禪 (221レス)
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1: 2024/11/05(火)15:18 ID:LZMCf73v(1/10) AAS
道元禅師が身心脱落で体験されたように、「今」の自覚が必要である。
一旦「今」の自覚がないと只がわかりませんからね。
そこから、真の只に徹する修行が始まります。
単を練り続けた結果が只です。
単とは一つです。
一つの事を練り続ける、つまり息なら息だけを練ります。
これが単を練るです。
歩くときは歩くだけをするのが動中の工夫です。
単を練ると言う点においては、坐禅と動中と全く同じです。
何もしてない時は、息を練ってればいいです。
省9
2: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/05(火)15:22 ID:LZMCf73v(2/10) AAS
ここに正法及び正法の体得の仕方を記します。
3: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/05(火)15:23 ID:LZMCf73v(3/10) AAS
坐禅だけを修行だと思っていたら一生かかっても埒はあかない。
常に道であること。
例えばラジオでもテレビでも、聞くときは、「只」聞き、「只」見るだけ。
入って来るままに聞くだけ。
感情も気付きも入れない。
自分を虚にしておく。
「面白い」と言うたり思ったりするのは、何かに引っかかっている証拠である。
何も無しにあると、そのまま入って聞こえて終わる。
それが「正聞」である。
眼に於いては「正見」と言う。
省3
4: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/05(火)15:32 ID:LZMCf73v(4/10) AAS
疲れている時、ただ休んでじっとしていればよい。
辛いとか、何かと云う気持ちが少しでも出ると、その物に何か引っかかっている。
辛ければ辛いままであればよい。
病もまた道であり、疲れもまた道である。
5: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/05(火)16:56 ID:LZMCf73v(5/10) AAS
自分の中に、何かが出た時は自我が立っている証拠である。
一度は、迷いと迷えない「単」とのはっきりした違いに気づかねば、我見が入ったか入らんかの区別がつかない。
この正法の線をはっきりさせるためには、「今」を離してはならない。
6: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/05(火)17:01 ID:LZMCf73v(6/10) AAS
常に「只」するよう努力していればそれで良い。
ポカンとなり夢や幻の馬鹿になるのとは異なる。
そこを誤解しないように。
善悪や損得の気持ちがあった時は、あと残りがする。
その残った上で次の事をしていることが多い。
すると過去と今が重なるので大きな邪魔者になる。
常に自分を注意していないとその事が分からない。
例え無用な心がおこっても直ぐに捨てて相手にせずに、やるべきことを「只」やる。
7: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/05(火)20:40 ID:LZMCf73v(7/10) AAS
人と話をする時、云わないで良い事は言わない。
余分な念を使わない。
話は色々な事に渡るものだ。
二重、三重の話が出て混線するが、その中心の線だけを取っていれば良い。
一つ心で働けば良い。
「単」は一つ線であること。
一つのもので働けば良い。
8: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/05(火)20:58 ID:LZMCf73v(8/10) AAS
車を運転する時、心を虚にすること。
景色は「只」見て、綺麗だとか何とか感情を挟んではいけない。
動いている時は動くに任せて素直に動かされていれば良い。
自在に何んにでも「只」応じてさらさら流れている事が分かってくる。
それには「今」一点を守らねば、前後裁断している大事な線が手に入らない。
綺麗なとか表現しようとした時は、囚われているからだ。
一点を守らないからである。
今は動いている。
それを認めると何かが出ているから、囚われ付いていくことになる。
何を見ても聞いても、何もなしの空である時には、そのままさらさらと只々でいける。
9: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/05(火)22:52 ID:LZMCf73v(9/10) AAS
「今」がはっきりすれば、大自然に目覚める。
そうすると只管ならざるものなし。
そこまで行くには「今」を守り切らねばならない。
そうしないと迷いと悟り、煩悩と菩提の涯際を付ける事ができない。
生死の涯際が取れるまで凡情が尽し切れるまで努力しなければならない。
凡情に落ちるとは、物に落ちることである。
「全て道である」すなわち煩悩即菩提というのは、いたり得た後の話である。
それをごっちゃにしてはいけない。
そうしないと釈尊の六年間が無意味になる。
努力せずして道が成就するはずが無いでは無いか。
省13
10: カムイ ◆4zzhWyZTeatm 2024/11/05(火)23:28 ID:LZMCf73v(10/10) AAS
「禪」は単を示すとある。
単を示した行動でなければ、禅ではない。
禅は要するに、単、只、ひたすらにあればよい。
これが禅の極意である。
不純物の無い「今」が禅である。
これを「只管」という。
本当に単調に「今」行じていくには、自己を忘じた力がないとできない。
考えたのでは意識や感情が入っていて、不純物だらけで腐るから駄目である。
自己のないことが禅である。
生とか死は観念であり言葉である。
省11
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