長尾景春 (630レス)
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(1): 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/09(火)00:31 ID:rjbhaNNV(1/3) AAS
上杉憲実
関東管領山内上杉氏の本拠地は群馬県藤岡市南西にあたる平井城で武蔵国・上野国・伊豆国を領国として関東統治をしていた。また分家は越後守護になった。
のちに越後上杉家から山内上杉憲基の元に養子に入って管領職を継いだ憲実(父は山内家出身)は何かと京都に反抗するDQN鎌倉公方足利持氏に諫言し続けた。
1・持氏が将軍に選ばれなかったのを逆恨みして兵を率いて上洛しようとするのを諫止して止めさせた。
2・幕府の改元を無視した持氏に代わり謝罪の使節を派遣し幕府との関係を修繕し、持氏の鎌倉府が横領していた幕府所領を返還させた。
【このころより足利の領主も兼任した憲実は荒廃しきっていた足利学校を再興し援助を開始した。初代校長鎌倉円覚寺快元和尚を招き蔵書を寄贈したりした。
一説にはこの上杉憲実が足利学校を開設したもので、1432年以前には存在しなかったという説もある。これは、水戸藩が編纂した『大日本史』の記述に書かれている】
3・将軍義教が富士下向して恫喝してくると関東情勢不穏を理由に出席を延期させ幕府要人に進物するなど調停活動をして持氏を諫めた。
4・信濃国で守護小笠原氏と豪族村上氏が対立した時にDQN持氏が管轄外にも関わらず村上氏支持で出兵しようとするので兵を出して信濃侵入を阻止した。
5・持氏の信濃再出兵が企画されると憲実は相模国藤沢へ下り、持氏は在職を望むものの憲実は管領職を辞任した。
省8
37: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/09(火)00:32 ID:rjbhaNNV(2/3) AAS
長尾景仲
憲実は隠居して弟の清方を名代として政務をとらせた。ここにおいて、山内家の主導権をにぎり実際の政務にあたったのは長尾氏であり、家宰を惣社長尾忠政が、武蔵守護代は景仲が務めていた。
その後、景仲は忠政に代わって山内執事職も務めるようになった。宝徳元年(1449)、永寿王丸は成氏と名乗り鎌倉府が再興された。関東管領職には上杉憲忠がつき政務を行った。
しかし、成氏は父や兄に属して没落した者の子孫を取り立て側近に登用したため、それに反対する管領上杉氏と対立するようになった。
 当時、山内上杉氏では憲忠が若年であったため、長尾景仲が名代として政務一般を取り仕切り、景仲を長尾一族が助けて関東は事なきをえたという。
一方、扇谷上杉氏の当主顕房も若年であったため、家務は執事の太田資清(道灌の父)が代行していた。
長尾景仲と太田資清の両人は「その頃関東の不双の案者なり」と称され、ともに才幹・武力にすぐれた実力者であった。
参考・・・長尾景仲の像外部リンク[htm]:www.manabi.pref.gunma.jp

長尾景信
1413年、上杉憲実の家宰・長尾景仲の子として生まれた。1461年、父が高齢を理由に隠居したため、その後を継いで山内上杉氏の当主・上杉房顕の家宰となった。
省5
38: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/09(火)00:38 ID:rjbhaNNV(3/3) AAS
景春の父が上杉顕定を越後から養子に迎え関東管領山内家当主として擁立してあげた恩を忘れ景春から山内家宰職の地位を奪った。
これらのことが関東を果てしなき混乱に導いた経緯です。
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