賎のおだまき・武家の時代の男色 (185レス)
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23
(4): 2008/05/29(木)19:48 AAS
AA省
27: 2008/05/30(金)19:42 AAS
>>23

財部駅はなにもないので、都城駅よりタクシーかレンタカーがよい。
28: 2008/05/31(土)15:34 AAS
>>23
まず拠点は馬立・南財部郵便局へ
 そこから図で上(白い道)・・古井方向へ

  南財部郵便局  (財部町南俣5058−5)
   外部リンク[php]:www.jp-network.japanpost.jp
93
(1): 2010/09/18(土)09:29 AAS
>>23.>>68

(十四頁:倉田小浜狼藉 平田三五郎危難の事)

倉田軍平後ろより三五郎を大抱きに、宗次(三五郎)脇差抜かんと悶えるを、
小浜助五郎ひたと両手を握りて少しも動かさず、 三五郎は無念至極に思われつ 心の中は燃ゆる火の火水になれと揉みあうに、此の勢いに三五郎が髪は元結ふっと切れ梅の匂いの乱れ髪乱れて馨る春風に吹かれて衣裳の裳返る。 雪を欺くその肌に倉田小浜は堪えかね、花のようなる宗次(三五郎)をば、強力無双の両人が物の数とも思わずで、即にねじ倒し無理に本意を達せんと日も入相の無常を告ぐる山寺の鐘の音響き音添えて哀れいや増す春の暮、往来の人もあらばえに、哀れや三五郎が未だ少年の悲しさに、叶わぬ物故に詮方無くも涙ぐみ・・
ここに一人の主馬に打ち乗りたる・・
94: 2010/09/18(土)13:04 AAS
>>23.>>68.>>93

薩摩は現在の鹿児島と宮崎にまたがった地域。このころ、薩摩では『郷中(ごじゅう)』という郷(地域)を中心とした制度がつくられた。これは稚児と二才[(にせ・20代青年)
庄内の乱(慶長4年:1599年)での「古井原の戦い」というのがあった。このあたりで実際に戦って二人とも死んだ。墓も実在し子孫が墓参りする。
このあたりで戦があったのだろうが、現在でも交通が不便で、思いやりタクシーなどというのが活躍している鄙びたところのようだ。

「賎のおだまき」で、13歳(満11,2歳)、今で言えばほんの小6あるいは中1位か今で言えばJr.あたりの美童の誉れの高い三五郎、野に小鳥だかを取りに一人で行った。一度でもかの美童と契ることができれば死んでもよい。そう想い焦れてきた二人の暴漢、倉田軍平と小浜助五郎。それとも知らず襲われ女の子が襲われるように無理無体に襲われる。そしていよいよ着物の帯に手がかかる、

その頃は元服前の少年武士(若衆)は誰か兄貴([二才]の「稚児」となって瑞々しい肉体を捧げ[契り]をすることになっていた。したがって処女(生童/きわらべ)を守らねばならない。これは薩摩の「郷中」と言って「稚児」と「「二才」(にせ・15〜25)の「男色」の話です。

三五郎は脇差を抜いて抵抗しようとするのだが、13歳の美童の細腕では、藩の荒くれ男二人に敵うはずもない。刀を抜こうとするも、すぐその細腕を押さえられ揉み合ううちに着物の裾も乱れ、雪のように白い柔肌ガ露わになる。それをみて溜まらず舌舐めずりする男に押し倒されてしまう。
省5
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