[過去ログ] 「天皇家の真の皇祖は蘇我馬子」論 (648レス)
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(14): 広瀬満 2007/03/21(水)13:34 AAS
天智天皇の祖父は押坂彦人大兄皇子であるが、この人物は蘇我馬子と同一人物であるというのが私の説である。
日本書紀の用明天皇のあたりの記述を私の「大国主伝」を参考によく読んでもらいたい。
日本書紀の記述から押坂彦人大兄皇子が消えていなくなると蘇我馬子が登場してくる。
にもかかわらず押坂彦人大兄皇子の舎人の迹見赤檮(とみのいちい)は蘇我馬子の元で活躍している。
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だという疑いを誰も持たないのだろうか。

広瀬満

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8: 2007/03/22(木)09:48 AAS
た、た、確かにおかしい
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(1): 2007/03/22(木)12:10 AAS
あんまりおかしくない。
蘇我馬子は彦人皇子が消える前から登場している。
迹見赤檮が「彦人皇子の舎人」とは書かれてない。
(むしろ記事からは、赤檮が彦人皇子直属の舎人ではなかったことが読みとれる)
物部合戦で、迹見赤檮が「蘇我馬子の配下」であったとも書かれていない。

>蘇我馬子は大々王
元興寺縁起を読む限り、大々王は女性だし、
大々王が馬古大臣に告宣する場面も出てくる。
別人だな。
10: 2007/03/22(木)12:32 AAS
日本版のFBIを創設しろ!!
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(1): 広瀬満 2007/03/22(木)14:25 AAS
彦人皇子と中臣勝海連の話の後に舎人迹見赤檮と記されているので迹見赤檮は彦人皇子の舎人と見るべきである。
迹見赤檮が彦人皇子の舎人でないとすれば彼はいったい誰の舎人なのか。
迹見赤檮は中臣勝海連が彦人皇子の所から退出するのを見計らって惨殺している。このような状況から迹見赤檮は彦人皇子の命で中臣勝海連を殺害したと見たほうがよい。
ちなみに「聖徳太子伝歴」では迹見赤檮は蘇我馬子の命をうけていたとある。
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子が同一人物であるか否かは大変重要なことなのでここは徹底的な議論を望みます。

広瀬満

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12: 2007/03/22(木)15:09 AAS
>>7 押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だという疑いを誰も持たないのだろうか。

押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だとすると、日本書記など多くの資料に、その何倍、何十倍いや何百倍もの疑問や矛盾が発生することになるが、広瀬満という方は、そういう疑いに気が付かないのであろうか?

一度、落ち着いて、
 押坂彦人大兄皇子≠蘇我馬子 の場合の矛盾点
 押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子 の場合の矛盾点
について、一覧表などを作ってみたらどうですか。
おそらくその作業の途中で、自分の愚かさ加減に気が付くでしょうけど・・・。
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(5): 広瀬満 2007/03/22(木)15:48 AAS
押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だとすると、日本書記など多くの資料にどのような疑問や矛盾が発生するのか具体的に説明してもらいたい。
押坂彦人大兄皇子に関する疑いについては早急に、具体的に説明させていただく。
なおこの板に書き込む場合は名前(仮名でよい)を書き込んでいただきたい。そうでないと誰からの質問だか、誰に返答を返して良いのかわからない。このことはくれぐれもお願いしたい。

広瀬満
14
(8): 広瀬満 2007/03/22(木)19:10 AAS
ここでは押坂彦人大兄皇子はいかに矛盾に満ちた人物であるか具体的に説明していきたい。

1,押坂彦人大兄皇子(以下、彦人皇子とする)の母は敏達天皇の皇后、息長真手王の娘・広姫であるがこの息長真手王が王女が天皇の妃となったこと以外具体的な記述が何もなく正体不明の人物である。広姫という名前も皇族にしては短かすぎる。

2,敏達天皇と皇后の第一子で太子とされていたのに敏達天皇や用明天皇の崩御後、なぜ即位しなかったのか。

3,彦人皇子の后は糠手姫皇女、大俣王、桜井弓張皇女、小墾田皇女の4人であるがこの内、糠手姫皇女、桜井弓張皇女、小墾田皇女は敏達天皇の娘である。従って彦人皇子が自分の妹を3人も后にしているのは何とも異常である。
 この時代、自分の妹を娶った例はいくつかあるがそれは皇后、正后の一人に限られている。3人も后にした例はなくその理由も説明がつかない。

4,皇統譜上、彦人皇子は極めて重要な人物でありながら没年についての記載がない。一方天智天皇の祖母の薨去についての記載は存在する。
省4
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(5): 広瀬満 2007/03/22(木)19:11 AAS
続き

9,『延喜式』には彦人皇子の墓についての記載があるがその墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。これは『延喜式』では最大の大きさである。
 敏達天皇が東西3町、南北3町、天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか。

10,彦人皇子の墓(成相墓)が広陵町にある牧野古墳である可能性はかなり高いとされている。なぜなら成相墓があったとされる大和国広瀬郡(現在の河合町や広陵町)には牧野古墳以外、飛鳥時代の墓はほとんどないからである。
 牧野古墳の石室は明日香村の石舞台古墳とほぼ匹敵する大きさである。蘇我馬子と物部守屋の戦い以降の蘇我氏の全盛期になぜこのような巨大な墓が即位したわけでもない彦人皇子のために造られたのか。

牧野古墳についての情報:外部リンク[html]:www.kojikiden.com

11,推古天皇の崩御後、天皇に即位した舒明天皇は日本書紀によれば蘇我氏とは血の繋がりはない。山背大兄王といった蘇我系の皇子をさしおいてなぜ蘇我蝦夷は彼を天皇に即位させたのか。
 舒明天皇の次も蘇我氏とは血の繋がりのない宝女王(皇極天皇)である。蘇我氏の全盛期になぜ非蘇我系の皇子が次々と天皇に即位したのか説明ができない。
省5
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(9): 2007/03/22(木)23:47 AAS
1.広姫は敏達即位4年目に亡くなっており、先后・石姫も存命と思われ、特記事項が無くても不思議ではない。
  また、この時代、坂田耳子王が中央政治に関わっていた記事が見えるから、同族の息長王家から后が出てもおかしくはない。
  息長広姫あってこその「押坂」皇子だし、「息長足日広額」天皇であろう。
2.先后の意向や存在が重視されたのではないか。(このケースでいえば額田部皇女の意向)
  (例・欽明における春日皇后、乙巳の変時における皇極、天智後の倭姫皇后=大海人の提言、天武没後の持統など)
3.3人が同時に妃だったとは限らない。記と紀それぞれの伝承では2人である。
  (ちなみに平城天皇は異母妹を2人、妃にしている。甘南備内親王を入れれば3人である)
4.舒明が即位したため結果的に皇統譜上重要になっただけのこと。天智の祖母が亡くなったのは天智の時代。
5.この時代に皇女が臣下に嫁いだ例などない。
6.だったら、「勝海が馬子の像を造って呪った。これを知った馬子が怒って勝海を殺した」と書けばよい。
省8
17: 2007/03/22(木)23:56 AAS
赤檮は「太子」の舎人
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(1): 2007/03/23(金)10:05 AAS
>>13 押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物だとすると、日本書記など多くの資料にどのような疑問や矛盾が発生するのか

押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子の祖先や子孫の系譜はどうなるの?
蘇我馬子と厩戸王子との関係はどうなるの?
蘇我馬子と他の群臣との関係はどうなるの?

これらのことすべてについて、一般に史実とされることであれ、聖徳太子の伝説的なことであれ、蘇我馬子と書かれているところを単に押坂彦人大兄皇子と読み替えてうまくいく箇所はほとんどない。
例えば、5が指摘したように「蘇我馬子=押坂彦人は葛城系」となるが、これを矛盾と思わないのか?

このようなことすべてについて、日本書記等の記録がほとんど矛盾となる。
ささいな疑問を解消するために莫大な矛盾を発生させる珍説と言わざるをえない。
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(3): 2007/03/23(金)10:24 AAS
迹見赤檮についても、むちゃだ。
主人を変える、兵力を貸し出す、二人の主人を持つなど、たいして珍しいことではない。

当時の舎人は終身雇用だったのか?
そんな話は聞かない。
押坂彦人の舎人である時代と馬子の舎人である時代とがあったはずがないと、どうして分かるのだ?

舎人のレンタルや派遣はなかったのか?
物部戦争のときに、押坂彦人が馬子を支援するため、兵糧、武器、兵力などを貸したり提供したりしなかったと、どうして分かるのだ?

舎人の主人は一人だったのか?
複数の主人に仕える、あるいは複数の指揮命令系統に従うことなど、近代以前の軍隊では珍しくない。

迹見赤檮の身分について疑問はあるが、ささやかなものであり、「押坂彦人=馬子」の根拠とするほどのものではない。
20
(1): 2007/03/23(金)11:17 AAS
>>13
> なおこの板に書き込む場合は名前(仮名でよい)を書き込んでいただきたい。
> そうでないと誰からの質問だか、誰に返答を返して良いのかわからない。

これは無理な話ですよ。
2ch内では、むしろコテつけてる方が「うざい」というのが一般的な感覚。
それが嫌ならば初めからこの板には書き込むべきではない。
あと、
コテつけてなければ「誰からの質問だか、誰に返答を返して良いのかわからない」
というのは、意味不明ですな。
コテのあるなしにかかわらず、全ての質問に誠実に返答していただければ良いだけの話だと
省2
21: 広瀬満 2007/03/24(土)09:36 AAS
>>16
他の掲示板でも同じような質問を出しているのですが思ったような返答がなくがっかりしていました。歯ごたえのある返答をいただき感激しています。
4時間あまりの短時間にすべてに返答していただいたこと、内容の鋭さと相まって感服いたしました。
相当古代史に精通した方とお見受けしました。
早速反論させていただきますが項目が多い上、なるほどと思えるもの、そうでないもの様々ありますのでしばらく時間をいただきたいと思います。

広瀬満
22
(3): 広瀬満 2007/03/24(土)10:24 AAS
>>18
莫大な矛盾を発生させるというのならそのような具体例をけちけちせずに一つだけでなく10個ぐらいあげてもらいたい。
私はむしろ押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子を同一人物とした方がこの時代の謎や矛盾は少なくなると思う。
葛城に蘇我氏の祖廟が建てられていたことからわかるように確かに蘇我と葛城は深い関係にあった。
彦人大兄=葛城系に疑問を持つのなら彦人大兄の孫の中大兄皇子の別名、おそらく幼名だと思うが葛城皇子となっているのはどういうことか。
中大兄皇子は蘇我の一族だったからこそ蘇我ゆかりの葛城あるいは葛城氏の元で養育されていたのではないだろうか。
このことも押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物とする根拠の一つにあげておきたい。

広瀬満

外部リンク:www.kojikiden.com
23: 2007/03/24(土)11:00 AAS
>>1
んじゃなんで
天皇家は代々にわたり蘇我馬子よりも年長の
天照や応神なんかの祭祀を続けてるんだ?
同じ年長でも長髄彦や川上猛は祭祀してないぞ
明らかに天皇家は年長の血縁神の祭祀してるぞ!
貴方の話じゃちっとも説明つきませんよ
妄想が過ぎるんじゃありませんか?
貴方もやっぱり大林賢栄君ですか?w
24: 2007/03/24(土)11:15 AAS
天智は嶋宮に住んでたばあさん連中の采女が乳母だったんだよ
25
(3): 広瀬満 2007/03/24(土)14:16 AAS
>>19
19さんの論法では仮定の議論しかならないと思う。
今は押坂彦人大兄皇子の疑惑について徹底的に議論したい。

押坂彦人大兄皇子=蘇我馬子とみれば特殊な事情を考慮しなくても迹見赤檮の行動はスムーズに理解できるはずである。

広瀬満
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(1): 広瀬満 2007/03/24(土)21:16 AAS
>>20
>2ch内では、むしろコテつけてる方が「うざい」というのが一般的な感覚。
>それが嫌ならば初めからこの板には書き込むべきではない。

これは言い過ぎであろう。
書き込みには名前の項があるのだから名前を書くことが非難されることはない。
むしろ「うざい」という理由で書き込まないことが一般的になっている2ちゃんねるのマナーの方が問題では。

このスレでは当方の持論に対し意見、反論をいただきそれに私が返答する格好になっている。
すべてが「日本@名無史さん」では反論をいただいた相手が以前にどのような書き込みをされているのかわからない。
返答に正確を期すためにもぜひ協力してほしい。

>せっかくみんな、あなたに対してこんなに真面目にレスしているのですから。
省1
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