鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4 (1002レス)
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3: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/07(土)22:59 ID:1d4drIFg0(1/348) AAS
真の悟りへの道は一人一人の人の意志に任されているが、それもまた必然なのじゃ。
老病死の苦があれば永遠の安楽に惹かれていくものであるからのう。
全ての者は目覚め、死んで全てになるのじゃ。
6: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/08(日)22:45 ID:1d4drIFg0(2/348) AAS
退屈と思っているのは実際は恐れからの逃避が原因なのじゃ。
逃避しているからいつもと同じ観念しか観えないのじゃ。
逃避が観られれば恐れも超えて進むことができるのじゃ。
8: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/09(月)22:02 ID:1d4drIFg0(3/348) AAS
思考や分別は常に観念に囚われているからそれに平和はないのじゃ。
観念から自分という謬見も起こり、欲も起こるのじゃ。
観念が無い時、思考も分別も智慧として本来の働きを取り戻すのじゃ。
11
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/10(火)22:01 ID:1d4drIFg0(4/348) AAS
>>9 無いのじゃ。
 観念は全て記憶に拠ってあるものじゃ。
 観念を追う限り過去の想いを追うことになるのじゃ。
 それは苦を生み、今ここに居ることを忘れさせてしまうのじゃ。
14
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/11(水)21:46 ID:1d4drIFg0(5/348) AAS
>>12 観念に拠らない思考は無いのじゃ。
 観念の無い時、思考も無いのじゃ。
 仏陀の智慧でさえも観念の中で働くものじゃ。
 知識とは記憶に過ぎないとマハラジも言っているのじゃ。
 智慧による思考も記憶によって働くものなのじゃ。
17: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/12(木)22:42 ID:1d4drIFg0(6/348) AAS
>>15 そうじゃ、自在なのじゃ。

修業の途中でサマーディ等に至るとそれに囚われてしまうこともあるものじゃ。
それもまた死によって失われるものであり、永遠ではないのじゃ。
死を超える境地に至るまで精進し続けることが大事なのじゃ。
19: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/14(土)22:29 ID:1d4drIFg0(7/348) AAS
全ての煩悩や欲望を滅していくのはとほうもない時間がかかるじゃろう。
唯一つの自分を観察できれば全ての煩悩や欲も消え去るのじゃ。
それが全ての目覚めた者が辿った真の道なのじゃ。
ただひたすらに自分を追求するのじゃ。
21: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/15(日)21:52 ID:1d4drIFg0(8/348) AAS
真の目覚めた導師は常に同じことを言っているのじゃ。
自分の心を見つめ、自分を見るのじゃ、と教えているのじゃ。
それ以外に悟りへの道は無いのじゃ。
方法はそれぞれ違うかも知れんが目的は、自分の心にある自分を観ることだけなのじゃ。 
その実践をするならば多くの師匠も要らないのじゃ。
23: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/16(月)22:31 ID:1d4drIFg0(9/348) AAS
真の幸福に在る者はもはや快楽など必要は無いのじゃ。
苦痛のある人間が一時的に苦痛を忘れるために快楽を求めるのじゃ。
そして快楽に囚われて更に苦を受けてしまうのじゃ。
快楽を求めて苦を受けるのは実に愚かなことじゃ。
その繰り返しが大抵の者の人生となるのじゃ。
25: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/17(火)23:17 ID:1d4drIFg0(10/348) AAS
個人としての永遠の幸福はありえないのじゃ。
個人を捨ててこそ永遠の幸福は在るものじゃ。
味わう主体さえない幸福は個人を超えたところに在るのじゃ。
27: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/18(水)22:33 ID:1d4drIFg0(11/348) AAS
何かをしようとすると記憶が働き、自我も起こってしまうものじゃ。
何もせずただありのままにあることで真の大悟は訪れるのじゃ。
そのようにして自我も居らず、記憶も働かない真の意識にとどまることが出来るのじゃ。
観念の自我も、能力である記憶も主体ではなく、個我はなかったと気づくのじゃ。
33: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/20(金)23:45 ID:1d4drIFg0(12/348) AAS
非暴力は外に在るもので表現されるのではないのじゃ。
心の中にある慈悲によって表されるのじゃ。
外側を飾っても何の意味もないのじゃ。
35: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/21(土)22:56 ID:1d4drIFg0(13/348) AAS
肉体は死によってなくなるが、意識は永遠にあるものじゃ。
それは時間の制約も、空間の制限も超えているのじゃ。
一切がそれであり、それ以外はないのじゃ。
37: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/22(日)23:40 ID:1d4drIFg0(14/348) AAS
悟っていない人間は観念と事実を区別できないのじゃ。
観念の世界を創り、その中に住んでいるのじゃ。
そこでは観念が現実であり、現実は観念としてのみ認識されているのじゃ。
39: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/23(月)22:50 ID:1d4drIFg0(15/348) AAS
神も世界も人の観念により作られたものじゃ。
残酷な世界と神が居ると思うならばそれを創る自らの本心を観るべきなのじゃ。
そこには残酷な世界と神を作る働きと原因かあるじゃろう。
それが完全に観察できれば消えるのじや。
41: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/24(火)23:01 ID:1d4drIFg0(16/348) AAS
前の世があったとか、今の世が在るというのも観念なのじゃ。
個我である自分が在ると思うときだけ、生まれかわるものもあると認識してしまうのじゃ。
個我が無ければそれもまた幻想であったとわかるのじゃ。
43: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/25(水)22:37 ID:1d4drIFg0(17/348) AAS
どれほど知識があっても実践しなければ無意味なのじゃ。
知ることで悟りは得られないのじゃ。
自己の本心を日々観察して実践するのじゃ。
クリームを毎日混ぜてバターを作るように、日々の実践で悟りもやってくるのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
45: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/26(木)22:22 ID:1d4drIFg0(18/348) AAS
輪廻とは役者の演技のようなものじゃ。
役者は一つ一つの演劇のたびに別の名前とイメージを与えられてそれを演じるのじゃ。
人も生まれかわるたびに別の名前とイメージを与えられてその自分と思うものを演じるのじゃ。
そこに生まれかわる実体があるのではないのじゃ。
役者の演技のように一つの意識が別の名前とイメージによって別の存在と認識されるだけなのじゃ。
47: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/27(金)22:59 ID:1d4drIFg0(19/348) AAS
神もまた観念による創作に過ぎないのじゃ。
永遠の意識は観念を超えている故に神をも超えているのじゃ。
神の名前とイメージはただそれにたどり着く道具になるだけなのじゃ。
神もまた悟りへの法なのじゃ。
49: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/28(土)22:51 ID:1d4drIFg0(20/348) AAS
人は他の生き物の命を貰って生きているものじゃ。
全ての生き物の命を助けようとするのも囚われなのじゃ。
それも金や権力に囚われているのと変わりないのじゃ。
攻撃欲から他を害そうとすることが悪なのじゃ。
51: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/29(日)22:46 ID:1d4drIFg0(21/348) AAS
完全な不殺生も極端な道なのじゃ。
それは快楽主義と同じく欲に囚われているのじゃ。
支配欲とか、攻撃欲をそれによって満足させているのじゃ。
54
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/30(月)22:23 ID:1d4drIFg0(22/348) AAS
他者も観念であるからその知覚も無いのじゃ。
目覚めなければ自らの観念による理解しか出来ないのじゃ。
観念による力には死を超えることができないのじゃ。
57: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/07/31(火)21:43 ID:1d4drIFg0(23/348) AAS
悟りを得ない限り世界を救おうとする努力は逆に自他の破滅をもたらすものじゃ。
自らの欲や無知に夜迷いを免れないからのう。
世界を救うつもりで多くの勢力が戦っているのじゃ。
それが虚しいこととわかれば修業にも励むことが出来るのじゃ。
60: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/01(水)22:27 ID:1d4drIFg0(24/348) AAS
↑ そうじゃ、実践によって真実もわかるのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

 悟った者の真実の言葉も悟りを得ていない者には偽りとしか受け容れられないのじゃ。
 言葉で伝えられるのは心を観る実践だけなのじゃ。
62: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/02(木)21:24 ID:1d4drIFg0(25/348) AAS
目覚めていない者は皆自分は肉体を持っているとかその主体とか思うものじゃ。
それが自分を守っていると思うのじゃ。
実際にはそれは幻想であり、何も守らず、所有もしていないのじゃ。
幻想に囚われ、幻想を手放すことを恐れているのじゃ。
恐れを超えて自分を観れば、どれほど長い習慣から起こる自己意識も消え去るのじゃ。
64: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/04(土)00:12 ID:1d4drIFg0(26/348) AAS
自らを愚かであると知る者が賢者なのじゃ。
お釈迦様もそう言っているのじゃ。
自分に対する正確な知識が無ければ先に進むことも出来ないのじゃ。
愚かさを自覚することから賢さが始まるのじゃ。
68
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/04(土)22:46 ID:1d4drIFg0(27/348) AAS
通常の意識には依存していないのじゃ。
それは無意識の存在となるからのう。
世界の全てを認識して作り出しているのが意識なのじゃ。
72
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/05(日)23:21 ID:1d4drIFg0(28/348) AAS
>>69 そうじゃ、本質なのじゃ。
 それは全てにあるものじゃ。

通常の意識なのじゃ。
 それが世界を認識して作り上げているのじゃ。

>>71 真我とも違うものじゃ。
 本来無い者じゃ。
 仮に観照する者として語っているだけなのじゃ。
省1
77: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/06(月)22:11 ID:1d4drIFg0(29/348) AAS
>>74 何か認識される主体があって観照が起きたというならばそれは妄想なのじゃ。
 認識主体はそもそも認識されないのであるからのう。
 それが真我なのじゃ。
 それ自身は認識できない認識主体が真我であり、何か認識できるものがあれば真我ではないのじゃ。
 そのような真我の道がウパニシャッドで説かれているのじゃ。
79: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/07(火)22:26 ID:1d4drIFg0(30/348) AAS
快楽をもてめている限り苦痛からも逃れられないのじゃ。
快楽は執着することで苦痛に変るからのう。
一切は苦であるこの世から離脱することが真の喜びへの道なのじゃ。
そこに至ればもはや苦は無く永遠に喜びだけが在るのじゃ。
81: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/08(水)22:14 ID:1d4drIFg0(31/348) AAS
自我は障害であるとともに道でもあるのじゃ。
自我の執着を超えることは難しいが、超えることが出来れば悟りも近いのじゃ。
例えば大きな壁が邪魔で道をいけなかった者が、壁が倒れて道になってどこにでもいけるようになるようなものじゃ。
壁であったものが道になるように、自我も執着があれば障害で在るが、執着を離れれば悟りへの道になるのじゃ。
84: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/09(木)21:47 ID:1d4drIFg0(32/348) AAS
お釈迦様も自分は修業者の道標になるだけだと言ったのじゃ。
目覚めた者は自ら悟りを求める者に道を教えるだけなのじゃ。
悟りを求める者は自ら実践して進んでいかなければならないのじゃ。
86
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/10(金)22:51 ID:1d4drIFg0(33/348) AAS
目覚めた者の境地は言葉にすれば全て嘘になってしまうものじゃ。
そうであるから目覚めた者達は悟りを得る方法のみを語ったのじゃ。
お釈迦様はそこに至るためにわかり易く苦滅の法を説いたのじゃ。
苦を滅するために修業して自然に自我を観る方法に成るのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
89: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/11(土)21:36 ID:1d4drIFg0(34/348) AAS
>>87 そうじゃ、信仰によって実践する以外にないのじゃ。

 実践によってブッダの教えを確かめられるのじゃ。
 自らの実践で確かめて信仰も揺らがないものになるのじゃ。
 そのようにして進んでいくことができるのじゃ。
91: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/12(日)22:42 ID:1d4drIFg0(35/348) AAS
人種や国籍で心に違いは無いのじゃ。
常に真摯に悟りを求める者が悟りを得ることが出来るのじゃ。
むしろ伝統を負っているということで傲慢に成り、道を外れる者も多いのじゃ。
真摯に悟りを求めることを忘れてはいかんのじゃ。
94: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/13(月)22:19 ID:1d4drIFg0(36/348) AAS
目覚めた者同士ならば完全にわかりあえるのじゃ。
互いに繋がり、妙観察智があるからなのじゃ。
そうでなければわかることはできないのじゃ。
受け取るものが居ないからのう。
96: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/14(火)22:37 ID:1d4drIFg0(37/348) AAS
目覚めた者には自我がないから行うことも無いのじゃ。
自分が何かを体験したとかも無いのじゃ。
体験そのものもないのじゃ。
悟らなければ理解し難いことであるがのう。
98: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/15(水)22:43 ID:1d4drIFg0(38/348) AAS
真摯に悟りを求める意欲が在るならにば信仰は必要ではないのじゃ。
神への信仰が必要と条件付けされている西洋人には理解できないかもしれんがのう。
老病死を超えようとする熱望が人を悟りにまで導くのじゃ。
神への信仰が強すぎるとサマーディで止まってしまうのじゃ。
101
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/16(木)22:14 ID:1d4drIFg0(39/348) AAS
>>100 それは自分の心に嘘をつかないことなのじゃ。
 自分を誤魔化したり、偽ったりしないことが大事なのじゃ。
 例えば自分を勇敢と思っている者が、実は本心では臆病であったと気づいたならばそれを誤魔化さず、偽ったりせずに認め受け容れることなのじゃ。
 それを偽ったり誤魔化したりすれば本心は隠されて見えなくなってしまうのじゃ。
 本心を偽り、誤魔化して逃避すれば自分という観念にはとうてい到達できないのじゃ。
 そのように自分の本心を偽らず、誤魔化さずに受け容れることが正直で、誠実であることなのじゃ。
107: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/17(金)22:52 ID:1d4drIFg0(40/348) AAS
>>104 どういたしまして、またおいでなさい。

 マハラジは更に自分の内面を、自分を観ることを説いているのじゃ。
 全ての秘密はそこにあるのじゃ。
 自分という一つのトリック、謬見、間違いに気づくことで無我になるのじゃ。
 自分という無意味な観念に騙されていたことを理解するときそれを捨て去ることができるのじゃ。
111: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/18(土)21:52 ID:1d4drIFg0(41/348) AAS
修行が出来ないのは仕事とかが原因ではないのじゃ。
心の中にある恐れとか不安とか変化したくないという想いが真の原因なのじゃ。
仕事が忙しいとかは言い訳に過ぎないものじゃ。
死という現実に唯一対抗できる悟りへの道を誰もが進むべきなのじゃ。
113: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/19(日)22:48 ID:1d4drIFg0(42/348) AAS
観照もまた悟りのための道具なのじゃ。
悟り終えれば捨て去るべきものじゃ。
自我を厭離してくれる能力ではあるが意識そのものではないのじゃ。
観照の後に全ては意識であったと気づくのじゃ。
115
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/20(月)21:18 ID:1d4drIFg0(43/348) AAS
さまざまな観念を作り出す阿頼耶識もそもそも意識が無ければ存在しないものじゃ。
無条件なものがなしで、条件づけされたものの知識が無いとはそのことなのじゃ。
意識によって阿頼耶識も観念も生み出されることに気づくのが真我の実現なのじゃ。
121
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/21(火)22:57 ID:1d4drIFg0(44/348) AAS
>>120 違うのじゃ。
 マハラジの言うのは阿頼耶識じゃな。
 
 全てである意識と同じなのじゃ。
 それがなければ阿頼耶識も何も無いのじゃ。
 海が無ければ魚も住まないようなものじゃ。
122: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/22(水)00:11 ID:1d4drIFg0(45/348) AAS
実践あるのみなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
126: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/22(水)22:36 ID:1d4drIFg0(46/348) AAS
神は概念であり、人の作ったものに過ぎないのじゃ。
それに囚われれば観念の奴隷に陥るのじゃ。
自ら作った観念に囚われるのは愚かなことじゃ。
自らの心の中に全てはあるのじゃ。
129: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/23(木)22:35 ID:1d4drIFg0(47/348) AAS
世界も神も人が心につくったものじゃ。
目覚めれば無いと理解できるものじゃ。
自分さえも観念でしかないのじゃ。
観念が無ければ常に安らぎと喜びだけが有るのじゃ。
131: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/24(金)22:49 ID:1d4drIFg0(48/348) AAS
悟った者にとって涅槃は永遠の安らぎであり、真の休息なのじゃ。
衆生のために法を説いた後にそこに還るのは喜びでも在るのじゃ。
悟れば死は恐れではなく既に祝福なのじゃ。
そこに近づくのは子供が遠足に行くかのようにうれしいのじゃ。
133: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/25(土)22:05 ID:1d4drIFg0(49/348) AAS
肉体の痛みも病ももはや何の意味もないのじゃ。
それもまた観念によって苦になるものであるからのう。
全ての観念を超えたならば肉体の不調も苦にはならないのじゃ。
永遠の安らぎと喜びが在るだけなのじゃ。
135: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/26(日)21:32 ID:1d4drIFg0(50/348) AAS
目覚めれば人は全てであったことに気づくのじゃ。
一度も個体とか個我になったこともないのじゃ。
個体とか個我の自分という観念が幻想であったのじゃ。
仏陀はその生きた証明なのじゃ。
137: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/27(月)22:21 ID:1d4drIFg0(51/348) AAS
死もまた観念であり存在しないものじゃ。
個我が無ければ死もまたないのじゃ。
個我の消滅を死と呼ぶのじゃ。
個我がそもそも無ければ死もまたないのじゃ。
139: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/28(火)22:39 ID:1d4drIFg0(52/348) AAS
苦しむものがいれば自他の無い仏陀も苦しいのじゃ。
その苦から解放するために法を説くのじゃ。
法を実践すれば苦から解放されて安楽になるのじゃ。
死さえも髪やつめが切れて落ちるような自然なここと気づいて安楽になるのじゃ。
141: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/29(水)22:02 ID:1d4drIFg0(53/348) AAS
目覚めればもはや死は無いと知れるのじゃ。
産まれることもなかった故に死ぬことも無いのじゃ。
生死も無いのに肉体の在る不思議なのじゃ。
ただ他の者も目覚めさせるために法を説くのみなのじゃ。
143: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/30(木)22:46 ID:1d4drIFg0(54/348) AAS
悟った者にとっては全てこそ現実であり、真の状態なのじゃ。
それは一度も変わった事は無いのじゃ。
悟りを得ていない者には個体が在るとか、個我があるという幻想を持っているだけなのじゃ。
全てが在るだけなのじゃ。
145: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/08/31(金)22:11 ID:1d4drIFg0(55/348) AAS
多くの者はまだ悟りというものがあるということすら知らないのじゃ。
神の奴隷で居ることがよいことだと思っているのじゃ。
自分達の作り出した観念の奴隷なのじゃ。
悟りを知識として知る者も信じる事によって修行に入るのじゃ。
できるだけ多くの者に悟りを教えるとよいのじゃ。
149: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/01(土)22:58 ID:1d4drIFg0(56/348) AAS
↑そのような理解で善いのじゃ。
全てを注意深く観察していることなのじゃ。
そうすれば心の制御も可能なのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
152: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/02(日)22:55 ID:1d4drIFg0(57/348) AAS
真実を観ることのない心はさまざま幻影で逃避するものじゃ。
真我というのも本当は語るべきではないのじゃ。
アートマンは真我ではないのじゃ。
認識できないものなのじゃ。
156: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/03(月)21:35 ID:1d4drIFg0(58/348) AAS
全てである意識をマハラジは実在と言っているのじゃ。
それはもはや変化したり、発展したりしないのじゃ。
ただありのままにありつづけるだけなのじゃ。
時間も無いから永遠なのじゃ。
158
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/04(火)22:33 ID:1d4drIFg0(59/348) AAS
心を注意深く観察する事が実践の全てなのじゃ。
 それ以外にすべきこともないのじゃ。
 それが出来れば実践できたことになるのじゃ。
 記憶や観念を観ないように気をつけなければいかんがのう。
161
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/05(水)21:31 ID:1d4drIFg0(60/348) AAS
>>159 そうじゃ、心の働きをただありのままに観るのじゃ。
 それが真の観察なのじゃ。

 目覚めた者の教えは常に修行者の注意を自分自身に呼び戻すことじゃ。
 自分を観ることだけを要求するのじゃ。
 それが唯一の法なのじゃ。
166: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/06(木)21:47 ID:1d4drIFg0(61/348) AAS
実在は体験されることなどないのじゃ。
ただそれであったと気づくだけなのじゃ。
一度としてそれでなかったことはないのじゃ。
永遠にそれだけが在ると気づくだけなのじゃ。
170: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/07(金)22:36 ID:1d4drIFg0(62/348) AAS
 言葉でも思考でも感情でも意識は現せないのじゃ。
 一切の観念を超えているので在るからのう。
 観念を超えたものを観念の範疇で現すことは不可能なのじゃ。
 ただ一切の苦が無くなり、死も超えた境地と説く他は無いのじゃ。
 後は自ら悟りを得て確かめるのじゃ。

>>169 それも役立つじゃろう。
 見たり聞いたりすると欲しくなるというからのう。
省4
174
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/08(土)21:44 ID:1d4drIFg0(63/348) AAS
>>171 そうじゃろう。
 不死の境地なのじゃ。

>>172 敏感になっているというような意味じゃろう。
 傷付くことは無いのじゃ。
 自分を守るよろいが無くなり、実在に対して敏感で鋭敏になっているとかなのじゃ。
179: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/09(日)22:51 ID:1d4drIFg0(64/348) AAS
>>177 そうじゃ、世界は自分なのじゃ。
 神も人の観念が作ったものじゃ。
 それに気づくのじゃ。

>>178 書くじゃろう。
182: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/10(月)22:46 ID:1d4drIFg0(65/348) AAS
右とか左とか上とか下とか分別するのが相対なのじゃ。
それは人が観念によってつくったものに過ぎないのじゃ。
左右上下も同じ空間なのじゃ。
それを越えたところに絶対性が在るのじゃ。
184: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/11(火)21:48 ID:1d4drIFg0(66/348) AAS
人が認識する全ての世界は自らの心によって作られているから自ら解放することもできるのじゃ。
神もまた自らの観念であるから自ら作り出し、解放する事もできるのじゃ。
人が居なくなれば全ての世界は消え、神も消えるのじゃ。
そして人はいなくなる前に自らの意思で世界も神も消すこともできるのじゃ。
187: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/12(水)22:24 ID:1d4drIFg0(67/348) AAS
全ては本来名づけられず、形も無いものじゃ。
それを分別して記憶から名前や形を投射しているだけなのじゃ。
観念の世界がそのようにして作られるのじゃ。
それでもそこから抜け出すことは誰にでもできるものじゃ。
なぜならば真の実在は全てである意識だけで在るからのう。
191: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/14(金)22:19 ID:1d4drIFg0(68/348) AAS
アートマンの法では全てを無として観るのじゃ。
ブラフマンの法では自分がどんどん広がっていくとイメージするのじゃ。
どちらも恐れずに実践し続ければ悟りも得られるのじゃ。
ただ一つの法をどこまでもやり続けるのが肝心なのじゃ。 
それをマハラジはただ一カ所を深く掘り続けるだけと語っているのじゃ。
194: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/15(土)21:27 ID:1d4drIFg0(69/348) AAS
↑そういえるじゃろう。
マハラジも当然カルマヨーガを知っていたじゃろう。
為すべきことを為し、成功や失敗は未知なるものに預けるというのが正しくカルマヨーガの教えなのじゃ。
実践してみるとよいのじゃ。
197: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/16(日)23:57 ID:1d4drIFg0(70/348) AAS
自分という幻想がそれ自体の非存在を知ることはないのじゃ。
自分は幻想として有り、妄想を産むだけであるからのう。
自分という幻想から産まれた妄想に人は現実であるというさらなる幻想を抱くのじゃ。
そのようにして迷いの上に迷いを重ねる様になるのじゃ。
201: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/17(月)19:28 ID:1d4drIFg0(71/348) AAS
>>198 そうじゃ、その一瞬だけ人は自分という幻想から離れられるのじゃ。
 直ぐに自分という幻想を思い出してしまうがのう。
 その前の一瞬を捉えて観察できたならば観照も起こり、無我になるのじゃ。

 自分から自他の全ての幻想が起こるのじゃ。
203: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/18(火)22:13 ID:1d4drIFg0(72/348) AAS
マハラジも記憶に拠って自我があると知っていたのじゃ。
人格も記憶の産物なのじゃ。
他と違う自分という記憶を再生して自我を保っているだけなのじゃ。
それが自分であり、自分を守ると信じているのじゃ。
205: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/19(水)22:05 ID:1d4drIFg0(73/348) AAS
知識はそれだけでは助けにならないとマハラジも語っているのじゃ。
無用な知識をいくら集めても無意味なのじゃ。
実践のための知識があれば十分なのじゃ。
自分の心の内面を探求することがマハラジによって説かれたその知識なのじゃ。
それは全てのブッダ達の教えと同じなのじゃ。
207
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/20(木)19:52 ID:1d4drIFg0(74/348) AAS
全ての世界は人の観念によって作られたものじゃ。
認識が無ければ世界も無いものじゃ。
全ての世界は認識されたものであり、認識できない認識主体から産まれるものじゃ。
それがわかれば世界の外に出ているといえるのじゃ。
210: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/21(金)21:17 ID:1d4drIFg0(75/348) AAS
>>208 そうじゃ、世界は見る者によって全く違うのじゃ。
 同じ世界でもプレデターのように赤外線や紫外線で観れば違うように、観念で異なる世界をそれぞれの人間は観ているのじゃ。
 世界を創る自分が観られればそれも消えるのじゃ。

マハラジも創造者としての観念すらも偽りというのじゃ。
真の世界の創造者は自分の心なのじゃ。
それを超越すればもはや語る術も無い不死の境地に入るのじゃ。
212: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/22(土)22:33 ID:1d4drIFg0(76/348) AAS
自分が自分と世界を作り出す。
それは真実で在るが知る者は少ないのじゃ。
世界が有り、自分が生じたと思っておる。
それが人の信じる神話なのじゃ。
それこからぬけ出す直接体験とはその欺瞞を完全に観察する事なのじゃ。
214
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/23(日)22:11 ID:1d4drIFg0(77/348) AAS
マインドや身体という分別さえも人の観念が作り出すものじゃ。
それらは別々のものではなく関連しあって働くのじゃ。
そして認識されているものなのじゃ。
それに気付いた時に個我も離れるのじゃ。
218: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/24(月)21:10 ID:1d4drIFg0(78/348) AAS
>>215 そうじゃ、全て繋がっているのじゃ。
 個我は夢なのじゃ。

>>217 そうじゃ、死んで死に切るのじゃ。
 そうすれば自分では無い者が感得されるのじゃ。

 
 意識は肉体や思考感情などがなくなっても消えることは無いのじゃ。
 全てがそれなのじゃ。
220: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/25(火)22:29 ID:1d4drIFg0(79/348) AAS
本来の自己というものがあるというわけではないのじゃ。
それを探求していけば自分の観念に気付くのじゃ。
それが私は在るという探求の道なのじゃ。
認識できないものにまで探求が進めば自分もなくなるのじゃ。
223: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/26(水)21:53 ID:1d4drIFg0(80/348) AAS
そうじゃ、そのように意志が在るから悟りも得られるのじゃ。
全てが観念であり、妄想であるならば何をしようと逃れられない筈で在るからのう。
ただ意志によって解脱を目指すことで観念妄想からも離れる道が見出されるのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
225: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/09/27(木)21:28 ID:1d4drIFg0(81/348) AAS
欲そのものは生きるためとか、子孫繁栄の為に必要なものなのじゃ。
欲に強く囚われ、自他の不利益をも省みないようになってしまうのがいかんのじゃ。
それを仏教では煩悩の一つである貪欲と呼ぶのじゃ。
むさぼる欲なのじゃ。
名声や権力やセックスや金や食物に強く執着することは自らを欺くことでさえあるとマハラジは言うのじゃ。
それらは人を永遠の幸せに導くことは出来ないからなのじゃ。
不安や恐れ役からの一時の逃避に過ぎないのじゃ。
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