[過去ログ] 奥多摩で少年たちに虐待を繰り返していた韓国人の自称住職。実は僧侶資格のない無職犯罪者。★2 (813レス)
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745: 基本。 2018/11/29(木)22:01 ID:kF884116(12/13) AAS
>「十八歳迄は人並に成人するが、十八歳から先は、なんぼ年をとっても、いつも十八の姿や」
これは、甘露で育てるわけですから、当然の事です。

増野鼓雪先生が、厳密な理としての表現よりも、文学的な表現であると言うことに留意しても、十八の姿でずっといられると言うのが、理としての甘露の持つ意味をきちんと示しています。

「乳や乳母で育てるのではない」という言葉ですが、これは、「生母の乳」や「乳母の乳」で育てるのではないと、理解されます。
「いわゆる母乳」で育てるのではないと言う事です。

当然のことで、十八になっても十八の姿のままであるとするならば、その女性は授乳と言う行為そのものとどういう関係になるのか。
そこで、「甘露」という言葉の意味が、良く見えてきます。
実に、甘い、露の事です。

神の与えと言うものは、人間の都合に合致した「甘い露」である。
それが基本です。
省3
746: 基本。 2018/11/29(木)22:04 ID:kF884116(13/13) AAS
【よう苦労して来た】逸話篇114

 泉田籐吉は、ある時、十三峠で、三人の追剥に出会うた。その時、頭にひらめいたのは、かねてからお仕込み頂いているかしもの・かりものの理であった。
それで、言われるままに、羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下さい。」と言って、頭を上げると、三人の追剥は、影も形もない。
 余りの素直さに、薄気味悪くなって、一物も取らずに行き過ぎてしもうたのであった。そこで、泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着し、教祖にお目通りすると、教祖は、

「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ。」
と、仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
追いはぎですから、
> 「心根の腐った出来が悪い人」
> 「畜生以下の人間」
省4
747: 2018/11/30(金)00:03 ID:7gD3EOB/(1) AAS
あと349日
748: 基本。 2018/11/30(金)00:38 ID:VLgy8sTC(1/66) AAS
「ほしい人に貰ってもらえばなお結構」という、逸話も有ります。
普通のものの考え方と、ちょっと違うのは、「ほしい人」と言われたのは、この場合、追いはぎではなく、泥棒さんでした。

そしたら、欲しい人というものにみんなあげてしまうことが、おやさまのお望みという事になります。

そこで、立場を変えてみれば、欲しくても手に入らないものがある事に気がつきます。
つまり、あげたくてもあげれないものがあるとわかります。

たとえばそれは、おたすけの名人泉田先生の効能ある「おさづけの理」。
それは、欲しくても貰えるものではない。
そういうものがあります。
「命」、命を貰って延命すると望んでも、それは貰えません。
「健康」、その人の健康を自分に欲しいと願っても、手に入れられません。
省6
749: 基本。 2018/11/30(金)00:41 ID:VLgy8sTC(2/66) AAS
良いのか、悪いのか、判りませんが・・(笑)
お筆先三号には、このような理が知らされてあります。
 このよふは にぎわしくらしいるけれど
 もとを知りたるものハないので     三号92

普通の天理教徒さんが言われていますところの、
> 金で買えるものとかは、与えてしまえるもの。
それは、賑わしい暮らしそのものの、アイテムと見てよいでしょう。
衣服も家も、自動車も、幸福な生活のアイテムは、おいはぎや、泥棒から見たら、手に入れたいもの。
自分が幸福になるためには、賑わしさ、つまり繁栄こそ必要なわけで、
「物質文明」と呼ばれるその物質は、実は、欲しい人には貰ってもらえるもの。差し上げられるものなのです。
省5
750: 基本。 2018/11/30(金)00:44 ID:VLgy8sTC(3/66) AAS
 このよふは にぎわしくらしいるけれど
 もとを知りたるものハないので     三号92

 このもとをくハしくきいたことならば
 やまいのおこる事は ないのに     三号93

甘露が、寿命薬とか、食事なしで済むとか、色々に言われます。
病まない、死なない、弱らない。そのシンボルが、「甘露」です。

賑わしい暮らしをしていても、病は起きる。
この元を知ったら、病は、起きない。

こういう風に、読めてしまう、お筆先でした。
751: 基本。 2018/11/30(金)00:47 ID:VLgy8sTC(4/66) AAS
おやさまご存命の時代に、おやさまの所にたすけを求めて大勢の人が来ています。
それは、ご利益を求めてでありました。

山名系教理で説くところの「人間完成の道」を求めてのものではなかった。
人間が、成人したら、人間が完成したら、たすけてやろうと言うおやさまではありませんでした。

おやさまは、「ほこりを払うよう」にと、言われています。
 
 この元を詳しく知りた事ならば 病の起こる事は無いのに 三号94
何もかも知らずに暮らすこの子供 神の目にはいぢらしき事 三号95

神の目には、いじらしいのであって、「この未熟者め」ではないということ、「甘露」という教理の大前提に、なっていて、
それが判らぬと、神様がわからないという事になってしまうことでしょう。
省3
752: 基本。 2018/11/30(金)00:50 ID:VLgy8sTC(5/66) AAS
心得違いを正してから、甘露ではなく、先ず甘露。
それがおやさまのお心だから、おいはぎさんにも、泥棒さんにも、貰ってもらえばなお結構と、教えられています。
そうですよね。

この元の基本は、一列兄弟の「をや」がいる。です。
そして、おやは「ご利益」を下さる。

これが神様なのです。
おやから、頂くと言う事に熱心である方が、
お筆先の教えにそっていると、それが人間であると言う基本です。
753: 基本。 2018/11/30(金)00:53 ID:VLgy8sTC(6/66) AAS
>おやさまの示されたのは「助け」であり「救け」ではないと、基本的にはそうりかいされます。
どちらでそう理解されているのかお教えいただきたい
具体的な著作物等、参照

お筆先の三号に、
「この話、悟りばかりであるほどに これ悟りたら証拠ためしや」とあります。

この話というのは、おやさまの教えのことですが、直接的には、前のお筆先に知らされてあります。

「柱さい しいかりいれた事ならば この世確かにおさまりがつく」 三号13
「この話 悟りばかりであるほどに これ悟りたら証拠ためしや」  三号14

つまり、「この世を治めるこの話とは、悟りばかりの話であるという事ですから、悟るのは「人間」です。
人間が悟り、証拠ためしをする。 
省6
754: 基本。 2018/11/30(金)00:56 ID:VLgy8sTC(7/66) AAS
「このたびは たすけ一条教えるも これも無い事はじめかけるで」 三号17
たすけるのは親神様です。
それだけを見つめますと「救済」と言う意味に感じ取れます。
「救済」→「救け済み」。つまり、済んでしまったとか、済ませてしまうという意味を含んでいます。

「泥海の中より守護を教えかけ それがだんだん盛んにるぞや」  三号16
「このたびは たすけ一条教えるも これも無い事はじめかけるで」 三号17

親神様が人間にたすけ一条を教えると言う行為は、「救済」でしょうか。
元にさかのぼって、親神様が泥海の中から教えかけたのは、「だんだん盛んになった」というのは、「救済」でしょうか。

元始まりにて、教えかけたのは「助け」であり、「救済」ではない。
これは、理解できると思います。
省10
755: 基本。 2018/11/30(金)00:59 ID:VLgy8sTC(8/66) AAS
りやく=神、でなく、りやく=神の存在を納得させるもの、神の一面
という理解でよろしいでしょうか

おやさまは、「神は理である」と教えられています。
これは、教理の基本です。

そして、おやさまは「りやく」と語られているわけです。
聞いた、神官守屋は「利益」と聞いた。
そして、高弟たちは「利益」と伝承した。

おやさまは「ごりやく」と語られていないから、「りやく」という言葉だったとして伝承されています。
「ごりやく」ならば、「ご利益」と感じをあてられます。

「理は神である」
省17
756: 基本。 2018/11/30(金)01:02 ID:VLgy8sTC(9/66) AAS
原典に参照しますと、お筆先二号に、「よろづたすけの模様」について、
きちんと親神様は、理を知らされています。

「世界中 どこが悪しきや 痛みしょ 神の道教せ 手引き知らすに」 二号22

「この世に 病と言うて 無いほどに 身の内障り 皆思案せよ」   二号23

病魔というのは、神からの「みちおせ」「てびき」「しらす」に。
それを、
あると信じて、願うまことに、見えてくる「りやく」が神のすがた。
こういう、基本を示しているお筆先です。

直近の実例ですが、ある方が末期のがんの方に、病の理をおさとしした。
それで、持ち返した。
省13
757: 基本。 2018/11/30(金)01:06 ID:VLgy8sTC(10/66) AAS
> 昭和33年に初版の、深谷忠政著「教理研究 元の理」が発行されている。
元の理は、かみの「りやく」=姿を知るための基本ですが、
それが、教団教義では歪んで解かれています。

> そのはしがきには、このように記されている。
頁1、「天理教教典が出た時、"第三章元の理が無ければ、未信者にそのまま読んで貰っても、まとまっていて大変匂いがけに都合が良いのですが、あれがある為に、一般の人にそのまま教典をお渡しするわけにいかなくなる"という声を何度か聞いたことがあった。」
「現在でも同様の思いをしておられる方が多いのではないかと思う。」
「元の理は新しい別席のお話台本にも出てくるし、これを表に出す以上、何等か解明の手がかりがあたえられなければならぬと考えたものの、それは極めて困難なことであることを自覚せぬわけではない。」
・・・・・・・・・・・・・・
教団インテリは、病と理との基本を諭さないで、「つとめの人衆」の魂の因縁論を語ることで、ごまかしたということですが、
第三章元の理が、布教の基本、よろづ助けの模様であるのです。
省8
758: 基本。 2018/11/30(金)01:10 ID:VLgy8sTC(11/66) AAS
> 其の頃御教祖は、信仰の進んだ者には、扇の伺いと云うのを御許しになって居りました。
この、↑増野鼓雪先生の解説は、すべてが天理の事実と一致するとはならないわけです。
三十年も苦労したという結果に渡しているのではない、元冶元年ころ入信したての人に渡してしまわれているのですから、
「渡す時期というものは、本人が求めたら」という事での時期も有るということです。
渡し方にもさまざまあり、おさづけの例で言えば、「小児」に渡した史実もある。
「信仰の進んだものには」という解説は、とても危険な解説だったということに、やがて、なります。

> 聞く所に依りますと扇の伺いを貰われた或方が、天気の好い日に足駄(※2)をはいて、雨傘を持ってお地場へ来られる。
> すると近村の人々が大変笑ったが、帰られる時には丁度雨が降って来て、雨傘と足駄が間に合うようになる。
それを見て近村の人は不思議がったと云う話が、今でも残って居るのであります。
この史実で判るのは、「天気予報代わりに扇の伺いをしていた・怪しげな信仰者が居た」という、事実です。
省8
759: 基本。 [age] 2018/11/30(金)01:13 ID:VLgy8sTC(12/66) AAS
増野鼓雪先生の資料から、ですが、
外部リンク:geocities.yahoo.co.jp
聞く所に依りますと扇の伺いを貰われた或方が、天気の好い日に足駄(※2)をはいて、雨傘を持ってお地場へ来られる。すると近村の人々が大変笑ったが、
帰られる時には丁度雨が降って来て、雨傘と足駄が間に合うようになる。それを見て近村の人は不思議がったと云う話が、今でも残って居るのであります。
 此の点から考えますると、信仰とは病気を助けて貰うとか、安心を得るとか云うのが最終の目的ではなく、
神意の悟得(※3)が其の目的でなければならん様になって来ます。即ち安心や病気の助かるのは、
此の神意の悟得が出来たら、なんでもなく出来る筈であります。此の点に於て、本教の信仰の目的は明らかなものだと云えるのであります。
 御本席も始め此の扇の伺いを教祖から頂かれたのであります。そしてその扇の伺いを使われた事で今日まで語り伝えられて居るのは、
勤場所を建築される時、教祖が御本席に蔵へ這入(はい)って伺えと仰せになった。其の時御本席が蔵の中で扇で伺われると、
我知らず蔵の中をかけ廻られた。そして其の事を御教祖に申し上げられたら、教祖は、それは蔵を取り払えと云う事やと仰せになった。
省8
760: 基本。 2018/11/30(金)01:16 ID:VLgy8sTC(13/66) AAS
 御本席も始め此の扇の伺いを教祖から頂かれたのであります。
そしてその扇の伺いを使われた事で今日まで語り伝えられて居るのは、
勤場所を建築される時、教祖が御本席に蔵へ這入(はい)って伺えと仰せになった。
其の時御本席が蔵の中で扇で伺われると、我知らず蔵の中をかけ廻られた。
そして其の事を御教祖に申し上げられたら、教祖は、それは蔵を取り払えと云う事やと仰せになった。
それで蔵を取り払うて勤場所を建てられたと云うのであって、これが御本席の扇の伺いを立てられた始めであるようであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・

普通の天理教徒さん。
話の核心は、鼓雪先生が伝えている所の、この引用部分にあります。

本席様は、扇の伺いを「教祖の御命で」伺っています。
省3
761: 基本。 2018/11/30(金)01:20 ID:VLgy8sTC(14/66) AAS
「扇」を持つと言うことは、普通の天理教徒さんの立場で言えば、おさづけの理を頂くということだと、あなたが言われていますよね。
そしたら、おさづけというものは何に使うかといえば、病助けですから、「たすけ一条」の道具ですから、おたすけに用いるもの。

おやさまのお言葉ですが、二つの内容を含んでいますよね。
ひとつは、これです。
「世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。」
もうひとつは、これです。
「道は、辛抱と苦労やで。」

「世界の事は何も心にかけない」「世界の事は何も知らない」なんて、とても簡単なことですよね。
政治のことも経済のことも、何も心にかけなくていいのですから、まさに、ノー天気そのもの。

それに対して、「道は苦労と辛抱やで」これはどういう意味かといえば、重荷だという感じです。
省2
762: 基本。 [age] 2018/11/30(金)01:23 ID:VLgy8sTC(15/66) AAS
> おやさまのお言葉には、
> 「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。道は、辛抱と苦労やで。」
> と、お聞かせ下された。
つまり、「たすけ一条」をつとめる道としては、「苦労と辛抱」で、難儀不自由したり、人から悪く言われたりして、「成人」していくということですよ。
そして、「世界の事は何も知らなくても、心にかけなくても、皆世界の胸の内が映るようになっていく、そういうことが、その成人の過程が、
道を通るものの、当然の苦労です。

そうじゃないんですか。
そうでしょ、基本さん。

と、言いたいのを、じっと辛抱している。
そうですね。普通の天理教徒さん。
省11
763: 基本。 2018/11/30(金)01:28 ID:VLgy8sTC(16/66) AAS
AA省
764: 基本。 2018/11/30(金)01:41 ID:VLgy8sTC(17/66) AAS
依頼人がいれば、「頼まれて扇を使う」のは、神様の道具として、当然の事です。

そこで、「世界のことに無知で、何にも心にかけない」とは、「あほう」という言葉が、自然に付きまとうでしょう。
人間が成人すると言うことは、あほうになるという事だと、そんな表現がされたりしました。

でも<< 
まじめで正直であるとか、世間に無知であるとか言う、
それが「天理に精通した」姿として、語られる場合には、「皆世界の胸のうち」を、映る、大前提としている。
そんな風に、思案するのが、基本です。
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