雑談はここに書け!【67】 (461レス)
雑談はここに書け!【67】 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1736754850/
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287: 132人目の素数さん [] 2025/09/14(日) 23:13:36.31 ID:m+0nOQgc 三四郎を読む教養人は 一味違いますね 下記自伝 『ゲゲゲの女房』に出てきました つげ義春 さん ゲゲゲで忙しくなって アシスタントになってもらったと (”つげ義春”人捜しの新聞広告を打ったら ふらりと現れたとありました) NHK朝ドラにもなりましたね https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%88%BF 『ゲゲゲの女房』は、漫画家水木しげるの妻・武良布枝が著した自伝エッセイ。実業之日本社より2008年に単行本、2011年に文庫版が刊行された。 同書を原案に、2010年度上半期にNHK連続テレビ小説の82作品目としてテレビドラマ化 小峰章 演 - 斎藤工 ※第17週 - 第19週、第26週にゲスト 元・貸本漫画家。深大寺参道でスケッチをしていたとき、茂に画力を見込まれてアシスタントに期間限定で採用された。倉田卒業と時同じくしてアシスタントを卒業し旅に出る。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1343955503 sun********さん chiebukuro.yahoo 2010/7/20 ゲゲゲの女房:アシスタント3人組のモデルは、それぞれ誰ですか? 大阪から来たのは池上遼一さんがモデルだそうですが、あとの二人は誰ですか? ベストアンサー pav********さん 2010/7/20 茂が神社で出会った男(小峰章)が「ねじ式」で有名なつげ義春さん。茂と出会ったきっかけは違いますが、茂が自分から進んで声をかけた点、茂と出会った当時、つげさんは放浪生活をしていて風貌があんなだった点からしてつげさんではないかと。つげさんは茂のアシスタントになってからも突然ふらりと放浪の旅にて、茂を困らせたことがありましたから、小峰章に関してもこういうエピソードが出てくるんではないでしょうか。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%92%E7%BE%A9%E6%98%A5 つげ 義春(つげ よしはる、戸籍上は1937年〈昭和12年〉10月30日[1][2](実際は4月の生まれ[1]) - )は、日本の漫画家・随筆家。 1965年、28歳。辰巳よしひろの興した出版社第一プロダクションにSFや青春ものを描く[24]。田端で行なわれた貸本漫画家の集まりで白土三平や水木しげると知り合う[22]。 1968年8月号の『もっきり屋の少女』まではその後、つげの代表作群が並ぶ「奇跡の2年間」が始まる。しかし当時の『カムイ伝』目当てでガロを買う読者層には主に「暗い」という理由(当時の読者欄より)であまり評価されなかった。特に『沼』は不評で、マンガ家を廃業して凸版印刷の職工になろうと真剣に考えたこともある[41]。『沼』が辰己や深井など仲間にも理解されなかったため、自作を続ける意欲が薄れ、生活のためにも、「少年マガジン」で連載を始め人手が要った水木のアシスタントをすることになり、調布に転居。実際は日当2千円という破格の報酬であり、「ゲゲゲの鬼太郎」のネームに苦しんだ水木に呼ばれ2人でオチを考えたこともあったという[42]。本人は水木の仕事に専念するつもりであり、自作を発表するつもりはなかった。 1966年9月頃から水木のアシスタントをしていた池上遼一によれば、この頃は水木プロに週3日程度手伝いに来て、あと徹夜してこもって自分のもの(「通夜」や「海辺の叙景」)を描いていたという。水木とは仲が良く、一緒に古本買いに行ったり古文書を探しに行ったりした。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1736754850/287
288: 132人目の素数さん [] 2025/09/14(日) 23:15:09.34 ID:m+0nOQgc 1967年には水木プロの仕事量が増え、右手の腱鞘炎を患う。この年には井伏文学からの影響で、4月に友人の立石と秩父、房総を、8月には伊豆半島を旅し、秋には単独で東北の湯治場(蒸ノ湯温泉、岩瀬湯本温泉、二岐温泉)などを中心とした旅行をする。その際、旅に強烈な印象をもち、また湯治場に急速に魅かれるようになる。このときの旅の印象はこの年後半から翌年にかけての一連の「旅もの」作品として結実する。このころ旅関係の書物や柳田國男などを熱読する。この年にはユーモラスな世捨て人的生活の日常スケッチである『李さん一家』(6月)や、少女が大人になる一瞬を巧みな抒情詩に仕立て上げた『紅い花』(10月)、小さな村の騒動記『西部田村事件』(12月)、そして翌1968年には紀行文学のスタイルを借りた『二岐渓谷』(2月)、『長八の宿』(1月)、『オンドル小屋』(4月)などを立て続けに発表する。 水木しげるとの関係 池上遼一、呉智英らとともに一時水木プロでアシスタントを務めたが、漫画家としてはつげは水木よりも2年先輩であり、すでに自己の世界を確立していた。当時水木プロにはつげを含め、5人のアシスタントが在籍した。部屋中に煙草の煙が立ち込め、午後1時から深夜1時までが定時であった。週に一度は徹夜で、水木は途中で仮眠をとり、締め切り直前に起きて仕上げをするのがお決まりとなっていた。池上によれば、水木の描く妖怪は江戸時代の古文書からのアレンジが主体だが、人物やメインキャラクターはデフォルメしたタッチだが、妖怪は点描技法を多用した細密な画にすることで、リアリティを出していたが、これはアシスタントの仕事で大変であり、徹夜の時など、うたたねしながら描いていると「君は点描に向いていないな」などと、からかわれたという。 水木はつげのタッチは自分の漫画に最適であり、水木は自分の作品作りを手伝ってもらうつもりでオファーした。ガロに発表した『沼』、『チーコ』が何の反応もなく、自作を続ける意欲を失っていたつげはそれに応え、プロのアシスタントとして生活の糧を得る目的で引き受けた。この期間中につげは『通夜』、『ねじ式』、『ゲンセンカン主人』、『海辺の叙景』、『紅い花』を発表した。呉によれば水木がアシスタントに求めたのは、アイデアのネタまでで、オチは必ず自分で考えていた。これはアイデアをもらえばそれを面白い作品に仕立てる自信があったからだという。しかし、どうしてもいいアイデアが出ないと「つげさん呼んできて」と言い出した。当時、つげは近くの中華料理屋の2階に下宿しており、池上が朝の5時ごろに私が呼びに行くと、寝ていて不機嫌ながら必ずやって来て、水木と2人でぼそぼそ話をして、仕上げていた。つげはプロットを丁寧に書く手法で、水木とは性格も真逆で愚痴を言うこともあったが、内心尊敬していたという[96][97]。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1736754850/288
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