「名誉教授」のスレ 2 (532レス)
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502: 132人目の素数さん [] 09/09(火)06:44 ID:DOqIl8q0(1/2)
今日の 読売新聞編集手帳は、ましだね
バカではない (^^

https://www.yomiuri.co.jp/note/hensyu-techo/20250909-OYT8T50000/
9月9日 編集手帳
2025/09/09 読売新聞
 戦後の復興期、吉田茂は5次にわたり首相を務めた。「バカヤロー」解散が政治史に残る。引退後も「バカ」を物言いに含めるのにためらいはなかったようだ
◆月刊誌のインタビューに「首相なんて大体バカなやつがやるもんですよ」と語ったという。なぜか。「就任するやいなや、新聞雑誌なんかの悪口が始まって、何かといえば、悪口ばかりですからね、この世にこんな大バカはないように書かれます」
◆福田智弘著『人間愚痴大全』から孫引きした。石破首相の退陣表明を受け、次の首相の座を狙う人に「ワンマン宰相」がこぼした愚痴を進呈したい
◆前回の自民党総裁選と異なるのは、少数与党という環境から出発しなければならない点だろう。国民のために決めるべきことを決めるのに数が足りない。いばらの道をどう踏み越えていくか。政策の実現能力にたけた人が選ばれてほしいものである
◆吉田は主権回復など戦後処理の大仕事に尽力した。バカなどと後に自嘲したのは、やるべきことはやったという自負からだろう。
石破さんの退陣表明には心残りがにじんでいた。後年、どんな愚痴をこぼすのか。
503: 132人目の素数さん [] 09/09(火)06:49 ID:DOqIl8q0(2/2)
>>501
ご苦労さまです

(参考)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B9%B3_(%E8%A9%95%E8%AB%96%E5%AE%B6)
石平 (評論家)
石 平[注 1](せき へい、出生名:石 平[1]、シー・ピン、拼音: Shí Píng、日本名:北埜 陽(きたの よう)[2][3][4]、1962年〈昭和37年〉1月30日[5] - )は、日本の政治家、国際問題評論家[5]。日本維新の会所属の参議院議員(1期)。
主に日中問題・中国問題を評論している[6]。2007年(平成19年)11月に日本に帰化した。

人物
生い立ちから日本との関わり
1962年1月30日、中華人民共和国の四川省成都市に誕生した。1966年5月に始まった文化大革命の最中、教師であった両親が大学から農場へ下放された。父親は物理教師であったが、下放されてからは豚の畜産に従事しており、以後、四川省の農村部で漢方医である祖父によって養育された。祖父は石に漢方医を継がせるべく、医者になるための教養として密かに「論語」を教えていたが、石が11歳の時に肺がんで死去した[7]。

中学校時代はゴミ拾いの貧しい老婆が近所に住んでいて、いつも学校帰りの石少年ら子供たちに、笑顔で「勉強頑張ってね」と声をかけていたが、ある日突然その老婆がいなくなり、「反革命分子」として政府に逮捕されたことを知った[8]。数日後に老婆はトラックに乗せられて町中の市民に見せつけるため一巡させられた後、処刑場で銃殺された[8]。この老婆が「反毛主席」の大罪で処刑された理由が、「ゴミ捨て場から拾った毛沢東の顔写真が印刷された新聞紙で大根を包んでいたから」ということをその後知った石少年は衝撃を受けた[8]。

1980年9月に北京大学哲学部に入学し、1984年7月に卒業した。北京大学在学中の1982年頃より毛沢東暴政の再来を防ぐ目的で民主化運動に情熱を傾け始める。1988年(昭和63年)4月に日本に留学して日本語学校に入学した。1966年5月の文化大革命及び1989年6月に勃発した天安門事件における党の党利党略ぶりへの憤怒と絶望感を抱き、「この国にはもはや用が無い。何の愛着も義理も無い。」と祖国である中華人民共和国との精神的決別に至った[8]。その一方、留学中の日本で中国の古き時代の隋・唐文化を守って発展させた日本文化に魅力を感じるようになり、孔子や論語の思想が日本の精神に生き続けていると感激し、次第に「愛日主義者」となっていった[7][9]。

2002年(平成14年)1月に中華人民共和国国内に広がる反日感情をレポートした書物を出して論壇デビューを果たし、以来『正論』[10]などの保守論壇誌に論考を寄稿し、日中関係・中国問題などを論じている。
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