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【古代】邪馬台国と対立の男王国は岐阜にあった! 狗奴国東海説に迫る [樽悶★] (1002レス)
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561
: 2021/05/01(土)22:49
ID:ixi6vXXT0(39/51)
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561: [] 2021/05/01(土) 22:49:14.92 ID:ixi6vXXT0 卑弥呼の時代とは関係のない時代の曲解作文で印象操作する畿内説は犯罪ですね https://i.imgur.com/ohxsWOq.png ■基本的に魏志倭人伝の構文解析が最優先課題である 同じ内容で使われる文字が変化したり、奴国の紹介が重複していたり、距離が里から日に変わるなど、 魏志倭人伝は過去の記録を引用しつつ、新たに得た情報を大雑把に追記する形式で構成されている ■中国側での過去からの伝承記録を書き写した部分 ・帯方郡(ソウル)から南→東と海岸沿いに水行し狗邪韓国(釜山)までの距離が約7000里 ・対馬→壱岐→北部九州上陸までの合計が約3000里 ・上陸してから伊都国までが陸行およそ500里 ・奴国、不彌国までがそれぞれ約100里 ・陳寿は過去の記録をもとに帯方郡から女王の都までの総距離を合計約12000里と見積もった ■卑弥呼時代に朝貢に来た倭人による行程説明を追記した部分(日数表記の記録) ?帯方郡から(記載漏れ?) ?南に船で20日→投馬国(任那、伽耶、狗邪韓国など) ?南に船で10日→邪馬台国(北部九州=女王国)上陸 ?客人は伊都国に駐留し、女王国の入国許可を待つ ?客人が手紙で女王に入国許可を申請する ?許可が出たら女王の護衛が客人を迎えに来る ?迎えに来た護衛とともに女王の都へ ■考えられること ・陳寿は倭に関する古い情報と新しい情報の関連性がよく理解できていなかった ・倭人が説明した船で移動する行程を中国は「水行」と記録していた ・倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び、北部九州側を邪馬壹(臺)国と呼んでいた ・倭人は距離単位の「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書倭国伝に記載あり) ・陸行一月とは、九州上陸から女王の都に到着するまで(?〜?)に一か月を要する事を意味している ・ここまでの説明が理解できない人はIQが低い http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1619792463/561
卑弥呼の時代とは関係のない時代の曲解作文で印象操作する畿内説は犯罪ですね 基本的に志倭人伝の構文解析が最優先課題である 同じ内容で使われる文字が変化したり奴国の紹介が重複していたり距離が里から日に変わるなど 志倭人伝は過去の記録を引用しつつ新たに得た情報を大雑把に追記する形式で構成されている 中国側での過去からの伝承記録を書き写した部分 帯方郡ソウルから南東と海岸沿いに水行し狗邪韓国釜山までの距離が約里 対馬壱岐北部九州上陸までの合計が約里 上陸してから伊都国までが陸行およそ里 奴国不国までがそれぞれ約里 陳寿は過去の記録をもとに帯方郡から女王の都までの総距離を合計約里と見積もった 卑弥呼時代に朝貢に来た倭人による行程説明を追記した部分日数表記の記録 帯方郡から記載漏れ? 南に船で日投馬国任那伽耶狗邪韓国など 南に船で日邪馬台国北部九州女王国上陸 客人は伊都国に駐留し女王国の入国許可を待つ 客人が手紙で女王に入国許可を申請する 許可が出たら女王の護衛が客人を迎えに来る 迎えに来た護衛とともに女王の都へ 考えられること 陳寿は倭に関する古い情報と新しい情報の関連性がよく理解できていなかった 倭人が説明した船で移動する行程を中国は水行と記録していた 倭人は対馬海峡を挟んで半島側を投馬国と呼び北部九州側を邪馬国と呼んでいた 倭人は距離単位の里を知らず日を使って距離を表現していた書倭国伝に記載あり 陸行一月とは九州上陸から女王の都に到着するまでに一か月を要する事を意味している ここまでの説明が理解できない人はが低い
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