[過去ログ] 【仏教】悟りを開いた人のスレ96【天空寺】 (1001レス)
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27: 2011/07/06(水)10:12 ID:KdJm2Xtl(1/38) AAS
うんちゃ!
28: 2011/07/06(水)10:42 ID:KdJm2Xtl(2/38) AAS
廓庵禅師 十牛図
提 唱

窪 田 慈 雲

十牛図はいわゆる牧牛図の一種で、我々の真の自己を牛に譬 えて、その牛を求め、捕まえ、馴らし、遂に求める自 分と牛とが全く一つとなり、
それも忘れて只の生活が できる過程を画で示したものである。我々の修行の道程を 具象的に明示しているので、自分の修行を自ら点検し 策励の指標とするのに大変役立つものである。
そこでこの十牛図を参究することにより、常に皆様自 身の修行を自ら点検し、自分が今どの段階にあるかを 反省する指標として役立てて頂きたい。

十牛図の作者廓庵師遠禅師は、大随元静禅師(1065〜1135)の法嗣で、臨済禅師より第十二代目 の法孫であるというだけで、生年寂年はじめその伝記 ははっきりしていない
。十牛図は十枚の図のおの おのにまず廓庵禅師が「頌」をつけ、その後その弟子慈遠 (一説では廓庵自身とも廓庵の友人とも云われる)が 「総序」と頌の一つ一つに「小序」をつけたもの と云われている。

さて、十牛図には童子と牛が描いてある。ここで 牛とは我々が求めている真の自己のことである。 この真の自己を観念や思想でなく、生きたまま捕まえ たいと切々たる思いの現象界の自分、それを童子で描 いている。
この童子は何時も何かを求めている。お金が欲しい、地位が欲 しい、名誉が欲しい。だが人生はお金だけてはない。
省5
29
(1): 2011/07/06(水)10:46 ID:KdJm2Xtl(3/38) AAS
十牛図はこの不完全・有限相対の自己(童子)が、 完全円満・無限絶対の自己の本性(牛)に目覚め、捕 まえ、馴らし、忘れ、
完全に人格化する過程を具体的 に示したもので、まさに実践の指針であって、観念思想 の対象ではないことを銘記すべきである。
そこで十牛 図の参究は実際に参禅し、足の痛い思いをして坐って、 真の自己を明らめようとする人にとっては極めて有効 であるが、
禅理のみを尊重し追究せんとする者に とっては、無用の長物であることを警告しておきたい。

従って今回の参究では、「総序」の解説は省略し各段階 の「小序」の精神を概説した後で、廓庵禅師自ら作られた 「頌」についてはその一句一句について逐語的に味わうこ ととしたい。
39: 2011/07/06(水)13:40 ID:KdJm2Xtl(4/38) AAS
うんちゃ!
41
(1): 2011/07/06(水)13:53 ID:KdJm2Xtl(5/38) AAS
壱 尋 牛


茫々(ぼうぼう)として草を撥(はら)って去って追尋す。

水濶(ひろ)く山遥かにして路更に深し。

力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処なし。

但だ聞く楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんせん)の吟ずるを。
省7
43
(1): 2011/07/06(水)13:58 ID:KdJm2Xtl(6/38) AAS
AA省
44: 2011/07/06(水)13:59 ID:KdJm2Xtl(7/38) AAS
それでは廓庵(かくあん)禅師の頌を味わうこととしよう

● 茫々(ぼうぼう)として草を撥(はら)って去って追尋す。

次から次と出てくる分別妄想の草を追い払おうとして一生懸命牛を追いかけて無字の拈提をする。
足は痛くなる膝もつまってくる。午後になると眠気も出てくる。経行(きんひん)で足をほぐし、
顔を洗って眠気をさます。気を取り直して、再び無字の拈提に挑戦する。

● 水濶(ひろ)く山遥かにして路更に深し。

どこまで行っても、川の水は広く續き、山並みは遥かに續いて、 これでよいというところに来ない。
壁に向かってたゞ坐るだけ。 こんなことをしていて果たして人生問題の解決など出来るのであろうか。 思いは千々に乱れて深い路に入ってしまう。
省8
46: 2011/07/06(水)15:42 ID:KdJm2Xtl(8/38) AAS
うんちゃ!
47: 2011/07/06(水)15:43 ID:KdJm2Xtl(9/38) AAS
弐 見 跡


水辺林下跡(あと)偏(ひとえ)に多し。
芳草離披(りひ)たり見るや也(ま)た麼(いな)や。 縦(も)し是れ深山の更に深処なるも、
遼天の鼻孔(びくう)怎(な)んぞ他を蔵(かく)さん。
見跡位とは牛の足跡を見つけた段階である。見跡とは一般的には、
お経を読んでその意味を理解するとかお釈迦様はじめ歴代の祖師方の教えをいろいろ参究して、その体驗の内容を思想的にわかった段階を云う。
すなわち牛の居ることを頭で理解した段階である。
しかし実地の修行においては、無字の拈提を一生懸命やっていくと、初めは自分と無字が別々であったものが、
次第に軌道に乗ってきて無字の拈提が深くなり、自分と無字とが一つとなり、この調子でいけば自分も見性(けんしょう)できるに違いないという、
省12
48: 2011/07/06(水)15:44 ID:KdJm2Xtl(10/38) AAS
それでは廓庵禅師の頌を味わうことにしよう 。

● 水辺林下跡(あと)偏(ひとえ)に多し。

水辺にも林の下にも、至る所に牛の跡が見える。理論的には「色即是空、空即是色」であり、 「天地と我と同根、
万物と我と一体」であるが、実践面では無字の拈提に当たって、 一單提一單提が全部牛の足跡である。

● 芳草離披(りひ)たり見るや也(ま)た麼(いな)や。

香りの良い草が、そこら中に拡がり繁って風に吹かれているが、それが見えるかどうかと我々にせまっている。
天地万物の一つ一つが、そっくりそのまま眞の事実の丸出しであるが、それがわかるかどうか。
頭では一応わかるが、本当のことはわからんだろうなと云っている趣がある。
省13
64: 2011/07/06(水)16:41 ID:KdJm2Xtl(11/38) AAS
うんちゃ!
70: 2011/07/06(水)16:46 ID:KdJm2Xtl(12/38) AAS

枝上一声々。
日暖かに風和して岸柳青し。
ただ是れ更に廻避する処なし。
森森たる頭角画けども成り難し。

見牛とは牛即ち本来の自己をはっきり見た段階である。本来の自己をはっきり見るとはどういうことかというと、
今迄自分というカタマリ(自我)があると思っていたのが、本当は全く中身カラッポで自我なぞというカタマリは全く無かった!
という事実を体験することである。
この体験は、多くは声より入るのが一番である。無門和尚は太鼓のドドーンという音を聞いた途端に大悟したし、
香嚴和尚は一生懸命庭の掃除をしている間に、箒にはさまった石が勢いよく飛んでいって竹に当たり、カチーンという音を聞いた途端に今迄の迷いが一度に吹き飛んで、
省11
72: 2011/07/06(水)16:47 ID:KdJm2Xtl(13/38) AAS
それでは廓庵禅師の頌を拝見しよう。

●枝上一声々。

こうおうは鶯である。鶯が枝にとまって、ホーホケキョーと声高らかに鳴いた。見牛(見性)はこのように、
テッキリハッキリしたものでなければならない。無門和尚のドドーンであり、香嚴和尚のカチーンである。
「天地万物一つ一つが無字の展開です」なぞという理屈を室内に持ってくる限り本物ではない。
理屈・観念・思想は禅の模型であって禅そのものではないことを師学共に心すべきである。従ってこの点検が特に大切である。

●日暖かに風和して岸柳青し。

真の見牛(見性)の体験をしてみると、初めて自我の桎梏から離れて、事実を事実としてありのままに見ることができる。
その肩の荷を下ろした有様は、丁度春の日ざしがポカポカとして、そこへ心地よい風がそよそよとこれに和し、
両岸の柳が青芽を出してゆったりと枝がゆれている様子に似ている。
省8
84: 2011/07/06(水)17:09 ID:KdJm2Xtl(14/38) AAS
うんちゃ!
86: 2011/07/06(水)17:10 ID:KdJm2Xtl(15/38) AAS
四 得 牛


神通(じんづう)を竭尽(けつじん)して渠(かれ)を獲得す。
心強く力壮(さか)んにして卒(つい)に除き難し。
有時(あるとき)は纔(わずか)に高原の上に到り、
又烟雲の深き処に入って居す。

得牛位とは眞の自己である牛を、しっかり掴まえた位で、牛の正体が明瞭になった段階である。
「見牛」と云うのは牛を見ただけであるから、これで有頂天になって油断をしていると、牛はすぐに見えなくなってしまって、
只牛を見た(見性した)という記憶だけが残るという状態になってしまう。そこで見性したら、ますます熱心に参禅して、
その世界を更にはっきりさせていくことが肝心でありる。
省13
87: 2011/07/06(水)17:11 ID:KdJm2Xtl(16/38) AAS
それでは廓庵禅師の頌を味わうこととしよう。

● 神通(じんづう)を竭尽(けつじん)して渠(かれ)を獲得す。

眞牛を見つけた(見牛)ので、やれ嬉しやと勇気百倍、その牛を現実に手に入れようと精神を鼓舞して、
一生懸命追いかけていった甲斐があって、ようやくその牛の鼻づらを掴まえることができた。

● 心強く力壮(さか)んにして卒(つい)に除き難し。

ところが、その心牛を掴まえてみると、この牛は二元対立の分別を求める心が強く、盛んに自己を主張し、
他を認めてその世界にとらわれ、せっかく明らかにした中味カラッポの手綱が、ともすると切れそうになってしまう。
自他対立の悪習性は、長年にわたってついたもので、中々その空性はわかっても云うことを聞かないのが現実である。
そこでますます熱心に坐禅に励まなければならない。
省12
107: 2011/07/06(水)18:14 ID:KdJm2Xtl(17/38) AAS
うんちゃ!
108: 2011/07/06(水)18:19 ID:KdJm2Xtl(18/38) AAS
五 牧 牛


鞭策時々身を離れず。

恐らくは伊(かれ)が歩を縦(ほしい)ままにして埃塵(あいじん)に入らんことを。
相将(ひき)いて牧得すれば純和せり。
羈鎖(きさ) 拘(とど)むることなきも自(おのずか)ら人を逐う。

牧牛位とは真牛である本来の自己を、漸く得牛位で手に入れたものを、
そこで安心せず必死になってそれを馴らして自分のものにしていく段階で、非常に大切な過程である。
真牛を掴える(得牛)ということは、前回述べたとおり、
自分の心の実体が全くカラッポであること(人空)と同時に宇宙万物がそのままで
省6
110: 2011/07/06(水)18:23 ID:KdJm2Xtl(19/38) AAS
その事実に本当に安住することができれば、その一つ一つが真の自己そのものとなるのであるが、我々人間というものは、
悲しいことに自分が体験したことにどうしても執着してそれを放さないという習性を持っている。特にそれが得牛という、
普通の人では仲々手に入らない境地を得てみると、俺程すばらしい体験をしたものはいない。もしかするとお釈迦様以上の体験ではないかと、
次から次へと思い上った想念が湧いてきてそれに執着し、遂にそれが新たな迷いの基となってしまうのである。
我々は常に主観・客観の二元対立の世界しか見えないが、客観界が現実にあるから「有る」という観念が出てくるのではない。
「客観界が有る」と心に認識するから「有る」のであって原因は「心」に在るのが事実である。そこで得牛を体験した自分という心が生ずるため、
その高慢さに対する境が生じてそれ相応の客観界が現れる結果となる。本来得牛の世界は、この客観界がカラッポ主観界もカラッポであって、
有無の生ずる余地は全く無い。そこで常にこの世界に安住するためには、どうしても牛の鼻に通した綱をしっかり引きつけて、
この牛が分別妄想の草を食べようとしたら「駄目、駄目」とどこまでも油断のない訓練調教が必要である。
その具体的方法は、どこまでも「ムー」の一本槍である。これが悟後の修行であって、考えようによっては、
省1
126: 2011/07/06(水)20:29 ID:KdJm2Xtl(20/38) AAS
うんちゃ!
127: 2011/07/06(水)20:30 ID:KdJm2Xtl(21/38) AAS
それでは廓庵禅師の頌を味わうこととしよう。

● 鞭策時々身を離れず。

牧牛位はどこまでも掴えた牛をならしていく血みどろの努力の時である。その為には、
鞭も綱も片時も自分の身から離さないようにしなければならない。

● 恐らくは伊(かれ)が歩を縦(ほしい)ままにして埃塵(あいじん)に入らんことを。

さもないと、あの牛はきっと勝手に行きたいところへ飛んでいって、塵埃が一杯ある分別の世界に入ってしまうであろう。
元居た居心地の良い俗界のみならず、得牛という悟の世界にも入りたがって、容易にそこから出てこなくなってしまう。
省8
130: 2011/07/06(水)20:46 ID:KdJm2Xtl(22/38) AAS
六 騎牛帰家


牛に騎ってとして家に還らんと欲す、
声声(せいせい)、晩霞(ばんか)を送る。
一拍一歌限り無きの意、
知音(ちいん)何ぞ必ずしも唇牙を鼓せん。

騎牛帰家とは読んで字の如く、牛に騎(の)って家に帰る位ということで、前段階の牧牛の努力の甲斐あって、
牛が漸く自分の云うことを聞くようになった段階である。

得牛位で本来の自己を手に入れたが、前思纔(わずか)に起(おこ)れば後念(ごねん)相随(したが)うと云うように、
次から次へと出てくる想念に悩まされる。特に自分が他人が滅多に体験できない大悟をしたことを、
省9
132: 2011/07/06(水)20:49 ID:KdJm2Xtl(23/38) AAS
まことにすばらしい境地であるが、ここに大きな陥穴(おとしあな)がある。任運堂々と流れるように歩む牛がおり、
それを見ている自分がそこにいるからである。そしてその自分が、本来の自己である牛がいかに従順になったかに感心し、
それを眺めて喜んでいる。自分の境涯はこんなに楽になりました。こんなにすばらしくなりましたとやたらと宣伝するが、
それを聞く人はそれは結構なことだと一応は感心するが、何か偉い特別な人だということであえて坐禅をしようとする気になれない。
全く自分免許の独りよがりの禅で何の役にも立たないということになってしまうのである。
折角ここまで来たのであるから、「更に参ぜよ三十年」と自粛自戒して、坐って坐ってこの自己を練磨しなければならない。
133: 2011/07/06(水)20:50 ID:KdJm2Xtl(24/38) AAS
それでは廓庵禅師の頌を味わうこととしよう。

● 牛に騎ってとして家に還らんと欲す、

「いり」とはずるずると連なって長くのびるさまを云うのでありますが、
ここではおとなしくなった本来の自己の牛に乗って、悠然とゆっくりと果てしなく、本家郷に帰ろうとしていることを示す。
「還らんと欲す」というのは、帰ろうとしているが帰れないという意味が含まれているのであって、
それは何故かと云うと、その牛を眺めている自分がいるからである。

● 声声(せいせい)、晩霞(ばんか)を送る。

「きょう」は中国北西部に住むえびす人で、このえびす人の呼く笛の音が、一節(ひとふし)一節晩霞(夕焼け)を送ってくる。
笛の音ははっきり聞こえる。しかしその笛は異国人の吹く音のようで物悲しさがこみ上げてくる。
省10
138: 2011/07/06(水)21:34 ID:KdJm2Xtl(25/38) AAS
七 忘牛存人


牛に騎(の)って已に家山に到ることを得たり。
牛も也(ま)た空(くう)じ人も也た閑(かん)なり。
紅日三竿猶(なお)夢を作(な)す。
鞭縄(べんじょう)空しく頓(さしお)く草堂の間。
仏道修行の階梯もいよいよ第七段階の忘牛存人位となった。
牛とは云うまでもなく、本来の自己とも真の自己とも呼ばれ、皆さんが探している「無字」そのものである。
この牛を忘(ぼう)ずる段階であるが、牛を忘ずるとはどういうことであろうか。
我々はこの牛を求めて修行を始めたわけである。そしてこの牛を発見し(見牛)、手に入れ(得牛)、この牛ならしをし(牧牛)、
省4
139: 2011/07/06(水)21:34 ID:KdJm2Xtl(26/38) AAS
この世界を譬えて云うと、丁度鉱石の中から純金を採り出したように、全く純粋であり無垢である。
全宇宙が純金ばかりで、採り出した鉱石も、掘り出す為の道具も一切無いという状態である。また丁度月が雲を離れて、
満天の空に皓々と照り輝いているように、全世界が月ばかりで雲は全く無い世界である。
中味カラッポの世界の壮絶さは筆舌に盡くし難いものであって、実体験によってのみ味わえる世界である。ここに至れば、
今まで苦労して工夫してきた公案は全く不要なもの(閑家具)となる。
だがしかし向上更に向上の有る在りであって、この中味カラッポの世界のみであるという自己意識の滓が残るのである。
これが存人位といわれるゆえんである。山田耕雲老師も次のようにご自分の体験を延べられておられる。
「私の体験で云いますと、まず見性して一週間位は身体がぶるぶる震えるような感じでしたが、
魚が水の中を泳ぐようにさらさら何の障害もなく生活ができて非常に自由で嬉しいものです。しかしそれは長く続かない。
十日、一ケ月と経つうちに、やはり自分というものが出てくるのです。それはエゴイスティックな所謂自我意識というより自己意識です。
省3
140: 2011/07/06(水)21:35 ID:KdJm2Xtl(27/38) AAS
それでは廓庵禅師の頌を味わうこととしよう。

● 牛に騎(の)って已に家山に到ることを得たり。

第六騎牛帰家位の頌では「牛に騎っていりとして家に還らんと欲す。」とあって、
家に帰ろうとしているが帰れないという意味が「欲す」の中に含まれていた。それは何故かというと、
その牛を眺めている自分がいるからだと申し上げたが、この眺めている自分を粉砕してみると、
已に家山に到っていることが本当に手に入ったというのである。一度自己を徹底忘じた体験が如何に大切かを味わっていただきたい。

● 牛も也(ま)た空(くう)じ人も也た閑(かん)なり。

求むべき牛(本来の自己)も求める人も全くカラッポで実体が無いことがわかって、
その求むべき牛と求める人が全く一つになった境地である。「求心止むとき全体現ず」と云うのであろうか。
誰も居ない何にも無い世界が明々白々と現前している。これを「絶学無為の閑道人」にあらずして何と呼ぶのであろうか。
省7
153
(1): 2011/07/06(水)22:10 ID:KdJm2Xtl(28/38) AAS
八 人牛倶忘


鞭索(べんさく)人牛(にんぎゅう)尽く空に属す。
碧天(へきてん)寥廓(りょうかく)として信通じ難し。
紅炉焔上爭(いか)でか雪を容れん。
此に到って方(まさ)に能く祖宗に合(かな)う。
十牛図は何度も申し上げている通り、迷っている我々(人)が本来の自己或いは真の自己(牛)を求め、探し、発見し、把え、
それを慣らして次第に云うことを聞くようにしていく……という修行の過程を示したものであるが、第八人牛倶忘の段階に来ると、
その求めている自分(人)も求める対象の本来の自己(牛)も全く無かったという事実がわかったというのである。

道元禅師が天童如浄禅師のところで「参禅は身心脱落なり」という如浄禅師のお言葉を聞いて大悟し、
省7
154: 2011/07/06(水)22:11 ID:KdJm2Xtl(29/38) AAS
第七忘牛存人位では自己意識が残るということを申し上げたが、これはこの無仏の処に腰掛けていたからである。
こゝを通り過ぎてはじめて「誰もいない、何にも無い世界」が明々瞭々となるのである。
さて有仏と無仏の両端を去ってみると、お釈迦様や文殊様のように先を見透せる方でも、
この人の境地を窺い知ることはできない。それは何故かと云うと、こちらに何も無いからである。
禅は体験によってこの何も無い世界をはっきり掴むことが基本である。
従ってこの体験が無い禅は観念禅であり禅の模型をもてあそんでいるに過ぎない。
それでは本当の体験をした人の生活はどうなるのであろうか。それを実例で見ることにしよう。
昔中国に牛頭法融(ごずほうゆう)禅師という方がおられた。
大変徳の高い方で近所の人々は心から尊敬し遂に鳥までがその徳を讃(たた)えて花を啣ばんできて供養するようになった。
後に四祖破頭(ず)道信禅師に師事して大悟してからは、鳥が花を持って来なくなったということである。
省2
155: 2011/07/06(水)22:11 ID:KdJm2Xtl(30/38) AAS
それでは廓庵(かくあん)禅師の頌を拝見しよう。

● 鞭索(べんさく)人牛(にんぎゅう)尽く空に属す。

盛んに鞭を使い縄でしばりながら、本来の自己を求めて刻苦勉励してきた。
到ってみるとその鞭(むち)も索(なわ)も人も牛も全く中味カラッポだった。
何も無い誰も居ないという世界である。

● 碧天(へきてん)寥廓(りょうかく)として信通じ難し。

碧天(へきてん)は青く澄んだ空。それは寥廓(りょうかく)すなわち広々としてカラッとしている。
中味カラッポの真の事実、真の自己の世界を示している。中味カラッポだから信通じ難しで音信の通じようがない。
だが実は中味カラッポ即ち空、と元々通じていたということである。
省8
161: 2011/07/06(水)22:32 ID:KdJm2Xtl(31/38) AAS
九 返本還源


本に返り源に還って已(すで)に功を費やす。
爭(いかで)か如かん直下(じきげ)に盲聾(もうろう)の若(ごと)くならんには。
庵中には見えず庭前の物 。
水は自(おのずか)ら茫茫花は自ら紅なり。
第八人牛倶忘位まで来るのに、どれ程の時間と辛苦を要したであろうか。
そして遂に「人空法亦空(にんくうほうまたくう)」すなわち主観(人)も客観(法)も全くカラッポであるという事実に到達したのである。
長い間の艱難辛苦の結果であるから、ついにこの境地をいつくしみいとおしむ執着心が悟のカスとして残る。
これを坐って坐って坐り抜く中で洗い落としていくと、この「人空法亦空」という事実は、
省3
163: 2011/07/06(水)22:33 ID:KdJm2Xtl(32/38) AAS
こうなるとこの現象界の栄枯盛衰・有為転変の一つ一つがそのままで、中味はカラッポそのものの完全に寂静無為の世界と観ずることができる。
こう云うと有相と無為と二つあるように見えるが、実は有相即無為で、有相の姿そのままで無為そのものであって、
区別は全く無いのである。
この有相即無為は事実そのものであって、一時の幻覚や夢物語ではない。
ここへ来て始めて、もともと修行をしたり悟を開いたりという計らいは全く必要なかったと云うことがわかるし、
断言できるのである。
ここの処は実に大切なところで、第一尋牛位から始めて長年の修行の結果、今漸く第九返本還源位に至って、
修行も悟も不要だったと云えるのであって、最初から修行も悟も必要ないと云うのは全くの誤りである。
これを無事禅(ぶじぜん)と云うが、今日は殆んどがこの無事禅に堕ちて只坐ればよいと主張して悟の体験を軽視もしくは無視することが横行している。
しかし一方悟が大切であるといくら主張しても、それが単なる観念禅に堕ちたり、
省2
164: 2011/07/06(水)22:34 ID:KdJm2Xtl(33/38) AAS
それでは廓庵和尚の頌を参究しよう。

● 本に返り源に還って已(すで)に功を費やす。

返本還源と元の木阿弥の境地に今還ってきたが、それ迄にどれ程の功(刻苦勉励)を費やしてきたことであろうか。
或る時は凍っていた筧の水で顔を洗いながら自らを策励し、或る時は夕暮れに鳴く蛙の声に身を引き裂かれる思いをし、
また或る時は足の痛みと睡魔と戦う。そして何度も今度こそはと体験があってもすぐに不安と不満に包まれてしまう。
幾度かこれで参禅を止めようと思ったことであろう。

● 爭(いかで)か如かん直下(じきげ)に盲聾(もうろう)の若(ごと)くならんには。

今考えてみると、どうしてもっと早くに、直ちに盲聾の如くにならなかったのであろうか。
ここで云う盲聾とは、見る物聞く物も全く無くなった境涯である。
見る時は見るきりで見る主(ぬし)はいない。見られる物も聞かれる物もそのままで実体はない。
省11
167: 2011/07/06(水)22:52 ID:KdJm2Xtl(34/38) AAS
十 入てん垂手


胸を露にし足を跣(はだし)にしてに入り来(きた)る。
土を抹し灰を塗って笑い腮(あぎと)に満つ。
神仙真の秘訣を用いず。
直(じき)に枯れ木をして花を放って開かしむ。

いよいよ十牛図の参究も最後の「入てん垂手(にってんすいしゅ)」となった。
「てん」とは市場(いちば)のことで、そこへ垂手して(手をブラリと下げて)いかにも気ままに入ってくる。
第一尋牛位から第九返本還源まで血みどろの修行の結果、頭の中はすっかりお掃除されて、
仏道だの悟だの印可証明だのという観念は全く無くなってしまった。まして況んや自他の対立観念の痕跡もない。
省9
169
(1): 2011/07/06(水)22:53 ID:KdJm2Xtl(35/38) AAS
それでは廓庵禅師の最後の頌を味わうことにする。

● 胸を露にし足を跣(はだし)にしてに入り来(きた)る。

胸をさらけ出し、足は跣で靴も草履もはかないで、一人ヒョコヒョコと市に入ってくる。

全く人の思惑や体裁を考えず、自分をはだかにして何のはからいも無く、
行動し話をし手を差し伸べる。
十牛図の第十段階の図は皆布袋(ほてい)さん(917年没の中国の禅僧)の画が描いてあるが、布袋さんはお腹が大きく胸をさらけて、
大きな袋と杖を持って多分跣で歩いていた。
弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身と言われる布袋さんの境地は正に入てん垂手の通りであったと思われる。

我々の修行の目標もここにあるのであって、少しでも悟り臭いものがある間は、
未だ未だ未完成未熟品であると自戒して修練を加える必要がある。
170
(1): 2011/07/06(水)22:54 ID:KdJm2Xtl(36/38) AAS
● 土を抹し灰を塗って笑い腮(あぎと)に満つ。

さてこのような人になって始めて、灰頭土面と言って人が苦しんでいればその苦しんでいる人と一緒になって
その人を救う働きが自然に出てくる。これはそうしてやろうとしてやるのではなく、
そうしないではいられない慈悲心の現れとして出てくるのである。無縁同体の慈悲とはこのことを言うのである。

お釈迦様は「すべての国土はこれ吾が有なり。その中の衆生はこれ吾が子なり。」と言われたというが、
この境地に至って、その時その場で人をして成仏せしめる仕事が、ごく自然に毎日の仕事となる。

こういう人は、何時も心が平静で平安であるから、「笑い腮に満つ」で何も笑おうとしなくても、
ごく自然に口元がほころんでくる。天下太平とはこういう人の境地を言うのであろう。

● 神仙真の秘訣を用いず。
省10
172: 2011/07/06(水)23:01 ID:KdJm2Xtl(37/38) AAS
うんちゃ!

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178: 2011/07/06(水)23:17 ID:KdJm2Xtl(38/38) AAS
不生不滅
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