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455: 08/25(月)07:12 ID:/ZwuI2/k(1/6) AAS
今日の読売新聞 編集手帳は、シベリア抑留山本幡男氏の話
外部リンク:www.yomiuri.co.jp
8月25日 編集手帳
2025/08/25 読売新聞[読者会員限定]
終戦後に満州(現中国東北部)からソ連に抑留された山本幡男氏は、1954年8月にハバロフスクの収容所で病死した。山本氏は死の直前、戦友らに長い遺書を託した
◆ソ連は機密漏れを恐れて、帰国する抑留者に紙の持ち出しを禁じた。戦友らは分担して内容を記憶し復員後、文字にして順次、家族に届けた。この物語は作家の辺見じゅん氏が「収容所から来た遺書」(文芸春秋)に描き、映画化された
◆「君等ガ立派ニ成長シテ行クデアラウコトヲ思イツツ私ハ満足シテ死ンデ行ク」。愛する4人の子や妻、母と再会できず旅立つ無念に、読み返すたび心を打たれる
◆遺書の現物を家族に見せてもらった。紙は茶色に変色したが、青インクの端正な文字は色あせない。筆跡を見つめつつ、10年を超す抑留に耐え抜き、文面を持ち帰った不屈の勇士に思いは飛んだ。正座して背筋を伸ばし、厳粛な思いで一言一句を書いたのだろうか。手書きの文字は筆者の姿や心の内まで映し出す。そんな気がした
◆80年前の8月23日はソ連の独裁者スターリンが日本人の抑留を命じた日である。きょう25日は山本氏の命日である
外部リンク:ja.wikipedia.org
山本 幡男(やまもと はたお、1908年〈明治41年〉9月10日[1] - 1954年〈昭和29年〉8月25日[2])は、第二次世界大戦終結後に旧ソビエト連邦によるシベリア抑留を経験した日本人の一人。日本への帰国が絶望的な状況下において、強制収容所(ラーゲリ)内の日本人俘虜たちに日本の文化と帰国への希望を広め、一同の精神的支柱になり続けた。自身は帰国の夢が叶わず収容所内で病死したが、死の間際に家族宛ての遺書を遺しており、同志たちがその文面を暗記することで日本の遺族へ届けたことでも知られる。島根県知夫郡西ノ島の黒木村大字大山島(現:隠岐郡西ノ島町大山地区[11])出身[12]。
収容所での文化活動
1946年(昭和21年)末、収容所内の俘虜たち数人に呼びかけ、日本文化についての勉強会(後に学習会[33]、同志会と改名[34])を始めた。折しも収容所内では帰国を諦める俘虜たちが現れ始めており、帰国への希望を呼び戻すことが目的であった。ここで山本は『万葉集』や仏教を題材とする知識の豊かさで一同を驚かせ、わかりやすい話術で一同を楽しませた[33][35]。
その後も山本はソ連国内の監獄や収容所をたらい回しにされた末、1949年(昭和24年)にハバロフスク市内の強制労働収容所へ移された[36]。ここで山本はそれまでの経歴から「前職者」(民主主義反対派)と見なされ、強烈な吊るし上げに遭った[37]。翌1950年(昭和25年)に俘虜たちの帰国が始まったが、山本を含め戦犯とされた者たちは帰国を許されなかった[38]。このことは彼らの帰国への希望を失わせるのに十分であり、山本も一度は絶望しかけていた[39]。しかし彼は自らを支えて希望を抱き続けようと誓い、日本や日本語を忘れないよう、以前から好んでいた短歌や俳句を詠うようになった[40]。
つづく
456: 08/25(月)07:13 ID:/ZwuI2/k(2/6) AAS
つづき
外部リンク:lageri.nkk-oki.com
偉大なる凡人 山本幡男の遺品展示室 | 西ノ島ふるさと館
西ノ島町観光協会 ソ連に抑留された山本幡男
その内容は地獄のようなシベリア抑留生活であっても不屈の精神を以て人間らしく生きることに徹した山本幡男という男と、彼を慕う同胞が、ソ連の監視網を潜り暗記によって ...
外部リンク:www.chichi.co.jp
ラーゲリからの遺書——山本幡男の生涯が教えるもの 致知出版社
ソ連に抑留された山本幡男
2024/05/01 — 昭和11年南満州鉄道会社の調査部に入社。20年日本降伏後ソ連に抑留され、スヴェルドルフスク収容所に収容。25年俳句をつくり合う「アムール句会」の活動 ...
(引用終り)
以上
457(1): 08/25(月)07:17 ID:/ZwuI2/k(3/6) AAS
>>454
巡回ご苦労さまです
そのうち
AIを血肉にしている数学者が
出現しそうですね (^^
458: 08/25(月)07:31 ID:/ZwuI2/k(4/6) AAS
>>457
昔、一松先生の4色問題を ブルーバックスで読んで
4色問題は、色分けの地図を数百通りに分類して
それを、当時のコンピューターで 全部しらべて 数学の証明とした
一松先生は、この問題は コンピューターを使わない エレガントな解答はないかも
今後、この種 コンピューターを使う数学が増えるだろうと 書いてあったような
その後、コンピューターを使う数学で 有名なのが 有限群論の分類で
いまでは、群論ソフトがあるそうです
因みに、下記ハーケンさんは、ポアンカレ予想を証明することを目指していた(ハーケン多様体で有名)が 挫折し
四色問題へ
(参考)
外部リンク:ja.wikipedia.org
四色定理(よんしょくていり/ししょくていり、英: Four color theorem)とは、厳密ではないが日常的な直感で説明すると「平面上のいかなる地図も、隣接する領域が異なる色になるように塗り分けるには4色あれば十分だ」という定理である
コンピュータによる証明
四色定理の証明法は次の2段階に分けられる。
アッペルとハーケンはコンピュータによる実験を繰り返し、プログラムを何度も書き換えながら、可約なグラフから成る約2,000個のグラフからなる不可避集合を求めた。当時の大型汎用コンピュータであるIBM System/370[注 2]を1,200時間以上使用したといわれている。
複雑に思える問題に対して簡潔にまとまった比較的短い証明(解答)を、エレガントな証明(解答)と言うことがある。四色定理に対するある種「力業による証明」は、これとは対極にあるものとして揶揄を込めて「エレファント(象)」な証明とも言われた。5色による塗り分けが可能であることの証明が簡潔なものであるのとは対照的である。
その後アルゴリズムは改良されたが、現在でもコンピュータを利用せずに済ませられる証明は得られていない。それどころか完全に自然言語を離れて、プログラムにバグがないことも含めた四色定理の証明全体をコンピュータ上の証明検証系システム(ソフトウェア)Coqによってチェックさせた仕事がある。
証明のアイディアの概要
外部リンク:ja.wikipedia.org
ヴォルフガング(ウルフガング)・ハーケン(Wolfgang Haken、1928年6月21日 - 2022年10月2日[1])はドイツ出身の数学者。専門分野はトポロジー(位相幾何学)。数学上の難問として知られる四色定理(四色問題)を証明したことで知られる。
ハーケンは大学生時代に知ったポアンカレ予想を証明することを目指していたが、叶えることはできず、俗に「ポアンカレ病」と呼ばれる精神疲労状態に陥ってしまう。そんなとき数学者のハインリヒ・ヘーシュ(英語版)から四色問題のことを聞かされ、研究対象をポアンカレ予想から四色問題へと変更した。
1976年に4歳年下の同僚ケネス・アッペル(英語版)と共に四色定理を電子計算機(現在のコンピュータの原型)を用いて証明した。1979年ファルカーソン賞受賞。
461: 08/25(月)22:27 ID:/ZwuI2/k(5/6) AAS
>>454
治勲さん、好調らしい
外部リンク:mainichi.jp
囲碁 二十五世治勲 生涯一棋士目指して 今年に入り好調続く
毎日新聞 2025/8/24 東京朝刊 有料記事 1531文字
<第81期本因坊戦予選C 二十五世本因坊治勲(趙治勲九段)VS桑原樹二段> ※桑原二段との観戦記は25日から、本紙朝刊囲碁欄で掲載。
本因坊10連覇のレジェンド、二十五世本因坊治勲(69)=趙治勲九段=の戦績が素晴らしい。今年に入って、18勝7敗と好調を維持している。伸び盛りの若手なら分かるが、来年6月には古希の年齢。何か秘密はあるのか。予選が進む第81期本因坊戦の対局を担当し、話をうかがった。
◆
観戦したのは6月上旬に打たれた桑原樹二段(16)との予選Cの一局。孫ほど違う年齢差。午前10時の開始前、対局室に控える桑原に「打ちたくない?」と笑顔で話しかけた。
まずは、ハイライトをご覧いただく。
第1図、下辺、そして、右辺で軽やかにサバキ、形勢は互角であるが、治勲好みの展開。桑原は黒1から3と眼を奪い、白大石に攻勢をかける。いっぱいに頑張るのが治勲流だが、白6が打ち過ぎ。黒7、9と手厚く対応され、劣勢となった。さらに、白14の切りが先を読み過ぎたゆえの失着。白16に黒18の切りを予想し、「白イ、黒ロ、白ハと反撃し、攻め合いになりそう。その時に白14と黒15の交換が役に立つ」と考えた。黒17とかわされ、アテがはずれた。
第2図。桑原の的確な着手が続き、リードを堅持している。ここで、白1から3と強引に切ったのが渾身(こんしん)の勝負手。刺し違え覚悟で、種石である黒二子に襲いかかった。ただ、桑原の対応は正確を極めた。黒4から14のアテまで一直線に進み、黒20と三子を捕獲して、一段落(●18=5十ツギ)。ここに至って、黒の優勢がはっきりした。「(第1図の)黒17を見ていないんだもの。ヘボだねえ」。検討中、治勲はぼやくことしきりだった。
敗れはしたが、随所で治勲らしい打ち回しを見せた。新聞解説の蘇耀国九段は「治勲先生が気分よく打ち進めていましたが、桑原君の冷静さが光りました」と話した。
今年は好調だが、昨年は11勝9敗と五分に近い成績。どちらかといえば不調だった。原因ははっきりしている。昨年、二つのがん(直腸、食道)が発覚し、千葉の病院に通、入院したことだ。そのため、不戦敗もあった。昨年末、直腸がんの手術を受けた。「成功し、今年から本格的に対局復帰しました」。今年1月23日の初対局に快勝。以来、快進撃が続いている。手痛い敗戦もあった。棋聖戦のファーストトーナメント予選決勝(5月12日)に敗れ、Cリーグ入りを逃した。「下の方でウロウロしていると、負けてもそんなに感じないのですが、勝ち出すと上を見て、欲が出ちゃう。あれは悔しかった」と思い返した。
つづく
462: 08/25(月)22:28 ID:/ZwuI2/k(6/6) AAS
つづき
◆
勉強法が変わっている。最強の囲碁AI(人工知能)ソフトをまったく使っていない。それでいて、この好成績。そもそも、実力が違うということだろう。「AIソフトを入れてもらおうと思ったこともありましたが、やめました。AIの変化を見ても難し過ぎて、理解が追いつかない。それなら、自分の感性、感覚を信じて打とう、となりました。難解な手どころになると、間違うこともある。それは仕方ない」。読みでは得られない感覚を磨くため、毎日のようにインターネットで10秒の超早碁をこなしている。「絶対とは言えませんが、今後もAIを使うことはないと思います」
まだまだ続くであろう棋士人生。囲碁を打つことに、楽しさ、幸せを感じなくなったら引退という。「そう思わない限りは、生涯一棋士として、打ち続けたい」(金沢盛栄)
(引用終り)
以上
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