複素解析5 (589レス)
前次1-
抽出解除 レス栞

39
(1): 02/09(日)22:31:32.01 ID:HgkwmS4G(4/4) AAS
>>37
早速のご返答ありがとうございます!
252: 05/14(水)08:00:58.01 ID:CX7WjJSV(1) AAS
プロになって、囲碁棋士で身を立てる人と
アマで囲碁をする人が強くなる勉強法は、おのずと違う

そういうことですね
もっとも、共通点も多いし

昔院生でプロを目指したが プロになれなかった人もいるし
院生経験がないが、プロ並みに強い人も たまにいる(下記)

外部リンク:ja.wikipedia.org
菊池 康郎(きくち やすろう、1929年〈昭和4年〉8月20日 - 2021年〈令和3年〉11月3日)は、囲碁のアマチュア強豪。東京都出身。専修大学卒業[1]。
緑星囲碁学園を主宰し、山下敬吾を始め、多数のプロ・アマ棋士を育成した。
経歴
大田区蒲田に生まれ、3歳頃に囲碁好きの父の影響で囲碁を覚え、碁会所で腕を磨く。高輪中学時代に横浜市中山に疎開し、相原忍三段や、伊藤友恵、小泉重郎らの指導を受ける。専修大学に入学後の1948年(昭和23年)に全日本アマチュア選手権戦(全日本アマチュア本因坊戦の前身)で神奈川県予選で優勝して東日本大会でベスト4入りし注目され、この大会で優勝した影山利郎と親交を得る。また審判長だった安永一に認められて師事。
安永の紹介で雑誌『囲碁春秋』『囲碁の友』などでプロ棋士との対局が企画され、1950年(昭和25年)『囲碁春秋』では炭野武司六段に二子、先番で連勝する。1950年に仲間内の研究会を作り、後に「緑星会」と命名。1951年(昭和26年)に関東大学囲碁リーグ戦出場のために囲碁部を作り[2]、第1回リーグ戦では最終戦で村上文祥を破り11連勝で個人優勝するなど、学生碁界で活躍。1952年-1953年の「圍碁」誌でのプロアマ二子局で、トッププロを相手に9連勝など、アマプロ戦で活躍。プロがアマチュアに二子で負けるわけがないと言う当時の常識を覆した。 この頃、既にプロ棋士となっていた影山利郎らにプロ入りを勧められるが、卒業後は八幡製鉄に入社。のち株式課、秘書室を経て1981年(昭和56年)に新日本製鉄を退社[3]。

また学生時代からアマチュアの研究団体「緑星会」を主宰して、村上文祥、原田実のほか、若手プロ棋士も参加した。
平田博則、村上文祥、原田実と並んでアマ四強と称されて、長くアマチュア囲碁界最強の地位を占め、プロからもプロ六、七段は打てると評されている。1956年(昭和31年)の『娯楽よみうり』誌でのアマ強豪との勝ち抜き戦では、アマチュア及びプロの大竹英雄初段に勝ち、続いて工藤紀夫二段に敗れるまで27連勝。その他にも雑誌の企画などでのプロ棋士との対戦で好成績を挙げ、1959年(昭和34年)にはプロ棋戦に参加させてはどうかという提案もなされ、『棋道』誌上でも論争された。
568: 08/07(木)20:53:20.01 ID:mdE38WMx(3/3) AAS
もっともアメリカでは開拓時代、男たちが「あっちで労働力として
黒人奴隷を買って、こっちで囚人として連れてこられた白人女を妻として買う」
ということがあったそうだから、その意味では伝統に則っている。
そして、インディアンぶっ殺して、土地を広げていく。
この「インディアン」に相当するものが時代と共に変わってきたのであって
「日本人」が該当していたこともある。
前次1-
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ

ぬこの手 ぬこTOP 0.027s