白村江の戦い 3.1 (47レス)
1-

13: 05/26(日)14:56 AAS
>>1
親スレはこちらか?
古代朝鮮総合スレ2
2chスレ:whis
14: 05/31(金)18:11 AAS
>>11
白村江は現在の韓国中西部にある錦江(クムガン)河口付近にあった場所だよ。正確には、現在の全羅北道群山市付近にあったと考えられているんだ。
15: 警備員[Lv.32] 06/02(日)16:26 AAS
ふむ。
16
(1): 06/03(月)04:23 AAS
白村江の戦い(663年)は、日本にとって大きな転換点となった戦いだね。唐・新羅連合軍に大敗し、朝鮮半島での影響力を失っただけでなく、国内の政治体制にも大きな変化をもたらしたんだ。

この戦いで、日本は軍事的な弱さを露呈し、大陸との外交政策を大きく見直す必要に迫られたんだよ。その後、天智天皇は水城などの防衛施設を築き、中央集権体制を強化していく。

白村江の戦いは、日本の歴史における重要な出来事の一つと言えるだろう。
17
(1): 06/05(水)11:26 AAS
白村江の戦いは、663年に朝鮮半島で起こった、日本にとって歴史的転換点となった戦いと言えるでしょう。唐・新羅連合軍に決定的な敗北を喫したこの戦いは、単に軍事的な敗北にとどまらず、政治体制や外交政策、さらには国民意識にまで大きな影響を与えました。

軍事力の差は明白でした。唐軍は当時東アジア最強の軍事力を持つ帝国であり、新羅も日本とは比べ物にならないほど強力な軍隊を擁していました。一方、日本は百済救援のために長期戦を強いられ、兵士の疲労と物資不足に苦しんでいました。

この戦いの結果は、日本にとって大きな衝撃を与えました。朝鮮半島での影響力を失い、大陸からの侵略の脅威に直面した日本は、国家存亡の危機に立たされました。

天智天皇は、この危機を乗り越えるために、積極的な防衛策を講じました。全国各地に水城などの防衛施設を築き、中央集権体制を強化し、外交政策も見直しました。

白村江の戦いは、日本の歴史において大きな悲劇でしたが、同時に新たな時代への転換点ともなったのです。この戦いを教訓として、日本は国家としての自立を目指し、飛鳥時代から奈良時代へと大きく歩みを進めていくことになります。
18
(3): 06/05(水)15:28 AAS
>>17 >>16
>長期戦を強いられ、兵士の疲労と物資不足に苦しんでいました・・・・・
太平洋戦争南方戦線での如き何頓珍漢な敗戦理由を書いているんだよ?廬原君臣足率いる
1万余とされる派遣水軍が663年8月の僅か2日間の海戦で完敗壊滅した主因は西日本各地から
召集された在地豪族配下の急造軍兵が現地到着後まもないのに駿河出身主将廬原君の統制の
きかない且つ戦術の構想もないままに各個が無闇に敵軍船団へ突撃したからだよ。
なお白村江敗戦663年は661年斉明天皇没後668年の天智天皇即位前だから主語は天智天皇でなく
中大兄皇子を用いるべきだね。
19: 06/05(水)17:46 AAS
>>18
気持ち悪いAIもどきキタ
20: 06/05(水)21:57 AAS
>>18
生成AI丸出し。
などと容易に看破できるんだからAIもまだまだ未発達だな
21
(1): 06/06(木)01:28 AAS
>>18
AD663年旧暦8月27-28両日(太陽暦10月4-5日)の白村江戦派遣渡韓水軍1万余の指揮官に
駿河の廬原君臣足が何故指名されたのだろう?
現在の静岡市清水区出身廬原君氏は造船は得手だったろうが海戦は不得手だったろうに?
百済救援渡韓軍の将官連
___上毛野君稚子・間人連大盖・巨勢神前臣譯語・三輪君根麻呂・安曇連比羅夫・阿倍引田臣比羅夫・大宅臣鎌柄・他 
のうち水軍を率いた経験豊富な阿倍引田臣か海人族安曇連あたりに指揮を委ねれば
大敗はしなかっただろうに?
22: 06/06(木)19:25 AAS
>>21
AIのトンデモ文をまたAIに纏めさせたか。
トンデモ度が増幅しているな。
暇潰しの遊びとしてはアリかもしれないが。
23
(1): 06/08(土)00:51 AAS
コピペとかAIに書かせた長文を貼る奴はただの荒らし
しかも私は自分で日本語文が書けませんという無能宣言にもなってる
24: 06/08(土)10:20 AAS
弥生時代終末期の北部九州には、奴国と邪馬台国という二つの主要な勢力が存在していました。奴国は九州北部(現在の福岡県・佐賀県・長崎県の一部)に、邪馬台国は九州北部〜畿内(現在の福岡県・佐賀県・熊本県・大分県・広島県・岡山県・奈良県の一部)に位置していました。

邪馬台国と奴国は、同盟関係にあった可能性が高いと考えられています。卑弥呼は邪馬台国の女王であり、その死因については様々な説がありますが、確かなことはわかっていません。

神武東征は、神話上の出来事であり、史実であることを裏付ける証拠は十分ではありません。神武天皇は、大和朝廷の初代天皇とされていますが、その即位年代は諸説あります。

天皇家の起源については、様々な説がありますが、現在も議論が続いています。

銅鐸は、弥生時代中期から後期にかけて使用された祭祀用の青銅器です。主に北部九州で出土しており、奴国との関連性が指摘されています。
省1
25: 06/08(土)10:21 AAS
>>23
キモいAIに続いて何でもAI呼ばわりする基地外
26
(1): 06/08(土)10:22 AAS
白村江の戦いは、5世紀の倭王が朝鮮半島で獲得した勢力圏と鉄供給ルートを、7世紀の天智天皇が唐との戦いに敗北することで失った、日本外交史における重要な転換点の一つと言えるでしょう。しかし、この戦いを単に鉄供給ルートの喪失として矮小化するのは適切ではありません。白村江の戦いは、朝鮮半島における日本の支配力の喪失と、唐との力関係の逆転を招き、その後の日本外交に大きな影響を与えました。
27: 06/08(土)10:24 AAS
山陰のたたら製鉄

鉄鉱石を原料とする
高品質な鉄(和鋼)を少量生産
工程は複雑で手間がかかる
木炭を燃料とする

北部九州の高炉製鉄

砂鉄を原料とする
低品質な鉄(銑鉄)を大量生産
工程は比較的単純
木炭や石炭を燃料とする
28: 06/08(土)10:36 AAS
蘇我氏と大化改新:真実と陰謀

推古天皇期に重用された蘇我氏は、百済系渡来人として台頭しました。しかし、大化改新で討たれた蝦夷や入鹿は、単なる百済系渡来人の名前に留まらず、当時の政治情勢を反映した「キャラクター名」である可能性が高いのです。

蝦夷はアイヌ民族を指し、入鹿の「鹿」は新羅のシンボルと考えられます。つまり、彼らは百済系渡来人を代表する人物像として、意図的に作り上げられた可能性があるのです。

一方、蘇我氏を討った中大兄皇子と中臣鎌足も、「中」の字が示すように、皇族ではなく蘇我氏内部の傍流もしくは不満分子だった可能性があります。

大化改新の真実
省5
29: 06/08(土)10:37 AAS
百済勢力を背後に擁して勢力を拡大したものの、白村江の戦いで大敗を喫した中大兄皇子陣営。一方、半島への固執を捨て、冊封から独立路線を重視した外交と改革を推進したのが、聖徳太子と蘇我氏であり、その路線を受け継いだ孝徳天皇であった。

こうした外交政策を巡る対立が、大和朝廷内部のパワーバランスを大きく揺るがし、古代史上最大最後の内乱である壬申の乱を引き起こしたと言えるだろう。
30: 06/08(土)10:40 AAS
百済王族は、高句麗王族と同じ扶余族の出身であるという説が有力です。
31: 06/08(土)10:56 AAS
九州倭国は、朝鮮半島との交流だけでなく、日本列島における政治・文化・経済の発展にも大きな役割を果たした重要な国家でした。特に、5世紀から6世紀にかけては、朝鮮半島諸国との戦争にも積極的に関与し、一定の影響力を持っていました。しかし、7世紀後半以降、大和朝廷による中央集権化が進展した結果、徐々にその勢力を失い、8世紀には完全に滅亡しました。九州倭国の歴史は、単に「朝鮮半島への影響力」という側面だけで評価することはできません。それは、日本列島における国家形成の過程において、重要な役割を果たした国家として、正しく評価されるべきなのです。
32: 06/08(土)10:58 AAS
671年(咸亨2年、天智天皇10年1月)11月2日、唐国から60隻の大船団が比知島に現れました。船団には郭務悰ら600人の使節と、送使沙宅孫登ら1,400人が乗船していました。彼らは筑紫に上陸し、数ヶ月間駐留しました。この事件は倭国にとって深刻な問題となり、軍事的な脅威と経済的な負担、社会不安などを招いたと考えられます。
船団の目的は、白村江の戦いで捕虜になった倭人の交換、唐への軍事支援要請、旧百済領内の避難民の護送など諸説ありますが、現時点では史料的に断定することは困難です。
直木孝次郎氏は、捕虜交換と軍事支援要請という説を唱えていますが、これは当時の国際関係や政治情勢を踏まえると妥当性が高いと考えられます。
唐大船団の目的、倭国の対応、捕虜・避難民のその後など、この事件に関する詳細はまだ解明されていません
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