[過去ログ] 【古代】邪馬台国と対立の男王国は岐阜にあった! 狗奴国東海説に迫る [樽悶★] (1002レス)
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234
(1): 2021/05/01(土)08:24 ID:GZy41Iog0(1/6) AAS
>>233
釣り
238: 2021/05/01(土)08:30 ID:GZy41Iog0(2/6) AAS
>>232
そもそも魏志倭人伝に畿内は出てこない
途轍もないド僻地のほぼほぼ未知の国としてなら出てくる

先進地の九州から見て瀬戸内海より向うは土人の村で間違いなかった
247
(1): 2021/05/01(土)08:59 ID:GZy41Iog0(3/6) AAS
邪馬台国ははっきり言えば司馬帝室の指導監督を受けた保護国だよ

239年の卑弥呼の朝貢の際に、公孫氏と激戦していた司馬懿が感激し、以後司馬氏の手厚い庇護を受けた
司馬懿から見ると朝鮮情勢は公孫氏遺臣がいつ謀反してもおかしくないし北辺の遊牧民も常に危険である

そこで背後に当たる九州北部にいつでも応援に来る自称「大国」があればこれ以上の僥倖はなかった
司馬懿を感激させた卑弥呼は亡くなるが台与を立て北部九州はしばし安定する

このとき司馬氏の官吏である張政は台与13歳から29歳まで滞在したと言われる
もちろんただの視察ではなく邪馬台国を指導監督する役目であり司馬氏の保護下にある訳である

このように邪馬台国に精通した張政の報告などを280年以降に陳寿がまとめたものが魏志倭人伝である
ではこの張政がなぜ女王国の王都や規模、版図を曖昧にごまかしたのか
それには呉との血で血を洗う激戦を考える必要がある
255: 2021/05/01(土)09:16 ID:GZy41Iog0(4/6) AAS
>>248
そのとおり。全く別の国であり縁もゆかりもない
南部九州との激戦の末に3世紀中に滅亡したと見るのが正しい
決定的な滅亡原因は290年の八王の乱で司馬帝室が大混乱し朝鮮中部南部の晋の支配が事実上途絶したためである
女王国の勢力の根本は司馬氏との蜜月による朝鮮貿易にありこれが不能となれば当然極度に弱体化する訳である
269: 2021/05/01(土)10:20 ID:GZy41Iog0(5/6) AAS
265年既に司馬氏が実権を握っていた魏は正式に司馬炎に禅譲を行い晋を立てる
この時、呉のほうは既に政治が乱れ暗殺や乱費が相次ぎ既に天下の趨勢は晋支配に大きく傾いていた
これを見て、もはや北部九州の援軍は不要と考えたのであろうか、張政は台与のもとを辞し266年の朝貢団と共に帰国する
これが邪馬台国の最後の大規模な朝貢となったようである

その後司馬氏は朝鮮支配を一時固めるものの290年の八王の乱で大混乱となり313年には楽浪まで失い朝鮮から撤退する
このように見ると北部九州に榮えた女王国の最盛期は239年から266年で
遅くても290年代には司馬帝室の庇護を完全に失い滅亡したと見るべきだね
282: 2021/05/01(土)10:54 ID:GZy41Iog0(6/6) AAS
張政は邪馬台国の歴史も詳述してる訳だが
2世紀に倭国大乱あり女王を共立して治まるとあり
247年女王国の南にある狗奴国と不和となり戦争になったと読める
これはどう見ても九州内部の記述であろう

既に2世紀には朝鮮貿易で栄えた九州には複数の国邑が並立していた
この商業の繁栄は楽浪にも準じる程で魏志倭人伝にもその活況が描写されている
しかしこの恩恵にあずかれない南部九州には貿易利権を巡り不満が鬱積していたと思われる

この時期の女王国の庇護者は公孫氏である
公孫氏が司馬懿の激攻により斃れそうと聞き慌てて送ったのが238年の使節団であろう
もっとも到着時には既に公孫氏滅亡寸前か滅亡時で逆に司馬懿に慶賀を述べることになった
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