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明治維新が無ければ日本は植民地になっていたか? [転載禁止]©2ch.net (598レス)
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418
: 2018/10/05(金)14:10
ID:RRgfw9Wj0(1/2)
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http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/images/2016/09/21/M16092112178/efc636fa3839ddca1fa39fdeffab7c06.jpg
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418: [] 2018/10/05(金) 14:10:54.27 ID:RRgfw9Wj0 会津・庄内は売国奴 http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/images/2016/09/21/M16092112178/efc636fa3839ddca1fa39fdeffab7c06.jpg 戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から 資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、 五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で 具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば 実現していた可能性がある」とみる。 これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年 7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったと みられていた。 その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側では ゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。 今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り 込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。 とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から 6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立 歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。 それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として 与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の 土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の 蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点 確保に向けた意図が読み取れる。 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の 形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右) 09/21 17:15 更新 http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0317478.html http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1447551693/418
会津庄内は売国奴 戊辰戦争さなかの1868年明治元年新政府軍官軍と戦っていた会津庄内両藩がプロイセンドイツから 資金を借りる担保として蝦夷地えぞちの領地を99年間貸与すると申し出たと記した駐日公使発本国向けの外交書簡を 五百旗頭いおきべ薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した内容通りならドイツの蝦夷地租借構想が水面下で 具体化していたことになる東大史料編纂へんさん所の箱石大はこいしひろし准教授は戊辰戦争が長引いていれば 実現していた可能性があるとみる これまでは日大のアンドレアスバウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から1868年 7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの10月に本国のビスマルク宰相が却下し交渉は立ち消えになったと みられていた その後ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で宰相が3週間後に一転交渉を認可していた文書を見つけ本国側では ゴーサインが出ていたことが明らかになっていた 今回見つかった外交書簡を書いたのは横浜にいた駐日プロイセン公使マックスフォンブラント貸与期間を具体的に盛り 込むなど両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる とはいえブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日ですでに会津藩の降伏から 6日庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で国立 歴史民俗博物館千葉県の福岡万里子准教授が読み解いた それによるとシュネル当時東北にいたプロイセン人の仲介役が借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間担保として 与えるとする会津庄内領主のシュネルに対する全権委任状を持ってきた100平方ドイツマイル5625平方キロの 土地を得るのに30万メキシコドルで十分だなどと書かれているという 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク根室管内の一部庄内藩は留萌上川管内の一部など書簡には会津庄内藩の 蝦夷地の領地に良港はないがひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろうともつづられており海軍拠点 確保に向けた意図が読み取れる 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっておりドイツ帝国の 形成に向かう軍備拡張期だった報道センター編集委員 小坂洋右 更新
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