[過去ログ] 石田三成の挙兵 ★7 (1002レス)
1-

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
916: 2023/11/14(火)17:20 ID:aQLK9Sad(1) AAS
>>914
最初から毛利の狙いは西国で奉行の動きを利用しているだけ。
なので美濃以遠で家康とガチるつもりがないから、早い段階から落とし所探るために東軍と交渉している。

むしろ着地点も定めずに迷走重ねた奉行は何がしたかったのかと。
917: 2023/11/14(火)19:03 ID:ZTWYhIUr(1) AAS
大垣城と南宮山で徳川軍を迎え撃つという初期戦略に変更は無い、だとしたらまず松尾山を大垣衆で総攻撃して陥落させる。そうなったら徳川軍は大垣か関ヶ原に来る。それを南宮山で迎え撃つ
松尾山を落としたら大垣衆は取って返して徳川軍の横を突く
こう見ると完璧なプランっぽく見えるかもしれない
918: 2023/11/14(火)22:58 ID:Rh2ewUeT(1) AAS
>>907
奉行は本人たちが政権最高幹部気取りをしているだけのあくまで単なる官僚なので
奉行が何人いようが正当も何もない
大老も例えば宇喜多は、秀吉から「こいつは未熟者なので徳川や前田や毛利の指導を受けること」と言いつける程度なので
宇喜多がいたところで正当も何もない

そもそも秀吉は、家康と利家がいないと豊臣の維持は無理と考えていたので
その他大勢が何人集まっても結局は秀吉が考えている通りに駄目だった
919
(1): 2023/11/14(火)23:23 ID:XtWlA6Mi(1) AAS
どうせ読まんだろうから史料は省くが
西軍の最初の決戦戦略は7月下旬
家康の西上はいまだ聞かないが、大名衆を率いてやってくるだろう
そのときは輝元含めて瀬田(しかも川を背にする背水の陣)で迎え撃つ
淀城の改修も検討されていたようで、だいぶ押し込まれることを想定していた

家康が一ヶ月も動かなかったことはむしろ、西軍にとっては意外だったんだよ
のちの想定正面は浜松ないしは尾張に移り、ぐだぐだして本戦へ

とはいえ、西軍が当初覚悟していた想定よりは戦線を押し出していることが分かる
920
(1): 2023/11/15(水)00:30 ID:889E2dXS(1/2) AAS
大垣を守る合理的な理由があるかと言えば確かに微妙
921: 2023/11/15(水)06:46 ID:0Vywf39E(1/3) AAS
>>919
同意。なぜか瀬田で迎え撃つつもりだったって部分をスルーしてるんだよね。
東西両軍が瀬田で対峙、その間石田は佐和山で籠城態勢、隙あらば瀬田の東軍背後を石田が襲う、
あるいは先に佐和山攻めるようなら佐和山城後詰決戦、
こんなかんじの構想だったんじゃないかと想像する。
ところがいつまで経っても東軍は来ないし伏見も落ちない、
痺れを切らした石田は上方へ、
の流れじゃないかと思う。
922: 2023/11/15(水)07:22 ID:0Vywf39E(2/3) AAS
>>920
大垣を放棄すれば尾張進出への足掛かりは事実上なくなる。
長島はそう簡単には落ちないから伊勢から行くのは困難だし。
923
(1): 2023/11/15(水)08:49 ID:js3Jp+Ks(1) AAS
政権から切り離した家康の政治的孤立を狙った上で
挙兵当初と岐阜城攻めの頃じゃ状況が変わってるだけでしょ

家康の政治的な孤立化を前提にしないというのはつまり
伏見で会津征伐を決定したときのままの影響を維持してるってことで
数十万の会津征伐軍がそのまま反転してきたら
瀬田をいくら固めてもハナから勝負にはならない
従わない諸大名が離反して数が減りその対処のために押さえをおきながら進軍する
という想定でないとそもそも挙兵の戦略が成り立たない

家康が江戸から動かなかったのも当てが外れて決戦できなかったというのではなく
政治的な狙いが思ったより効果的で大規模な上洛軍が起こらなかったと理解してたんでしょ
東軍先鋒が岐阜を攻めずに国許に帰ったら実際そうなってた可能性もあるし
924: 2023/11/15(水)10:21 ID:0Vywf39E(3/3) AAS
>>923
時系列確認してる?
7月の話してるんだよ、輝元は秀元・吉川に
伏見攻めではなく瀬田の砦普請を命じてる。
石田も7月末まで佐和山にいる。
925
(1): 2023/11/15(水)10:50 ID:12m9EfeW(1) AAS
西軍の初期戦略が間違ってただけじゃないの
三成が真田昌幸に宛てた備口人数表によれば瀬田の防衛隊は六千九百十人、十分そうに見えて徳川軍とやり合うには少な過ぎる
垂井まで取られた八月末以降に頼るとしても大垣も佐和山もやられるだろうから追い詰められての最終決戦にしか使えん
926: 2023/11/15(水)12:56 ID:gNyecbWN(1) AAS
7月26日付中川秀成宛の三奉行連署状にある記述だな
輝元は瀬田と守山の間に陣取り、東軍がどこから上ってきてもそこに輝元の
人数を差し向け、宇喜多・小早川は醍醐・山科・大津辺りに陣取るとある

日付不明の吉川広家書状(吉川家譜は7月26日付)に瀬田の砦普請のため伏見攻めしていた
中国衆が昨日瀬田へ到着し、それが完成すれば淀辺りにも普請するつもりだとある
927
(1): 2023/11/15(水)14:14 ID:889E2dXS(2/2) AAS
西軍が対東軍戦略立てる上で瀬田含めた要塞群が
・佐和山まで取られたとしての最終防衛線
・東軍が遮二無二大坂を目指して来た場合の迎撃拠点
どっちの役割を想定してたのか
928
(1): 2023/11/15(水)14:23 ID:1xbdigdm(1/2) AAS
>>927
伏見の後詰に対しての迎撃線じゃね?
伏見が落ちたあと西軍は東進を始めてるし、織田秀信の西軍入りもあって前線を押し上げた

岐阜城が落ちた後に瀬田まで下がらなかったのは伊勢の西軍本隊が間に合わないし石田隊だけ動いても連携が取れなくなるから
929: 2023/11/15(水)14:28 ID:1xbdigdm(2/2) AAS
>>928
追伸
東軍が佐和山を包囲したら瀬田の部隊を後詰に出せる
だから佐和山が落ちる事を前提にした陣形でもないんじゃね?
930: 2023/11/15(水)16:49 ID:5/fu2vJh(1) AAS
瀬田にいた連中って八月二十五日付で大垣に移動してるから大垣が攻められた時の予備兵力としても想定されてたのかもしれない
とはいえ関ヶ原で大垣衆全滅、毛利軍総降伏では瀬田の砦に籠るのは自殺と変わらないので造った意味はあんまり無かった
931: 2023/11/15(水)21:25 ID:uTZmakQu(1) AAS
>>925
徳川軍が丸々来るって想定じゃないからだろね

諸大名が味方すると数十万、徳川単独でも関東押さえに秀康置いた史実でさえ東海道中山道合わせたら6-7万
どちらにしても兵力足りない

諸大名が家康に背くものが出てもっと多くの方面を警戒する必要が出たら
上方に突出でから兵力はもっと減ってくる
932: 2023/11/15(水)21:55 ID:sUHqYwIz(1) AAS
質問なんだが西軍決起の段階で前田家が西軍に与する(消極的対立)とか考えはなかったんかね?
933: 2023/11/15(水)23:13 ID:fEGa8wGH(1) AAS
まつを江戸に送ってしまってるやん、
利長もまつ人質に出したから動けない的な言い訳してなかったっけ。
で、利政が大坂の人質が云々言い出して
利長だけで再出陣。
あれ、前田は江戸と大坂両方に人質出してたってことか?
934: 2023/11/16(木)08:23 ID:+ctIdpte(1) AAS
前田利長は妻が大坂、母が江戸にいる。だからかなり曖昧な立場に終始するのではないかって見方はあったらしい。ところが利長はただちに兵を集めて西軍の丹羽氏にぶつけて戦争してる。西軍としては一つ見込みが外れてしまった
935: 2023/11/16(木)09:07 ID:W9FzNjmi(1/2) AAS
弟が西軍についてるからな。きちんと保険は打ってある。
936: 2023/11/16(木)09:15 ID:W9FzNjmi(2/2) AAS
三成はなんだかんだ日本の歴史で負けたとは言え名を残せたが
あおりを食って死んだ多くの人々は気の毒ではあるね。
それは本当に思う。
937: 2023/11/16(木)10:24 ID:K5ZNWQ9o(1) AAS
利政の造反で利長は国許に引き返してるし利政の独断っぽいけどね。それで戦後利政は実質蟄居の身だし
938
(1): 2023/11/16(木)11:45 ID:IzFTRWxr(1/3) AAS
上方にいた利長の母や重臣の人質は5月17日上方を発し6月6日江戸着
その代わりのように上方にいた肥前殿御内(利長正室)と利政は北陸に
返された(浅野幸長書状)
939: 2023/11/16(木)12:51 ID:Po7obDiy(1) AAS
>>938
白峰氏は浅野幸長書状にある肥前殿御内加賀殿を利家三女・摩阿姫としてるな
940
(1): 2023/11/16(木)14:43 ID:IzFTRWxr(2/3) AAS
御内は御内儀、御内室を指すので利長正室でいいと思うけどね
秀吉側室の加賀殿は秀吉死後に万里小路充房に嫁いでいるので
会津出兵の際に加賀に返す意味はない
男子が生まれ充房と離別後に金沢に引き取られたのでこのことと混同されているか
充房の前妻も利長正室と同じ織田信長の娘なのでなにか勘違いされてるのではないかと思う
941: 2023/11/16(木)17:24 ID:l98n+HE7(1) AAS
人質云々は措いておくとしても決起段階から前田が参加するなら
格的に当然盟主は前田になるから仮に勝てても前田の天下だし
事前の談合も家中がまとまっていない前田相手にしないといけない
密告されるリスクが増大する割には得る物が少なすぎやしないか
942: 2023/11/16(木)19:46 ID:eY1W/FmK(1) AAS
利長はダメでも利政は落とせると踏んでたのかもしれないがその見込みも大外れっていう
943: 2023/11/16(木)20:38 ID:fJqlSdbU(1) AAS
>>867
秀吉が合議制?何言ってんの?十人衆体制は秀吉死後の成立
944: 2023/11/16(木)20:57 ID:IzFTRWxr(3/3) AAS
だよね家康、利家の双頭体制、あるいは序列3位が徳川秀忠、4位が前田利長
なので徳川、前田の双頭体制
945: 2023/11/16(木)21:08 ID:gVW0CrlT(1) AAS
十人衆合議は限りなく黒に近い灰色
秀吉の遺言に「些細は五人の衆に渡した」とあってその同日に十人衆合議制が起請文で確認されてるから
秀吉が最期の最後に家康を政権担当にするのを嫌がったのか、病気でおかしくなってたのか、五奉行がすり替えたのか、もうわからない
946: 2023/11/16(木)22:16 ID:h23STbyb(1) AAS
まあ秀吉は各家に対して、死後に何をされても仕方ない所業をおこなってるからな。

少なくとも徳川、上杉、毛利、織田、長宗我部、島津、佐竹あたりは即座に反旗を翻してもよいだけの仕打ちを受けている。
947: 2023/11/16(木)22:35 ID:ldD/3A6F(1) AAS
>>940
普通はそう読むのが自然だよな
摩阿姫のこの時期の動向を加賀藩史料で確認してみたけどよくわからんな
948: 2023/11/17(金)16:46 ID:x4lZ7fWb(1) AAS
三成もどこまで家康のことを憎んでいたかわからん
949
(1): 2023/11/17(金)18:53 ID:ASYIQ8q5(1) AAS
別に仲悪くなかったし憎んでないでしょ
950
(1): 2023/11/17(金)22:24 ID:8RBB0nCS(1) AAS
加賀征伐と松の江戸入りって「家康の陰謀」というバイアスで語られるけど
告発者は増田長盛でがっつり奉行案件よね

そりゃ自分を告発した奉行が挙兵したら味方しないだろ
951: 2023/11/18(土)07:23 ID:dBbWtHVW(1) AAS
>>950
まあ詫び入れ程度で済むとは思えん、最低でも頭丸めて隠居を申し出る位はしないとな
反徳川の意識がある奴の方がこの件に関しては『いらんことしやがって…!』って考えそうだし
952: 2023/11/18(土)09:24 ID:l8TizkUL(1) AAS
加賀征伐は「前田利長無断帰国」「徳川家康暗殺計画」の二つがごっちゃになってるから割と複雑
流れとしては・前田利長、上杉景勝が帰国→重陽の節句で家康大坂へ→家康暗殺計画が露見→堀秀治、石田三成ら前田利長謀反を報告→増田長盛浅野長政謀反を報告
こんな流れ、で問題は家康を暗殺しようとした土方雄久は前田家の親戚(利長・利政の従兄弟)だったからこれがくっ付いて「前田利長は家康を暗殺して領土を拡大するつもりだった」というそれっぽいストーリーが出来てしまった
953
(1): 2023/11/18(土)14:01 ID:kfP5Shlh(1) AAS
家康がとてつもない汚い野心家であることを否定しすぎていて草
三成も勿論糞だけど、家康も糞
ただし、家康は勝者、三成は敗者だから歴史の評価が分かれてるだけ

家康は豊臣家を潰した奸臣
954: 2023/11/18(土)14:26 ID:rdMKR/jR(1) AAS
前田利長の帰国が問題になったのは前田家の史料にも残ってるから何らかの法的不備があったのは確からしい。佐和山にいた三成が家康にした報告も三成が蟄居同然と考えると利長の帰国で家康暗殺計画ではなかったはず。もしかしたら前田と親しい浅野長政を政治的に追放させて自分が後釜に座ろうとしたのかもしれんけど
問題は増田長盛、こいつがどっちを報告したのかはわからない。家康暗殺計画か無断帰国か
955: 2023/11/18(土)14:59 ID:eK89oazl(1) AAS
>>953
というかあのままなら家康だけではなく、前田、上杉、毛利も豊臣を潰すまでするかはともかく、
豊臣に抑え込まれた勢力圏の再確保に動き始めていたよ。

たまたま徳川が位置的に近い前田が先に屈伏そ、上杉が攻められ、毛利が西国の勢力拡大に向かう順番なだけで、
これが先に毛利が攻められてたら前田や上杉が周辺勢力の切り崩しに動いていただろう。

親族衆を自ら壊滅させ、幼少の子ども一人しかいない豊臣になんの遠慮をする必要がある?
956: 2023/11/19(日)04:55 ID:zD09oyFK(1) AAS
幼い後継者を残して当主が死んだら、普通の戦国武将なら
誰もが脳裏に「下克上の好機!!!」って言葉が浮かぶもんだよな。
957: 2023/11/19(日)07:19 ID:30rA9mP5(1/2) AAS
>>949
真田昌幸宛の書状を知らんのか?
三成は家康と細川忠興に個人的な怨恨を向けてる
まああの書状だと忠興に対する怨恨が根深いけど

わざわざ「遺恨がある」と書いてるくらいだし
忠興の妻ガラシャを殺したのも、三成の仕業だと思うわ
一次史料ではないけど、ガラシャの侍女だった女性が書いた「霜女覚書」では、三成の軍勢が屋敷を襲撃したと
書いてるし
958
(1): 2023/11/19(日)07:50 ID:8X2ZXMAw(1) AAS
霜女って覚書は「石田三成は西軍の総大将」と決まった時代に書かれたものだからそこには注意が必要。ただでさえ少ない石田軍が大坂城に行けた筈が無い。おそらくは三奉行の兵がやったんだろう
959: 2023/11/19(日)09:02 ID:30rA9mP5(2/2) AAS
>>958
あの覚書は経験者が書いたもので、成立もそこまで遅く無いはずだが……
一次史料では無いけど、三成が総大将と決まった、というには成立が少し早すぎる
石田が賊将扱いされだしたのは17世紀末からだし
960
(2): 2023/11/19(日)10:52 ID:xB1dJkJG(1/4) AAS
霜女覚書は関ケ原より48年後の1648年2月19日にガラシャの孫、
当時の細川家当主光尚の求めに応じて提出したもので当事者の記録とはいえ
約半世紀も後に書かれたもの

三成を逆徒としたのは1673年武家事紀が初出だが
責任をすべて三成にかぶせるため挙兵の首謀者とするのはこの覚書以前から
行われていた様子で1614年10月13日島津家久書状に先年石田治部少輔が挙兵の節
、当の細川家の1632年忠興書状に三成畢竟不慮を仕出し候(挙兵の事)などの記述がある

なお細川屋敷を囲んだのは治部少輔方の兵とあり三成方の兵という意味で
石田家の兵というわけではないおそらく3奉行の兵と思われる
961: 2023/11/19(日)11:35 ID:SN4e2X+W(1) AAS
>>960
その二つの書状は知らなかったけど、島津と細川が一次史料で認めてるのは「三成にかぶせる」は難しくないかな……
島津はまだ義弘が生きてるし
962: 2023/11/19(日)12:57 ID:0HeBbIqK(1/2) AAS
まあ、秀次事件で身内であろうが意味はなく、更に駒姫の件で人質を出しても意味がないことが明確になった。

この時に主導したのが秀吉の命とは言え奉行衆なわけで。

その奉行衆が細川ガラシャを殺した時点でまたかとなり、西軍に大義なんてものはなくなった。
963: 2023/11/19(日)13:04 ID:3/88ksxb(1/2) AAS
>>960
大野治房宛島津家久書状案は10月12日付
964: 2023/11/19(日)13:41 ID:E08hnWJq(1) AAS
そもそも論として三成が佐和山から大坂に軍隊派遣して人質をどうこうしてたら豊臣は何してるのって話になる
965: 2023/11/19(日)19:06 ID:vCqNGIh3(1) AAS
秀頼を支えるべき親族、藩屏がいないのが本当に痛いな
秀次がいたらこんなこともないだろうに
1-
あと 37 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.014s