[過去ログ] 第25回参議院議員通常選挙総合スレ7 (1002レス)
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758: (ブーイモ MMff-4oQE [163.49.214.138]) 2018/01/11(木)23:36 ID:ckxPYTJlM(3/4) AAS
◇蝦夷日誌全35巻
当時の蝦夷地は、松前藩があった渡島半島を松前地、内浦湾沿岸部から知床に至る南半分を東蝦夷地、北半分を西蝦夷地、樺太(現サハリン)を北蝦夷地と、大きく四つに分けて呼ばれていた。
武四郎はまず東蝦夷地を目指し、最初の1845(弘化2)年に海岸線を馬や丸木舟を使って知床まで踏破。翌年には樺太勤務となった松前藩医の従者として一緒に船で渡り、
それからオホーツク海沿岸を回って、2年がかりで道内を一周した。3回目の49(嘉永2)年には、松前商人の手船で函館から択捉・国後両島へ渡航。それぞれ「初航」「再航」「三航」
と名付けた「蝦夷日誌」全35巻にまとめ、蝦夷地の海防強化を唱えていた前水戸藩主・徳川斉昭(1800〜60年)に献上するなどした。
幕吏になってからの3回は、3年間にわたって内陸部を精力的に調査。「石狩サッポロ(札幌)領ヲカハルシよりチトセ(千歳)通りユウハリ(夕張)、ソラチ(空知)より上川大番屋へ新道見積り書」など、
多くの新道開削の建言書を作成し、現在の道路建設の基礎を作った。
◇小平町に銅像
留萌市から日本海沿岸を走る小平町の国道232号沿いの道の駅「おびら鰊番屋」には、この地を4回訪れ、歌を詠んだという武四郎の銅像が建つ。北海道博物館の学芸主幹、三浦泰之さん(43)は
「武四郎が残した記録は地形や自然環境などのほか、耕作地や漁場の見立てまで多岐にわたる。まさに北海道開拓の礎を築いてくれたのが武四郎だった」と話す。
◇アイヌの文化に親しみ
蝦夷地を探検したのは松浦武四郎が初めてではない。それまでにも最上徳内(1754〜1836年)、間宮林蔵(1780〜1844年)ら著名な探検家はいたが、道案内をかってくれたアイヌの人たちと寝食をともにし、
その生活にも親しんだのは武四郎だけだったようだ。
◇暮らしぶり漫画に
武四郎は、アイヌの人たちが捕まえた動物の肉や自ら持参した米やみそなどを互いに分け合い、アイヌの人たちの家「チセ」に泊まったり、時には野宿をしたりしながら、アイヌの暮らしぶりに触れた。
アイヌ語も熱心に学び、次第にアイヌの生活様式や独自文化の素晴らしさに気付いていったとされる。
6回にわたった探検で、武四郎はアイヌの人々の暮らしぶりを伝える多くの記録を残した。その一つが1859(安政6)年に刊行された「蝦夷漫画」で、絵筆で色彩も再現しながら、
当時のアイヌの人たちの生活文化を江戸や京都の人たちにも広く理解してもらおうと努めた。また、前年にまとめた「近世蝦夷人物誌」では、アイヌの長寿者や猟の名手のほか、彫刻の名人や踊り上手ら、
100人を超える人たちを紹介。中には足が悪くて歩けない人、老親を介護する夫婦の話も取りあげ、同じ人間として分け隔てなく、アイヌの人たちのありのままの姿を親しみを込めて伝えた。
◇強制労働 抗議
当時のアイヌの人たちに対しては、松前藩の商人らが漁場での強制労働をさせたり、女性たちに性的虐待を加えたりするなどの理不尽な行為が後を絶たなかった。
各地でアイヌの人たちからこうした苦境を訴えられた武四郎は、数々の著作に記して批判。当時の蝦夷地の実態を明るみに出したことは松前藩をいたく刺激したとされる。
ついには刺客に命を狙われ、一時、身を隠す生活を強いられたが、自らの信念を曲げなかった。
武四郎は明治維新後、蝦夷地開発を担う開拓使のナンバー3である開拓判官となり、アイヌの人たちへの搾取や虐待に終止符を打とうと取り組んだが、意見はなかなか聞き入れられず、
半年後に辞職。国から与えられた従五位の位階も返上し、以後71歳で死去するまで再びこの地に足を踏み入れることはなかった。
◇民族を深く理解
「静かな大地−−松浦武四郎とアイヌ民族」の著書のある元北海道大助教授の花崎皋平(こうへい)さん=小樽市在住=は「アイヌ民族を深く知り、その怒りや悲しみに触れて自己変革を遂げた探検家」と評する。【真貝恒平】
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