[過去ログ] 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)19【ダメ工作員】 (370レス)
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304: (ワッチョイ 5b0c-DlZK) 2018/01/20(土)08:43 ID:obUQkEtn0(225/291) AAS
遺跡の分布図・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、
7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命
である。『本エムゾネ朝世紀』には、久安5年(1149)「富士
上人末代は、富士山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺
と称し、写経を埋納下した」とある。江戸時代には、村山三坊
所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に
より山中の仏像を取りエムゾネ除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅
間大神を祭った。写真奥宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)
蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18?)奥宮の裏手、浅
間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵
省18
305: (ワッチョイ 5b0c-GP+B) 2018/01/20(土)08:44 ID:obUQkEtn0(226/291) AAS
で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。
また、文化年間の初エムゾネめ、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出
現し、8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々
が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪解
け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を
現し、雪解け水の供給エムゾネが無くなると消えてしまう。・荒巻
−44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山
頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた
石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったとこ
ろにあったとされる。拝エムゾネ所は初穂打場とも呼ばれ、登山者
省18
306: (ワッチョイ 5b0c-Av6t) 2018/01/20(土)08:48 ID:obUQkEtn0(227/291) AAS
62?)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年
代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。
(b)石碑?(高さ162×下幅76×上幅63?)表面に龍
が、裏面にはエムゾネ文字が刻まれている。(c)石碑?(未計測
)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑群の写
真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆
岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800
mの火口を囲む峰々のエムゾネ総称で、それぞれの峰に仏が住むと
された。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集
註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉
省18
307: (ワッチョイ 5b0c-Av6t) 2018/01/20(土)08:49 ID:obUQkEtn0(228/291) AAS
物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が
残っており、うち5巻は開かれていエムゾネて内容を確認できる。
経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさかのぼる可能性
が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回
し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河
原の北側で道が二手に分かれるが、峰エムゾネの外を回り雷岩、割
石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って
回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作
物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在
は立入禁止となっている。A2大宮・村エムゾネ山口登山道図登山
省18
308: (ワッチョイ 5b0c-DlZK) 2018/01/20(土)08:51 ID:obUQkEtn0(229/291) AAS
62?)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年
代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。
(b)石碑?(高さ162×下幅76×上幅63?)表面に龍
が、裏面にはエムゾネ文字が刻まれている。(c)石碑?(未計測
)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑群の写
真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆
岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800
mの火口を囲む峰々のエムゾネ総称で、それぞれの峰に仏が住むと
された。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集
註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉
省18
309: (ワッチョイ 5b0c-GP+B) 2018/01/20(土)08:51 ID:obUQkEtn0(230/291) AAS
物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が
残っており、うち5巻は開かれていエムゾネて内容を確認できる。
経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさかのぼる可能性
が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回
し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河
原の北側で道が二手に分かれるが、峰エムゾネの外を回り雷岩、割
石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って
回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作
物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在
は立入禁止となっている。A2大宮・村エムゾネ山口登山道図登山
省18
310: (ワッチョイ 5b0c-Av6t) 2018/01/20(土)08:55 ID:obUQkEtn0(231/291) AAS
現在エムゾネは一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち
、また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725
m)]かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手
にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥
居が火口の方エムゾネ向に向けて建てられている。頂上付近には石
造物が残存し、首から上と手首から先が欠損している。台座正
面に「食行」「身禄」の文字が確認できる。写真久須志岳の
311: (ワッチョイ 5b0c-Av6t) 2018/01/20(土)08:56 ID:obUQkEtn0(232/291) AAS
八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王
」と刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられていエムゾネる。水
神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年七
月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の
主人が、天保14年(1843)から文久3年(1863)にか
けて記録した『袖日記』には、安政7年(1860)エムゾネ5月
11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた」との
記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある
井戸跡を指すものと考えられている。井戸跡は幅80?、深さ5
0?ほどである。・5号建物跡4号建物跡から登山道跡エムゾネを
省18
312: (ワッチョイ 5b0c-QV1c) 2018/01/20(土)08:56 ID:obUQkEtn0(233/291) AAS
周辺のものB1富士山本宮浅間大社図以下に示す要素が点在してい
る平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称される
。神立山及び富士山本宮浅間大社の基エムゾネ盤を構成する地形は、新
富士火山旧期溶岩流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広
がる扇状地堆積物の層で−50−構成され、溶岩流の末端部にあた
る。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見
される。また、当該地区は風エムゾネ致地区・保安林にも指定され、渋
沢堀沿いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年(
1670)の浅間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築
物が描かれ、発掘調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。写真神
省18
313: (ワッチョイ 5b0c-DlZK) 2018/01/20(土)08:57 ID:obUQkEtn0(234/291) AAS
現在エムゾネは一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち
、また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725
m)]かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手
にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥
居が火口の方エムゾネ向に向けて建てられている。頂上付近には石
造物が残存し、首から上と手首から先が欠損している。台座正
面に「食行」「身禄」の文字が確認できる。写真
314: (ワッチョイ 5b0c-GP+B) 2018/01/20(土)08:58 ID:obUQkEtn0(235/291) AAS
八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王
」と刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられていエムゾネる。水
神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年七
月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の
主人が、天保14年(1843)から文久3年(1863)にか
けて記録した『袖日記』には、安政7年(1860)エムゾネ5月
11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた」との
記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある
井戸跡を指すものと考えられている。井戸跡は幅80?、深さ5
0?ほどである。・5号建物跡4号建物跡から登山道跡エムゾネを
省18
315: (ワッチョイ 5b0c-Av6t) 2018/01/20(土)09:02 ID:obUQkEtn0(236/291) AAS
造物の写真[成就岳(標高約3,734m)]かつては大日岳
とも呼ばれ、大小2つエムゾネの鳥居が、噴火口の方角を向いて建
てられている。[伊豆岳(標高約3,748m)]かつては勢
至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社の歴史』には、「中
腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を越え、成就岳にい
たるまで、至る所に蒸気を噴出エムゾネする」とある。頂上には鳥
居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊豆岳と
同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に鳥
居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である。他の峰々
と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳エムゾネ(標高約3,72
省18
316: (ワッチョイ 5b0c-Av6t) 2018/01/20(土)09:02 ID:obUQkEtn0(237/291) AAS
う一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸
約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の
縁エムゾネに石組が確認できる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」
として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図
」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられ
る。室大日堂は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『
駿河エムゾネ国新風土記』にあり、また末代上人が建てた往生寺
317: (ワッチョイ 5b0c-QV1c) 2018/01/20(土)09:03 ID:obUQkEtn0(238/291) AAS
例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は
桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧エムゾネ皮葺である。明治4
0年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に
指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本
殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝殿含む)
[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分エムゾネで、桁行3間・梁間3間の両
下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれていない
が、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間ひはだぶき
」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるように描かれたと
推測される。県指定文化エムゾネ財として保護されている。[拝殿]桁
省18
318: (ワッチョイ 5b0c-DlZK) 2018/01/20(土)09:04 ID:obUQkEtn0(239/291) AAS
造物の写真[成就岳(標高約3,734m)]かつては大日岳
とも呼ばれ、大小2つエムゾネの鳥居が、噴火口の方角を向いて建
てられている。[伊豆岳(標高約3,748m)]かつては勢
至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社の歴史』には、「中
腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を越え、成就岳にい
たるまで、至る所に蒸気を噴出エムゾネする」とある。頂上には鳥
居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊豆岳と
同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に鳥
居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である。他の峰々
と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳エムゾネ(標高約3,72
省18
319: (ワッチョイ 5b0c-GP+B) 2018/01/20(土)09:05 ID:obUQkEtn0(240/291) AAS
う一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸
約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の
縁エムゾネに石組が確認できる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」
として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図
」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられ
る。室大日堂は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『
駿河エムゾネ国新風土記』にあり、また末代上人が建
320: (ワッチョイ 5b0c-Av6t) 2018/01/20(土)09:09 ID:obUQkEtn0(241/291) AAS
で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写
真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の
急斜面である。お鉢巡エムゾネりの道中で最大の難所である。現在
はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾
斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らな
かったといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部
では稀な広い平坦部である。かエムゾネつては現世と来世の境であ
る「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石
塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭
が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす
省18
321: (ワッチョイ 5b0c-Av6t) 2018/01/20(土)09:10 ID:obUQkEtn0(242/291) AAS
あったところだともいわれている。写真8号建物跡の写真・12
号建物跡村山口登山道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い位
置(約2,390m)にある。11号建物跡から北に50mの地
点に所エムゾネ在する。東西約8m、南北約5mの方形の区画が石
組によって作られている。東側には直径約90?の丸い穴が二つ
ある。(同様の穴は他の建物跡でも見られ、)便所跡と考えられ
る。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然木により構築さ
れた鳥居エムゾネが設置されている。「昭和五十二年七月吉日」と
刻まれており、個人が設置したものである。A3須山口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧
省18
322: (ワッチョイ 5b0c-QV1c) 2018/01/20(土)09:11 ID:obUQkEtn0(243/291) AAS
流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町エムゾネ時代の初期には
すでに神事が行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両
側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下池の境
部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれている。・神幸
橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川へのエムゾネ流出口に石造りの橋が架
けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山宮御神幸が出発し
たとされる。寛文10年(1671)の絵図では橋に屋根が葺か
323: (ワッチョイ 5b0c-DlZK) 2018/01/20(土)09:12 ID:obUQkEtn0(244/291) AAS
で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写
真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の
急斜面である。お鉢巡エムゾネりの道中で最大の難所である。現在
はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾
斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らな
かったといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部
では稀な広い平坦部である。かエムゾネつては現世と来世の境であ
る「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石
塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭
が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす
省18
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