懐かしの下関市内を語り合おう パート2 (1000レス)
前次1-
抽出解除 必死チェッカー(簡易版) レス栞 あぼーん

このスレッドは1000を超えました。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ
639: 名無しなんじゃ 2020/01/13(月)00:03 ID:EGc9Of5g(1/4) HOST:C9A5-AF52-3524 AAS
まるは通りで35年
小田社長は「先代の跡を継ぎ、夜の下関を代表するにたる本格的シアター型の
グランドキャバレーを、と十年頑張ってきた。しかしこの不況に加え、女性の
確保が難しく、廃業に踏み切った。時代の流れで、思い残すことはない」。
通称“まるは通り”で創業以来二十五年続いたハイライト終えんの弁を
そんなふうに語っている。

先代社長、小田護氏が小田物産として、キャバレー・ハイライトをスタート
させたのは終戦直後の二十二年十月。大洋漁業の物資を扱う百貨店の一部
だったが二十八年にキャバレー「まるは会館」となり、次いで三十年に
第一商会に組織変更され、店名が「ハイライト」となった。ハイライトは、
省2
640: 名無しなんじゃ 2020/01/13(月)00:12 ID:EGc9Of5g(2/4) HOST:C9A5-AF52-3524 AAS
最盛期は50ー53年
ハイライトの最盛期は、昭和五十〜五十三年。「店内を増床し、改装オープン後は、
一晩に四百五十人のお客が訪れ、一日の水揚げは三百万円でした。社交嬢も三百人
募集しました」と、小田社長。

第一商会の営業課長、藤井直正さんは昭和二十七年、ボーイとして同店入社。
二十七〜八年の不況ではお客の一人もいない日もありました。一階にあった
パチンコで息をつく始末でした」と、歩みを語る。
641: 名無しなんじゃ 2020/01/13(月)00:26 ID:EGc9Of5g(3/4) HOST:C9A5-AF52-3524 AAS
水原弘最後の舞台
戦後経済の動きのなかで、浮き沈みを繰り返した「ハイライト」だったが、
時には往年の名優ケニー・ダンカンを招いてショーを催すなど、周辺では
ちょっとマネの出来ない感覚を持っていた。

また「黒い花びら」で一世を風びした歌手・水原弘の最後の舞台と
なったのもこの「ハイライト」。同店に出演中、血を吐いて倒れた
水原弘は北九州の病院にかつぎ込まれたが、あのハスキーな声を
二度とファンに聴かせることなく若くしてこの世を去った。

こうして同店は夜の下関をさまざまに演出してきたのである。
ハイライトの廃業で、下関ではキャバレーがすべて姿を消す。
省2
642: 名無しなんじゃ 2020/01/13(月)00:35 ID:EGc9Of5g(4/4) HOST:C9A5-AF52-3524 AAS
ママの“養成所”
不況による利用客急減が“外”の理由ならば、リーススナックで
自分の店が持ちやすくなった昨今社交嬢がキャバレー勤めから
スナックママに転身していったのが“内”の理由。「ここ三年間、
うちはスナックママの養成所。一人前になると、花輪と顧客を
持って独立ですから…」とニガ笑い。

「時代の流れ」という以外に表現はないが、ネオン街の名所が
また一つ消える。オールドファンにとっては寂しい限りだろう。

昭和57年6月 山口新聞 キャバレー「ハイライト」閉店記事より
前次1-
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.165s*