古代日本史スレ (157レス)
1-

117: 2016/10/02(日)10:34 AAS
記者発表一覧
記者会見「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」
平成24年11月1日
東京大学大学院医学系研究科
総合研究大学院大学
外部リンク[html]:www.u-tokyo.ac.jp
118
(1): とはずがたり 2016/10/05(水)20:38 AAS
平城京にペルシャ人の役人か 8世紀の木簡に記述
外部リンク[html]:www3.nhk.or.jp
10月5日 19時31分

奈良市の平城宮跡から出土した8世紀の木簡に、ペルシャ人とみられる人物が役人として働いていたことを示す記述があることがわかりました。調査した奈良文化財研究所は「平城京が国際色豊かな都だったことを示す、貴重な資料だ」としています。
木簡が見つかったのは奈良時代の都、平城京の中心部、平城宮跡の南東にあたる場所です。
奈良文化財研究所によりますと、50年前の発掘調査で見つかった木簡を、ことし、赤外線を使って調べたところ、「破斯清通」(はし・きよみち)という人名が記されていることがわかりました。

「破斯」という名字は、ペルシャを意味する漢字「波斯」と読み方が同じことから、木簡に記された人物はペルシャ人とみられるということです。
また、この木簡は役人を養成する役所、「大学寮」の宿直勤務の記録だったことから、この人物が平城京の役人だったこともわかったということです。

古代の歴史書「続日本紀」には、736年、遣唐使が連れ帰ったペルシャ人が聖武天皇と面会し、その後、位を授けられたという記述があります。
研究所は、このペルシャ人は木簡に記された人物と同一人物の可能性があるとしています。

ペルシャ人とみられる人物の名を記した遺物が出土したのは全国で初めてで、木簡を分析した奈良文化財研究所の渡辺晃宏史料研究室長は「平城京が国際色豊かな都だったことを示す貴重な資料だ」と話しています。
この木簡は平城宮跡資料館で開かれる展示会で来月1日から公開されます。
119: 2016/10/07(金)01:18 AAS
>>118
クビライハンもペルシア人官僚を使ってましたよね、確か。
120: 荷主研究者 2016/11/12(土)19:53 AAS
外部リンク[html]:www.kahoku.co.jp
2016年10月30日日曜日 河北新報
<史都再興>半世紀の調査成果次々

新たに発見された創建期の外郭南門の城壁跡を公開した現地説明会=9月、多賀城市市川

 宮城県多賀城市の多賀城跡が、多賀城廃寺とともに国の特別史跡に指定されて50年を迎えた。当初蝦夷(えみし)経略の基地と考えられたが、これまでの調査で古代東北の政治・軍事の中心地だと分かった。多賀城市では「外郭南門」の復元計画の機運が高まる一方、県も新たな整備計画を策定。史都再興に向けた動きが出ている。(多賀城支局・佐藤素子)

◎多賀城・特別史跡指定50年(上)積み上げ

<「鎮守府」が存在>
 今年2月、多賀城跡を調査する県多賀城跡調査研究所(多賀城市)は、政庁南側で鎮守府を示す「府」と書かれた文書箱のふたを新たに発見したと発表した。

 軍政を担う役所である鎮守府の存在が、同時代の遺物で明らかにされた。研究所の須田良平所長は「鎮守府の所在地の特定に近づく発見だ」と意義を語る。

 かつて多賀城跡は、朝廷の支配に従属しない蝦夷の反乱に備えた「とりで」と見られていた。1960年に始まった県教委と当時の多賀城町、河北文化事業団による調査によって政庁が軍事と政治をつかさどる国府級の建物配置だったことが明らかになり、66年に特別史跡になった。

 仙台平野が一望できる多賀城市北部の政庁跡がある市川地区と浮島地区を中心に指定され、指定範囲は追加分も含めて107ヘクタール。これを調査する研究所は69年に発足。本年度までに90次に及ぶ発掘調査によって、多賀城跡が約900メートル四方の堅固な城郭施設(外郭)で囲まれた国府跡で、政庁で4期にわたる変遷があったことを突き止めた。

 2009年以降は、多賀城市が多賀城のシンボルとして、2024年の創建1300年に合わせて計画する「外郭南門」の復元に向けた調査を実施。「政庁から外郭南門周辺までの建築は、かなり確定できた。最盛期の多賀城は規模も格式も上がり、蝦夷に朝廷の威容を示す場になっていた」と吉野武上席主任研究員。18年度以降は発見されていない創建期の外郭西辺と北辺を探す調査が始まる。

 研究所で調査にかかわり、東北歴史博物館長や県文化財保護課長を務めた進藤秋輝さん(72)は「成果を残せたのは地元の行政と住民が力を尽くしてくれたおかげ」と振り返る。

<完了分 まだ11%>
 約19.8平方キロの多賀城市には、特別史跡を含めて42カ所の遺跡が確認されている。79年に市教委は文化財専門職員を採用し、87年には県内初の埋蔵文化財調査センターを設置。研究所の協力を得ながら特別史跡外の調査を進めた。

 政庁から延びる南北大路と交わる東西大路、区割りされた平安時代初期の街並みや国司館(役人の住まいで行政なども行った)跡などの存在も市教委の調査で突き止め、多賀城が都に並ぶ重要都市だったことを浮き彫りにした。

 ただ、50年近い調査でも特別史跡の調査完了分は全体の11%。進藤さんは「創建期の外郭の様子や塩釜とを結ぶ奈良時代の道の存在など、多賀城には未解明な部分がまだある」と話す。

【国指定特別史跡】
 歴史上重要な施設などで学術上価値が高いと認められた遺跡「史跡」のうち、特に価値の高いものを「特別史跡」に指定する。平城宮跡(奈良市)、大宰府跡(福岡県太宰府市)など国内に61カ所。多賀城跡は多賀城廃寺とともに指定。その後の調査で館前遺跡(有力者邸宅跡)、柏木遺跡(多賀城直営の製鉄所跡)、山王遺跡千刈田地区(国司邸宅跡)が追加指定された。
121: 荷主研究者 2016/11/12(土)19:54 AAS
外部リンク[html]:www.kahoku.co.jp
2016年11月01日火曜日 河北新報
<史都再興>南門復元で観光交流を

多賀城外郭南門の復元イメージ図(多賀城市教委提供)

◎多賀城・特別史跡指定50年(下)地域活用

<他の史跡と大差>
 古代東北の政治、軍事の中心が置かれた多賀城跡(宮城県多賀城市)は、奈良市の平城宮跡、福岡県太宰府市の大宰府跡とともに「日本三大史跡」と称される。しかし、歴史を象徴する建造物や観光交流施設はない。来訪者も研究者や歴史愛好家が中心で、知名度、観光客数とも大きく水を開けられている。

 特別史跡指定から50年の節目。長く待望論があった多賀城のシンボルともなる「外郭南門」の復元計画が大詰めを迎えている。

 計画は1989年に当時の故伊藤喜一郎市長が提唱。設計案もできたが、水害や経済情勢の変化で頓挫。2011年に国が歴史遺産のある自治体の街並み整備に助成する「歴史まちづくり法」の認定を受けたことから計画が本格化した。専門家を交えた市の復元検討委員会が、本度末までに設計案を確定する。10億円以上と見込まれる総工費の積算額も示される。

 計画に呼応し、特別史跡の調査と整備を担う宮城県多賀城跡調査研究所は今年2月、新たな整備基本計画を発表。史跡公園として整備する方針を打ち出した。

 史跡を活用したまちづくりを進めてきた市民団体「NPOゲートシティ多賀城」は県の整備計画を受けて勉強会などを重ね、史跡整備上の提言などもしている。松村敬子代表は「待ち望んだ計画。実現に協力したい」と意気込む。

<財源確保に課題>
 シンボル創出への期待は大きい。一方で、東日本大震災の津波被災地にある市は、復興事業も被災者支援も道半ば。市立図書館を核とした駅前再開発などの大型公共工事も続く。

 「財政は厳しい。さらなる大規模事業は市民の理解が得られるのか」との声が市幹部からも漏れる。就任以来、奈良市、太宰府市などと友好都市を結び、史都のシティーセールスに力を入れてきた菊地健次郎市長だが、財源問題から復元計画に慎重姿勢を崩せないでいる。「水害対策など長期的な重点政策も継続中。地域や施策のバランスもある」と思いを巡らす。

 「多賀城は市の名前に冠したまちの象徴だが、市民の実際の理解は十分とは言えない」と憂うのは市観光協会事務局長の高倉敏明さん(65)。高倉さんは市の文化財専門職第1号で、通算で25年以上、調査や史跡の公有化などを担当した。商工観光課にもいて、PRの重要性を痛感した。

 「南門復元は長年の調査と整備の集大成。多賀城への理解を進めるためにも、公有化に協力いただいた人たちのためにも、ぜひ実現させたい」と訴える。

[多賀城外郭南門]政務や儀式の中心施設だった政庁から380メートル南にあったとされる、多賀城南辺の中央に位置する多賀城の正門。762年以降は、入り母屋造りの屋根がある礎石式の八脚門で、蝦夷に中央政府の威光を示そうと、豪華な造りが採用された。市の復元計画は、間口約10.5メートル、奥行き約6メートル、高さ約14メートル。2009年には創建期の南門跡が発見された。
          ◇         ◇         ◇
 宮城県多賀城市の多賀城跡が、多賀城廃寺とともに国の特別史跡に指定されて50年を迎えた。当初蝦夷(えみし)経略の基地と考えられたが、これまでの調査で古代東北の政治・軍事の中心地だと分かった。多賀城市では「外郭南門」の復元計画の機運が高まる一方、県も新たな整備計画を策定。史都再興に向けた動きが出ている。(多賀城支局・佐藤素子)
122: とはずがたり 2017/01/15(日)19:03 AAS
2015.5.21 20:01
平城京出土土器に韓国の盤上ゲーム「ユンノリ」原型の文様を確認 奈文研
外部リンク[html]:www.sankei.com

 奈良市の平城京跡から出土した奈良時代の土器に描かれた文様が、朝鮮半島の伝統的なすごろく「ユンノリ」の原型とされる「樗(ちょ)蒲(ぼ)(和名・かりうち)」の盤面とみられることが分かり、奈良文化財研究所が21日、発表した。土器を盤に遊んだとみられ、担当者は「古代の娯楽に新しい事例が加わる貴重な発見」としている。

 ユンノリは、4本の木の棒を転がして出た目に応じ、コマを進めるゲーム。奈良時代には朝鮮半島から伝来したとされる。

 文様が確認された土器は直径19・6センチ。奈文研が昭和61年~平成元年に実施した発掘調査で、長屋王邸宅跡北側で出土した。直径8センチの円と、それを6分割する点状の線が引かれ、すごろくのスタート地点とみられる「出」の字があった。

 同様の文様がある遺物は秋田県の秋田城跡や、三重県の斎(さい)宮(くう)跡など他に6点の出土例があるが、何の文様なのか不明だった。

 中国の歴史書「隋書」の倭(わ)国(こく)伝には、倭人(日本人)が囲碁やすごろく、樗蒲を好むが、禁止令も繰り返されたとの記述がある。奈文研の担当者は「ばくちや遊戯の実態に関する、考古学的解明につながる可能性がある」と話している。
123: とはずがたり 2017/01/15(日)19:03 AAS
2015.5.20 10:52
太閤堤の近くに弥生時代集落か 乙方遺跡の岸辺に須恵器や土師器 京都・宇治
外部リンク[html]:www.sankei.com

 史跡宇治川太閤堤跡近くの乙方遺跡の発掘調査を行っている京都府宇治市は、同市莵道の堤跡東側で、弥生時代から飛鳥時代にかけての川の跡が見つかったと発表した。川跡からはこの時代の土器の破片などが多く見つかり、市歴史まちづくり推進課は「弥生時代の集落が広がっていたのでは」としている。

 宇治川太閤堤跡歴史公園(仮称)整備に伴う調査。約900平方メートルの調査区域で東から西に流れる川跡を確認し、北側の岸辺近くで土器が集中して捨てられていた。

 川を埋めていた土、砂はおおまかに上層と下層に分けられ、上層から飛鳥時代から古墳時代後期にかけての須恵器や土師器(はじき)が出土。下層からは弥生時代中期の土器が見つかった。

 今回の調査現場のすぐ南ではこれまで、弥生時代中期から古墳時代後期の竪穴建物跡などが見つかっており、同課は「川の南側だけでなく、北側にも集落が広がっていたようだ。宇治が発展していくもととなった集落だった可能性がある」としている。
124: とはずがたり 2017/02/21(火)22:00 AAS
古代東洋史も此処で。

(朝鮮日報日本語版) 「韓民族はどこから来たのか」 韓国社会史研究の大家が導き出した答えは…
外部リンク:headlines.yahoo.co.jp
朝鮮日報日本語版 2/19(日) 6:03配信

 「10代のころ、同じ民族同士で争う6・25戦争(朝鮮戦争)を経験したことで民族問題に初めて関心を持ち、大学に入ると、気になっていたことを解決するため努力した。今、60年を経て韓民族の歴史的展開過程を総整理することになり、感無量」

 韓国社会史研究の大家、ソウル大学社会学科のシン・ヨンハ名誉教授(80)が、『韓国民族の起源と形成研究』(ソウル大学出版文化院)を出版した。シン教授は、還暦を過ぎて集中的に掘り下げてきた韓民族のルーツに関する自らの研究を集大成し、韓国民族が5000年かけて歩んできた履行と進化と発展の過程を、社会学的観点から解釈した。

 韓民族の起源については、北から韓半島(朝鮮半島)に入ってきたという学説が支配的だ。どこからやって来たかについてはバイカル・カフカス・アルタイ・モンゴル・シベリア・中国北部などさまざまな見解があるが、ユーラシア大陸を出発したという点は共通している。しかしシン教授は「韓国民族の祖先が『空いた場所』だった韓半島に入ってきたという既存の学説は、歴史的事実と一致しない。韓民族の胎動の地は新義州以南の韓半島だった」と主張した。

 シン・ヨンハ教授は、地理的・気候的環境が歴史に及ぼす影響を重視するフランスのアナール学派の研究方法論を借用した。人類の発生地たる東アフリカから出発してユーラシア大陸に入った旧石器人は、およそ5万年前に最後の氷河期がやって来たとき、凍土にならない北緯40度以南の洞窟に入った少数だけが生き残った。東アジアで石灰岩の洞窟が最も多い韓半島に集結した人々は、およそ1万2000年前、気候が温暖になると洞窟から出て新石器時代を開いた。この人々は食料を求めて散らばり、韓半島に残った鳥のトーテムの韓族、遼西地方に進出したクマのトーテムの貊(ばく)族、遼東地方に定着したトラのトーテムのワイ(さんずいに歳)族と大きく三つに分かれた。

 およそ5000年前、遼西地域の降水量が急減したため、貊族は再び韓半島北部へ移動して韓族と婚姻同盟を結び、ワイ族も自治権を持つ侯国としてこの同盟に加わった。韓族の君長と貊族の女族長の間に生まれた檀君が都邑(とゆう)を阿斯達に定め、東アジア初の古代国家・古朝鮮を建国した。韓国民族の「原民族」は韓・貊・ワイの3部族が結合したものという説もまた、従来の学説とは異なる。シン教授は「前近代には中国人、近代には日本人が韓民族の起源について枠組みを定め、かなり歪曲(わいきょく)があったので、基準の枠組みを完全に変えてしまわなければならない」と語った。

 古朝鮮は2000年以上の長期にわたって続き、共同体としての結合が強固になった韓国の原民族は、古朝鮮が滅亡した後、馬韓・辰韓・弁韓・扶余・沃沮・高句麗・百済・新羅・加羅・耽羅など列国時代を開き、これが三国に整理されて統一のための主導権争いを繰り広げた。韓国の「前近代民族」の形成時期については、新羅の三国統一と考える見解と、高麗の後三国統一と考える見解に分かれている。シン教授は「新羅の統一で前近代民族の核心たる国民・領土・言語・文化の共同性が事実上完成し、高麗の統一と渤海遺民の吸収で最終完結した」とする「2段階形成論」を唱える。

 韓国の前近代民族は、再び1000年以上にわたって共同性を強化していき、19世紀に入って近代民族へと進化・発展した。その核心は、民族構成員を差別する身分制の打破と、近代民族意識の勃興だ。東学の平等思想などに鼓舞された農民層による「下からの運動」と、実学派を継承した開化派官僚による「上からの改革」が結び付き、1894年に身分制が廃止された。また、独立協会や独立新聞などの活動によって自主独立・自由民権・自彊(じきょう)改革思想が鼓吹され、近代市民的民族主義も高揚した。

 にもかかわらず、韓国の近代民族が近代国家建設に挫折した理由として、シン・ヨンハ教授は当時の無能な政治勢力を挙げた。高宗と守旧派の高官が、既得権を失わないために果敢な体制改革を回避し、大衆の政治的発言も封じ込めたので、近代民族と近代国家の間に乖離(かいり)が生じたという。シン教授は「高宗は専制君主権を強化しつつも、国防はロシアに依存し、王室の収入にばかり関心を持っていたため、日本の侵略であえなく倒れるほかなかった。最終的に、韓国の近代民族は日本の統治下で『民族解放的民族主義』を発展させ、1945年8月の光復を勝ち取ることに成功した」と語った。
125: あぼーん [あぼーん] あぼーん AAS
あぼーん
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(1): とはずがたり 2017/05/30(火)22:10 AAS
農作業もしてたのか!

平安貴族のお仕事、実はかなりブラックな労働環境だった?
外部リンク:oshiete.goo.ne.jp
2017年05月24日 20:00

平安貴族のお仕事、実はかなりブラックな労働環境だった?「教えて!goo」に「今一番生きたい日本の時代はいつですか?」という質問が寄せられている。ぐうたらな筆者は「平安貴族になってのほほんと生活したい」と思ったのだが、よく考えたら平安貴族って本当に楽な生き方だったのだろうか? 平安文学を研究する宇木まさよしさんによると「けっこうブラックな環境で働く貴族もいたみたいです」とのこと。平安貴族の日常について、宇木さんに聞いた。

■平安貴族の勤務時間ってどれくらい?

まず、平安貴族たちの実際の勤務時間はどのくらいだったのだろうか?

「『延喜式 陰陽寮』によれば、1日3時間半から4時間半ほどだったようです。『延喜式』とは、平安貴族の服務規程をまとめたマニュアルのようなものです。勤務時間は長くても4時間半と書くと、とても気楽な生活を送っていたと思えますが、実際の勤務時間は相当に長かったといわれています。貴族の身分によって勤務時間はまちまちだったようですが、基本的に身分の高い貴族ほど勤務時間は短い傾向にあるようです」

なるほど、大貴族は優雅な生活を送れていたようだ。では、そのほかの貴族は?

「今回は実務を担当する中下級貴族を例にしましょう。中下級貴族は、天皇をはじめとする皇族の安全を守る仕事を任される場合もあり、頻繁に夜勤をつとめていました。右大臣(現代でいえば副総理・官房長官に相当する高官)であった藤原実資(957~1046)が記した日記(『小右記』)には、中下級貴族の怠慢を処罰する記事がありますが、それによるとひと月に日勤15日、夜勤5日が勤務日数の最低ラインだったようです。また、重要な会議がしばしば夜間に開かれるために、警護を担当する中下級貴族の勤務時間も不規則でした。合計すると、実質勤務時間は7時間~12時間ほどと考えられます」

ひと月最低20日勤務、夜勤もあって1日12時間労働もあり得るというのは、けっこうブラックかも……。人によっては過酷な労働環境だったわけだ。

「そして平安貴族は現代人と違い、公務以外で仕事が多くありました。特に重要なのが農業です。現代国家の法典に相当する『大宝律令 仮寧令』には、貴族の休暇について規定が記されていますが、田植えで忙しい5月・8月は長期休暇が貴族に与えられています。休暇といっても貴族たちは農作業をしなければなりません。平安朝にはトラクターや殺虫剤や肥料がないので、農作業は相当な重労働だったでしょう。朝廷に勤務していたほうがまだ楽かもしれません。そして肉体労働時間が短い大貴族も、規定勤務時間以外では皇族のお世話や、公務に関する具体的な指示などをしていました」

月に20日勤務してさらに兼業農家……平安貴族といえば、日がな一日中、蹴鞠をして遊んでいたのだと思っていたのだけれど、意外と忙しい日々を送っていたようだ。

■平安貴族はどんな仕事をしていたの?

では、平安貴族は実際にどんな仕事をしていたのだろう?

「平安貴族は官僚ですから、現代の官僚のように治安維持や経済政策などを仕事としていますが、貴族にとって最も重要な仕事は神社・お寺に関する宗教的なイベントです。これらのイベントには、今の私たちにもなじみぶかい端午の節句・七夕・8月の十五夜といったお祭りが含まれています。今でこそこういった行事は庶民的なイメージがありますが、平安朝においては農耕と深く関わるお祭りであり、国家が盛大にとりおこなうべき公式行事として重視されていました。これらの行事を順調に運営することを、平安貴族は仕事の目標にしていたのです。上級貴族の日記群を読むと、行事の運営について貴族たちが頻繁に会議していたことがうかがえます。平安貴族は基本的に官僚ですから、仕事の大枠は現在のお役人と通ずるところが多いです」

現代でも、官僚の仕事はかなりの激務。やはり今も昔も、国家行政は楽ではないようだ。
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(1): とはずがたり 2017/05/30(火)22:10 AAS
>>126-127
■平安貴族たちの仕事の愚痴

相当に過酷そうな平安の貴族ライフ。ということは、平安貴族の日記にも仕事がツライといった愚痴が書かれていたりするのだろうか?

「書いてあります。藤原行成(972~1028)という人物を例にします。行成は、『枕草子』の作者である清少納言と友人関係(恋仲?)にあったとも推定されています。彼は有能な官僚としてあの藤原道長に信頼されていましたが、有能なだけに仕事をよく任されていました。仕事の負担があまりにも重いので、彼はついつい愚痴や泣き言を日記(『権記』)にもらしています」

ほうほう、どんなことが書かれているのだろう?

「寛弘8年(1011)8月11日の日記を見てみましょう。当日は、同年6月13日に崩御された一条天皇の四十九日の御法会でした。行成は早朝から参加し、事務方として務めましたが、深夜に至るとさすがに疲労が極限にまで達してしまったのか、『夜中まで働くと気がおかしくなる』(原文は『終日、営役の人、心神穏やかならず』)と泣き言をもらしています。行成は非常に多忙な日々を送っていたようで、『権記』によれば長保3年(1001)9月10日には、あまりに疲れているので仕方なく会議に遅刻したとも記されています。平安朝では、有能で勤勉な人であればあるほど仕事を多く任されていたようなので、藤原行成と同じような悩みを抱えていた人は他にも数多くいたと考えられます」

ううっ、平安貴族の中にも過酷な労働で心身に異常をきたす人がいたとは……今も昔も働くのは大変だったようだ。人類が労働から解放されるときは、いつか来るのだろうか?

参考資料
渡辺直彦・厚谷和雄校訂『権記』(史料纂集 続群書類従完成会、八木書店) 1978~1996年
『延喜式』(国史大系26、吉川弘文館)2000年

論文・学術書
日向一雅「源氏物語と平安貴族の生活と文化についての研究--貴族の一日の生活について」『明治大学人文科学研究所紀要』54 2004年3月
大津透『道長と貴族社会』(日本の歴史06、講談社学術文庫) 2009年
細井浩志「平安貴族の遅刻について」『時間学研究』1 2011年

●専門家プロフィール:宇木 まさよし
平安文学研究家。東京大学文学部卒業後、研究機関に所属し、平安文学の研究を行う。中国文学の研究を並行して行い、日中の詩文についての比較をテーマとして活動中。
128
(1): とはずがたり 2017/06/04(日)19:35 AAS
松本清張は、なぜ『火の路』で自身の古代史学説を“本気”で語ったのか?
外部リンク:thepage.jp
2017.06.03 13:10

 政治や経済をはじめ様々な社会問題をテーマにした推理小説を数多く残した松本清張は、歴史や考古学についても興味や関心を示していました。それらもまた、小説のテーマにされることが多かったのですが、『火の路』に登場する古代史学説は、ほかの小説と明らかに違う扱いだったといいます。小説の中で、清張が“本気”で語ったという学説とその後日談について、ノートルダム清心女子大学文学部教授の綾目広治さんが解説します。

【連載】松本清張作品から「いま」を読み解く
古代史の学説を“本気”で語った『火の路』

 前回扱った「東経139度線」は、ひょっとすると在り得たかも知れない古代史についての仮説を、作中の登場人物に語らせた小説であった。もっとも、その仮説は学説として検証に耐え得るようなものではなく、あくまで清張の想像空間における、遊びの要素も多分に混ざった珍説であった。長編の『火の路』(「朝日新聞」、1973年6月~1974年10月)も、古代史についての学説が作中に語られた小説であったが、しかしここではその学説は本気で語られているのである。

 その本気さは、物語の中で語られている研究論文に見ることができる。それは、ヒロインである若き古代史研究者の高須通子による、飛鳥地方に存在する謎の石造遺物についての論文である。これは、飛鳥地方には謎の石造遺物として、「酒船石」や「亀石」や「猿石」、さらには「益田岩船」や「道祖神像」などの実に不思議な石造遺物があるが、いったい、それらにはどのような意味があるのか、についての論文である。

 高須通子の論文は、小説中に二つ掲載されている。そのうちの一つは、謎の石造遺物で土木工事好きの女帝・斉明天皇が作る予定だった「両槻宮」(ふたつきのみや)に供されるはずの施設物だった。しかし「両槻宮」の工事が中止になったため施設物も未完成なままに放棄された。また「両槻宮」自体、「日本の古代宗教とは違った宗教的色彩を帯びていた」と考えられ、それは「たいそう日本離れした(朝鮮からも)異質な宗教である」と述べる。

 この論文を偶然に読んだ、かつては古代史研究の俊英として知られ、今は学界から離れて保険外交員をしている梅津信六から、高須通子は便箋二十枚を超える書簡を受け取る。二人は面識がなかったが、高須通子の論文の内容は梅津信六が懐いていた古代史の学説に通じるところがあったのである。梅津信六によれば、高須論文で指摘している「異質な宗教」とはゾロアスター教(けん教、もしくは拝火教とも言う)ではないかと考えられる。

 なお、小説では詳しく語られていないが、ゾロアスター教とは、前六世紀のイランに起こった宗教のことで、仏教やキリスト教にも影響を与えたとされている。ちなみに、ニーチェの著書『ツァラトゥストラはかく語りき』の「ツァラトゥストラ」は、ゾロアスターのことである。キリスト教を批判するニーチェは、キリスト以前に眼を向けたわけである。
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(1): とはずがたり 2017/06/04(日)19:35 AAS
>>128-129
登場人物の発表した古代史に関する2つの論文

 さて、この梅津の指摘にヒントを得た高須通子は、イランに行きゾロアスター教の遺跡等を自らの眼で見てきて第二論文を発表する。論文の題目は、「飛鳥文化のイラン的要素―とくに斉明紀を中心とする古代史考察と石造遺物について」というものであった。

 高須通子の第二論文の結論部分は次のような内容である。

 ――謎の石造遺物の一つである「益田岩船」の基壇上に並ぶ二つの方形穴は、イランのゾロアスター教の拝火檀を連想させる。また、『続日本紀』の天平八年八月条には「波斯人一人」が拝朝したとあり、この「波斯人」とはペルシャ人のことである。「結論から先にいえば、日本には仏教が六世紀後半に伝わったといわれているが、けん教はそれよりおくれても六世紀末までには日本に伝来していた」と考えられる。もっとも、それがけん教そのものだったかどうかは不明だが、その要素の濃い宗教だったと言える。――

 このように、高須通子は創見あふれる論文を発表したのだが、彼女がいた研究室の教授の学問傾向から逸脱した内容であったために、東京の大学に職を得ることができなくなり、またその学説も無視される。

 物語は、その後、梅津信六が古墳出土品の偽造に関わる仕事をしていたらしいことなどが明らかになり、やがて梅津と思われる中年男の白骨死体が発見されるというふうに急転回していく。学才がありながらも、梅津が学界から追放されることになったのは、女性関係のことがあったとされていて、『火の路』は古代史の大胆な仮説提示とともに、清張小説らしい、性愛をめぐる悲劇も語られている小説である。

『火の路』で発表した学説の訂正を後の評論で発表

 ここで注意したいのは、小説の中であっても、清張は古代史に関して自身が抱く学説を、登場人物を通して本気で語っていることである。後に『清張古代史記』(1982年11月)で『火の路』に言及して、「あれはどこまでも小説だが、そこに述べた仮説はわたしのものであ」ると述べている。また、『火の路』で指摘されている「両槻宮」についての説の訂正を、後に『ペリセポリスから飛鳥へ』(1975年5月)で行っている。普通ならば、小説中で語られている学説は訂正する必要がないはずだが、清張はそれを行っているのである。つまり、彼は小説であっても、本気で古代史に関する自身の学説を語っていたわけである。

 本来ならば、論文や学術書の中で展開されるべき学説を、松本清張はなぜ小説の中で語るのか。実は、そこには史実(ノンフィクション)と物語(フィクション)との厳密な線引きはできるのか、というような難しい問題があるが、清張は厳密な線引きはできないと考えていた。

 たとえば古代史では、資料のない「空白」の箇所が多いのだが、それを埋めるのは、歴史家の想像力による推理だと清張は考えていたのである。たしかにそうなると、史実と物語との間には、厳密な境目はないことになってくるだろう。

(ノートルダム清心女子大学文学部・教授・綾目広治)
130: 荷主研究者 2017/06/25(日)11:07 AAS
外部リンク:www.kyoto-np.co.jp
2017年06月11日 17時10分 京都新聞
幻の恭仁京、見え始めた全体像 京都、開発で発見相次ぐ

画像リンク


発掘調査で見つかった直行する道路跡。恭仁京の区画の一角を示す遺構とみられる(木津川市木津・岡田国遺跡)

 奈良時代に足かけ5年だけ現在の京都府木津川市にあった都「恭仁京」への注目が再び高まっている。当初は山城国分寺跡として国史跡に指定されていた地で、1970年代から始まった発掘調査で恭仁京大極殿跡が確認されて「幻の都」が注目されたが、多くの謎が残されたままだった。しかし、ここ数年の周辺宅地や道路開発に伴う発掘調査で、道路跡などの発見が相次ぎ、全体像をつかむ手がかりが出てきた。確認できた都の遺構は限られているが、当時の雰囲気を感じることができる場所は多い。

 2011年1月、恭仁京跡の発掘調査を続ける京都府埋蔵文化財調査研究センターが、三角縁神獣鏡で知られる椿井大塚山古墳近くの上狛北遺跡(同市山城町)で恭仁京の一部とみられる南北に走る道路跡が確認されたと発表した。

 中心部の恭仁宮の外で初めて見つかった恭仁京の「痕跡」だった。

 今年1月には、岡田国神社近くの岡田国遺跡(木津川市木津)で、ほぼ東西南北に直交する道路跡が見つかった。都の碁盤の目が想定され、「恭仁京の跡とみて間違いないのでは」と上原真人・京都大名誉教授は太鼓判を押した。

 恭仁京は長らく「幻の都」と呼ばれ、宮域の発掘調査で遺構が次々と確認されてからも、全体像は分からないままだった。京域の痕跡がついに見つかり、研究は新たな局面を迎えた。

 恭仁京について記す「続日本紀」には具体的な場所を示す記述が少ない。都の範囲について京都大教授だった故・足利健亮氏(歴史地理学)は、地形や地名、道路から恭仁京と恭仁宮の範囲を想定し、地図にまとめた。「足利説」と呼ばれるこの地図は、現在も発掘調査の指針になっている。

 戦前は聖武天皇に関わる「聖蹟」として、保存されたままだった恭仁宮の発掘調査が始まったのは1973年から。伝承通りに大極殿跡が見つかり、平城京の大極殿を移築して建築したことなど文献上の出来事が次々と確認され、1988年からの発掘調査で恭仁宮の四至(範囲)が確定したが、あるはずの京域の痕跡がなかなか見つからなかった。

 姿を見せ始めた京域に、木津川市も今後の調査に期待を寄せる。岡田国遺跡の近くでは2008年の発掘調査でほぼ同時代の神雄寺跡も見つかり、木簡や楽器など珍しい出土物が注目された。国の中枢があった当時の状況を知る手がかりは増えている。

■恭仁京
 聖武天皇が740年に平城京から遷都し、744年に難波宮に遷都するまで現在の木津川市で造営した都。「続日本紀」には「賀世山(鹿背山)西道より東を左京、西を右京とする」とある。都の中枢だった恭仁宮跡(同市加茂町)では大極殿など主要な建物遺構が出土し、「宮域」の外に、碁盤の目状に区画されて住居や市などが並ぶ「京域」もあったと推測されているが、謎に包まれている。
131: とはずがたり 2017/08/20(日)19:25 AAS
道鏡ゆかり「東弓削遺跡」で現地説明会
外部リンク:headlines.yahoo.co.jp
8/20(日) 17:02配信 毎日放送

 奈良時代の僧・道鏡ゆかりの大阪府八尾市の「東弓削遺跡」で新たに建物跡や人工河川の跡などが見つかり、現地説明会が行われました。

 「東弓削遺跡」ではこれまでに地元出身の奈良時代の僧道鏡ゆかりの「由義寺」の塔の跡が確認されています。今回新たに、この「由義寺」跡から北東約500メートルの場所で建物の柱があったとみられる掘立柱穴や人工河川の跡が見つかりました。これは、道鏡を寵愛した女帝・称徳天皇が造営しまだ所在の分かっていない離宮「由義宮」の一部である可能性が高いということです。

 「昔こんなものがあったというのは面白いと思います」(見学者)

 付近からは当時の遺物なども出土していて市立歴史民俗資料館は21日から27日まで展示会を開くということです。

毎日放送
132: とはずがたり 2017/09/14(木)20:09 AAS
高句麗に続き百済も「中国史」、中国の主張に韓国騒然―米華字メディア
外部リンク[html]:www.excite.co.jp
レコードチャイナ 2017年9月14日 13時45分 (2017年9月14日 20時03分 更新)

13日、米華字メディアの多維新聞によると、中国と韓国の歴史論争は常に敏感な話題となっているが、中国でこのほど、百済が中国の歴史に含まれるとする主張が初めて確認されたことを受け、韓国社会が騒然としている。資料写真。(Record China)
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2017年9月13日、米華字メディアの多維新聞によると、中国と韓国の歴史論争は常に敏感な話題となっているが、中国でこのほど、百済が中国の歴史に含まれるとする主張が初めて確認されたことを受け、韓国社会が騒然としている。

13日付の韓国紙・東亜日報によると、中国政府が資金支援し改訂した中国の新しい歴史書で、高句麗や渤海国(唐末)はもとより、百済まで中国史の一部として編入されたことが確認された。

韓国陸軍士官学校軍事史学科のイ・サンフン教授が12日、「百済歴史編年」「高句麗歴史編年」など「東北古代民族歴史編年双書」5巻シリーズを分析した結果として明らかにした。

高句麗や扶余の歴史を中国史の年号に従って記述したこの双書の中の「百済の歴史の初期から中国史」という主張は、中国学界で初めて出されたものだ。

双書の編者で中国長春師範大学の姜維公(ジアン・ウェイゴン)教授は、「百済歴史編年」内の小論文「百済起源問題探討」で、「中国学界はこれまで、百済を韓国史の範囲内としていたが、百済の前期の歴史は事実上、中国史に含まれる」とし、「百済は4世紀半ばに朝鮮半島の漢江流域に移動したが、百済が中国史に含まれるという事実を変えることはできない。紀元前2世紀から4世紀半ばまで漢江流域は中原王朝の所有だった」と主張している。(翻訳・編集/柳川)
>>次の記事:韓国軍が北朝鮮の核心施設を打撃
133: とはずがたり 2017/11/07(火)07:59 AAS
稲敷市は嘗ての稲敷郡だったが元々(江戸期)は信太郡と河内郡だったそうな。

明治の郡制時に古代の郷名より両郡の統合地名に復活昇格したようだ

外部リンク[pdf]:www.gappei-archive.soumu.go.jp
134: とはずがたり 2017/11/07(火)08:11 AAS
常陸・北上・日高が一つの線で繋がるとわ!

日高見国
外部リンク:ja.wikipedia.org

日高見国(ひたかみのくに)は、日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと。

解説[編集]
『釈日本紀』は、日高見国が大祓の祝詞のいう神武東征以前の大和であり、『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』での日本武尊東征時の常陸国であることについて、平安時代の日本紀講筵の「公望私記」を引用し、「四望高遠之地、可謂日高見国歟、指似不可言一処之謂耳(四方を望める高台の地で、汎用性のある語)」としているが、この解釈については古来より様々に論じられている[1][2][3]。
例えば、津田左右吉のように、「実際の地名とは関係ない空想の地で、日の出る方向によった連想からきたもの」とする見方もある[4]。神話学者の松村武雄は、「日高見」は「日の上」のことであり、大祓の祝詞では天孫降臨のあった日向国から見て東にある大和国のことを「日の上の国(日の昇る国)」と呼び、神武東征の後王権が大和に移ったことによって「日高見国」が大和国よりも東の地方を指す語となったものだとしている[5]。また、「日高」を「見る」ということでは異論はなく、「日高」は「日立」(日の出)の意味を持つので、『常陸国風土記』にある信太郡については、日の出(鹿島神宮の方向)を見る(拝む)地、ということではないかともされ[6]、旧国名の「常陸」(ヒタチ)は、「日高見道」(ヒタカミミチ)の転訛ともいわれる[7]。
その他様々にいわれているが、いずれにしろ特定の場所を指すものではないということでも異論はなく、ある時の王権の支配する地域の東方、つまり日の出の方向にある国で、律令制国家の東漸とともにその対象が北方に移動したものと考えられている[8]。北上川という名前は「日高見」(ヒタカミ)に由来するという説もあり、平安時代には北上川流域を指すようになったともされている[9]。戊辰戦争直後には北海道11カ国制定にともない日高国が設けられ、現在は北海道日高振興局にその名をとどめる。
135: とはずがたり 2017/12/08(金)16:45 AAS
大学受験日本史選択者必修の螺鈿紫檀五弦琵琶だ♪
楊貴妃が送ったもんだとは知らんかったぞ。。(;´Д`)

嬉しいやら恥ずかしいやら・・・1300年前に楊貴妃が天皇に贈ったプレゼントが、今も大切に保管されている!=中国メディア サーチナ 2017年12月8日 09時12分 (2017年12月8日 16時25分 更新)
外部リンク[html]:www.excite.co.jp

中国メディア・今日頭条は11月30日、「1300年前に楊貴妃が日本の天皇に贈ったプレゼントが、現在まで国宝として完全な形で残っている」とする記事を掲載した。(イメージ写真提供:123RF)(サーチナ)

 中国メディア・今日頭条は11月30日、「1300年前に楊貴妃が日本の天皇に贈ったプレゼントが、現在まで国宝として完全な形で残っている」とする記事を掲載した。

 記事は、奈良・東大寺の正倉院にある宝物「螺鈿紫檀五弦琵琶」について紹介。「天皇が1300年に渡り密やかに所蔵してきた宝物。唐の玄宗皇帝と楊貴妃が聖武天皇に贈ったプレゼントが、現在に至るまで完全な形で保存されているのである」と説明した。

 そのうえで、8世紀中期に建てられた正倉院には聖武天皇が生前愛した貴重品が保管されており、その多くは日本の遣唐使や留学生が持ち帰った書画、仏経典、楽器、生活器具、薫香、服飾品、織物、刺繍などであるとした。また、価値の高い唐代の芸術品を最も完全な形でかつ豊富に残しているということで「専門家が、唐の建築や文化財を見たいのであれば奈良に行くべき。唐の気風を見ることができるのは世界で日本だけだと言うのもうなずける」と伝えている。

 また、正倉院自体が幾多の戦乱をくぐりに抜けて現存していることについて「世界の建築史において、これほど古い木造建築が残っているというのは奇跡なのだ」と評した。そして「日本にある正倉院の宝物からは、中華文化絶頂期の面影を見ることができる。これらはすでに全人類共通の文化遺産になっているのである」としている。

 中国のネットユーザーからは「奇跡だ。日本の天皇が愛したものは代々伝わり、中国の皇帝が愛したものは地下に埋葬されてしまう」、「行ってみれば分かるけど、日本では本当にわれわれの唐や宋の文化を見ることができる」、「本当に恥ずかしい。日本は唐の優れた物を残して伝えたのに、中国ではどれだけの民間工芸が途絶えてしまったことか」、「唐代の物を見るのに日本に行かなきゃいけないって、恥ずかしいだろ」といったコメントが寄せられた。(編集担当:今関忠馬)(イメージ写真提供:123RF)
136: とはずがたり 2018/06/18(月)13:39 AAS
芳野監
外部リンク:ja.wikipedia.org

芳野監(よしののげん)は、8世紀の日本で吉野地方に設けられた特別な地方行政区分、機関である。畿内に含まれる。領域は現在の奈良県南部にあたる。

芳野監の位置(716年頃)
沿革
大和国の吉野郡を分立させて設けられた。『律書残篇』によると、芳野監は“郡二、郷三、里九”とある。『律書残篇』の大倭国(大和国)の郡数は14(当時の大和国の郡数は吉野郡を入れて15)となっているため、吉野郡が2つの郡に分けられたと思われる。設置時期は不明だが、和泉監が設置された霊亀2年(716年)に近い時期と思われる。

続日本紀の天平五年(733年)1月27日条に「芳野監」が初見する。国でなく、監という機関になったのは、この地にあった吉野宮の管理にあたる役割があったためと推測されている。前述の通り芳野監の設置は吉野宮を管理するためという理由であるが、古来より吉野は万葉集に「見れど飽かぬ吉野」、「雲居にそ遠くありける」などと詠まれており、大和国とは別の遠国と意識されていた。

天平10年(738年)から嘉祥元年(848年)までの間に廃止されたが、廃止時期も和泉監が廃止された天平12年(740年)頃であろう。

和泉国
外部リンク:ja.wikipedia.org

『続日本紀』によれば、霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監(いずみのげん)が建てられた。元正天皇の離宮(珍努宮(ちぬのみや)、茅渟宮(ちぬのみや)、和泉宮とも)がこの地に造営されたことが、国司ではない監という特別な官司の設置の理由であると見られる[1]。国と異なる特別な機関だが、この時期のものとされる木簡に、「和泉国和泉」(郡)とあるものが見え、領域名称としては、この当時から「和泉国」と呼ばれることがあったようである[2]。

その後、天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に合わさったが、天平宝字元年(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置された。『日本紀略』によれば、天長2年(825年)3月30日、摂津国から東生・西生・百済・住吉の4郡を和泉国に編入しようとしたが、地元の反対があったため、同年閏7月21日に取り止めとなった。
137: とはずがたり 2018/07/10(火)11:31 AAS
したらばスレ:study_2246

まじかー,讃良は当然さららと訓(よ)むもんだと疑わなかったが近世以降は<ささら>と訓んでたらしい。さらら→ささら→さんらと変化したのか。
因みにさっきメールしたのはさらさ嬢♪仕事メールだけどな。

更に因みに相楽(郡名)も当然の様に現代では<そうらく>と訓むが,地名では<さがなか>と訓む。

讃良郡
外部リンク:ja.wikipedia.org

古代
和名類聚抄には「佐良良」という訓が記載されており、古くは「さらら」と読んだ。持統天皇の名「?野讃良」の「讃良」は讃良郡に由来するものであり、「うののさらら」と読まれる。「さらら郡」には更占郡などの表記もある。のちに「さら郡」という読みが現れ、近世以降はもっぱら「ささら郡」と読まれる。

木津川市相楽
外部リンク:www.google.co.jp
138: とはずがたり 2018/09/02(日)23:48 AAS
日下についての議論は読み応え有った。

スズメ♂古代史「覚え書き」

2011年9月26日月曜日
メインサイトの引越しについて
外部リンク[html]:szmkodai.blogspot.com

2011年8月23日火曜日
「日下」地名についての疑義
外部リンク[html]:szmkodai.blogspot.com
139: とはずがたり 2018/09/25(火)10:14 AAS
足利先生が出てくるが私が選択したのは青木先生の人文地理だった。神戸の震災を予言するなど俺の中でカリスマの青木先生だけど足利先生の授業も受けたかったな。

スズメ♂古代史「覚え書き」
2011年8月23日火曜日
「日下」地名についての疑義
外部リンク[html]:szmkodai.blogspot.com
140: とはずがたり 2018/09/28(金)19:34 AAS
光明皇后ゆかりの経典だった…来場の研究者指摘
外部リンク[html]:www.yomiuri.co.jp
2018年09月28日 17時41分

 聖武天皇の妻・光明皇后(701~760年)が、両親の冥福めいふくを願って写経生に書き写させた経典「一切経」の1巻が、高野山真言宗の古刹こさつ・法道寺(堺市)で見つかった。堺市博物館などが確認した。4年前に展示していたが、調査し直したところ、皇后ゆかりの写経とわかった。

 「雑阿含ぞうあごん経巻第三十六」(縦約27センチ、横約10メートル51)。巻末が切り取られ、そこに書かれていたとみられる願い事や願い主、写経の日がわからず、市博物館は2014年に展示した際に「平安~鎌倉時代の経典」と説明していた。

 展示を見た研究者から、「光明皇后の経典では」と指摘を受け、市博物館などが調査。文字がやや平らで整った書体、「言偏」の第2画が長いなどの特徴が、奈良国立博物館(奈良博)に寄託されている重要文化財「雑阿含経巻第三十九」などと類似していることから、これらと同様に、743年(天平15年)5月11日の日付をもつ「五月十一日経」の1巻と判断した。

(ここまで426文字 / 残り217文字)
2018年09月28日 17時41分 Copyright c The Yomiuri Shimbun
141: とはずがたり 2018/10/16(火)08:18 AAS
宮内庁
仁徳天皇陵を発掘へ 今月下旬から堺市と共同で
外部リンク:mainichi.jp
毎日新聞2018年10月15日 14時02分(最終更新 10月15日 18時47分)

 宮内庁と堺市は15日、同市堺区にある日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(仁徳天皇陵)について、今月下旬から共同で発掘すると発表した。古墳保存のための基礎調査だが、歴代天皇や皇族の陵墓の発掘に宮内庁が外部機関を受け入れるのは初めて。宮内庁は「周辺遺跡の知見を持つ堺市との連携は適切な保存につながる。天皇陵の保全管理に地元の協力は不可欠」とする。

 大山古墳は全長約500メートルで、三重の濠(ほり)が巡る。宮内庁は仁徳天皇の墓として管理するが、学術的には未確定。調査は10月下旬~12月上旬、埴輪(はにわ)列などがあったと考えられる最も内側の堤(幅約30メートル)に幅2メートルの調査区を3カ所設け、堺市の学芸員1人も発掘や報告書作成に加わる。宮内庁陵墓課は、今後も堤の別の部分や墳丘の裾などを発掘し、濠の水で浸食されている古墳の保存計画を作る。

 宮内庁は全国の陵墓への立ち入りを「静安と尊厳を保持するため」として原則認めず、単独で調査してきた。考古学界は陵墓の公開と保全を訴えており、宮内庁は2008年から、日本考古学協会など考古・歴史学の16団体に限定的な立ち入り観察を認めた。16年3月には地元自治体や研究者に協力を求める方針に転換し、徐々に公開度を高めてきた。今回、一般向けの現地説明会はないが、速報展や講演会の開催を検討しているという。

 宮内庁の陵墓管理委員会で委員を務める白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長は「古墳全体を保存活用する上で地元や研究者の協力は欠かせず、今回の共同発掘は重要な一歩だ。陵墓の公開に向けても歓迎できる」と評価した。堺市は大山古墳を含む百舌鳥・古市古墳群の来年の世界文化遺産登録を目指している。【矢追健介】
142: とはずがたり 2018/10/16(火)22:52 AAS
嵯峨天皇や後鳥羽上皇辺りと並んで宇多天皇大好きなんだけど猫派だったのかー。。

【平安時代の】宇多天皇が猫好きすぎてヤバイ【猫ブログ】
外部リンク:matome.naver.jp
143: 2018/10/17(水)00:33 AAS
外部リンク:www.saga-s.co.jp

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邪馬台国はどこ?吉野ケ里で考古学フォーラム
10/10 9:26

畿内や九州の遺跡の出土状況、邪馬台国の所在地について意見を交わす(左から)高島さん、橋本さん、白木さん=吉野ヶ里町の吉野ケ里歴史公園
畿内や九州の遺跡の出土状況、邪馬台国の所在地について意見を交わす(左から)高島さん、橋本さん、白木さん=吉野ヶ里町の吉野ケ里歴史公園
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 邪馬台国について考えるフォーラムが7日、吉野ヶ里町の吉野ケ里歴史公園で開かれた。近年の考古学研究成果を基に有力候補地について意見を交わした。

 福岡県久留米市文化財保護課長補佐の白木守さん、奈良県桜井市教委文化財課長の橋本輝彦さん、佐賀女子短大名誉教授の高島忠平さんが講演した。九州説では墳墓や山城、集落などを、近畿説では弥生土器の編年と古墳の規模・形状などを根拠とすることを説明。決め手となる文字史料が見つかっていない点も言及した。

 中国の歴史書、魏志倭人伝に記された邪馬台国の集落について「環濠(かんごう)集落を思わせるが(卑弥呼の時代に)九州では増えるが、近畿では無くなる」と高島さん。白木さんが「卑弥呼の居住地であれば環濠はあってしかるべき」とする一方で、橋本さんは「同一様式の土器が大量に使われ、一つの水系に位置する点で奈良盆地が有力地」と答えた。

 フォーラムは同公園管理センターと県立博物館が、開催中の特別企画展「よみがえる邪馬台国 倭人伝の道6」(11月11日まで)に合わせて開き、約130人が聴講した。
144: 2019/02/15(金)21:25 AAS
ふむ
145: とはずがたり 2019/03/28(木)09:45 AAS
確かに熊野詣では盛んだったが伊勢には娘派遣しながらも本人は行かなかったのか。確かに聞いたことないな。

なぜ歴代天皇は伊勢神宮を参拝しなかったのか? 明治天皇から解禁となったのはなぜ?
外部リンク[html]:www.buccyake-kojiki.com
2015年10月09日
146: とはずがたり 2019/03/28(木)09:47 AAS
二所宗廟なんて言い方があるなんてしらんかった。

道鏡の宇佐神宮神託事件も重い神託だったんだな。

大和朝廷の九州・大和複合体制を示唆するのではないか。邪馬台国は両方にあった,でええやろ。

二所宗廟とは?
外部リンク[html]:www.buccyake-kojiki.com
2015年11月21日

伊勢神宮と石清水八幡宮、古代は宇佐神宮とも、謎多き伊勢と八幡神の二地
二所宗廟
二所宗廟(にしょそうびょう)とは、皇室が先祖に対して祭祀を行う二つの廟のことで、伊勢の神宮(伊勢神宮)と石清水八幡宮の二つの神社を指す。ただし、石清水八幡宮は、遠国の宇佐八幡(現 宇佐神宮)に代わって指定されたふしもあり、石清水八幡宮=宇佐神宮であり、二所でありながら、三つの神社と考えた方がよい。
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