[過去ログ] 横浜は何故文化不毛なのか?馬鹿か? (505レス)
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205: (神奈川県) 2017/01/23(月)20:58 ID:4POmF6hv(1/3) AAS
中区と南区にまたがる「吉田新田」は、2017年で完成350周年を迎える
10年以上におよぶ難工事の末に完成した干拓地は、
時代の流れとともに水田から町へと姿を変え横浜開港の礎となった
また、難工事ゆえに”おさん伝説”さえ生まれ、今日に語り継がれている
吉田新田は、現在の日枝神社=南区山王町=を頂点に大岡川と
中村川に囲まれた釣鐘形の土地。もともと大岡川が注ぐ入海だったところを、
江戸の石材・材木商の吉田勘兵衛が中心となって埋め立てた
新田工事は1656(明暦2)年に始まり、
大雨で潮除堤が壊れるなど困難を極めたが、
10年余りかけ1667(寛文7)年に完成する
江戸幕府誕生(1603年)にともない江戸の町は急成長、
そのような時代において石材・材木を扱う勘兵衛は商売に成功する
江戸の開発がひと段落した1650年ごろ、勘兵衛は
「商売のリスクを分散する発想で江戸での事業のほかに、
新田開発にも目をつけたのではないか」
江戸の人口が爆発的に増加、食料を供給する新田開発は重要な事業だった
そこで白羽の矢が立ったのが、
大岡川が注ぎ埋め立てやすいと踏んだ入海だった
総事業費は8千両で、現在の貨幣に換算すると8億円から
16億円に値する一大事業だったようだ
206: (神奈川県) 2017/01/23(月)21:00 ID:4POmF6hv(2/3) AAS
中区と南区にまたがる「吉田新田」は、2017年で完成350周年を迎える
10年以上におよぶ難工事の末に完成した干拓地は、
時代の流れとともに水田から町へと姿を変え横浜開港の礎となった
また、難工事ゆえに”おさん伝説”さえ生まれ、今日に語り継がれている
吉田新田は、現在の日枝神社=南区山王町=を頂点に
大岡川と中村川に囲まれた釣鐘形の土地
もともと大岡川が注ぐ入海だったところを、
江戸の石材・材木商の吉田勘兵衛が中心となって埋め立てた
新田工事は1656(明暦2)年に始まり、
大雨で潮除堤が壊れるなど困難を極めたが、
10年余りかけ1667(寛文7)年に完成する
江戸幕府誕生(1603年)にともない江戸の町は急成長、
そのような時代において石材・材木を扱う勘兵衛は商売に成功する
江戸の開発がひと段落した1650年ごろ、勘兵衛は
「商売のリスクを分散する発想で江戸での事業のほかに、
新田開発にも目をつけたのではないか」
江戸の人口が爆発的に増加、
食料を供給する新田開発は重要な事業だった
そこで白羽の矢が立ったのが、
大岡川が注ぎ埋め立てやすいと踏んだ入海だった
総事業費は8千両で、現在の貨幣に換算すると8億円から
16億円に値する一大事業だったようだ
207: (神奈川県) 2017/01/23(月)22:53 ID:4POmF6hv(3/3) AAS
約115万5千平方メートルにおよぶ広大な吉田新田
それを埋め立てた土砂は、現在の京急日ノ出町駅裏手の天神山、
また入海を挟んで向かいに位置するJR石川町駅近くの大丸山
あたりから掘削されたといわれている
■時代は江戸末期
吉田新田完成後も入海だった現在の横浜中華街あたりは、
横浜新田に、現在の横浜スタジアムや市役所は太田屋新田として埋め立てられ、
当初の入海はほぼ陸地となった
時代とともに横浜の人口も増え、水田ではなく町が拡大していく
そんな中、鎖国していた日本に砲艦外交で迫ってきた米国のペリー提督
1回目の上陸は、横須賀の久里浜
2回目は、江戸により近い場所を求めるペリーに対して、
幕府が提示したのが寒村の横浜だった
現在の象の鼻パークあたりに久里浜から移設した建物を設け、
横浜は外交交渉の場となった
結果として、その外交交渉の場を提供できたのは、
吉田新田をはじめとする新田開発があったからこそと言える
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