[過去ログ] 愛知県一宮市 Part.8 (1002レス)
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729: (ワッチョイ 9faa-M5ve) 2022/08/25(木)13:52 ID:Qaft4m450(1/5) AAS
孤児300人と満州から引き揚げ 一宮・妙興寺の故河野宗寛さん
2022/08/25 中日新聞
一九三二年に現在の中国東北部に満州国が建国されて今年で九十年。四五年の終戦間際にはソ連が侵攻し、満州では多くの日本人が難民になった。孤児も増える中、現地に子どもたちを収容する施設をつくり、約三百人の孤児たちと一緒に帰国した一宮市ゆかりの僧侶がいる。
 「親のなき子等をともなひ荒海を 渡り帰らん この荒海を」。同市の妙興寺にある石碑に刻まれた一首だ。詠んだのは寺の元住職河野宗寛(そうかん)さん(一九〇一~七〇年)。当時満州にいた河野さんが終戦翌年に、孤児たちを伴って帰国した時の心情を詠んだ歌だ。
 河野さんは愛媛県の寺で住職を務めていた四一年、満州国の新京(現長春)に赴任した。妙興寺の本山でもある京都・妙心寺の別院で、日本人向け道場の責任者として務め、そのまま現地で終戦を迎えた。
730: (ワッチョイ 9faa-M5ve) 2022/08/25(木)13:52 ID:Qaft4m450(2/5) AAS
 終戦直後、街頭にあふれる孤児を目の当たりにした河野さん。禅堂を改築して収容施設を造り、四五年十一月に「慈眼堂」を開いた。三十人ほどの子どもたちを受け入れ、まだ子育ての経験もない花嫁養成学校の女子学生らとともに面倒を見た。徐々に子どもの数は増え、四六年夏には他の施設の子も含め、約三百人を引き連れて帰国した。
 河野さんは孤児たちとの日々を歌に詠んで記録し、後に「慈眼堂歌日記」として出版。妙興寺の現住職稲垣宗久(そうきゅう)さん(73)は修行時代、河野さんが自ら朗読した歌の録音を聞かされたという。亡き母のことを思い出してわめく少年や、子どもをうまくあやせずに泣く若い女性。悲しくも優しい筆致が胸を打った。稲垣さんは「身内には厳しいが、他の人にはいつもニコニコしている人だった。自分だけのためでなく、社会に奉仕するという精神があったのだろう」と振り返る。
731: (ワッチョイ 9faa-M5ve) 2022/08/25(木)13:53 ID:Qaft4m450(3/5) AAS
 河野さんは帰国後も孤児やその家族と交流を続け、各地に彼らを訪ねていくこともあった。没後には関係者らが資金を出し合って、高野山奥の院(和歌山県)に河野さんをたたえる碑も建てた。死後五十年以上たった今も碑は残っている。
 稲垣さんは戦後生まれだが、河野さんの影響もあり、戦争に関心を持ち続けてきた。一行が帰国の途についた時期に合わせ、毎年七月には寺の応接間に河野さんの書を飾る。稲垣さんは「人間は愚かだから、また同じことを繰り返すかもしれない。それを防ぐためにも、満州で起きた出来事は今後も伝えていかなければならない」と話す。
732: (ワッチョイ 9faa-M5ve) 2022/08/25(木)13:54 ID:Qaft4m450(4/5) AAS
「地獄の道を歩き続けた」5歳で引き揚げ経験 一宮の古場さん
 一宮市の無職古場忠広さん(82)=佐賀県出身=は五歳で満州からの引き揚げを経験した。河野さんとは直接の関係はないが、十代後半の姉に手を引かれ、夢中で逃げ帰ったことを覚えている。
 「着の身着のまま、全てを捨てて逃げた。地獄の道を歩き続けた」。現地の中国人に見つからないよう、夜にこっそりと移動した。行く先も分からず、石ころだらけの道をはだしで逃げた。十分な食べ物がなく、マラリアも流行した。
 いまだに忘れられない光景がある。日本人収容施設での、ソ連兵による手荷物検査だ。検査を嫌がった目の前の男性が、物陰に連れて行かれた。「ドーン。爆発するような大きな銃声が聞こえた」。男性の妻とみられる女性と子どもたちが泣き叫びながら駆け寄った。だが、男性は戻ってこなかった。
733: (ワッチョイ 9faa-M5ve) 2022/08/25(木)13:54 ID:Qaft4m450(5/5) AAS
終戦から数カ月たって、命からがら帰国した古場さん。自身の記憶を伝えようと、家族に体験を話し、新聞への投書も続けているという。「今のウクライナでも、子どもや女性など弱い立場の人が犠牲になっている。破滅と絶望しか残さない戦争は、何が何でもだめだ」と語った。
 (猿渡健留)
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