[過去ログ] 有名人の性格を霊視する◆3 (1002レス)
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763: 03/25(月)00:10 ID:Hr7dwc0v0(1/40) AAS
矢内「豊島六段への印象はいかがですか?」
佐藤紳「豊島? 強いよね。序盤、中盤、終盤、隙がないと思うよ。だけど、俺は負けないよ。」
矢内「本局への抱負をお願いします。」
佐藤紳「えー、こまたっ、駒たちが躍動する俺の将棋を、皆さんに見せたいね。」

引用元:第62回NHK杯テレビ将棋トーナメントより

矢内「羽生NHK杯への印象はいかがですか?」
橋本「羽生さん? 強いよね。序盤、中盤、終盤、スキがないと思うよ。だけど、オイラ負けないよ。」
矢内「本局への抱負をお願いします。」
橋本「えー、こまたっ、駒たちが躍動するオイラの将棋を、皆さんに見せたいね。」

引用元:第62回NHK杯テレビ将棋トーナメントより
764: 03/25(月)00:11 ID:Hr7dwc0v0(2/40) AAS
「米長玉」とは玉を香車の上に寄せる形で、先手なら▲9八玉、後手ならば△1二玉、とする形である。米長玉の1号局は昭和52年のA級順位戦(当時は名人挑戦者決定リーグ戦の呼称だったか)における大山15世名人戦(当時は大山棋聖だったか)とされるが、定かでない。
玉は「固さ」が重要視されていたが、それに「遠さ」を重視したのが「米長玉」で、「玉の早逃げ八手の得」を地で行った一手とも言えるかも知れない。
近年の藤井聡太に代表される玉の囲いは「広さ」が重視されていると感じる。固く見えないのだが、終盤の揉み合いになると、妙に玉の逃げ道が広くて、捕まりにくい。
765: 03/25(月)00:12 ID:Hr7dwc0v0(3/40) AAS
将棋とは、よく出来た競技で、玉と金がくっついた状態で対局が始まる。
そのことからしても男向きの競技なのである。
「将棋は女には向かん。女は『おみおつけ』のことでも考えていればいいんじゃ」
と、のたまったのは、升田幸三実力制第四代名人だが、暴論とは思えない。
『玉は金にくっつけよ』は私が考えた将棋の格言だが、我ながら名言だと思う。
理屈の分からない人には、ズボンとパンツを下ろして、玉と金で築いた「囲い」を
見せてあげると納得するのではなかろうか。私の理論を実践すればアマ初段までは
少なくとも行けると思う。
766: 03/25(月)00:12 ID:Hr7dwc0v0(4/40) AAS
昭和58年度のA級順位戦で2連敗スタートとなった中原十段(当時)。
大山15世名人が「永世名人は、A級から落ちたら辞めなければいけない」と
中原十段に直接言ったそうな。
たぶん本当の話だと思う。
767: 03/25(月)00:12 ID:Hr7dwc0v0(5/40) AAS
斎田晴子には弟が二人いるが、上のほうの弟・純一がひっそりと奨励会を去った。
小学5年で臨んだ82年の小学生名人戦では1学年上の森内俊之少年と3位タイ。優勝は羽生善治少年。
将来を嘱望された斎田純一が奨励会を去った理由を知って慄然とさせられた。それは退会せざるを得ないだろうと感じた。
森安秀光九段の死因と同じく、「語らないほうがいい」事件だった。
775: 03/25(月)09:43 ID:Hr7dwc0v0(6/40) AAS
◆性格鑑定 概要◆

 2系生格を持つ 優さんの性格は肝心な所での「優柔不断さ「と「煮え切らなさ」が災いを引き寄せます。

 あなたの持つ2と言う数字は、別れと不完全を表していて特に家族や友人・愛人 との感情のもつれによる別離は避けられないでしょう。

あなたには細やかさ (神経質 と 小心者の二つがあります。
しかし、その裏には他人に対して女々しさと神経質で小心さと女々しさ、しつこさが隠されています。

そのため重要な判断を下す時に、その女々しささとしつこさ、細やかさが大きな障害となってしまい、 判断を誤ることが多いのです。
省3
776: 03/25(月)09:46 ID:Hr7dwc0v0(7/40) AAS
齋田純一は高柳門下
22歳で三段リーグ連続降段点をとり二段へ降段。
その後奨励会退会。
奨励会員へナイフで切りつける事件を起こしたらしい
777: 03/25(月)09:46 ID:Hr7dwc0v0(8/40) AAS
【大山康晴のちょっといい話】
ある時、新幹線に大山康晴が乗っていた時に、おばちゃん連中が話しかけてきた。
広島の人たちで、同郷の桐谷広人を知っているおばちゃんたちである。
おばちゃんに話を振られた名人は
「桐谷さんのことなら知っていますよ。彼は八段までは十分に行ける素質があります」
と言ったという。
これは、驚きである。当時の桐谷青年は奨励会員。20代前半。
プロになれるかどうかの保障もない一介の若者のことなど名人が知らなくても不思議ではない。20代の時点でプロになっていなければ、将来、自分の地位を脅かす存在に昇りつめる可能性は限りなくゼロに近い。
そんな若者のことを「知っていますよ」と言っただけでなく、「彼は八段までは十分に行ける素質があります」というのは、物凄く高い評価である。
きょうびのように「お情け八段」を量産する時代と異なり、当時は八段と言えば「A級棋士」の響きがある時代。
省4
778: 03/25(月)09:47 ID:Hr7dwc0v0(9/40) AAS
藤田優(藤田綾の弟・89年生まれ)は、プロ棋士になれると思っていたが。。。
9歳で奨励会入り。中学生プロ棋士の可能性すら感じたものだ。
不明を恥じる。
779: 03/25(月)09:48 ID:Hr7dwc0v0(10/40) AAS
昔の将棋世界。
「新しい手合い係になりました」という全く同じ写真の広告を5~6年は続けて出していたような気がする秋葉原将棋センター。
「吉田碁盤店」の広告は、恐らく10年以上も全く同じ写真
781: 03/25(月)11:37 ID:Hr7dwc0v0(11/40) AAS
6度名人に挑み跳ね返され、7度目の挑戦で悲願の名人位をつかみ取った米長邦雄。
たかが2度の失敗などモノの数ではない。頑張れ、小室圭!
ボクはただ、コムちゃんマンの栄光を願っている
782: 03/25(月)11:37 ID:Hr7dwc0v0(12/40) AAS
「お前と一緒にいると落ち着いてメシが食えん。お前は一人で食え」
大山康晴にこういうことが言えるのは升田幸三だけ。
783: 03/25(月)11:38 ID:Hr7dwc0v0(13/40) AAS
大山
「(中原相手に2日制タイトル戦とかやってられんな)もう4時か、どうせ1日目なんだから早くやめて麻雀にしようや。おい、記録係、時間は適当に計算して加えおけ」

中原
「・・・」
784: 03/25(月)11:38 ID:Hr7dwc0v0(14/40) AAS
【大山康晴の名言】
「将棋は自陣を麻雀は敵陣を見よ」
逆のことをやっている人が多い、という戒めの意味があり「なるほど」と感じさせられる。
785: 03/25(月)11:38 ID:Hr7dwc0v0(15/40) AAS
斎田晴子は湘南高校在学中の1984年に高校の全国大会女子の部で全国優勝。
凄いのは神奈川県下屈指の進学校を出ていながら、大学には進まず、女流棋士の道を選択したことだ。
タイトルも獲得したし、大成功、と言いたいが不貞の弟で苦労させられた。
789: 03/25(月)15:25 ID:Hr7dwc0v0(16/40) AAS
桐谷広人七段は棋士としては升田幸三門下であったが、プライベートでは米長邦雄に傾倒し、米長の著作の代筆を行うなど20年以上仕えた。しかし、米長のために婚約者と破局を迎えたことが一度ならずあったといい、後に米長の裏面をマスコミに告白した。

1975年に桐谷のライバルとされた沼春雄と共に四段昇段を果たしプロ棋士となった。当時まだ珍しかった、研究派の棋士で「コンピューター桐谷」の異名をとった。

1996年度の第9期竜王戦で5組に昇級した。2000年には現役勤続25年表彰を受けた[1]。第55期順位戦でフリークラスに陥落、復帰できないまま10年が経過したため、2007年3月末に引退した。通算成績は327勝483敗。

米長の弟子の先崎学はC級2組時代、9勝1敗の好成績を上げながら頭ハネで昇級を逃した際に「何でおれがこんなクラスで指さなきゃいけないんだ。順位戦の制度はどうなってんだ?」と口を滑らせたために、C級2組の棋士全員を敵に回した。第51期順位戦(1992年度)9回戦の桐谷-先崎戦では、闘志を剥き出しにして挑んだ桐谷が快勝し、先崎の昇級を阻んだ。直後、自戦記において「こんな男に負けて悔しかったら、新宿で安酒飲んで道路に寝るがよかろう、それが似合いだ」と罵って反省を促した。

1984年、東京証券協和会に設置された将棋部の師範をしていたことをきっかけに、独学で株式投資を学び始めた[12]。失恋をきっかけに株式投資を始めたとも言われる。その後「財テク棋士」として著名になった。
790: 03/25(月)15:26 ID:Hr7dwc0v0(17/40) AAS
田中寅彦九段は、羽生善治が若手だった1990年代中期に、彼に勝ち越していた数少ない棋士でもあり、“羽生キラー”と呼ばれていた。まだ当時は若手棋士であった羽生をいじって注目を集める序盤戦術で、1996年には「羽生必敗の法則 あなたにも天才が倒せます」を「九段・対羽生勝率8割 田中寅彦著」名義で出すほどだった。

田中寅4〇〇〇〇●●●●●5羽生 生涯対戦成績では田中寅は羽生に負け越し
791: 03/25(月)15:26 ID:Hr7dwc0v0(18/40) AAS
田中寅彦はA級棋士だった昭和59年の12月頃に将棋世界誌上の座談会で放言。
「谷川とか米長とか、あんな弱い将棋」「中原さんは普通の男の子になってしまった」
世間から袋叩きにされた。
しかし、私が気になったのは、次の発言だった。
「僕は調子が悪い時は精神は石田(和雄)、将棋は桐谷(広人)になってますよ」
私には、そちらの発言のほうがよっぽど失礼ではないかと思うのだが、そのことについてツッコミを入れた人は皆無だったようである。
792: 03/25(月)15:27 ID:Hr7dwc0v0(19/40) AAS
将棋世界で連載をしていた田中寅彦八段(当時)の連載コーナーから。
「(駒音コンサートというイベントがあった時の話)気に食わないのは、『昴』という
高尚な曲を歌った私の歌が「四段」と判定されたのに対して、哀愁のかさがどうしたか
こうしたか、というお経みたいな歌を歌った神戸の谷なんとかいう男が、なんと「五段」
と判定されたことである。
これには温厚な性格で知られる二上先生も激怒されたと聞く。ちなみに『マイク二上』
と異名をとる先生は「三段」と判定されていた。
どうも将棋界には昭和58年の6月15日以来、「正義」というものがなくなって
しまったようである。私が一刻も早く世直しに立ち上がらないといけないと
思っている。
省2
793: 03/25(月)15:28 ID:Hr7dwc0v0(20/40) AAS
次の号で芹沢博文九段が大激怒。「斬り捨て御免」というコーナーで田中寅彦八段を
大非難。
大人になった今だから分かるが、芹沢九段は
「マズイ! このままではトラが世間から袋叩きにされてしまう!」
と機転を利かせたのに違いない。自らが大激怒することで、世間の怒りを鎮めて、
同門の21歳下の弟弟子を救済しようと考えたのに違いない。
田中八段の講座は終わり、ほどなくA級から陥落して、数年間B1に燻っていた。
「強くなりたい。誰にも有無を言わさないほど強くなりたい」
講座の最終回での田中寅彦の決意表明のセリフである。
プロレスでの「てめえこの野郎」調の挑発に慣れていた私には田中寅彦の失言は
省5
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