■(呉市)警固屋or鍋のもんおらんかのー?■PART2 (432レス)
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406: 名無しなんじゃ 2023/12/21(木)03:53 ID:qeJ6KphQ(1/2) HOST:6F83-3CB7-22A7 AAS
>>403
これは初めて見た映像かも。
1:26の清盛塚、続いて映るポンポン船が映ってるのが鍋桟橋のような気もする。

江戸時代からあった一般用の音戸渡船とは別に、明治32年に瀬ノ向海岸(今の警固屋側渡船口)に
呉鎮守府専用の桟橋が架設、昭和7年の転覆事故で鍋の森元、三川、島本の回漕店が費用を出して
鍋桟橋は3基となった。倉橋島などからの工廠通勤船は渡船の3倍くらいの大きさの船で、音戸桟橋から
鍋桟橋への直行ルートがあったのかも知れないね。

明治中期以降すでに呉軍港には一般客船は入れず、江田島や鍋からは川原石港が水路で呉へ入る
ルートだったようで、川原石まで市電が伸びてたのもその理由ですね。
407
(1): 名無しなんじゃ 2023/12/21(木)03:54 ID:qeJ6KphQ(2/2) HOST:6F83-3CB7-22A7 AAS
>>403の映像では背後にセンプクの看板、右に見えてるのは浜の宮(金毘羅社)(1790年頃?)の注連石(大正10年建立)?
絵柄が変わってやや遠めに千恵盛(昭和4年)か水野醤油(昭和2年)か銭湯の煙突、工廠共済病院鍋診療所(明治38年)?、
海沿いに神垣材木倉庫(明治45年)、大正橋の浦の突堤、背後の稜線の上に目立つ大木が2本、突堤に隣接する鍋小島、
稜線がすとんと落ちたあたりから海軍工廠が見えてるような気がする。

大正橋が出来る前、あのあたりは法崎、背後の高台は江ノ本〜大久保という字名で、鍋桟橋あたりは字鍋新開だったようだ。
大正橋から呉寄りにあった小さな漁港?のことを何て呼んでたのか、あそこに親戚が住んでいてよく行ってたけど、全然記憶にない。

鍋浦に浮桟橋か架設され鍋桟橋ができたのは明治43年(1910)、浜の宮は海から4mほどだったというから、
今の交番の海寄りにあるのが昔の護岸ですね。
鍋桟橋地先海面が埋め立てられたのは呉線電化の翌年、1971年でした。
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