[過去ログ] 外来語でみる真の日本の歴史 (1002レス)
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19: 2020/02/20(木)22:12 AAS
女真族などツングース諸族では、結婚式で花嫁が婿の家に入るときに火を跨いだり、両脇の松明の間を潜る風習があるが、
この火を跨いだり、松明の間を潜る習俗は日本でも関東や長野に集中してみられ、また北部九州でもみられるという研究があるそうだ。
そして、日本でのこの習俗の分布は諸国の牧や勅旨の牧の分布とぴったり重なるのだという。
つまり、日本で馬を飼う牧(マキ)を直接運営したのは畑作騎馬文化を持つ高句麗系の集団ではなかったかと指摘しているのだ。
北部九州にもこの習俗がみられるのは、高句麗系の馬飼い集団が渡来した際の入り口であったためと考えられている。
この研究に従えば、遼河語系の丘を意味するmaki(マキ)が女真族に流入し、
高句麗の馬軍団を維持したその女真族が5世紀中頃の倭の五王時代の政府によって渡来し、
そして日本に牧(マキ)の言葉をもたらした可能性が相当高くなってくる。
20: 2020/02/20(木)23:11 AAS
満州の倭人と高句麗人が混血したわけだな
21: 2020/02/21(金)00:15 AAS
継体天皇の諜報機関を務めた河内馬飼首荒籠は、その渡来した女真族の首領だったことになってくるな。
22: 2020/02/21(金)05:57 AAS
ゆんゆんたる哉 電波
23: 2020/02/21(金)14:18 AAS
満州族(女真族)のYハプロは、O2(37%)、C2(26%)、N(14%)など。
Nのパーセントはそれほど多くはないが、かつては高頻度だったとみられている。
遼河のウラル語系が拡散したためだとされている。
つまり、女真族は、古くはY−Nが相当数占める集団だったことになる。
フィンランド語のmaki(マキ=丘)はこの遼河のN集団の語彙であったと考えられるので、
Nが相当数占める集団であった女真族に丘を意味するmaki(マキ)の語彙があったことは十分考えられる。
そして、5世紀前半に高句麗と戦った倭が高句麗が得意とする騎馬戦に苦戦したことから、
倭の政府は馬を戦力に導入することを決め、高句麗に馬を供給していた農耕騎馬狩猟の女真族を渡来させて河内で馬の飼育をスタートした。
この渡来女真族が河内の馬の放牧地の丘をmaki(マキ)と呼んだことから、馬の放牧地を意味する牧(マキ)の語彙が生まれた。
これが、日本に牧(まき)の言葉が生まれた道筋なのだ。
省5
24
(2): 2020/02/21(金)15:03 AAS
〜最新の核DNA調査におけるニッポン人とチョンコ(別名:朝鮮ヒトモドキ)の差異はこれだけある♪〜

2018年、木村資生記念進化学セミナー 第1回「Human Evoluion I」
https://kimuraseminar.files.wordpress.com/2017/08/20170804_humanevol1_saitoun.pdf
発表者である国立遺伝学研究所の斎藤成也教授はNHKの取材に対してハッキリと弥生系渡来人の定義を「中国大陸からやってきた」断言してる
https://i.imgur.com/Aeafwy2.jpg
https://i.imgur.com/GoG9gCa.jpg

弥生人とは縄文人の父系と大陸系の母系である
2019年、国立科学博物館の篠田謙一教授の人骨DNA分析によって、朝鮮ヒトモドキ要素はゼロと判明
https://www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/20190303/movie/4040002195_20190303075459.html
朝鮮半島由来の渡来人は縄文人の出戻りと判明
省12
25: 2020/02/21(金)17:01 AAS
>>24
まあ、そういうことだろうが、渡来した大陸系の父と縄文系の母の間に生まれた男子の父系遺伝子はどうなったんだよ。
このケースが相当いなければ、OやCの遺伝子がこれほど多くなってないのとちゃうの?
26: 2020/02/21(金)17:14 AAS
>>24
鹿児島県霧島市国分の9500年前の上野原遺跡の人骨からM7aが抽出されているからな。
この遺跡の人民は中国百越地方から1万2000年前に渡海してきた海人系であることが推定されている。
縄文のM7aは南方由来だよ。
27: 2020/02/22(土)18:16 AAS
日本で馬が本格的に飼われ始めたところは四条畷(なわて)あたりだとされているが、
この畷(なわて)は珍しい言葉だ。縄手とも書くという。
畷(なわて)は田んぼの畦道の意味だそうだ。
ではなぜ、田んぼの畦道をなぜ畷(なわて)というのだろうか。
(て)は腕(うで)の(て=手)であり、腕のように細く長い畦道を指していると思われる。
そして問題なのが(なわ)なのだ。(なわ)とは何か。
この(なわ)は縄(なわ)と同じで、糸や紐などをより合わせる意味の(なふ)の名詞であり、「よりあわせたもの」の意だ。
そこで、この「より合わす」ことを意味する(なふ)のそもそもの原義を探ると、なんと牧(マキ)と同じフィンランド語の語彙と重なってくるのである。
そのフィンランド語の語彙とは、次の語彙だ。

フィンランド語
省12
28: 2020/02/23(日)03:36 AAS
北朝方の高師直の多数の軍勢と南朝方の楠木正行の少数の軍勢が激突し、師直の軍勢が最終的には正行の軍勢を打ち破り北朝が優勢となる流れを決めた一戦だった。
その激突の地が四条畷だったとするのが「太平記」である。
本文では四条縄手と書いてあるそうだ。
しかし、四条縄手の地名はなく、激突の地は讃良郡北四条だったと考えられている。
その四条縄手の字が四条畷となるのは明治になってからで、楠木正行を祀る四条畷神社が建立されたことにちなむ。
現在の四条畷市の名はその神社の社名にちなむものだという。
この流れを決する四条畷の決戦では、北朝方の高師直の軍勢は騎馬を多数揃えていたが、四条畷が湿地であったために馬の機動戦を展開できず、
そこを正行の軍勢が吶喊して師直を北に後退させるのだが、勢いはそこまでで、正行の軍勢は師直の多数の軍勢によって打ち破られた。
日本最初の軍馬の飼育地であった四条畷での南北朝の合戦では、その軍馬がまったく機動できなかったというお話である。
29: 2020/02/24(月)22:15 AAS
さて、四条畷のこの地で5世紀中頃から本格的な馬の飼育が始まったとするのが通説だ。
しかし、日本人が初めて馬を知ったのがこのときであるとは限らない。
魏志韓伝では、半島の馬韓や辰韓で牛馬が飼育されていると書いてあり、この3世紀の時代には日本人はすでに半島南部域の各地と交易を行っており、また九州の主だった国では半島中部にあった中国の支配域に使節を送っていた。
またさらに、弥生時代にも日本から半島へ交易の船が行き来していた。
このような状態にあって、半島で牛馬が飼育されていることは日本人には周知のことであったはずである。
ということは、牛馬のいなかった日本にも牛馬の呼称があったということが推測できるのである。
では、その日本では牛馬は何と呼ばれていたのか。
その馬の呼称は、現代と同じく「ウマ」だとされている。
その「ウマ」は語源的には中国語の呼称である馬=ma(マ)が語幹であり、この馬(マ)の発音に接頭辞的に(ム)が付加されて(ムマ)となり、
それが(ウマ)と変化したとされている。
省1
30
(1): 2020/02/24(月)23:20 AAS
確かに、中国語では馬は(ma・マ)であり、韓国語でも馬はmai(マイ)であるので、
中国語の馬(マ)が半島でも馬の呼称であったことは頷ける。
さらに、中国語の馬の上古音もmag(マ)であり、漢代の朝鮮半島での馬の呼称も(マ)であったことは変わらないだろう。
そういうわけだから、当時の半島に渡った日本人が耳にして馬の呼称としたのが(マ)であったとする推定は、まず間違っていないはずである。
しかしながら、通説が説くように、馬(ma)のm音が強調されて語頭にさらにm(ム)音が付加し、馬(mma・ムマ)と2音の発音となり、
それがさらに(uma・ウマ)に変わったのだとするのは、少しこじつけの臭いがするのだ。
では、馬(ウマ)の発音の由来は、別にどのようなケースが考えられるのだろうか。
そこでよくよく考えてみると、馬(マ)は馬の一般的呼称であり、馬には雄雌の別があって、雄雌では呼称が異なるのだ。
特に、馬を高度に利用する生活圏では、雄雌の呼称がそれぞれ異なっている。

牝馬
省14
31: 2020/02/25(火)02:09 AAS
語頭に母音が追加されるのは日本語ではよくある話だし
そこまで考えなくても良いのでは?
32: 2020/02/25(火)02:54 AAS
和名抄には無萬(ムマ=馬)があるし、日本書紀には宇縻(ウマ=馬)もある。
最初から(ムマ=馬)の語彙はあったのよ。
そして、このほかに(マ=馬、例・馬草 )、(バ=馬、例・馬場)も漢音そのままに用いられてる。
だから、(マ=馬)の語頭にわざわざ強調のための(ム)音を付け加える必要がないのよ。
ma(馬)に強調のためのmを付けてmma(ムマ=馬)としたとするこの語源解釈は、無理に考えすぎ。
中国語に母馬(ムマ=牝馬)の語彙があることを知らないから、そんな無理な解釈を捏ねくりまわしたのやね。
33: 2020/02/25(火)04:30 AAS
梅(メ)を日本で(ウメ)と読むのは、メに強調のウ音をつけてウメとしたというのが通説だが、
この解釈も怪しい。
梅を(ウメ)と読むのは、梅雨(バイウ→メウ)を逆さまにして雨梅(ウメ)と読み、そぼふる雨のなかの梅の花をイメージさせたものであったが、
やがてこの雨梅(ウメ)から雨の字を落として梅の字だけで(ウメ)と読むようになったためだ。
雨の字を落として梅の字だけで(ウメ)と読むことにした意図としては、梅の花を詠む情景が雨の日に限らないからだろう。
こうした歌詠みたちの約束事を知らずに、梅(me=メ)の語頭m音を強調するためにさらにm音を付加したのがmme(ムメ→ウメ)だなどと胸張っているのが 語源書きの語源知らずなんだよ。
まあ、そういうことだな。
34: 2020/02/25(火)05:22 AAS
痴呆老人は自分が書いていることの意味を自分で理解できない
35
(1): 2020/02/25(火)05:35 AAS
ウメちゃうがな
昔の人はムメさんて書いてたぞ
36
(1): 2020/02/25(火)14:45 AAS
>>35
万葉集の歌、ざっと見たところ、(ムメ)の発音は見当たらんな。
梅の1字で(ウメ)と読ませているものもあるが、万葉仮名では宇梅、烏梅、宇米などがある。
全部、(ウメ)よ。
(ムメ)なんてどこにも見当たらん。
梅は最初からウメや。
(ムメ)と読んだなどと、適当なこと言うてはいかんなぁ。
37
(1): 2020/02/25(火)15:11 AAS
どっちにしろ、和語の範疇でのみもっともらしく解釈したこれまでの語源解釈は、相当に適当だということよ。
この馬(ma・マ)→強調でm音追加→馬(mma・ムマ)→馬(uma・ウマ)や、
梅(me・メ)→強調でm音追加→梅(mme・ムメ)→梅(ume・ウメ)などは学者が考えたのだろうが、
しかしこれは、笑っちゃうカテゴリーに入る語源解釈ではないか。
和語の範疇だけで語源解釈するから、こういうことになってしまうのよ。
もう時代は確実に変化している。
外国語をちゃんと調査したうえでの語源解釈が必要ということだね。
38: 2020/02/25(火)17:36 AAS
>>36
ムメと読んだのは江戸時代や明治時代の一部の地域だよ
後の時代の方言で今から見れば昔というだけの話
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