何も無いロレンシア (83レス)
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31: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:48:36.40 ID:zJUkddjZ0 ※ ※ ※ 林の中に入ると、肌を突き刺すような冷たい感覚が起きた。それはイヴにも生じたのだろう。俺たちは無言で視線を合わせる。 とはいえこの程度で止まるわけもなく、無言のまま進んでいくと徐々に肌を突き刺す感覚が強くなっていく。まるでこの林そのものが敵で、間近から殺意を浴びせられているかのようだ。そしてこの現象に心当たりがあった。 「おい……ここは異界になりかけているかもしれん」 「異界?」 これにはさすがに驚いたのか、イヴの声が跳ね上がる。 異界侵食。 それは魔に心を呑まれたモノたちの中でも、より深みにいる者が引き起こす超常現象のことだ。自分がいる周囲を己の住みやすい環境へと浸食汚染し、創り変える。ただでさえ厄介な魔に心を呑まれたモノが、有利な状況で待ち構えるのだ。 聞くところによるとシャルケに討伐された銀目の大鹿は、森全体を住まいと定めたらしい。森の木々は水晶と化し、砕けた破片が空中を漂い自分以外の生物の存在を許さなかった。討伐に向かった者たちは草の水晶に足をやられ、あるいは水晶の破片に目や喉を次々とやられ、銀目の大鹿にまみえることすらできなかったと。鋼の筋肉で隙間無く身を覆い、熱気で破片を寄せつけない“沸血”を除いての事であるが。 「……確かにこれが異界だとすれば、異界の主である彼女の動向をつかみにくいのも納得できる。けど――これが異界?」 イヴはその白魚のような指でそばにある木を撫でながら、疑問をていした。 「こんな現象を引き起こせるのは異界侵食ぐらいしか思い浮かばんが」 「よく考えなさい。確かにここは居心地が悪く、本来のパフォーマンスを発揮できそうにない。しかし、ロレンシア」 イヴは辺りを見回しながら、両手を広げてみせる。 「貴方はこの奇妙な空間から、吐き気をもよおすような邪悪さを少しでも感じたか?」 「ああ……確かに」 異界侵食は魔に心を呑まれたモノの中でも、より深みにある一部だけが引き起こせる超常現象。そんな奴らが浸食汚染した空間は、ただの人間なら踏み入っただけで吐き気と目まい、さらには幻覚に苛まされ、心臓が止まることすらあり得る。 “何も無い”俺はともかく、いかに強靭な精神をもつイヴとはいえ、異界に踏み入ったのなら代償は軽いものではないはず。様子を見るに確かに本来のパフォーマンスを発揮できそうにないが、それは調子が悪いと言うレベル。 「しかしこれが異界じゃないとすれば、いったいなんだ」 「私が知るか」 「ごもっとも」 「ただ――」 「ん?」 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/31
32: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:49:09.62 ID:zJUkddjZ0 「話に聞く異界侵食は、異界の主のためだけに創造されるもの。そこに調和という言葉は無い。けどここは、おそらく標的が来る前と大きな変化が無い」 イヴの言うとおりなのだろう。肌を突き刺す冷たい感覚を除けば、ここはいたって普通の林の中だ。木を見上げると、俺の視線に気づいたこの地域の鳥が羽ばたいて逃げていく。木も鳥も、異界侵食の影響を受けているようにはまるで見えない。 いや、そもそもこの肌を突き刺す感覚ですら、マリア・アッシュベリーを[ピーーー]ことを完全に諦めてしまえば消えてなくなりそうだ。 異界侵食は周囲の環境を侵食汚染し、支配する。だがここはまるで、周囲の環境が自ら進んでマリア・アッシュベリーを守ろうとしているのかもしれない。 そんな奴が、いるのか。 そんなモノが、存在するのか。 チクリと胸が痛んだような気がした。 不思議に感じたが、もしかするとこれが嫉妬なのかという考えが、他人事のように思い浮かんだ。 誰からも一度たりとも愛されたことがない俺。 周りにあるモノが自然と味方するマリア・アッシュベリー。 儚い希望が胸に宿るのがわかった。ひょっとすると俺は、憎めるかもしれない。マリア・アッシュベリーと対峙した瞬間、俺は我を失って斬りかかることができるかもしれない。 空っぽなこの胸は儚い想いが時おり身をおろすことがあるが、それは全て錯覚だったと後で気づかされてばかり。まともであった頃の遠い日の残像。 だが今回は違うかもしれない。例えそれが、負の感情であっても。暗く身勝手な憎悪であっても。今度こそ、何もないこの身を満たしてくれるのかもしれない。 愛が理解できなくとも、その真逆のモノならばひょっとすると―― 「ロレンシア?」 「……何でもない。俺のコンディションは、ここでもさして落ちないようだ。そろそろオマエも姿を消したらどうだ?」 「……ええ、わかった」 イヴの表情を見るに、俺の顔は「何でもない」からかけ離れたモノだったのだろう。 だがしょせんはその場で一時的に組んだだけの相手。俺がどんな存在であっても、想定通りの戦闘力を発揮して標的と戦いさえすれば彼女に何ら不都合はない。イヴは目の前から音も無く消え去った。 意識して一呼吸する。山の新鮮なはずの空気は、忌まわしき俺を拒絶するかのように喉を突き刺す。 鞘から剣を抜き放つ。刃に反射する陽光は、俺の喉元を睨んでいた。 踏みしめて進む足元からは、虫たちの威嚇がほとばしる。 通り過ぎながら樹木を眺めれば、樹皮が歪んで老人の表情となり、無言のまま俺を弾劾する。 これらは全て幻覚であると同時に現実。 あまりに生々しい幻覚は現実に影響を及ぼす。 そして現実への侵食は、アリア・アッシュベリーに近づけば近づくほど増していく。 頭上から次々とこぼれる、落葉の裏に潜む小人たちが槍をこの身に突き立てる。まともな神経をしているのなら血まみれになってしまうのだろう。だが俺は、少し肌がかゆいと感じただけだった。 最後に剛腕となって唸りをあげる枝を片手で横に押しやり、開けた空間に出る。 イヴには遠く及ばないが、俺もそれなりの感知能力はある。この異様な雰囲気に大きく妨げられたが、ここにマリア・アッシュベリーがいることは察していた。 ――そして、大きく目を見開くこととなった。 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/32
33: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:49:44.23 ID:zJUkddjZ0 ※ ※ ※ そこは、絵画の世界だった。 いや、伝説の一場面であった。 ああ、それでも足りないか。 ここは、神話なのだ。 ※ ※ ※ http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/33
34: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:50:19.74 ID:zJUkddjZ0 女が泣いている。 彼女はたおやかな手で顔を覆い、草むらにしゃがみ込み悲しみに暮れていた。 凍てついた彼女の心を温めようと、木々はその身をどかし暖かな陽光を彼女へと導く。 鮮やかな色を誇る蝶たちが彼女を中心に舞い、小鳥は彼女の肩で歌を奏でる。 それでも彼女は泣いていた。 細い肩を震わせ、陽の光を浴びた蜂蜜色の長い髪を揺らし、この世の終わりのように嘆いている。 その光景を、ただ俺は立ち尽くして見ていた。 期待していた憎悪など、微塵もわき起こりやしなかった。いや、期待が裏切られるのはいい。いつものことだ。 だが何だ。なぜ俺の目は彼女を捉えて離さない。この胸を憎悪が満たすことはなかったのに、胸の鼓動が高まるのは何故か。 輝く太陽の光に俺の頭も染められたのか。ぼうっとして、頭が真っ白になってきた。活を入れるために舌を噛もうとしたが、この瞬間を、何かはわからないが非常に貴重なことが起きている気がしてならない今この時を終わらせていいものか迷い、力を込めることができなかった。 いったいどれほどそうしていただろうか。 やがて彼女の肩に止まっていた小鳥が、この場で唯一彼女を慰めない俺を非難するように甲高い鳴き声を向けてくる。 これまでと違う出来事に、彼女はそっと俺の方へと視線を送った。 涙で濡れた翡翠の瞳が俺を捉えたその時、彼女から俺へと強い風が走る。 その風は俺の迷いを吹き飛ばした。それなのに、俺は舌を噛めなかった。それどころか、舌にかけていた歯から力が抜けるのがわかる。 俺はただひたすら目の前の女に、依頼のことなど関係なく憎しみから殺せるかもしれない女に、マリア・アッシュベリーに――――――――――見惚れてしまった。 人は、夜明けを告げる太陽を当然のように美しいと思うらしい。遠く離れていても頬に水しぶきを感じる雄大な滝や、夕焼けに染まる海もそうだ。 その“当然”という感覚がまるでわからず、皆が美しいと言うのを聞いてきた経験則と、まだまともな感性があった頃の記憶を組み合わせて、きっと美しいのだろうなと判別するようになった。 しかし今、初めて理解する。これが何の理屈も無しに、誰に言われるでもなく理由づける必要もなく、当たり前に美しいと受け入れられる存在なのだと。 驚きで半開きとなった口が乾いていくことに気が付き、自分が何をすべきか考える余裕が戻る。 舌を噛む。目を逸らし、一度彼女を視界から外す。深呼吸をする。 でもそんな考えは次々と消え去っていく。 わからなかった。今自分に何が起きているのか、これっぽっちもわからない。こんなこと何も無くもなかった頃、諦観と汚臭に満ち満ちた窓が一つだけの大部屋にいた頃でさえ記憶にない。 「夜の……」 初めてのことに途方に暮れるという、これまた初めての状態に陥っていると、彼女が驚いたように口を開く。 それをきっかけに、ようやく彼女を観察する余裕ができた。 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/34
35: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:51:05.20 ID:zJUkddjZ0 背丈は一六〇半ばで、年はシモン・マクナイトに聞いていた通り二十歳程度。その髪は膝を着いていると地面にふれそうな長さで、蜂蜜色のそれは陽光の下で黄金の如き輝きを放っている。 涙を流し悲しみ暮れるその様子は、何をしたわけでもないのに罪悪感と、無尽の献身を舞い起こすものなのか。その神秘さは、鳥や蝶ならず木々にさえ影響を及ぼしていた。 村娘のように青と白のコットを重ねて着ており、緩やかな服の上からでもふくよかな肉付きをしているのが見て取れた。だが彼女は世間知らずのただの純粋な村娘などではない。 その美しさは絶世の美女であるイヴ・ヴィリンガムに匹敵するだろう。しかしそれだけなら、俺が見惚れることはありえない。 気品のせいかと思ったが、彼女から感じられるものは純朴さであって、気品においてはイヴに軍配が上がる。 彼女にあるものは神聖さだ。 天使か、はたまた女神か。男が女に入れ込み過ぎてそう思ってしまうのではない。老若男女問わず、彼女が人を超えた、それでいて人と相容れる存在だと敬いかしずく。 俺は果たして彼女を斬れるのか。 うまく力が入らず、今にも剣を取りこぼしそうな手を視界の片隅に収めながら、自問自答してみた。 斬る理由があれば、何の問題もなく斬れると答えは即座に出た。 ではシモン・マクナイトの依頼は彼女を斬る理由に足るものかと再び問うてみた。 これも答えはすぐに出た。まるで、足りやしない。 俺は黙ったまま驚きからか、あるいは悲しみからか、うまく二の句が継げないマリア・アッシュベリーの言葉を待つことにした。 しかし待っていた言葉は、とても理解できるものではなかった。 「夜の――――――湖」 「……なに?」 今は夜ではなく、ここに湖と呼べるようなものも無い。 「あ……ち、違うんです。今の言葉はつい出たもので……意味は特にないので、どうか気にしないでください!」 意図のわからない言葉に眉をしかめると、彼女は両手を振りながら慌てて否定した。その姿は神聖さを依然としてそなえながらも、年相応の少女らしいものだった。 「あのっ……私は……私は、その……」 彼女は意を決して話しかけてこようとしたが、段々とその言葉は尻すぼみになり、また悲しそうにうつむく。 “何も無い”俺に、争いごとに無縁そうな女が話しかけるのは並々ならぬ事情があるものだが、そんな経験則を彼女にあてはめられることができるのか。それはわからないし、彼女が何を言おうとしたかもわからない。だが彼女がここまで悲しむ理由に、ここでようやく思い至った。 「“沸血”のシャルケなら死んでないぞ」 「えっ!?」 その言葉にマリアは、うつむいていた顔を跳ね上げる。 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/35
36: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:51:43.49 ID:zJUkddjZ0 別に教える必要は無い。むしろやる気が無くなりつつあるとはいえ、姿を隠しているイヴと共に彼女を殺そうとしていたのに、彼女に気力を与えてどうするというのか。 しかし何故だろう。彼女の周りにいる小鳥や蝶たちではあるまいし、このまま彼女を悲しみに暮れさせるわけにはいかないという想いでも湧き出たのか、気づけば口にしていた。 「本当……ですか? 良かった……本当に、良かった。私は、てっきり」 それ以上は言葉にならず、悲しみではなく安堵の涙を流し始める。 その姿を見て、なぜシャルケが彼女をかばおうとしたのかがわかった。 「“沸血”のシャルケと戦っていたのはオマエか?」 念のための確認に、マリアは安堵から気が緩んだのか隠そうともせず静かにうなずく。いや、そもそも彼女に隠し事ができるのだろうか。 「……はい。あの人は自分の名前を名乗られると、私に決闘を申し込まれたのです」 「シャルケの奴」 予想通りの展開についため息が漏れる。 マリアが只者ではないことは明らかだが、争いごとに向いていないことも一目で見て取れる。そんな相手に武人である“沸血”が戦おうとするのはよほどの理由があるか、正常な判断ができていないかだ。 ようするに武人肌のあの男は、自分も含めて五人の実力者を揃えさせたマリアという存在に興奮しきっていたわけだ。 とはいえ“沸血”に加えて“かぐわしき残滓”、挙句の果てに“深緑”と“血まみれの暴虐”に“何も無い”という不吉極まりないメンツを揃えて、さらに報酬額が十億。見た目通りの女子供ではないと決めてかかっても仕方がないと言えば仕方がない。 「さ、最初は何とか防げていたんですけど……あの人、どんどん動きが速くなって……怖くなって、気が付けば私は……あの人を」 その時のことを思い出し、マリアは罪悪感から再び表情を暗くする。別に身を守っただけで、何一つ罪を犯したわけでもないだろうに。 思い出しただけでこれならば、シャルケを殺してしまったと勘違いした時はこの世の終わりのような顔をしていたことだろう。そしてその顔が、シャルケが意識を失う前に見た最後のものだとすれば辻褄が合う。 仕方がないとはいえ争い事とは無縁の女に鍛え上げた力を振るい、さらに一生もののトラウマを植え付けてしまったのだ。意識を取り戻し冷静になったシャルケがそのことを後悔し、俺たちにこの依頼を降りるように頼んだのは当然の流れだろう。 ――しかし疑問は残る。結局彼女は、どうやってシャルケの攻撃を防ぎ、そして倒したのか。俺ですら神聖視せざるを得ないなど只者ではないことはわかるが、こうして目の前に対峙してもあの“沸血”が敗れたとは信じられない。 「命を狙われる理由に心当たりはないのか?」 結局のところ話はここに行き着く。なぜ彼女を[ピーーー]ために俺たち五人が集められたのか。なぜ十億もの金額がかけられるのか。なぜ彼女は人目を避けるように山に一人でいたのか。 彼女は――何者だ? 「そ、それは……」 マリアは逡巡からか視線を逸らし、そして瞬く間にその表情を凍り付かせた。その視線の先にあるのは、俺が手に持つ抜き身の剣だ。 「ん? 気づいてなかったのか」 初対面の男が武器を持って現れたというのに、呑気なものだ。いや、それだけシャルケのことがショックだったのか。 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/36
37: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:52:16.96 ID:zJUkddjZ0 「シャルケがオマエを狙ったのは、オマエを[ピーーー]依頼を十億で引き受けたからだ。そして俺も雇われた一人でね。もっとも、なぜオマエに十億もかけられるのかは知らんが」 「……嘘、ですよね?」 つい先ほど一生ものになりかねないトラウマを負ったばかりだというのに、それがもう一度襲いかかろうとしているからだろう。彼女は泣きながら笑っているような顔で、青ざめた唇から祈るように囁く。 まあ実のところ、嘘といえば嘘である。もう俺はあまりやる気がなかった。 しかし奴は――イヴ・ヴィリンガムはどうだろうか。元からマリアは隙だらけだったが、今はもう放っておいても死ぬのではというほど無力に見える。奴ならば、次の瞬間にでも最初からそこにいたかのように現れ、音も無くマリアの喉元を引き裂きかねない。 その時俺は、どうすべきなのか。黙ってイヴがマリアを[ピーーー]のを見ているだけか。 選択の時が再び迫ってきた。 いつもいつも間違えてばかりの選択肢。 必死に悩み、相手のことを“何も無い”俺なりに考え、そして何かを得たいという俺の願いにつながってくれと選んだ答えに待つのは、罵声や侮蔑、そして悲しみと怒り。今度も結局そうなるのだろうか。 ここでマリアを助けたところで、今は立て続けに起きた事態に混乱していて俺の異常性に気づいていないが、俺を汚らしい存在と嫌悪するのではないか。初めて見惚れてしまった相手に、その上あの“かぐわしき残滓”から命がけで守った結果がそれでは、もう俺は、何年も目を逸らし続けていた事実を受け入れなければならない。 かといってこのまま見過ごすのか。俺の前でマリアが、俺にとって特別な何かを持っているかもしれない彼女が目の前で喉を裂かれ、口から血を零し、恐怖と痛みと不安に混乱しながら死んでいく姿をただただ見ておけと言うのか。 どちらを選んでも、俺という微妙なバランスで成り立っている存在が崩壊しかねない。 マリアは何者なのか。 俺にとって彼女は、何になりえるのか。 最後の決断のため、祈るような気持ちで彼女を見る。彼女もまた、祈るように俺を見ていた。 「君は……何者なんだ?」 なぜオマエは、こんな目にあっている。なぜオマエは、こんなにも俺の心を揺さぶる。オマエは――君は、俺にとっての何なんだ? 「わかり……ません」 「……わからない?」 「わかるわけ……ありません。つい一年ほど前まで、私は森の中で父と二人っきりで生きていたんです。父が亡くなり遺言通り森を出て、色んな人と出会い、様々な物を見て……初めてのことばかりで苦労も多かったけれど、だからこそ新鮮で楽しかった。楽しかったのに……っ!」 耐え切れずにマリアは頭を抱え、声が高く乱れる。彼女を慰めていた小鳥や蝶が、風に吹かれたタンポポの花のように飛び散るが、それでも彼女を慰めようと辺りをたゆたう。 「少し前から、誰かが私を追いかけ始めました。別の街に行っても、その誰かは……誰かたちはいました。森を出て人を話すことが楽しかったのに、だんだん人と会うのが怖くなり、気が付けば追い立てられるようにこの山に入って……ついには、命まで狙われて……理由なんか、私が聞きたいぐらいです。私が、何をしたんですか? 私は――」 ――私は……何者なんですか? それは嗚咽とも、慟哭とも判断しかねる悲痛な訴えだった。山の中に一人で、誰に打ち明けることもできずにただ自分に味方してくれる自然たちで寂しさを慰めながら、それでも恐怖と不安は高まる一方だったのだろう。そしてそれは、初めての戦いで限界を迎えてしまった。 そんな彼女の姿を見て、自然と大きく息を吐いていた。 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/37
38: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:52:59.13 ID:zJUkddjZ0 「自分が何者かわからない……か」 それは、俺もだった。 たったそれだけの共通点。けれどそれは二つの選択肢に悩んでいる俺にとって、十分すぎるほどの後押しだった。 決めた以上、迷いは無くなった。たとえこれから、どのような地獄を歩むとわかっていても。 剣の切っ先をそっと柄に納める。しかしすぐに抜けるように、柄には手をかけたままで、どこにいるとも知れぬ“かぐわしき残滓”に宣言した。 「イヴ。俺はこの話から降りる」 存在を消して標的を狙っていた暗殺者への無遠慮な呼びかけは、殺されても文句が言えないものだ。 「オマエがマリアを狙うのは止めはしない。止めはしないが――混乱が収まらないままの彼女を狙うというのならば、話は別だ」 殺意は感じない。敵意も感じ取れない。だがそんなこと、何の気休めにもならない。相手はあの“かぐわしき残滓”なのだ。鋼の冷たい感触が皮膚に触れる寸前になってようやく察せられるかどうか。 「今日は止めとけ。でないと俺が相手になる」 返答は無い。迂闊に音を出して場所をさらさないということは、俺と戦うことを検討しているのだろうか。 いや、それは違うか。“沸血”のシャルケを倒した未知なる相手、マリアへの数的優位が崩れてなお依頼の遂行にこだわるのは愚かなことだ。そしてアイツは愚かではない。 場所をさらさずに、音も無く引き上げたのだろう。 「綺麗な人……」 「……わかるのか?」 マリアのため息とともに零れた言葉に、耳を疑う。 「はい。もう去ってしまったけれど……とてもとても綺麗で、でも見ているこっちまで寂しくなってしまう美しさ。まるで冷たく乾いた風に翻弄されていくうちに、自然と研磨されたサファイアのような女性」 「自然と研磨されたサファイア……か」 初対面――実際には対面していないが――の相手に妙な表現をするが、そういえば俺への第一声も変わったものだった。確か「夜の湖」だったか。 ひょっとすると彼女には人とは違うものが見えていて、それがイヴの隠形の業すら見破ったのかもしれない。 「あの……貴方は、私を……殺そうとは、しないんですか?」 恐る恐るマリアは尋ねる。それは下手に希望を抱いて、より深い絶望に陥るのを恐怖してのことか。 「……元から乗り気じゃない依頼だった。ただ俺やシャルケを集めて、さらに十億もの報酬をかけられたオマエに興味がわき、一目見ようと思って来ただけだ」 そして予想外の結果を出た。まさかこの俺が、誰かに見惚れることができるとは。 いったい彼女は何者なのか。森の中でずっと父と二人で生きてきたと言っていたが、なぜそのような奇妙な生い立ちなのか。そして何故シモン・マクナイトたちはそんな彼女の命を狙うのか。 聞きたいこと、調べなければならないことはいくらでもある。しかしそれをするには、彼女に歩み寄らなければならない。“何も無い”この俺が、神聖な少女マリア・アッシュベリーにだ。ひょっとするとそれは、冒涜的な行為で許さることではないのではという、らしくもない危惧が浮かんでしまう。 ――貴方は、神を信じていますか? 「……ッ」 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/38
39: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:53:44.13 ID:zJUkddjZ0 二年前。夜の冷たい風にかき消されそうなか細い、しかし尋常じゃないほどの情念が込められた問いが思い起こされる。 ――私は信じています。だって 俺はあの時の問いに、考えたこともないし興味もわかないと答えた。アイツはそれに、死蝋の如き顔なのに目だけは爛々と輝かせ―― ――神がいないのなら、私は誰を恨めばいいんですか? 「あの……どうしたのですか?」 「……いいや、何も」 マリアの神聖さにあてられ、柄にもなく神について考えてしまったせいか。考えまい、考えまいとして記憶の奥底にしまい込めていたものが浮かび上がってしまった。 ともあれ、彼女は不用意に接触していい存在ではないように思える。少し慎重すぎるきらいはあるが、今日はこれまでとしておこう。 「ひとまずオマエは安全だ。“沸血”のシャルケは死んではいないが重傷なうえに、オマエに負い目を感じている。“かぐわしき残滓”――ああ、おまえがサファイアと呼んだ女だが、一人ではオマエを狙いはしない」 そして残りの二人、“深緑”のアーソンと“血まみれの暴虐”フィアンマがマリアと会うことはない。 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/39
40: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:54:15.08 ID:zJUkddjZ0 「あ、あの! お願いです、待ってください!」 きびすを返そうとする俺を、マリアは懸命に呼び止めた。 「わけもわからず命を狙われて心細いのはわかるが、頼る相手を間違っているぞ」 彼女からすれば俺は味方に見えたことだろう。でも俺を味方にしようとした奴は、割り切った金の関係以外は全員悲惨な目にあってしまう。 「俺は夜の湖だったか。言いえて妙だな」 ふと、マリアが俺を表した言葉を思い出す。 「暗い暗い水の中は、何があるのかわからない。恐ろしい、なのに惹きつけられる。そして下手に探りを入れようものなら、水の中の得体の知れない化け物に飲み込まれてしまうんだからな」 「ち、違います! 私は、そんな意味では――」 「オマエの味方は、きっと白馬の王子様みたいな絵に描いたような存在だろうよ。断じて俺ではない」 特に考えなしに口にした言葉だったが、的を得ているような奇妙な感覚があった。まったく王子様は何をしているのだろうか。“沸血”のシャルケに襲われている時に駆け付けなかったせいで、よりによってお姫様は“何も無い”俺を味方だと錯覚してしまわれた。 「世も末だ」 自分のくだらない想像に思わず笑ってしまいながら、きびすを返して戻ろうとしたところだった。 「私は……マリア・アッシュベリーといいます」 俺をこの場にとどめるのは無理だと悟ったのか。残念さをにじませながら、彼女は穏やかに自分の名を告げた。 ああ、そういえば。彼女は俺が何者なのかまるで知らないんだった。 「俺はロレンシア。ロレンシアと名乗っている」 俺の微妙な言い方に彼女は小首をかしげたが、受け入れた。 「さようならロレンシアさん。そしてできればまた、お会いしましょう」 「……ああ、できればな」 彼女は咲き誇る花のような笑顔で別れと、再会を願う言葉を口にした。 親愛の笑みを向けられるのは初めてのことで、上手く答えることができなかった。 言葉だけではなく、本当にまた彼女と会わなければならないと思っている。だが、果たしてそれができるのか。そして、許されるのか―― http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/40
41: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:54:46.08 ID:zJUkddjZ0 ※ ※ ※ マリア・アッシュベリーの敵ではないと見なされたのだろう。林の中を通っていても、生々しい幻覚に襲われることはなかった。 そして林を抜けると、横たわるシャルケの傍らに佇む女が出迎えた。 「何か弁明はありますか?」 「何も。あるとすれば謝罪だけだ。すまなかった」 謝罪をほんの一言で済ませた俺に、イヴは大きくため息をつく。 「裏切者」 「……」 「嘘つき」 「……」 「自分から言い出したくせに」 「……」 「惚れっぽい」 「……」 「むっつり」 「……」 「スケベ」 「……ちょっと後半から待ってくれるか」 何を言われても仕方ないので受け入れようと思っていたが、話がものすごい勢いで予想外の方向に進んでいるため、つい待ったをかけた。しかしそれにイヴは蔑んだ眼をする。 「ちょっと優しく会話をしてくれただけで惚れるだなんて。“何も無い”と呼ばれるほど縁のない人生だったのでしょうけど、いくらなんでもドン引きです」 「俺はオマエにドン引きだよ」 「自分に優しくない女には辛辣なんですね」 「いや、裏切ったのにずいぶん優しい対応だとは思っているぞ」 「えっ……私が優しいからって、惚れないでください。恥ずかしすぎて、虫唾が走ります」 こいつはいったい何なのだろう。殺されても文句は言えない身だが、つい阿呆を見る目で見てしまう。 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/41
42: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:55:29.60 ID:zJUkddjZ0 「まあ冗談はこれぐらいにしておきましょうか。私は寛大ですから、これからする質問に正直に答えれば、裏切ったことについて不問に処します」 「寛大ねぇ」 「不服でも?」 「いいや。正直に答えましょう」 俺を殺そうとするのではなく質問で許すのは、寛大だからではなく別の理由があってのことだろうに。 「貴方は今回の依頼から降りるとあの場でいいましたが、それはマリア・アッシュベリーを欺くための虚言ではなく事実か?」 「ああ、事実だ」 「……では、これから起きる事態についても当然覚悟の上だと?」 「そうなるな」 「そうですか。それは、実に見ものですね」 イヴは手の甲を口元にあてクスリと、しかし目だけはめったに見られない見世物を前にしたようにおかしそうに嗤う。 「俺も質問してもいいか?」 「ええ、どうぞ。何せ私は寛大ですから」 「今回の結果は外れじゃない……むしろ当たりだと思ってないか?」 「……へえ?」 イヴは目をわずかに細めるが、その声は平たんで乱れがなく、意表を突かれた様子は無い。だが俺は気にすることなく続けた。 「元からオマエがマリア・アッシュベリーという未知で強力な存在に、ただ数的優位があるという理由だけで挑むことに違和感があった。そして裏切った俺への寛容な態度。これはオマエが寛大だからではなく、最初からオマエの目的はマリア・アッシュベリーの暗殺ではなく、別にあったからだと推測される」 「それで、その別の目的とは?」 「オマエの目的は、依頼を受けること自体にあったんじゃないか?」 「へえ? もっと具体的に言ってくれませんか? 言っておきますが、もう少し核心を突いてくれないと動揺するフリもしてあげられません」 「……ダメか」 残弾はもう無い。 俺と同じでマリアと接触するために依頼を引き受けたのだとすれば、マリアに顔を見せないまま戻りはしないだろう。今回は顔を見るだけでよく、後日接触をはかる予定なのかとも考えたが、もはやそれは推測を元にした推測にすぎず、言ったところで呆れられるだけだ。 今ある弾を打ち尽くしてでも揺さぶりをかけて、そこからさらに弾を得ようとしたができなかった。イヴの様子を見るに、的外れではないようだが。 「まあ悪くはない手でした。実は私がマリア・アッシュベリーの味方だったのなら、ここで貴方と吐き気を我慢しながら手を取り合って協力する、どどめ色の展開になり得る問いでした。あるいは焦ることなく判断材料をあと二つほど得てから私を問い詰めればよかったのですが……今この瞬間のみが、貴方が私を味方に引き込める機会だったのでこれは仕方がありません」 もうイヴにとって俺は用済みなのだろう。背を向けてスタスタと歩き始める。そして俺はそれを黙って見送ることしかできない。 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/42
43: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:56:13.06 ID:zJUkddjZ0 「あ、それと」 何故かピタリと歩みを止め振り返った彼女は、真剣に、そしてとてつもない質問をした。 「マリア・アッシュベリーに本当に惚れたの?」 「……冗談で言ったわけじゃなかったのか」 イブの罵声というには幼稚な発言を思い出し、本気だったのかと驚く。 「貴方がどんな考えでこの依頼を受けたかは知りません。しかし依頼から降りるだけでなく、私の妨害までした。その結果これから起きる事態についてわからないほど馬鹿ではなく、覚悟もできている。彼女に惚れてしまったと考えるのは、それほど的外れしょうか?」 言われてみれば確かに、はたから見ればそう思えても不思議ではなった。 しかし決して俺はマリア・アッシュベリーに惚れてなどいない。 「惚れたなんて、そんな甘く優しいものじゃけっしてないさ」 俺が彼女に何を想っているのか。それは今から整理することだったが、決して惚れたわけではないという自信だけはあった。 しかし俺の答えに、イブはここにきて蔑みではなく初めて哀れんだ眼をした。 「“何も無い”ロレンシア。貴方は初めての感情に戸惑っている」 「何を」 「貴方は自分のマリア・アッシュベリーへの想いが、甘く優しいものじゃないという。だから惚れたわけではないと判断している。それは、恋をしたことが無い者の考え」 何百という暗殺を成し遂げた生ける伝説とは思えない仕草で、イヴは自分の胸を抱きしめる。 「本当に惚れたのなら、愛してしまったのなら、正常な判断なんてできなくなる。その人のためならば、たとえ命の危険があろうと立ち向かえる。そして、そんな無謀なことができるのに、拒絶されることが怖くて想いを告げられない」 これまでずっと抑揚の無かったイヴの声に、段々と抑えきれないかのように熱が帯びていく。何かを求めるように伸ばされたその細い指先は、かつて誰かを求めて、それを思い出しているのか。 「でも胸に抑えていくうちに想いは強まる一方で、拒まれた時が怖いのに、不安なのに、ついには我慢できずに恋い慕っていることを伝えてしまう。あるいは恋しているからこそ、それほどの想いを押し[ピーーー]。――それが、恋よ」 「……なるほど。確かに俺は、恋をしたことがないな」 そんな狂おしいまでの情熱に振り回されたことが一度でもあるのならば、“何も無い”なんてことありえないのだから。 それにしても―― 「……いや、甘く優しいわけじゃないって言うが、オマエが今言ったのもそうとうなんというか、ロマンチックというか少女的というかオマエいくつだっけ?」 「…………さて。聞きたいことは訊けたわけだし、私は山を下りる」 やや早口で頬をかすかに赤らめながら、二十代半ばの女は話を逸らした。 「依頼を降りるにあたって、当然事情は話す。私は貴方がどうなろうとどうでも良かった。でも今の話を聞いて応援ぐらいならしてもいいと思えた……けど、やはり無理でしょうね」 イヴは陽炎のようにその姿を消しながら、言葉だけ残していく。 「ロレンシア。せめて死ぬ前に、今その胸にあるものが恋だと気づきなさい。認めなさい。それができないままなのは、あまりにも惨めだから」 「……だから、違うと言っただろうが」 もういなくなった相手に悪態をつき、ここに残っているもう一人に目を向ける。シャルケの容態は特に変わり無く、このまま山に放っておいても問題は無さそうだ。とはいえ今後利用できるかもしれないのでその重い体を起こし、背中に背負う。 「いくらこいつでも、戦闘可能になるのは一週間は必要か」 そして、その時はとうに決着がついていることだろう。無駄なことになると予想できたが、俺は山のふもとにある街までシャルケをかついで降りることにした。 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/43
44: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:56:45.65 ID:zJUkddjZ0 ※ ※ ※ あれからどれぐらい時間がたっただろうか。空を見れば、日が沈みかけている。茜色の空から降り注ぐ日差しはまだ暖かく、まるで今の私の胸の心境のようだった。 「とても、キレイだったな……」 その人がどういった人間なのか。一目でわかることに気づいてからまだ一年も経っていない。それまでお父さんと二人きりで生きてきたから気づきようが無かった。 誰でもわかるわけではない。これまでの体験からなんとなくわかってきた条件は、私と波長が合うか、極めて強い意志を持っていること。どちらかの条件を満たしている人は数百人に一人ぐらいで、そういう人と出会えるのが楽しみだった。 波長が合えば合うほど、あるいは意志が強ければ強いほどはっきりとイメージがはっきりと見える。そして今日は、これまで見た中でもっとも強く鮮烈なイメージを、立て続けに三人も見ることになった。 熱を帯びたままの錬鉄。 自然と研磨されたサファイア。 そして、夜の湖。 「どうして、あんなこと言うのかな……?」 私は夜の湖が好きだった。森の中で私の一番のお気に入りの場所で、森を出てからも何度も思い起こした。 月光の下で輝く深い藍色。 羽音を立てながら水面(みなも)に着水する鳥たち。 周りの木からハラリと落ちた葉が、クルリクルリと回りながら静かにたゆたう。 鳥や魚たちの躍りでさざめく波紋。 頬に感じるかすかな冷気。 穏やかで静かで、けど命の息吹がそこかしこにたくさん芽吹いていた。 私の大好きな場所。私の大好きな場所と、あの人から感じるイメージはまったく同じだった。 けれど、彼は夜の湖という言葉を良い意味でとらえてはくれなかった。 「あの人、傷だらけだった……人に傷つけられてばかりだったせいかな?」 別に全身を見たわけでもないのに察してしまうほど、彼のわずかにのぞかせる肌は傷で埋め尽くされていた。頬や額、手の甲や喉。私なんかでは想像もつかない生き方をしてきたんだろう。 「また会えるかな……こんなことなら、着いていけば……でも」 さっきからあの人のことばかり考える。追いかければ良かったんじゃないかと想像する。 でも迷惑をかける結果ばかりが思いつく。私は顔も目的もわからない人たちから狙われている。迷惑をかけないためにも、一人でいないと。それに―― 「あのキレイな人……イヴさん、だったかな。ロレンシアさんとどんな関係なんだろう」 一緒に仕事を、それも危険なことをする仲なんだ。あんなにキレイな人と一緒にいたら、きっと好きになるに違いない。私が着いていったところで邪魔になるだけなんだろう。 「今、どこにいるんだろう?」 迷惑をかけてしまう、邪魔になるとわかっている。それでも考えが止まらない。 「あっ」 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/44
45: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:57:20.58 ID:zJUkddjZ0 ある考えが閃いた。あれほど強く鮮烈なイメージが見える人なら、離れていてもわかるかもしれない。 多分あれから経った時間は三時間ぐらいだろう。山のふもとにある街に彼はいるかもしれない。 その時、私はワクワクしていた。これだけ離れていても彼がわかるのなら、彼の意志が強いだけでじゃなくて、波長まで合っていることになるかもしれなかったから。 だがらイメージが見えた時、私は本当に嬉しかった。拳を握って、やったと口にする瞬間だった。 「えっ……」 そして絶句した。 夜の湖を見ることはできた。けど様子がおかしかった。 夜の湖がぼこぼこと泡立つ。それは魚が起こすものではなかった。泡立ちは穏やかな波紋ではなく、岸辺を侵食する波に成り果てる。 湖の周りにある木々の根本から、濃い緑が信じられないほど大量に湖に流れ込み、藍色を塗りつぶしていく。 魚たちが苦しむ。鳥が奇声をあげ飛び立とうとする。鳥が水面を離れた瞬間だった。泡立ちの中から鋭い刃が生え出て鳥を貫く。 刃は何本も何本も現れる。濃い緑は絶え間なく湖を汚す。緑と鳥の紅い血が混ざり合う。 私の大好きだった光景は、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされていった。 「……ッ」 吐き気を催して口元に手をあてる。うずくまりながらイメージを見るのを止めた。 今のは、いったい何だったのか。頭を整理していくと、自然と口に出る言葉があった。 「限りなく黒に近い緑……」 そう、あれは黒に近いけど黒じゃなかった。黒のように綺麗と汚いを併せ持つ存在では断じてなかった。ただただおぞましかった。 「血まみれの針山……」 ただ血を流すだけを良しとして、そのことに何の罪悪感も抱かずに、むしろ悦楽を見い出す許されないもの。 その二つが、夜の湖を蹂躙していた。 「殺される……」 あの人は強い人だ。きっとシャルケさんと同じぐらい強い。でもそんなこと、まったく関係なかった。 世の中には善人もいれば悪人もいる。そんなことわかっていたし、悪い人と出会ったことも何度もあった。けどその認識が崩れるほどの邪悪の権化。アレに比べれば、これまで出会った悪人が善人に思えるほどの存在。私の想像が及ばない在り方。アレと遭遇してしまえば、この世のモノとは思えない死に方をしてしまう。 それがたとえ、あの人であっても。 そんな存在を直接目にしてしまえば、果たして私は正気でいられるかわからなかった。決して出会いたくない。けど―― 「このままじゃ、ロレンシアさんが……殺される!」 うつむいていた顔を上げれば、日が沈み切っていないのに暗くなり始めている。いつの間にか辺り一帯に暗雲が垂れ込めていた。 暗雲は、侵食するかのようにあの人がいる街にまでその手を伸ばしていた―― http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/45
46: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 02:59:19.49 ID:zJUkddjZ0 〜第二章 逸脱の始まり〜 うつ伏せの姿勢で硬い感触を味わっている。冷たい雨に体を打たれ、濡れそぼった衣服がこの身を縛る。血が流れる左頬だけが熱く、石畳に反射した雨粒がぶつかり痛みを染み込ませていく。 久しぶりに見る夢だ。久しぶりだが、この夢は何度も見ている。夢うつつの中で、だいたい一年ぶりだろうかと数えた。懐かしさも親しみも無い、過去にあった出来事の追憶をぼんやりと味わう。 まだ体が小さな頃の事。窓が一つだけの、諦観と汚臭に満ち満ちた大部屋から抜け出したものの、ガラの悪い大人たちに殴り飛ばされ金目の物を奪われた後のことだ。殴られた衝撃が引かないまま、雨に体温が奪われろくに頭も働かず呆然と倒れたままでいると、目の前の水たまりにパンが落ちた。 見上げるとそこには、ニヤニヤと笑う裕福そうな男がいた。男はゆっくりと足を上げる。足を降ろす先は、泥水で汚れたパンがあった。 迷う暇など無かった。うまく動かない体を無理矢理前に飛ばし、なんとかパンと靴の間に顔を割り込ませることができた。 哄笑が鳴り響く中で頭を踏まれながら、スープではなく泥水で柔らかくなった硬いパンを咀嚼する。この日初めて得た糧。今日はもう何も食べられないかもしれず、それは明日も同じだった。 この時だったのか、それともその少し前の馬車の中でだろうか。今になって振り返ってみてもはっきりとはわからないが、どんなに遅くてもこの時なことは確かだ。 俺は躊躇いと尊厳を無くした。生き残る上で邪魔だったから。 街の路地裏を小さな子どもが生き抜くのは難しい。残飯や盗める量には、ある程度上限があるからだ。言い換えると、路地裏で生きることが許される浮浪者と孤児には限りがあり、限りあるその世界に余所者の俺が現れた。そして俺はその世界で間違いなく最弱だった。最弱だったけど、躊躇いと尊厳が無かった。 当時の俺は知らなかったが、その路地裏に生きる者たちには暗黙のルールがあった。それは食料を巡って他の住人と出くわした時は、強者は多く弱者が少なく、という形で分け合うこと。 強者が全て取れば、追い込まれた弱者が破れかぶれで強者に襲いかかってしまう。追い詰められた者の力は恐ろしいものがある。強者は勝つことができても、少なからず傷を負ってしまう。そして栄養状態が酷い浮浪者や孤児が、不衛生な路地裏で負った傷が悪化して死んでしまう事態も珍しく無い。そういった経験から何十年と時間をかけて作られた、その路地裏での慣習だったのだろう。 けど余所者の俺は、そんなこと知らなかった。学ぼうにも、俺は躊躇いを無くしていた。様子を見る余裕も無かった。 食料を巡って路地裏の住人と出くわした時、俺は譲らなかった。威嚇もしなかった。初手が攻撃だった。 まだ小さい子供だったが、錆びついて汚れた包丁を全力で振り回す俺はきっと狂犬のような眼をしていたのだろう。慣習をまったく守らない俺に、住人たちは最初は泡を食って逃げ出した。 やがて住人たちは、路地裏の秩序を乱す俺を排除することを決めた。決めるのに一ヵ月かかった。その一ヵ月の間に、俺は邪魔なものをもっと無くしていたというのに。 月明かりのない夜だった。アイツ等は俺が寝床と定めていた場所に忍び足で近寄り、一斉に木の棒で叩き始めた。何度も何度も、路地裏の秩序を破壊した憎い俺に、腹を空かす原因となった俺に、恐怖を与えた俺に、それらから解放される喜びで、狂ったように叩きまくった。 叩いて叩いて汗だらけになり肩で大きく息を吸うようになって、ようやく叩くのを止めた頃。寝床の中が布切れの集まりであったことに、汗が冷える感触と共に気づく。その瞬間を狙っていた。躊躇いも無かったが、焦りも無くしていた。絶好のタイミングまで待てるようになっていた。 後ろからの奇襲で最初に狙ったのは、周りに指示を出していた発起人らしき男だ。小さな俺だから狙いやすい膝の裏を、全力で包丁で貫く。発起人のたがの外れた悲鳴が、恐怖と緊張で張り詰めた空間を切り裂いた。何が起きたかわからない他の住人は、混乱して蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。包丁で膝をやられた発起人だけが取り残される。 発起人は倒れるように後ずさりながら、必死に命乞いをする。住人たちは俺を排除することを決めるのに、一ヵ月もかけてしまった。せめてもう一週間早ければ、発起人は助かった。 俺はもう、容赦を無くしていた。 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/46
47: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 03:00:02.27 ID:zJUkddjZ0 足元にあった拳ほどの大きさの石を拾うと、両手で顔をかばう発起人に飛びかかり、何度も何度も腕の上から石を叩きつけた。やがて腕がダランと下がると、今度は頭に振り下ろし、目をつぶし鼻をつぶし口をつぶした。 そして男の息が止まると同時に、石を振り下ろすのを止めた。 そうしてしばらくの間、引き続いて俺は腫物を触るように扱われた。俺を排除しようにも、一人や二人でやる勇気が奴らには無かった。それ以上の数となると、まとめる者が必要となる。発起人の無残な死に方を知らない住人は誰もおらず、そんなことを引き受けようとする奴もいなかった。 俺は最弱だったが、路地裏の支配者となっていた。残飯を貪り、体を少しずつ大きく逞しくした。 やがて新たな面倒ごとが俺のところに来た。路地裏は薄汚い取引の場所に都合よく、路地裏の支配者である俺を部下にしようとする男がいた。男はマフィアの幹部で、あの日俺にパンを投げ捨てた男だった。 男はマフィアの幹部なだけあり、話が通じた。だが部下は馬鹿だった。部下になれという男の提案に、衣食住に特に不満の無かった俺は従う意味を見い出せず、静かに断った。男は時間をかけて俺を説き伏せるつもりだったため、俺の拒絶をあっさりと流した。しかし部下は孤児の分際で兄貴の顔に泥を塗りやがってと怒り狂ってしまう。そして俺に成り代わり路地裏の支配者になろうとして、返り討ちにあった。 部下をやられては幹部も黙っているわけにはいかず、俺を始末して管理が面倒な路地裏を自分のものにしようとした。 血まみれの争いが再び始まった。争いの中で俺は強くなっていく。それと引き替えに大切なモノを無くしていたなど気づく余裕がないほど、生と死の狭間を行き来した。 たった一人のガキに予想以上に手こずり、やがてギャングは見栄よりも実利を優先して手を引いた。たった子ども一人に情けないと笑う奴が、街には一人もいなかったことも大きかっただろう。路地裏の“アレ”、路地裏の“アイツ”と呼ばれる存在を知らない奴はいなかった。 平穏が訪れ、腹を空かすこともなくなった時、ふと気が付いた。ボロボロになった体を他人事のように見る自分は何者なのかと。俺に残されているモノは何なのかと。 気づけばもう、俺はたくさんのモノを無くしていた。そしてそれらがあった頃の記憶が非常にあいまいで、自分のモノと感じられなかった。 考える時間と余裕はいくらでもあり、やがて俺は無くしたモノを取り戻したい気持ちが固まっていく。そしてそれは、俺のことを知らない者がいないこの街ではできそうになかった。 旅立つことにした俺は街の門に向かう。衛兵は入門の札を持たない、いつの間にか街に入り込んでいた俺を喜んで見送った。 街の外に出て頬に風を感じながら髪をなびかせていると、名前が無いとこれから先不便なことに思い至る。記号なら前に持っていたが、そんなものを名乗る気にはなれなかった。 ロレンシア。 確かここから遠く離れた地域の一般的な名前だったはず。行商人同士の会話を物陰からなんとなく聞いていた記憶から掘り起こした名前を、俺の名前にするにした。理由はこの地域の名前でなかったから、ここでないどこかに行こうとする俺にふさわしいように感じたからだったはず。 “何も無い”ロレンシアと呼ばれるようになるのは、それから数年後のことだった―― http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/47
48: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 03:00:35.93 ID:zJUkddjZ0 ※ ※ ※ 「……ふん」 目覚めたのは追憶が終わったからか、仮眠が十分とれたからか。あるいは離れた街の門の方から、犬や鳥などの小動物がざわめく気配を感じ取ったからなのか。どれであっても構わなかったが、久しぶりに見た夢につい鼻を鳴らす。 さて、久しぶりに子ども時代の夢を見たのは何故だろうか。硬いベッドを軋ませながら上体を起こし、みずぼらしい部屋の中で窓を見る。眠りにつく前に兆候はあったが、空が薄暗く染まりひんやりとした外気があちらこちらの隙間から流れ来る。雨が降るのを感じ取ったから、雨が降る夢を見たのだろうか。 「違うな」 肯定するように雷が鳴り、轟音の振動が窓を通して肌をうつ。だいぶ近かったようだが、どうせなら門の方から這うように近づく気配に直撃してくれればいいものを。残された時間があまりないことを察しつつ、最後となるかもしれない思索にふける。 やはり原因はマリア・アッシュベリーのせいだろう。彼女が自分が何者なのかわからないなどと、絶望で憔悴しきった様子で言うからだ。だから俺が、何者でもなくなっていく過程を思い起こしてしまった。 “何も無い”ロレンシア。不便だから自分でつけた名前と、自分の身に降りかかる災いをもはや他人事のように感じる虚ろな存在。ひょっとしたら俺は何者かであった頃の残照にすぎないのかもしれない。かすかに残されたこの感情も、残りカスだと考えればつじつまが合う。 ――ロレンシア。せめて死ぬ前に、今その胸にあるものが恋だと気づきなさい。認めなさい。それができないままなのは、あまりにも惨めだから。 イヴは俺がマリアに恋をしていると言った。残照にそんなことができるのか。できるのならば残照ではないのか。仮定の上に仮定を積み重ねても実のある結論はでそうになかった。 もうあまり考える時間は残されていない。だから一つだけでも結論を出そう。彼女は俺にとって何なのか。胸に手をあてながらそっと目を閉じる。 街の往来から、人々のどよめきが聞こえる。肌の下を虫が這いずり回る感触があったが黙[ピーーー]る。今はそれどころではないのだから。 暗闇の中で思い起こすのは、今にも壊れそうなほど悲しみに暮れるマリアの姿。蜂蜜色の髪を揺らし、その細い肩を震わせて泣く姿。これ以上彼女を苦しめるわけにはいかない。 目をゆっくりと開く。光が差し込む中で思い起こすのは、別れ際のマリアの咲き誇る花のような笑顔。もう一度あの笑顔を見たかった。 冷たい外気と喧騒、不快な気配。それらとは別に、ほんのりと胸が暖かいような気がした。その暖かなモノは心臓に乗って全身を駆け巡り、体中に力を漲らせていく。これはマリアのことを考えているからなのか。 「……もう一度、彼女に会おう」 これが恋だとは思えなかった。けど彼女に会いたかった。誰かに会いたいと思ったのは十何年ぶりだろう。ひょっとしたら初めてなのかもしれない。 これが希望なのか。それとも希望を装った絶望なのか。わからないが、だからこそわかるまで死ぬわけにはいかない。 先ほどまでと比べて、ボロ部屋の中の明るさが増したように思えた。とても裏路地にある、訳ありの人間のための宿とは思えない。造りは貧相なくせに、代金は並の宿の数倍とられてしまった。もっとも、その半分近くは官憲に流れるのだろうが。 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/48
49: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 03:01:09.71 ID:zJUkddjZ0 海千山千の店員と、ガラの悪い男たちが一階にたむろっていたが、修羅場を経験しているだけあって今は息を押し殺している。本当は駆け出して逃げたいのだろうが、それができない事情もあるのだろう。そいつらを意も介さず、重量のある物体が宿に入り、そして階段へと向かう。 腰かけていたベッドから立ち上がりながらため息をつく。正直、もう少し思索にふけっていたかった。彼女について考えていたかった。 革鎧を身に着けながら耳を澄ませていると、階段を上がる音が奇妙なことに気づく。ズルリベチャリと、湿ったような音。粘度が高いものを階段から下に零した時の音を、階段を上がりながら立てているかのようだった。 階段の軋む音から相当な重量があると察せられるソレは、階段を上がり終わるとゆっくりとこの部屋へと近づく。そしてとうとうドアの前に立ち止まったソレは、ドアを叩いて鈍い音を響かせた。 「今手がふさがっていてな。鍵はかかってないから勝手に入ってくれ」 外套を身にまといながらそう声をかけたのに、ドアの前のソレはまたノックする。腰に剣を着けて、壁に立てかけておいた予備のもう一本を手に持ちながら仕方なくドアへと向かう。 そして――剣を抜き放ち、ドア越しにソレを貫いた。 もろい木を貫いた先から伝わる、柔らかな感触。その手応えは人の肉のモノではなかった。一度斬ったことがあるワニが連想されたが、構わず剣を捻り傷口を広げる。 ドアに穴を空けたことで、ドアと剣の間に暗闇が生まれていた。衝撃で軋むドアの隅にも真っ暗な影がある。そこから黒と見間違う濃い緑があふれ出た。 蛇だ。 ある蛇は剣をつたいながら、ある蛇はドアの下をくぐり抜け、ある蛇はドアの上から零れるように降り注ぎ、牙を剥いて俺に襲いかかる。その数は十を超えていた。 「フッ!」 蛇たちに噛みつかれる直前。刺突を終えたままの姿勢から右足で床を蹴り、剣をさらに相手にねじ込むように体を捻りながら前に飛ぶ。蛇たちは振り払われ、穴の開いていたドアは体当たりで砕け、そして剣で貫かれていたソレは廊下の壁にまで吹き飛び、木製の壁を軋ませながら張り付けとなる。 木屑がパラパラと舞い落ちる中で、この街に入り込んでからすぐに感じていた気配の正体を、目の当たりにすることとなった。 ソレは異様な風体を過剰に覆い隠そうとし、それなのにまるで隠せていなかった。 背丈は一八〇半ばほどか。だが相対して感じられるのは、縦の大きさではなく横の大きさであった。茶色のローブで全身を覆い、さらに目元以外をシュマグで隠していたが、それでも首の無い体であることを察せられる体形だ。 だが体形のことなどどうでもよくなる特徴が他にある。それは胸元に剣を突き刺されたまま平然とした様子であることと、流れ出る紫色の血、そして眼だ。 その眼は白目の部分が無く、黄色の眼の中で縦長の瞳孔が不気味に黒光りしている。蛇のような、蛇ではない眼。コイツだけの瞳。 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/49
50: ◆SbXzuGhlwpak [sage] 2019/06/01(土) 03:01:56.22 ID:zJUkddjZ0 魔に心を呑まれたモノ、“深緑”のア―ソン。 今からたしか二年ほど前。南西の小さな村で、住民全員が緑色に膨れ上がって死んでいる事件があった。悪臭が漂う中での調査で、村の名簿七十六人に対して死体が七十五であることがわかる。見つかっていないのが誰なのか調べようにも、死体はどれも誰であったかわからない惨状で、村に何度も出入りしている行商人に立ち会わせても見分けがつかなかった。しかし行商人は、村の嫌われ者ア―ソンが怪しいと思うと衛兵に告げる。 捜査には教会も協力していて、捜査結果からア―ソンが魔に心を呑まれたと判断を下し、聖騎士ベンジャミンに討伐を命じた。 ベンジャミンは代々聖騎士を輩出してきた名家の跡取りであり、その名に恥じぬ武芸に秀でた美丈夫である。彼が仲間の騎士と従騎士、合わせて十二名で出立した際には、大勢の婦女子が中心となって歓声をおくった。 そして一ヵ月後、端正な顔立ちを緑色に膨らませ、はらわたが何十という蛇に巣食われた状態で発見されることとなる。 「話には聞いていたが……聞いていた以上に蛇だな」 後ろから静かに這い寄ってきていた蛇を踏みつぶしながら、初めて目にする生物に見入る。これまで魔に心を呑まれたモノを三回見たことがあり、それは硬質な肌に上半身が以上に大きくなってしまった姉弟と、地獄を夢見て地獄そのものと化してしまった侯爵だ。どれもこれも独特で似通っているのは不快感だけである。 その三度の経験を踏まえて考えるに、“深緑”のア―ソンの深みは姉弟以上侯爵未満。異界侵食を引き起こす一歩手前の、極めて危険な状態であった。 「何モ……無イ……ロレンシア」 その声は甲高く、それでいてくぐもっていた。シュマグで口を覆っているとしても不可解な声質だが、人であることをやめた者の声帯に常識など通じないのか。 「私ヲ見テ……眉一ツ動カサナイ……ナルホド、噂通リノ……男ダナ」 「物珍しくはあるが、驚くほどのことじゃない。ところでオマエの肌だが」 剣を抜きながら後退すると、ア―ソンの傷口から流れる血が一層激しくなる。だが血の流れは一気に緩み、ボコボコと泡立ちながら収束していき、やがて蛇の頭がそこでうごめき始めた。生えたばかりの深緑の蛇はチロチロと舌を不気味に動かす。 「……オマエの肌はウロコなのかと訊こうと思ったが、ウロコと蛇が半々のようだな」 「ククク……呆気二トラレルダケカ……愉快、愉快クカカカカカカカカカカカカ――デモ、何故ダ」 身を震わせ、その重量で廊下を軋ませながら思う存分笑っていたが、ピタリと不快な振動を終える。そして子どもの玩具のようにガクンと首を横に傾げた。 「何故……依頼カラ降リタ? 標的ハ思ッタヨリ強イヨウダガ……ソレニ臆スル男ニハ、見エナイ」 「臆したんじゃないんなら、他に理由があるんだろ。それをわざわざオマエに話すつもりはないが」 「……ナルホド、ナルホドナルホド」 何故依頼から降りたのか。それは他人に軽々と話せない、俺の在り方に関わるもの。付け加えれば、俺の彼女への気持ちも確信できない状態で口になどできない。相手が魔に心を呑まれたモノとなれば言わずもがな。 だが俺のそんな微妙な心境が声に出ていたのか、ア―ソンはこれまた愉快そうに笑いだす。 「オマエヲ……狂ッテイルオマエヲ……惑ワスホドカ……ソレハソレハ」 シュマグで見えないが、常人では口を裂かないと不可能な笑みをソレはしてみせながら―― 「孕マセガイガ――」 ――不快な音色を流し始めたので、その発生源目がけて下から剣を突き上げる。 http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssr/1559323558/50
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