「名誉教授」のスレ 2 (467レス)
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428: 08/21(木)06:44 ID:/FwGOxIP(1/3) AAS
読売新聞 編集手帳
”松任谷由実さんが20歳のときに発表した「やさしさに包まれたなら」は、ジブリ映画「魔女の宅急便」のエンディングにも使われた。世代を超えて耳になじむ曲だろう”
と始る
松任谷由実さんと言えば、「『いちご白書』をもう一度」が有名
友達に誘われて 見に行った。東大 安田講堂事件とそっくりと言われたり
『いちご白書』("James Kunen's 1968 non-fiction account of the Columbia University protests." 外部リンク:en.wikipedia.org
を 真似たとも

(参考)
外部リンク:www.yomiuri.co.jp
8月21日 編集手帳
2025/08/21 読売新聞[読者会員限定]
 松任谷由実さんが20歳のときに発表した「やさしさに包まれたなら」は、ジブリ映画「魔女の宅急便」のエンディングにも使われた。世代を超えて耳になじむ曲だろう
◆詞に庭先の一瞬の情景がふたつ歌われている。♪カーテンを開いて 静かな 木洩 こも れ 陽 び の やさしさに包まれたなら――。もうひとつは♪雨上がりの庭で くちなしの香りの やさしさに包まれたなら――クチナシが咲いているのは夏だからだろうか
◆7月の日本の平均気温が3年連続で過去最高を更新した。高気圧が勢力を増し、月末にかけ40度以上の地点が頻発したことが記録更新を後押ししたとみられる
◆午前中から暑かった。カーテンを開いて木洩れ陽に和んだり、クチナシの香りに安らいだりする余裕もなかったような。7月はもう、やさしくなくなったみたいである。暑い暑いと嘆いているうち8月後半に入った。あと10日ほどで季節は秋に移る
◆気象庁が向こう3か月の天候の見通しを発表した。そのなかにこんな呼びかけがあった。「秋にも熱中症対策を」。やさしさに包まれるのは、高い空のしたでコスモスが咲く頃合いだろうか。

外部リンク:ja.wikipedia.org
「やさしさに包まれたなら」は、荒井由実(現:松任谷由実)の3枚目のシングル
1974年4月20日
解説
元々は不二家ソフトエクレアのCMのタイアップ曲として作成され、その後新曲としてリリースする際に歌詞の一部を変更して作成したことを2023年12月2日にテレビ朝日系で放送された『ザ・ニンチドショー』で松任谷自ら番組に宛てたメールで明かした。また松任谷は「原曲の最後の『すべてのことは君のもの』という部分をリリース曲として作成する際に『すべてのことはメッセージ』と書き換えたことについても事実です」と歌詞を変更したこともメールで返答。さらに曲タイトルについてもソフトエクレアがキャラメルクリームで包まれている商品であることから付けられたものであるということも明かした[2]。この制作秘話は奇しくも同番組での放送直前にも同日に生放送されていた日本テレビ制作の『ベストアーティスト』でも取り上げられ、こちらは松任谷自らVTR出演して語った。
アルバム・バージョンは映画『魔女の宅急便』(1989年)エンディングテーマソングになった

つづく
429: 08/21(木)06:44 ID:/FwGOxIP(2/3) AAS
つづき

外部リンク:ja.wikipedia.org
「『いちご白書』をもう一度」は、日本のフォーク・グループであるバンバンの楽曲。1975年8月1日に、同グループの5枚目のシングルとしてCBS・ソニーからリリースされた。
背景
バンバンのメンバーであるばんばひろふみは、当時ラジオの深夜番組においてディスクジョッキーとして活動し人気も高かったが、デビューから4年経過してもまだヒット曲がないことに焦りを感じていた[4]。その頃、荒井由実(現・松任谷由実)の曲を聞き「他の女性シンガーとは違う。キラキラしたすごい才能」と感銘を受けたばんばは「彼女の曲で売れなければ諦めもつく」と考え、最後の曲として荒井に書いてもらいたいと思い、荒井に会うためあらゆる伝を探し行き着いた所が松任谷正隆であった。そしてばんばは荒井と直接会い、条件を何も付けずに一曲依頼した[4]。この曲のヒットによりバンバンを継続することになり、ばんばは「バンバンの寿命を延ばしてくれた曲」と語っている。
制作
『いちご白書』をもう一度
過ぎ去った学生時代を思い出すという内容の曲で、タイトルにある『いちご白書』は、1970年6月15日に公開されたアメリカ映画で、1968年にコロンビア大学で実際に起こった学園紛争の手記をもとに制作されたものである[4]。
荒井は、当時あった学生運動を題材にした歌を書きたいと思っていたところにばんばが現れ、「初対面のばんばが学生っぽく、最後のピースがはまった感じだった」と感じ、曲を書く事となった[4][注釈 1]。その題材を提供したのが早大紛争を経験した音楽プロデューサーの前田仁であった[5]。
デモテープを聞いたばんばは、興行が振るわずすぐ打ち切られた[4][信頼性要検証]、誰も知らないような映画をタイトルに使ったことに驚き、日常性を的確に捉えながら学生時代への別れを表現する斬新なフレーズにまた驚いたという[4]。

外部リンク:ja.wikipedia.org
『いちご白書』(いちごはくしょ、原題:The Strawberry Statement)は、アメリカ合衆国の作家、ジェームズ・クネン(英語版)による1969年のノンフィクションおよび、同書を原作にした1970年のアメリカ映画。
映画
クネンの著書を元に、1960年代の学生闘争を描いたフィクション映画が製作された。1970年6月15日に公開。カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞したが、アメリカでは興行的に振るわなかった。日本では『イージー・ライダー』『俺たちに明日はない』などと並ぶ、アメリカン・ニューシネマの人気作品となった
(引用終り)
以上
430: 08/21(木)06:49 ID:/FwGOxIP(3/3) AAS
>>427
巡回ご苦労さまです
陳祖徳さんか
”中国流布石”ね。そうでしたね

(参考)
外部リンク:ja.wikipedia.org
陳祖徳(ちん そとく、陈祖?コ、チェン・ズゥドゥ、1944年2月19日 - 2012年11月1日)は、中国の囲碁棋士。上海市出身、顧水如、劉棣懐に師事、中国囲棋協会所属。現代中国のプロ棋士制度の第1号であり、最初の九段。1960〜70年代の中国囲碁界の第一人者。中国流布石を研究して、世に広まるきっかけとしたことでも知られる。
中国囲棋協会主席、中国国際象棋協会(中国チェス協会)主席、中国象棋協会(中国シャンチー協会)主席[1]を歴任し、1992年から2003年まで中国棋院初代院長、その後顧問。
経歴
日中囲碁交流では1961年から出場し、1965年には岩田達明九段を破り中国棋士として初めて日本の九段に互先で勝利する。この勝利を記念して、この対局で陳が用いた中国流布石を図案にした切手も発行された。陳は1963年に日本中国友好協会の一員として訪中した安永一が紹介した布石を研究・実践しており、これを見た島村俊博九段が研究し、日本でも徐々に流行するようになる。
1970年に文革により山西省に下放されるが、周恩来の計らいで北京に戻される。全国個人戦では1960年に3位、1962年に2位、1964年から文革を挟んで3連覇。1979年の第1回世界アマチュア囲碁選手権戦では、聶衛平に次いで2位。1982年に新しい段位制度により、プロ棋士九段となる。1992年に中国棋院設立とともに院長となる。

1994年、日本棋院より大倉喜七郎賞を贈られる。1997年三星火災杯世界オープン戦でベスト16、CCTV杯中国囲棋電視快棋戦ベスト4。1998年、徳隆衣業杯四強戦に現代中国の4つの時代を代表する棋士として出場。1999年には新中国棋壇十大傑出人物に選ばれた。2003年の第1期トヨタ&デンソー杯囲碁世界王座戦に推薦で出場し、1回戦で後藤俊午九段に勝つ。甲級リーグ戦では、1999年から2002年まで上海チームに所属。

2012年11月1日、膵臓がんのため北京で死去[4][5]。遺灰は黄浦江に流された。
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