「名誉教授」のスレ 2 (499レス)
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74(1): 132人目の素数さん [sage] 01/07(火)15:34:58.73 ID:CNY2t2WQ(8/14)
おまけにつまんねー
97: 132人目の素数さん [sage] 01/08(水)17:16:57.73 ID:qwVyKE52(8/9)
中国関与が疑われるミラーフェイス、政府機関や企業などにサイバー攻撃210件…情報流出の可能性
読売
171: 132人目の素数さん [] 06/13(金)20:23:17.73 ID:vAY70ZNz(3/3)
99歳であることは誰でも知っている
246: 死狂幻調教大師S.A.D.@月と六ベンツ [] 07/16(水)07:16:21.73 ID:0rrgO9Dk(5/11)
クーポラより魔都の東京タワー。
411: 132人目の素数さん [] 08/18(月)16:55:51.73 ID:UkND8yRN(1)
ご苦労様です
下記ですね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E9%A2%A8_YUKIKAZE
雪風 YUKIKAZE
『雪風 YUKIKAZE』(ゆきかぜ)は、2025年8月15日に公開された日本映画[1]。監督は山田敏久、主演は竹野内豊[2]。
日本海軍が建造・運用した甲型駆逐艦38隻のうち、唯一太平洋戦争の終戦まで生き延びた不沈艦「雪風」を題材とし、戦中から戦後、現代へと繋がる時代を生きた人々の姿を史実に基づいたフィクションとして描く[3][4]。
あらすじ
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キャスト
主要人物
寺澤多賀子
演 - 有村架純[6]
海上自衛官。一利と志津の娘
制作会社 デスティニー
製作会社 「雪風」製作委員会
配給 ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
バンダイナムコフィルムワークス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E9%A2%A8_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
雪風 (駆逐艦)
雪風(ゆきかぜ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦[1]。陽炎型駆逐艦(一等駆逐艦)の8番艦[2]。
概要
太平洋戦争(大東亜戦争)当時の主力駆逐艦であった甲型駆逐艦(陽炎型駆逐艦、夕雲型駆逐艦)38隻の中で、雪風は唯一終戦まで生き残った艦である
終戦後、雪風は日本海軍解体に伴い除籍後中華民国に賠償艦として引き渡され1948年5月1日に丹陽と改名、同国海軍の主力艦として活躍し[4]、1966年に退役した[5]。その後、練習艦として左営港に係留され、1969年夏、嵐で艦底が損傷した。艦齢29年を迎えた丹陽は解体に着手し、1971年12月31日に解体が完了した。
太平洋戦争以前
雪風は陽炎型8番艦(?計画の仮称艦名第24号艦)として佐世保工廠で建造された
https://press.moviewalker.jp/mv88414/
MOVIEWALKERPRESS
映画『雪風 YUKIKAZE』
実在した駆逐艦「雪風」の知られざる史実を基に、太平洋戦争の渦中から戦後、そして現代へとつながる激動の時代を懸命に生き抜いた人々の姿を描くヒューマンドラマ。『唄う六人の女』の竹野内豊が艦長の寺澤一利、『十一人の賊軍』の玉木宏が先任伍長の早瀬幸平、『か「」く「」し「」ご「」と「』の奥平大兼が若き水雷員、井上壮太を演じる。監督を務めるのは『鬼ガール!!』の山田敏久。
ストーリー
駆逐艦「雪風」は、真珠湾奇襲攻撃による日米開戦以降、すべての戦いを生き抜き、どの戦場でも海に投げだされた多くの仲間たちを救い、必ず共に還ってきたことから、“幸運艦”と呼ばれている。その活躍の裏には、艦長である寺澤の卓越した総艦技術と、先任伍長である早瀬の迅速な判断があった。2人は時にぶつかり合いながらも、互いに信頼し合っていく。そんななか「雪風」は、ついに日米海軍が雌雄を決するレイテ沖海戦へ向かう
455: 132人目の素数さん [] 08/25(月)07:12:48.73 ID:/ZwuI2/k(1/6)
今日の読売新聞 編集手帳は、シベリア抑留山本幡男氏の話
https://www.yomiuri.co.jp/note/hensyu-techo/20250825-OYT8T50000/
8月25日 編集手帳
2025/08/25 読売新聞[読者会員限定]
終戦後に満州(現中国東北部)からソ連に抑留された山本幡男氏は、1954年8月にハバロフスクの収容所で病死した。山本氏は死の直前、戦友らに長い遺書を託した
◆ソ連は機密漏れを恐れて、帰国する抑留者に紙の持ち出しを禁じた。戦友らは分担して内容を記憶し復員後、文字にして順次、家族に届けた。この物語は作家の辺見じゅん氏が「収容所から来た遺書」(文芸春秋)に描き、映画化された
◆「君等ガ立派ニ成長シテ行クデアラウコトヲ思イツツ私ハ満足シテ死ンデ行ク」。愛する4人の子や妻、母と再会できず旅立つ無念に、読み返すたび心を打たれる
◆遺書の現物を家族に見せてもらった。紙は茶色に変色したが、青インクの端正な文字は色あせない。筆跡を見つめつつ、10年を超す抑留に耐え抜き、文面を持ち帰った不屈の勇士に思いは飛んだ。正座して背筋を伸ばし、厳粛な思いで一言一句を書いたのだろうか。手書きの文字は筆者の姿や心の内まで映し出す。そんな気がした
◆80年前の8月23日はソ連の独裁者スターリンが日本人の抑留を命じた日である。きょう25日は山本氏の命日である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%B9%A1%E7%94%B7
山本 幡男(やまもと はたお、1908年〈明治41年〉9月10日[1] - 1954年〈昭和29年〉8月25日[2])は、第二次世界大戦終結後に旧ソビエト連邦によるシベリア抑留を経験した日本人の一人。日本への帰国が絶望的な状況下において、強制収容所(ラーゲリ)内の日本人俘虜たちに日本の文化と帰国への希望を広め、一同の精神的支柱になり続けた。自身は帰国の夢が叶わず収容所内で病死したが、死の間際に家族宛ての遺書を遺しており、同志たちがその文面を暗記することで日本の遺族へ届けたことでも知られる。島根県知夫郡西ノ島の黒木村大字大山島(現:隠岐郡西ノ島町大山地区[11])出身[12]。
収容所での文化活動
1946年(昭和21年)末、収容所内の俘虜たち数人に呼びかけ、日本文化についての勉強会(後に学習会[33]、同志会と改名[34])を始めた。折しも収容所内では帰国を諦める俘虜たちが現れ始めており、帰国への希望を呼び戻すことが目的であった。ここで山本は『万葉集』や仏教を題材とする知識の豊かさで一同を驚かせ、わかりやすい話術で一同を楽しませた[33][35]。
その後も山本はソ連国内の監獄や収容所をたらい回しにされた末、1949年(昭和24年)にハバロフスク市内の強制労働収容所へ移された[36]。ここで山本はそれまでの経歴から「前職者」(民主主義反対派)と見なされ、強烈な吊るし上げに遭った[37]。翌1950年(昭和25年)に俘虜たちの帰国が始まったが、山本を含め戦犯とされた者たちは帰国を許されなかった[38]。このことは彼らの帰国への希望を失わせるのに十分であり、山本も一度は絶望しかけていた[39]。しかし彼は自らを支えて希望を抱き続けようと誓い、日本や日本語を忘れないよう、以前から好んでいた短歌や俳句を詠うようになった[40]。
つづく
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