[過去ログ]
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)19【ダメ工作員】 (370レス)
【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)19【ダメ工作員】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/
上
下
前
次
1-
新
通常表示
512バイト分割
レス栞
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索
歴削→次スレ
栞削→次スレ
過去ログメニュー
304: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-DlZK) [sage] 2018/01/20(土) 08:43:36.74 ID:obUQkEtn0 遺跡の分布図・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、 7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命 である。『本エムゾネ朝世紀』には、久安5年(1149)「富士 上人末代は、富士山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺 と称し、写経を埋納下した」とある。江戸時代には、村山三坊 所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に より山中の仏像を取りエムゾネ除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅 間大神を祭った。写真奥宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a) 蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18?)奥宮の裏手、浅 間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵 が彫られている。天保年間(1エムゾネ830−34)に、岸岱が 作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ 31?)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」と彫られて いる。明治31年(1898)に書家の中林梧竹により建碑さ れた。後年、落雷により破壊されたが、エムゾネ昭和42年(19 67)に再建された。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮 の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田 口登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須 志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山エムゾネ切手を改 めた。古くは山役銭の徴収場であった。薬師堂は奥宮の場合と 同様に廃仏毀釈により破却され、久須志神社と改称した。写真 東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊 験あらたかな「御霊水」として珍重された。大正期の写真エムゾネ をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲われ、旗や幟などもみ られる。・銀明水金明水とおなじく、富士山頂の霊験あらたか な湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如何 なる旱にも水の涸れることはない」と記している。写真銀明水 の写エムゾネ真[銀明水の石碑群](a)石碑?(高 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/304
305: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B) [sage] 2018/01/20(土) 08:44:22.51 ID:obUQkEtn0 で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。 また、文化年間の初エムゾネめ、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出 現し、8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々 が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪解 け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を 現し、雪解け水の供給エムゾネが無くなると消えてしまう。・荒巻 −44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山 頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた 石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったとこ ろにあったとされる。拝エムゾネ所は初穂打場とも呼ばれ、登山者 たちが賽銭を噴火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間 大菩薩を拝む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった 。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特 定することはできない。写エムゾネ真吉田須走拝所跡の写真・須山 拝所跡銀明水の裏手の火口を臨む位置にあったとされる。大正2 年(1913)の登山スタンプが押された写真では、銀明水裏手 の火口の縁に立っている鳥居が確認できる。現在その地点には、 2つの目印の石が存在していエムゾネる。写真須山拝所跡の写真・ 村山大宮拝所跡『隔掻録』は、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮 拝所」としている。『富士山明細図』は、このしろが池の裏手の 鳥居を影拝所としている。このしろが池から剣ヶ峰の登山道に沿 って3体の大日如来があり、そエムゾネれぞれ延徳2年(1490 )、天文12年(1543)、寛永元年(1624)の銘があっ たとされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰の手前の火口を臨む 位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所跡の写真・三島ヶ 岳経塚昭和4年(1929)、頂エムゾネ上の神官が銅仏の破片と 一石経を採集して下山、それを受けて昭和5年に三島岳のふもと を調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/305
306: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t) [sage] 2018/01/20(土) 08:48:43.50 ID:obUQkEtn0 62?)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年 代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。 (b)石碑?(高さ162×下幅76×上幅63?)表面に龍 が、裏面にはエムゾネ文字が刻まれている。(c)石碑?(未計測 )「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑群の写 真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆 岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800 mの火口を囲む峰々のエムゾネ総称で、それぞれの峰に仏が住むと された。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集 註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉 時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考え られる。江戸時代後期の地誌でエムゾネある『駿河国新風土記』に は「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカ ニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成す る峰も、またその名称も一定でないことがわかる。峰の名称は 、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払エムゾネ拭したものに変更 された。以下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所に よる発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣 ヶ峰からお鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。 なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つをもってエムゾネ「八神峰 」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m )]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると 剣を立てたようにそびえ立っているためにこの名があるという 。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多くは登らなエムゾネ かったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を 禁じられたが、麓からの石と取り替えるということが行われて いた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山 岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/306
307: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t) [sage] 2018/01/20(土) 08:49:37.25 ID:obUQkEtn0 物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が 残っており、うち5巻は開かれていエムゾネて内容を確認できる。 経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさかのぼる可能性 が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回 し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河 原の北側で道が二手に分かれるが、峰エムゾネの外を回り雷岩、割 石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って 回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作 物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在 は立入禁止となっている。A2大宮・村エムゾネ山口登山道図登山 道に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3 .5?、天照教社の西南西約1?の地点(標高約830m)に、 東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きなケ ヤキの巨木があり、ここが札打場であったエムゾネ。札打とは、自 分の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛 んであった頃、山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30 年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られたという写 真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡エムゾネ)村山口登山 道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に約50 0mの地点に位置する。標高は約1,280mである。東側を走 る沢から一段上がった平坦面に所在している。平坦面は2段あり 、上−45−段には小さな祠が建てられているエムゾネ。また下段 には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返 しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここからは女人 は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女人堂として使われ た時期もあったと考えられる。下段平坦面の南側エムゾネには溝が 東西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡をたどれなくな る。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂の写真 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/307
308: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-DlZK) [sage] 2018/01/20(土) 08:51:01.55 ID:obUQkEtn0 62?)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年 代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。 (b)石碑?(高さ162×下幅76×上幅63?)表面に龍 が、裏面にはエムゾネ文字が刻まれている。(c)石碑?(未計測 )「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑群の写 真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆 岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800 mの火口を囲む峰々のエムゾネ総称で、それぞれの峰に仏が住むと された。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集 註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉 時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考え られる。江戸時代後期の地誌でエムゾネある『駿河国新風土記』に は「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカ ニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成す る峰も、またその名称も一定でないことがわかる。峰の名称は 、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払エムゾネ拭したものに変更 された。以下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所に よる発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣 ヶ峰からお鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。 なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つをもってエムゾネ「八神峰 」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m )]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると 剣を立てたようにそびえ立っているためにこの名があるという 。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多くは登らなエムゾネ かったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を 禁じられたが、麓からの石と取り替えるということが行われて いた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山 岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳と http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/308
309: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B) [sage] 2018/01/20(土) 08:51:46.29 ID:obUQkEtn0 物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が 残っており、うち5巻は開かれていエムゾネて内容を確認できる。 経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさかのぼる可能性 が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回 し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河 原の北側で道が二手に分かれるが、峰エムゾネの外を回り雷岩、割 石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って 回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作 物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在 は立入禁止となっている。A2大宮・村エムゾネ山口登山道図登山 道に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3 .5?、天照教社の西南西約1?の地点(標高約830m)に、 東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きなケ ヤキの巨木があり、ここが札打場であったエムゾネ。札打とは、自 分の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛 んであった頃、山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30 年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られたという写 真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡エムゾネ)村山口登山 道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に約50 0mの地点に位置する。標高は約1,280mである。東側を走 る沢から一段上がった平坦面に所在している。平坦面は2段あり 、上−45−段には小さな祠が建てられているエムゾネ。また下段 には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返 しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここからは女人 は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女人堂として使われ た時期もあったと考えられる。下段平坦面の南側エムゾネには溝が 東西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡をたどれなくな る。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/309
310: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t) [sage] 2018/01/20(土) 08:55:22.17 ID:obUQkEtn0 現在エムゾネは一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち 、また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725 m)]かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手 にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥 居が火口の方エムゾネ向に向けて建てられている。頂上付近には石 造物が残存し、首から上と手首から先が欠損している。台座正 面に「食行」「身禄」の文字が確認できる。写真久須志岳の http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/310
311: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t) [sage] 2018/01/20(土) 08:56:16.17 ID:obUQkEtn0 八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王 」と刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられていエムゾネる。水 神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年七 月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の 主人が、天保14年(1843)から文久3年(1863)にか けて記録した『袖日記』には、安政7年(1860)エムゾネ5月 11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた」との 記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある 井戸跡を指すものと考えられている。井戸跡は幅80?、深さ5 0?ほどである。・5号建物跡4号建物跡から登山道跡エムゾネを 登りしばらくすると一面の倒木帯となり、その中に5号建物跡が ある。標高は約1,865mである。平成5年の富士宮市による 調査では、平場の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていた が、平成20年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査エムゾネ では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こ され、地中にあった石像が地上に現われたと考えられる。うち1 体の不動明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面に は「瀧本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次エムゾ ネ社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推 測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。廃仏毀 釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建 物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7エム ゾネ号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位 置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の 中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西 部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残 エムゾネ存しており、石段の東西には石垣が組まれている。また平 場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存している。 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/311
312: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c) [sage] 2018/01/20(土) 08:56:57.74 ID:obUQkEtn0 周辺のものB1富士山本宮浅間大社図以下に示す要素が点在してい る平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称される 。神立山及び富士山本宮浅間大社の基エムゾネ盤を構成する地形は、新 富士火山旧期溶岩流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広 がる扇状地堆積物の層で−50−構成され、溶岩流の末端部にあた る。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見 される。また、当該地区は風エムゾネ致地区・保安林にも指定され、渋 沢堀沿いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年( 1670)の浅間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築 物が描かれ、発掘調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。写真神 立山の写真・湧玉池エムゾネ(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、 国指定特別天然記念物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨 や雪が地下水となり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ 、溶岩流末端で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上 池と下池にエムゾネ分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を 御手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後山 中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池であった。現在も富 士山山開きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉 池エムゾネの写真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万8千?にわ たってスダジイ、ケヤキ等の樹木が生育しており、富士宮市保存樹 林に指定されている。また、野鳥の生息に適した環境でもあり、「 野鳥の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿エムゾネ・ 透塀・楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806)に造営 されたという。かつての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の 浅間神社の総本社として崇められている。現在の社殿は、慶長9〜 11年(1604〜06)に徳川家康が造営したもエムゾネのである。 写真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財 である。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/312
313: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-DlZK) [sage] 2018/01/20(土) 08:57:36.27 ID:obUQkEtn0 現在エムゾネは一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち 、また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725 m)]かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手 にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥 居が火口の方エムゾネ向に向けて建てられている。頂上付近には石 造物が残存し、首から上と手首から先が欠損している。台座正 面に「食行」「身禄」の文字が確認できる。写真 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/313
314: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B) [sage] 2018/01/20(土) 08:58:22.82 ID:obUQkEtn0 八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王 」と刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられていエムゾネる。水 神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年七 月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の 主人が、天保14年(1843)から文久3年(1863)にか けて記録した『袖日記』には、安政7年(1860)エムゾネ5月 11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた」との 記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある 井戸跡を指すものと考えられている。井戸跡は幅80?、深さ5 0?ほどである。・5号建物跡4号建物跡から登山道跡エムゾネを 登りしばらくすると一面の倒木帯となり、その中に5号建物跡が ある。標高は約1,865mである。平成5年の富士宮市による 調査では、平場の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていた が、平成20年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査エムゾネ では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こ され、地中にあった石像が地上に現われたと考えられる。うち1 体の不動明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面に は「瀧本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次エムゾ ネ社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推 測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。廃仏毀 釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建 物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7エム ゾネ号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位 置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の 中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西 部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残 エムゾネ存しており、石段の東西には石垣が組まれている。また平 場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/314
315: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t) [sage] 2018/01/20(土) 09:02:01.51 ID:obUQkEtn0 造物の写真[成就岳(標高約3,734m)]かつては大日岳 とも呼ばれ、大小2つエムゾネの鳥居が、噴火口の方角を向いて建 てられている。[伊豆岳(標高約3,748m)]かつては勢 至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社の歴史』には、「中 腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を越え、成就岳にい たるまで、至る所に蒸気を噴出エムゾネする」とある。頂上には鳥 居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊豆岳と 同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に鳥 居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である。他の峰々 と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳エムゾネ(標高約3,72 2m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在 は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718 m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息をと ったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存エムゾネ在する。 峰全体が岩石からできている。[三島岳(標高約3,734m )]−43−かつては文殊岳とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居 と、「三島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三島 岳の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見さエムゾネ れた付近に、10体の石像が安置されている。これらは原位置 を留めておらず、周辺にあったものが集められたと考えられる 。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火口中央に存 在する穴で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院 (噴エムゾネ火口)は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪 )は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の居る所であると信 じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場 から、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立 入は禁止されエムゾネている。写真大内院の写真・小内院西安河原 から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、大内院との対 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/315
316: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t) [sage] 2018/01/20(土) 09:02:58.30 ID:obUQkEtn0 う一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸 約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の 縁エムゾネに石組が確認できる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」 として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図 」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられ る。室大日堂は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『 駿河エムゾネ国新風土記』にあり、また末代上人が建てた往生寺 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/316
317: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c) [sage] 2018/01/20(土) 09:03:39.89 ID:obUQkEtn0 例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は 桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧エムゾネ皮葺である。明治4 0年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に 指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本 殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝殿含む) [幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分エムゾネで、桁行3間・梁間3間の両 下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれていない が、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間ひはだぶき 」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるように描かれたと 推測される。県指定文化エムゾネ財として保護されている。[拝殿]桁 行5間・梁間3間で、床は幣殿より2段高くなっている。正面が入 母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付い ている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している。県指定文 化財として保護エムゾネされている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、 その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を 囲む1棟−51−の計2棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文化 財として保護されている。[楼門]三間一戸、重層入母屋造で、屋 根は檜エムゾネ皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左右には 随身像が安置してある。静岡県指定文化財として保護されている。 写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門から東西に伸びる回廊 は、昭和9年(1934)に付加されたものである。・手水舎楼エムソ ゙ネ門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清めるために手や口をすす ぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれの灯籠が境内各所に設置さ れている。・石鳥居本殿へ続く参道に石造りの鳥居が建てられてい る。昭和33年3月に寄進されたものである。・東鳥居エムゾネ・西鳥 居桜の馬場の東端と西端にそれぞれ朱塗りの鳥居が建てられている 。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り行われる馬場が約200mに 渡って東西に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った際 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/317
318: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-DlZK) [sage] 2018/01/20(土) 09:04:19.69 ID:obUQkEtn0 造物の写真[成就岳(標高約3,734m)]かつては大日岳 とも呼ばれ、大小2つエムゾネの鳥居が、噴火口の方角を向いて建 てられている。[伊豆岳(標高約3,748m)]かつては勢 至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社の歴史』には、「中 腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を越え、成就岳にい たるまで、至る所に蒸気を噴出エムゾネする」とある。頂上には鳥 居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊豆岳と 同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に鳥 居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である。他の峰々 と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳エムゾネ(標高約3,72 2m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在 は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718 m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息をと ったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存エムゾネ在する。 峰全体が岩石からできている。[三島岳(標高約3,734m )]−43−かつては文殊岳とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居 と、「三島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三島 岳の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見さエムゾネ れた付近に、10体の石像が安置されている。これらは原位置 を留めておらず、周辺にあったものが集められたと考えられる 。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火口中央に存 在する穴で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院 (噴エムゾネ火口)は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪 )は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の居る所であると信 じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場 から、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立 入は禁止されエムゾネている。写真大内院の写真・小内院西安河原 から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、大 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/318
319: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-GP+B) [sage] 2018/01/20(土) 09:05:02.46 ID:obUQkEtn0 う一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸 約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の 縁エムゾネに石組が確認できる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」 として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図 」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられ る。室大日堂は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『 駿河エムゾネ国新風土記』にあり、また末代上人が建 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/319
320: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t) [sage] 2018/01/20(土) 09:09:44.55 ID:obUQkEtn0 で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写 真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の 急斜面である。お鉢巡エムゾネりの道中で最大の難所である。現在 はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾 斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らな かったといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部 では稀な広い平坦部である。かエムゾネつては現世と来世の境であ る「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石 塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭 が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす 、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部エムゾネである。火口の外 壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・ 虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅 子)のうずくまる姿に似ていることから名付けられた。・割石 かつては「釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩エムゾネが急速に 冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あったが、現 在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知ら れ、食行身禄がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人か らの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子岩で入定しエムゾネ たとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩で、 この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。ま た、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、 8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が生 け捕エムゾネりにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪 解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に 姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻 −44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士 山頂の難所とエムゾネして知られた。道の火口側には、火山礫を http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/320
321: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-Av6t) [sage] 2018/01/20(土) 09:10:42.35 ID:obUQkEtn0 あったところだともいわれている。写真8号建物跡の写真・12 号建物跡村山口登山道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い位 置(約2,390m)にある。11号建物跡から北に50mの地 点に所エムゾネ在する。東西約8m、南北約5mの方形の区画が石 組によって作られている。東側には直径約90?の丸い穴が二つ ある。(同様の穴は他の建物跡でも見られ、)便所跡と考えられ る。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然木により構築さ れた鳥居エムゾネが設置されている。「昭和五十二年七月吉日」と 刻まれており、個人が設置したものである。A3須山口登山道図 登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧 須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長10m 余の溶岩洞エムゾネ穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西 側に入口があり、内部を通り抜けることができる。登山者は、こ の洞穴を通って登山するのがならわしであった。かつて洞穴の延 長は数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現 在の長さになエムゾネった。崩落した部分は、長さ約30mのU字 型の溝状の溶岩地形として須山御胎内の南東側に残っている。こ の付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では10 30〜1230年という結果が出ており、永保3年(1083) の噴火時に噴出エムゾネした可能性がある。平成21年に実施した 測量調査では、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485 m付近から認められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って 形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須 山御胎内の洞穴内エムゾネ部に、「木花咲耶姫」の石像が安置され ている。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興 後の平成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内の南 東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山御胎内 の南東側入口前に高エムゾネさ3m前後の木製の鳥居が建てられ http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/321
322: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-QV1c) [sage] 2018/01/20(土) 09:11:23.93 ID:obUQkEtn0 流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町エムゾネ時代の初期には すでに神事が行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両 側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下池の境 部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれている。・神幸 橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川へのエムゾネ流出口に石造りの橋が架 けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山宮御神幸が出発し たとされる。寛文10年(1671)の絵図では橋に屋根が葺か http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/322
323: 底名無し沼さん (ワッチョイ 5b0c-DlZK) [sage] 2018/01/20(土) 09:12:06.46 ID:obUQkEtn0 で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写 真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の 急斜面である。お鉢巡エムゾネりの道中で最大の難所である。現在 はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾 斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らな かったといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部 では稀な広い平坦部である。かエムゾネつては現世と来世の境であ る「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石 塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭 が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす 、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部エムゾネである。火口の外 壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・ 虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅 子)のうずくまる姿に似ていることから名付けられた。・割石 かつては「釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩エムゾネが急速に 冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あったが、現 在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知ら れ、食行身禄がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人か らの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子岩で入定しエムゾネ たとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩で、 この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。ま た、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、 8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が生 け捕エムゾネりにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪 解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に 姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻 −44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士 山頂の難所とエムゾネして知られた。道の火口側には http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/out/1516344382/323
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 47 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
Google検索
Wikipedia
ぬこの手
ぬこTOP
0.081s*