信教の自由 (10レス)
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1: 2014/10/14(火)14:24 AAS
信教の自由に関するスレッドです。
2: 2014/10/14(火)14:25 AAS
■ 公会議宣言『信教の自由に関する宣言』に即した、カトリック国家に対するローマ教皇庁の政策

 1965年以来、カトリック国家に対する、ローマ聖座の政策の根本的な変化を示す事実を、いくつか引用するのは、興味深いことと思われます。それまでの聖座の施策は、とりわけ政教条約(コンコルダート)による教会と国家との(さまざまな形態による)一致団結を助長するものでしたが、同庁の新しい政策の目的は、教会と国家との分断し、ならびにカトリック教を国民の宗教ないしは国家によって保護される宗教、あるいは国家の宗教として認める憲法の条項を排除することにありました。

1−バチカンの圧力によるコロンビア国家の世俗化

 国民の圧倒的大多数(98%)がカトリックのコロンビアにおいて、ローマ教皇庁の要請により、カトリック教のみが唯一国家によって公認される国家であると定める憲法の条項が削除されました。削除の理由としてあげられたのは、人間の尊厳および信教の自由でした。これが起きたのは、1973年のことです。
 バチカンの国務長官は2年間にわたってコロンビア共和国大統領に圧力をかけ、同条項の廃止にいたらせたのでした。これはルフェーブル大司教がコロンビア司教協議会の書記の口からじかに聞いたことです。
(マルセル・ルフェーブル大司教 バルセロナでの講話 1975年12月29日)

 憲法上、「カトリック教が国家によって公に認められる唯一の宗教である」と定める同国において、当の憲法条項を廃止するよう求めたのは、国家首長ではなく、ローマ教皇庁に他なりませんでした。ルフェーブル司教は、同国大統領、教皇大使ならびに司教団代表のスピーチを直接に耳にしたのですが、それによると、「この三つのスピーチの中で、一番カトリック的だったのは、共和国大統領のスピーチだった」のです。
省3
3: 2014/10/14(火)14:26 AAS
2−ルフェーブル大司教とスイスの教皇大使アンブロジオ・マルチオニ司教とのベルンでの会話 
1976年3月31日

ル大司教 「第2バチカン公会議の中には危険なものがたくさんあることが分かると思います。・・・信教の自由についての宣言には、歴代の教皇様たちが教えてきたことと正反対があります。カトリック国家はもやはあり得ないとされています!」
教皇大使 「勿論ですよ。」

ル大司教 「カトリック国家の廃止とか、そんなことをしたら教会の利益になると思いますか?」
教皇大使 「ああ、でも分かりますか、カトリック国家を廃止したらソビエトでもっと大きな信教の自由が得られるでしょう。」

ル大司教 「でも私たちの主イエズス・キリストの社会統治はどうなるのですか?」
教皇大使 「そんなのは今では不可能です。遠い未来にはどうなるか分かりませんがね。今の時代はイエズス・キリストの統治は個人的なものです。

ル大司教 「では回勅『クワス・プリマス』はどうなってしまうのですか?」
教皇大使 「ああ、今では教皇様はそんなことは書きませんよ。」
省7
4: 2014/10/20(月)03:49 AAS
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年の1月21日は、このブログを開始して満7年になります。愛する兄弟姉妹の皆様のご愛読を感謝します。

 今回は、第二バチカン公会議の「信教の自由」について、もう一度考察してみることを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
省9
5: 2014/10/20(月)03:50 AAS
 さて、
「自分の確信にしたがって行動するのを妨げられない」(nee impediatur iuxta suam conscientiam agat)ということは、或る特別な市民法(Ius civile)によって、例えば、或る特定の宗教の寺院を建設することや、或る特定の宗教行事に参加すること、或る特定の宗派による学校を創立すること、普通のプロパガンダにより或る特定の宗教が宣伝活動をすることなどが妨げられないこと、を意味します。

 この後者について言えば、カトリック教会は第二バチカン公会議以前には、特定の状況下においては、或る範囲内で、国家がそのような状況を黙認(寛容)する態度【Tolerantia】を取ることを承認していました。更には、国家がこのような状況が立法によって、市民法によって保護することさえ、カトリック教会は認めてきていました。しかし、カトリック教会は、これを「自然法」(Ius naturale) として認めたことはありませんでした。

 自然法としての信教の自由は、唯一、真の天主に対する真の礼拝であるとカトリック教会が認める礼拝を実践する人々にのみ属するものであるからです。つまり、カトリックの宗教を実践することのみを自然法としての信教の自由として認めてきていました。何故なら真理のみが正しいこととして権利を持つからです。

 「市民法」と「自然法」との違いは?

 自然法は、人間の自然本性と人間本性に由来する義務に基づいて言います。人間は、天主による被造物であるので、人間には被造物としての義務、つまり宗教の義務があります。従って、この真の天主に対する真の礼拝を行う義務があるゆえに、人間には天主に礼拝をする自然法としての権利(ius naturale)があります。もちろん、真の天主に対して真の礼拝をするという権利(ius)です。
 言わば、自然法とは常に真なるもの、善なるものに関わっています。自然の理と真の天主に合致することがらに関わるものです。
省6
6: 2014/10/20(月)03:52 AAS
 信教の自由に関する宣言は、どのような善に自由を与えることを欲しているのか?

 人間の人格という善、人格の尊厳のゆえに、「自分の確信(conscientia)にしたがって行動するのを妨げられない」べきである、と言います。確かに、宗教は誤っており嫌悪すべきであるかもしれない、しかし、人格は尊厳を持っているがゆえに自由を与えよ、と主張しています。

 そのような主張に対して、カトリック教会は排斥をしてきたのではないか?

 人間には、人格の尊厳が故に自然法としての自由があるという主張は、以前には存在していませんでした。

 しかし、十九世紀には、「良心と礼拝の自由」及び「礼拝の自由」という名前で信教の自由を認める要求がありました。リベラル派が「各人が各々の宗教を選び、その信仰宣言をする自由」という名で要求していました(レオ十三世の回勅『インモルターレ・デイ』)。彼らは、人間の最高の善として自由を持ち上げ、その自由を善用しようが悪用しようが、自由をどのように使おうがかまわず尊重せよ、と要求しました。
省3
7: 2014/10/20(月)03:52 AAS
 私たちは「第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったのか?」で、「人間は天主によって「天主の似姿」に従って原初の義において創造された」というカトリックの真理を、聖伝によれば「人間は、至福直感によって天主の永遠の至福の命を得ることができる存在として創られた」という意味に理解していましたが、第二バチカン公会議は「人間が自由であること、自由な選択によって行動すること」と理解していることを見ました。

 従って「自律独立ということは天主の特徴である」というカトリックの真理を、カトリック聖伝によれば「天主の似姿にふさわしい人間の尊厳は、正しく自由を使うことによってのみ維持される」と理解してきましたが、第二バチカン公会議は「どのような選択であれ、人間の尊厳は、人間が知識と自由な選択によって行動すること」と理解していることを見ました。

 更にこの「自由」について考察を深めていきたいと思います。 以下、箇条書きにしてみたいと思います。

【3】良心と人間の行為の自由

 カトリック聖伝によれば、キリスト教の道徳秩序については、理性と啓示とによりキリスト教信者は教えられる。
省8
8: 2014/10/20(月)03:53 AAS
 従って、カトリックの聖伝によれば、良心の形成において、人間は自律的ではなくあくまでも天主の御旨に従属する。天主の御旨が人間の自由気ままな自分の思い通りに従うのではなく、人間が天主に従わなければならない。
(グレゴリオ十六世回勅『ミラーリ・ヴォス』1832年8月15日、ピオ九世訓話『マクシマ・クイーデム』1862年6月9日、ピオ九世『シラブス』排斥命題15、レオ十三世回勅『リベルタス』1888年6月20日)

 良心の形成のための基準は客観的な道徳秩序であり、純粋に主観的な思い込み・確信ではないということは、確立された基本原理としてどのようなときでも、つまり間違って形成された良心の場合にでも、守らなければならない。間違った良心の命令が、客観的な道徳秩序を変えることは無い。

 地上に存在するあらゆるものは、天主に秩序づけられなければならない。天主に対する愛は、第一の、そして最大のおきてであり、天主の栄光ために、天主は被造物である人間を望まれた。

 従って、あらゆる社会制度の起源、および究極の目的は、その創造主である天主であり、天主を究極の最高の共通善として追求することにこと、これに服従することにこそ、真の幸福がある。

 従って、個人的良心の権利と自由と尊厳を口実に、この客観的秩序から人間を免除させることはできない。(ピオ十二世ラジオ・メッセージ1952年3月23日、ピオ十二世訓話1952年4月18日、グレゴリオ十六世回勅『ミラーリ・ヴォス』1832年8月15日、ピオ九世訓話『マクシマ・クイーデム』1862年6月9日)
省6
9: 2014/10/20(月)03:53 AAS
[現代世界憲章] 16(良心の尊厳)
 良心は人間の最奥であり聖所であって、そこでは人間はただひとり神とともにあり、神の声が人間の深奥で響く。良心は感嘆すべき方法で、神と隣人に対する愛の中に成就する法をわからせる。良心に対する忠実によって、キリスト者は他の人々と結ばれて、ともに真理を追求し、個人生活と社会生活の中に生じる多くの道徳問題を真理に従って解決するよう努力しなければならない。正しい良心が力をもてば、それだけ個人と団体は盲目的選択から遠ざかり、客観的倫理基準に従うようになる。打ち勝つことのできない無知によって、良心が誤りを犯すこともまれではないが、良心がその尊厳を失うわけではない。ただしこのことは、真と善の追求を怠り、罪の習慣によって、しだいに良心がほとんど盲目になってしまった人にあてはめることはできない。

 第二バチカン公会議によれば、キリスト者がキリストから啓示を受けた内容は、天主の御旨や天主の神秘ではなく、人間の神秘である。「超自然は自然を完成させる」が、キリストの啓示は人間の自由の尊厳であり、すべては人間に秩序付けられなければならず、人間は何にも従属する必要は無い。天主が聖とされるように祈るということは、すなわち、人間が聖とされることである。

[現代世界憲章] 22(新しい人・キリスト)
 最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする。・・・事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。

[現代世界憲章] 12(神の像である人間) 
 地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならないということについて、信ずる者も信じない者も、ほとんど意見が一致している。

[現代世界憲章] 24(人間の召命の共同体性格)
 神と隣人と[ソノママ]に対する愛は第一の、そして最大のおきてである。
 そのもの自体のために神が望んだ地上における唯一の被造物である人間。
省10
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