◇◆◇ダイヤ改正総合スレ 77列車目◇◆◇ (892レス)
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66: (ワッチョイW eee5-lB9X [2001:268:986b:7dc:*]) 03/07(金)15:33 ID:AHPyd+HZ0(1/7) AAS
この阪和電気鉄道に経営参画したのが他ならぬ京阪電気鉄道であり、参画にあたつては、「和歌山方面は京阪電気鉄道会社より三相交流六十サイクル三万ボルトにて供給」の約束がなされ、鉄道施設・車両の規格面 (阪和天王寺駅ホーム配置は 乗降分離の旧天満橋駅と瓜二つ、阪和のモヨ、モタは 新京阪デイに相当) のほか、電力供給面でも京阪電気鉄道との関り合いが深かつたのである
阪和電気鉄道は開業当初は成績芳しからざるも、次第に好転してゆき、国策による南海との合併、さらには官営化なかりせば、やがては京阪電気鉄道阪和線となつておつた筈である
67: (ワッチョイW eee5-lB9X [2001:268:986b:7dc:*]) 03/07(金)15:34 ID:AHPyd+HZ0(2/7) AAS
昭和3年に淡路ー西院間及び嵐山支線を開業させ、親会社京阪の曲がりくねった路線と異なり高速運転を目指した直線的ルート、1500v の大型鋼製電車を投入した新京阪鉄道は、開通当時「日本一の電車」だつた訳であるが、その僅か 2年後の昭和5年には、更に磨きを掛けた阪和電気鉄道を開業させた訳である
天満橋駅、阪和天王寺駅のみならず、嵐山終点も乗降客を分離した大がかりな設備を有していたほか、嵐山支線を分岐する桂は立体交差とするなど、当時の京阪電気鉄道は兎に角スケールが大きく、石橋は複線平面分岐、西宮北口は複線平面交差のケツの穴の小さい (出すものが少ない) 一三さんとこの会社とは、出自からして月とスッポンだつたのである
68: (ワッチョイW eee5-lB9X [2001:268:986b:7dc:*]) 03/07(金)15:36 ID:AHPyd+HZ0(3/7) AAS
さて、此処からが本題の「宇治急行」之巻 - 金森又一郎 伝
生駒トンネルの難工事であわや倒産寸前だつた大阪電気軌道(大軌)が 目覚ましい発展の結果、東大阪一帯から奈良盆地を支配し、さらに地方鉄道 参宮急行 (参急) の名で三重方面に進出して、昭和5年(1930)、山田(伊勢市) まで開通した事は、終始その経営にあたつて来た金森又一郎翁の 乾坤一擲、努力の結晶であつたのである
生駒を凌ぐ私鉄最長 (3.4キロ) の青山トンネル (当初は単線) の掘削も見事に成し遂げ、布引山地を越えて上本町ー山田間を 2時間40分で結んだことで、庶民の夢、「お伊勢まいり」は画期的にスピードアップされ、遥か大阪から日帰りが可能となつたのである!
参急の路線は、奈良線の教訓もあり、当時、名張ー参急中川間を単線とし、中間駅舎は簡素、架線柱は木柱と節約に努め、反面、勾配は 33‰ 以下とし、単線区間には半自動式信号機を設け、踏切りは極力減らすといふ、「安全」と「高速運転」を両立させる工夫 努力をしておつたのである
69: (ワッチョイW eee5-lB9X [2001:268:986b:7dc:*]) 03/07(金)15:38 ID:AHPyd+HZ0(4/7) AAS
この大軌・参急の三重、伊勢方面進出に対して、地元の伊勢電気鉄道は猛烈な対抗意識を燃やし、津新地から大神宮前まで、省線参宮線と参急に並行する新路線を同じく昭和 5年に開通させる
参急がまづ土地収用法を適用し、地主のゴネ得を防いだのに対し、地元企業の伊勢電はそうは出来ず、用地買収に苦しんで建設費も嵩んで了ったやうである
参急の開通が同年12月20日、伊勢電の開通が12月25日で、翌年の初詣輸送から両社の熾烈な競争がはじまる
しかし、大阪をバックとする大軌参急に対し、前年に養老電気鉄道を合併したとはいへ、桑名、大垣に繋がるだけの伊勢電は不利であり、どーしても大消費地 名古屋に結ぶ必要があつたのである
この為、同社では桑名ー名古屋間の免許を得るとともに関西本線の旧鉄橋の払い下げを受けてはいたものの、大神宮前までの延長に資金を使い果たし、経営が行き詰まってしまう
一方、参急では、参急中川を起点に久居から津へ支線を建設して伊勢電の領域へと食い込んでゆく
70: (ワッチョイW eee5-lB9X [2001:268:986b:7dc:*]) 03/07(金)15:40 ID:AHPyd+HZ0(5/7) AAS
金森又一郎翁は、明治6年 (1873) 大阪の比較的裕福な商家に生れるが、生れつき體が弱かつた事から両親の希望で尋常小學校を中退し、9歳で大阪府庁の給仕に採用され 23歳まで勤めた
其の間、夜は漢学や珠算の塾に通い勉学に励み、府庁でも次第に昇進して若手の秀才として知られるようになつた
しかし、学歴なき者は役所での出世も知れておると辞職し、府庁での上司でもあつた七里清介が専務をしておつた大阪運河に入つた
此処で庶務課長から支配人に進んだのち、明治43年(1910) 、七里らが発起した奈良軌道 (→のちの大軌) の創立に常務委員として加わり、その設立とともに取締役支配人に任ぜられた
其れ以来、難産つづきのこの会社の為に事務の中心となつて働き、用地買収に「朝は暗いうちから晩は遅くまで、大和や河内の村々を草鞋穿きで駈け廻り、先方がどんな難題を持ち出しても嫌な顔 ☹ もせず、根気よく辛抱して話をつけ・・」た 二宮金次郎張りの 稀にみる人望の持ち主であつたのである
(最近の尋常小學校に二宮尊徳先生像がござらんのは、洵にけしからん 怒)
71: (ワッチョイW eee5-lB9X [2001:268:986b:7dc:*]) 03/07(金)15:41 ID:AHPyd+HZ0(6/7) AAS
生駒トンネルで手こずり、漸く開業してからも北浜銀行の破綻で社長の岩下清周が去り、専務の七里も健康を害して辞職したため、「此の間に於ける金森氏の孤軍奮闘は実に目覚しく、血涙其のもので・・」あつたとされておる
その後、第一次大戦の好況にも恵まれて経営は好転し、大正8年には専務、昭和2年には、元大阪税関長の大槻龍治のあとを受けて社長に就任する
大槻は「お供餅の上の橙みたいなやうなものでホンのお飾に過ぎず、会社の経営は一切合切 金森君が切盛りしてゐたのだから・・」当然の成り行きと評されたのである
さらに同年、参急を設立して其の社長となり、ついに昭和5年の山田(伊勢市) までの開業に漕ぎつけた訳である
青山トンネルの入口には、翁の揮毫による「徳無疆」(徳は永遠なり) の額が掲げられた
72: (ワッチョイW eee5-lB9X [2001:268:986b:7dc:*]) 03/07(金)15:43 ID:AHPyd+HZ0(7/7) AAS
金森翁は、その後も伊勢電気鉄道をめぐる争闘に奮戦して「関西急行電鉄」を設立し、桑名ー関急名古屋間の建設に着手するなど、終始「一人一業」を守って (どこぞの某京急行や最近の東とは異なり、アレコレ手を出さない) 、「大軌コンツェルン」 (コンツェルンは 当時の流行り) の発展に尽力するが、参急全通の頃より持病の喘息が悪化し、昭和12年(1937) 此の世を去る
「稀にみる人格者」と多くの人に尊敬され、外柔内剛の真の紳士 ジェントルマンであつたと、其の徳を慕われておつたのである
(なお、息子の金森乾次はのちに近鉄で副社長、会長となり、孫の金森茂一郎は近鉄社長、会長を勤めることが出来たのは、初代の「七光り」であり、どこぞの束弐と同じ
ちな、束弐には、ご丁寧に「七光台」といふトンデモ駅 が存在する)
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