貴皇子の場合、彼の存命中は傍流に落ちたかもしれませんが、 結果的には、その後も政治的キーパーソンであり続けたわけですね。 というのも、後々になって天武系の血筋が途絶えた時に、 彼の息子が光仁天皇として即位し、その血筋が、 平安時代へと受け継がれて行くことになったからです。 ひょっとすると、彼の歌人としての名声も、 そうした復権に寄与したんでしょうか。 政治的な疎外という点で言うと、大伴旅人や山上憶良にしても同様ですね。 恐らく当時、都で権力を独占しつつあった藤原氏にとっては、 彼らが煙たい存在だったからこそ、この二人を左遷して、 太宰府のような遠隔地に追いやったのではないでしょうか。 その結果、筑紫歌壇とか筑紫文学圏と言われる状況が現出した分けですが、 第45回に取り上げられていた『酒を讃むる歌』などを読むと、 旅人のかなり鬱屈した心情が反映されているように感じられます。 大伴旅人・酒を讃むる歌 http://www.h6.dion.ne.jp/~jofuan/myhaiku_065.htm 例えば、次の歌などは都の藤原氏へのあてこすりと見る説がありましたが、 それは多かれ少なかれ、当たっているのではないでしょうか。 つまり、都でまじめくさって政治を取り仕切っている藤原系の人々を、 猿に見立ててあざけっているとも読めますよね。(^^;) あな醜く 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む (ああ嫌だ。大切な仕事があるとかいって、 酒を拒む人の顔を良く見ると、猿にそっくりな気がする。) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/104
105: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(2/6) 他方では、笠金村を調べている最中に、とんでもないものを見つけました。 旅の途中で見かけた美女を一夜妻として迎えた、という長歌ですが、 もし本当なら、現代の男から見ても垂涎の体験でしょうね。(*^^)v 平成万葉歌仙三十「秋の百夜」の巻〜起首 http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/60718606.html 三香の原 旅の宿りに 玉桙の 道の行き逢ひに 天雲の よそのみ見つつ 言問はむ 由の無ければ 心のみ 咽(む)せつつあるに 天地の 神事依せて 敷栲の 衣手交へて 己妻と 恃(たの)める今夜 秋の夜の 百夜の長さ ありこせぬかも (美香の原で旅宿した折り、道中で偶然見かけた美女を、 遠くから見るばかりで、何もできなかったのを悔いていた所、 天地の神々の御加護か、一夜の妻として迎えることが出来た。 この春の短夜が秋の百夜分あれば、と願ったことだった。) 但し……この旅というのが個人的な旅ならともかく、 実は、天皇の行幸にお供した時の話のようですからね。 本当にそんなうまいことが出来るのか、と疑問が生じるのも当然で、 『この歌は、あくまで夢想の産物である』と見なす説がありました。 でも、ドン・ジョバンニのレポレッロとか、光源氏の惟光とか、 昔の貴族には、その意を受けて働く部下がいた分けですからね。 こういうおいしい話が絶対なかった、とも言い切れないでしょうね。 ですから、この歌を味わう現代人の立場としては、やはり素直に、 書いてある通りの事実として、受け取りたいような気がします。(^^;) 以前の記述に関する話で、もうひとつ言うと、 例の霧の歌の連作に関しては、その作者が一体誰なのかが気になりました。 というのも、もし遣新羅使の歌群が特定の人物の歌日記なのだとすると、 万葉集の大歌人の一人として、彼の名を加える必要がありそうですからね。 それで、後から読み直す内に気づいたんですが、仮にこれが歌日記なら、 その作者は、3589番歌の作者として名が見える人物、 つまり、秦間満(はだのはしまろ)ではないんでしょうか。 万葉集 巻15-3589夕さればひ… | NipponArchives 万葉集 http://www.podcast.tv/video-episodes/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86-%E5%B7%BB15-3589%E5%A4%95%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%B2%E2%80%A6-13404631.html 夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてそ吾が来る 妹が目を欲り (夕方になるとひぐらしが鳴いてうるさい生駒の山々を、 私はとうとう越えてきてしまったよ、あの子の目を見たいばっかりに。) 当時の遣亜使の船旅では、正式な出航前に何日か海上に出て、 訓練のようなことをしたと講師が言っていましたね。 そうした訓練期間中に、二人の間で取り交わされたのが、 例の冒頭の11首の贈答歌だったと思われます。 で、この3589番歌はその贈答歌の直後にある分けですが、 作者はその訓練の途中、抜け出して家に帰ったみたいですね。 『こんなに時間が余るのなら、もっと彼女と一緒にいればよかった』 なんていう歌も3594番にはありましたしね。 潮待つと ありける船を 知らずして 悔しく妹を 別れ来にけり (潮待ちで船が出航できないことを知らなかったばっかりに、 私は残念にも、あの子と早々に別れて来てしまったことよ。) ここ以外には彼の名は一切、出てきませんが結局、この位置に名前を出せば、 後は繰り返して書く必要を感じなかった、ということではないんでしょうか。 因みに、ひぐらしが鳴くのは6月下旬から9月中旬と言われますから、 『春に出て秋には帰る』という当初の旅程からすると、 何かの事情で随分、出発が遅れていたということになりますかね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/105
106: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(3/6) それから第41回で額田王を取り上げた時、その最初の歌に関して、 天皇が本当にそんな粗末な宿に泊まったのか、と疑問が出されていました。 秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処(みやこ)の 仮廬(かりいほ)し思ほゆ (秋の野の草を刈り、それで屋根を葺いて明かしたあの夜の、 宇治の粗末な仮御所のことが、懐かしく思い出されます。) でも……当時の貧しさは今日、我々が想像する範囲を軽く越えるだろう、 ということを、我々は十分に想定して置く必要があると思います。 天皇がそういう粗末な宿に泊まっても、別に不思議はないということですね。 第48回で、大伴氏の家族が稲刈りに出かける話にしてもそうですよね。 講師は、稲刈りの間に彼らが寝泊まりした仮屋の『たぶせ』というのは、 いくらなんでも謙遜した表現だろうとか言っていましたが、これまた、 当時の貧しさを考えるなら、そうとは言い切れない気がします。 更には、山上憶良の貧窮問答歌は、彼が死ぬ暫く前に作られたようですが、 そこに描かれている貧しさも、我々の想像を軽く越えていますね。 第五巻 : 風雑り雨降る夜の雨雑り雪降る夜は http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/five/m0892.html 人並に 我れも作るを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け (私も人並みには働いているのに、綿も入っていない麻衣で、 海藻のように切れ切れになった、ボロだけを肩にかけて) いくら何でも、一度は地方の長官まで勤め上げた人物が、 その晩年に、こういう悲惨な状況に置かれるというのは、 現代人には、にわかには信じがたい話ですよね。 無論、晩年の彼は藤原氏に冷遇された可能性が当然ありますが、 それにしても一度落ちぶれると、ここまで行くという事の背景には、 当時の圧倒的な貧しさを考える必要があるのではないでしょうか。 で再び、天皇の描写に話を戻しますが結局、明治期以降、 天皇の権威が極端に肥大化した、という事情がありますよね。 そうした近世の常識に捕らわれると、間違えるのではないかと思います。 万葉集の色々な所を読むと、当時の天皇の権威というものは、 せいぜい、今日の我々が考える地方豪族に、 毛の生えた程度のものだったようなふしもありますからね。 彼ら自身、そのようなものと意識していたような気配もあります。 その点では『天皇を神として讃える歌』をしきりに作った人麻呂などは、 例外とも見えますが……だからこそ、渡来人説が出るのかもしれません。 つまり、当時の政権を安定させる上で、天皇を権威付けすることが、 必要不可欠だったと思いますが、その意味で渡来人の人麻呂が、 政権に多少とも迎合的だったことが、好都合だったとも考えられます。 そういう近世的に肥大した天皇の権威を常識とする立場からすると、 万葉集の歌が相聞歌・挽歌・雑歌の三分野に別れていて、 皇室行事の歌が雑歌に入っていることを、奇妙に思う人も多いようです。 この講師の場合、そこを逆に解釈して『雑歌というのは、 現代人が考えるような「その他もろもろの歌」 という意味ではない』とか言ってましたけどね。 でも、それはむしろ明治期以降に肥大化した天皇権威に流された結果、 生じる歪みであって、むしろ逆立ちした発想ではないんでしょうか。 つまり、万葉の編者にしてみれば、この歌集は別に、 天皇の権威を高める為に作った分けではなく、あくまで、 歌の価値に重点を置いているのだ、と考えれば良い分けです。 言い換えると、皇室の権威を讃える為の歌集を編みたいのなら、 それ専用の歌集を作れば良いわけで、万葉の編者には、 必ずしも、そういう意識は無かったということなんでしょう。 その意味で、皇室行事の歌は挽歌でもないし相聞歌でもないから、 自動的に雑歌に入った、ということに過ぎないだろうと思います。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/106
107: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(4/6) そうした万葉の編者の心情に、更に分け入るとすれば、 一つ絶対に落せない要素として『書き言葉というものを、 始めて手にした人々の衝撃』ということがあると思います。 それまでは、たとえどんなに優れた歌を詠んだとしても、 ただ口承として伝えるしか無い時代が、長く続いていたわけでしょ!? それがある時、漢字が伝来し、それを万葉仮名として用いて、 和歌を書き言葉として記録する道が突然、開けた分けですね。 例の東歌にしても、ひょっとすると東国の人が和歌を教わったのは、 万葉仮名の使い方を教わったのと同時だったのではないでしょうか。 その時、人々が感じた驚きや興奮というものは、例えば、 明治にガス灯の明かりを初めて見た人の驚きや興奮よりも、 小さかったはずはないだろうと思います。 ですから、彼らは始めて手に入れた文字というものを使って、 それ以前に蓄えられていた知識や情報を後世に伝えることに、 重大な責任を感じていたのではないかという気がします。 その点では、古事記や日本書紀にしても同様ですが、 詩歌の世界では、この万葉集が重要な役割を担ったんでしょうね。 という分けで、例の仮庵は天皇が泊まった宿と見て良いと思いますが、 もし額田王も一緒に泊まったのだとすると、天皇は女かもしれませんね。 男の天皇なら当然、妻と共寝をしますから他人は入り込めませんが、 彼女が天皇の妻として同宿した、というのも考えにくいですからね。 彼女の場合、天武天皇との愛人関係が良く知られていますが、 それは天武の皇太子時代の話ですから、話が合いません。 他方、仮にこの天皇を天智天皇とすると近江宮時代になりますが、 例の歌が熟田津の歌の前に置いてある点からすると、 それもやはり、辻褄が合わないように思います。 というのも、熟田津の歌は西暦661年に百済救援の為に、 斉明天皇が出航した時の歌とされている分けですね。 その後、663年の白村江の戦いに敗れた結果として、 都を近江に移した分けですから、例の歌を近江宮時代とすると、 時間的に逆順になってしまう分けてす。 その意味で、この歌に出てくる天皇というのは、 女帝の斉明天皇あたりと考えるのが良いような気がします。 ところで、万葉集の編纂者に関しては様々な説があるようですが、 近年は、大伴家持がその大半を編纂したという説が有力のようですね。 ならば、例の大和三山歌にあった『第二反歌は反歌として相応しくない』 とかいう注釈も、他ならぬ家持が付けたものと見るべきなんでしょうか。 最初に見つけたwikiの記述では『第一巻と第二巻が先ず最初に作られ、 第三巻以降とは区別される』とか書いてあったので、 ならば最初の二巻は相当、古いものかと思っていたんですけどね。 実は第一巻の63番に山上憶良の歌があって、それは、 704年の文武帝の時代に、唐で彼が作った望郷歌であるわけです。 いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ (さあみんな、早く日本へ帰ろう。我々が出航して来た、 大伴の御津の浜松も、我々を待ちわびているはずだ。) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/107
108: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(5/6) よって編纂の開始は、少なくともそれ以降ということになりますね。 因みに、家持は718年頃の生まれとされていますから、 彼が物心が付くころには、憶良の望郷歌は、 既に四半世紀も昔の話ということになります。 他方では、家持の死後にも万葉集が編纂された形跡があるのに、 その人物は不明ということで、講師はそれをXと読んでいましたね。 でも、そうなると、その謎の編者というのは、 家持の正妻であった大伴大嬢ではないかという気がします。 つまり全く外部の、例えば大伴家以外の人物が、 万葉集の最終的な編纂に関わったのだとすれば、 その名が痕跡として残されていないことは考えにくいですよね。 それに比べ、家持の死後に残された大伴大嬢が、 夫の遺志を継いで万葉集を最終的に完成させたのだとするなら、 その名がどこにもないとしても、驚くには値しないと思います。 その点で少し興味を引かれたのは、家持と大嬢の関係でした。 家持は16才位の時に、既に大嬢に贈った恋歌があり、 一説によると、もう当時から二人は出来ていたとも言われます。 でも、その後、家持は別の女を妻にして子まで作ったらしく、 その女が早死にした時に、彼は悲痛な挽歌を残していますね。 大伴家持:青春と恋(万葉集を読む) http://manyo.hix05.com/yakamochi/yakamochi.seishun.html その後、改めて家持は大嬢を正妻として迎えたようですが、 実を言えば、家持には生涯に10人以上の女がいたとも言われる分けです。 第35回に出てきた笠郎女も、その一人だった分けですけどね。 そうした事情からすると、第47回に取り上げられた、 家持の大乗への恋歌が大変ナイーブなのが気になりました。 万葉集の風景 http://viewmanyou.web.fc2.com/081630_kaobana.html 第八巻の1629番と1630番で、長すぎるので引用は省きますが、 仕事が忙し過ぎて、同居する家にほとんど帰れないのを恨んで、 『どうしたらあなたへの恋心を忘れられるのか』と歌っています。 家持がこんな恋歌を作ったとすれば、それは最初の恋の時で、 二人とも二十歳未満だったような気がする分けです。 ひょっとすると、万葉集の最後の編者としての大嬢が、自分が贈られた、 若き日の恋文を覚えていて、こんな形で収録したのかもしれませんね。 因みに、こうした歌を紙に記録することが何度か話題になりましたが、 自分で俳句や短歌を作る人なら良く分かると思いますけど、 そうしたものは特に書き留めておかなくとも、 当事者は決して忘れないものですよね。 ですから、例えば遣新羅使の歌日記にしても、あれは秦間満が、 後から全てを思い出して、紙に書き留めた可能性があります。 例えば、将棋のプロ棋士は勝負が終わった後で何も見なくても、 最初からの全ての手を盤上で再現できると言いますよね。 へぼ将棋ではそうは行きませんが、プロの勝負ともなると、 結局、盤上の一つの駒の位置が全体の形勢に影響するので、 各駒の位置関係は有機的に関連付けられている分けですね。 ですから、勝負を再現するのに苦労はしないのだろうと思います。 その点、和歌や俳句にしても似たようなもので、 一つ一つの言葉は、互いに有機的に関連付けられていて、 『ここにはこの言葉が不可欠である』という所まで練り上げ、 推敲に推敲を重ねた上で、詩歌として成立している分けですね。 ですから多少、時間が経っても忘れることはあり得ない分けです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/108
109: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(6/6) それから第45回では、大伴坂上郎女の724番歌の解釈が気になりました。 朝髪の 思ひ乱れて かくばかり 汝姉(なね)が恋ふれそ 夢に見えける (朝、髪がくしゃくしゃになるように、 心がちぢに乱れて、あなたが私のことを思うから、 私の夢にまで、あなたが出てきましたよ。) この講師の解釈は、もう一つ明確ではありませんでしたが、 『こんなにもあなたを恋しがるから、 あなたが私の夢に出てきた』とか言っていたと思います。 ということは『母親の郎女が娘の大嬢を恋しく思った結果、 母親の夢に娘が出てきた』ということになりますね。 ネットでは両様の解釈があるようですが、 例えば、このサイトの解釈も講師と同じになっています。 万葉集 水彩画 http://blogs.yahoo.co.jp/nosolu2003/archive/2011/10/14 でも、実を言うと、夢についての考え方は、 現代人と古代人とでは正反対である分けですね。 つまり、現代人は『自分があの人のことを思うから、 あの人が自分の夢に出てくる』と考えますが、 古代的な発想では『あの人が自分のことを思うから、 あの人が自分の夢に出てくる』となる分けです。 言わば、一種のテレパシーみたいなもので、 『相手の念力のようなものが空中を伝わってきて、 自分の夢の中に現れる』と考える分けですね。 その意味で、古代人の発想は現代人とは逆になるわけです。 ですから、ここで朝髪の乱れる如くに思い乱れているのは、 母ではなく、娘の方であると解釈する必要があると思います。 それから第44回では、例の赤人の歌を改めて取り上げていましたね。 朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に 河蝦はさわく http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/36.htm その場合『かむなびやま』がどの山かハッキリしないとか言っていましたが、 私の考えでは、ここは天香具山とするのが順当であるような気がします。 何と言っても明日香を代表する神聖な山と言えば香具山ですし、この場合、 飛鳥川との地理的関係に、余り捕らわれる必要はないのではないでしょうか。 ところで、最後にもうひとつ、気になっていることがあります。 万葉歌人の名で、黒人・赤人・旅人などはそれなりに意味が分かりますが、 山上憶良の『おくら』とは一体、何を意味するんでしょうか。 『さくら』や『まくら』からの連想で言うなら、ここでも、 『おく』という動詞が名詞化したものと考える手はありますが、 それにしても、具体的に何を意味するのか皆目、分かりませんよね。 これは、和語としては既に廃れてしまった言葉の一つで、 本来は何か意味があったのかもしれませんね。 その点では、大伴家持の『やかもち』と言う読みも不審ですね。 『やもち』とか『かもち』、或いは『いえもち』ならまだ分かりますが、 どうして『やかもち』なんでしょうか。(^^;) 因みに、黒人に関しては >>102 で凡ミスをやらかしました。 そこでは、うっかり『武市黒人』と書きましたが、 『たけちのくろひと』の『たけち』は、 高市皇子と同様に『高市』とするのが正解でしたね。 ですから、正しくは『高市黒人』です。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/109
110: あぼーん [あぼーん] あぼーん http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/110
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