鬼和尚に聞いてみるスレ part4 (1007レス)
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67(1): 2014/08/16(土)02:56 ID:LC3de7YgO携(1/109) AAS
鬼和尚 こんばんは(*^(ェ)^*)/
瞑想中にわく雑念、そのぼーっと考えている主体は自我に相違ないと思いますが、雑念に気付き集中対象に戻る瞬間を観察してみると、一瞬前まで明瞭に浮かんでいたことがらが、すーっと跡形もなく消える。夢から覚める時に似て、とどめようと意識しないとどんな雑念かも思い出せなくなる。
ということは、自我とは夢のようなものなのかな…と思いました。
ところで、ケッカフザにもすっかりなれ、足の痺れが瞑想の邪魔をすることはほとんどなくなりました。股関節や足首の柔軟性が増し身体が慣れたというのは間違いないのですが、多少痺れがある時でも、それが=邪魔=苦に繋がらなくなっているように感じます。
以前、ケッカフザができるようになって、まだ痺れと悪戦苦闘しているときでしたが、2週間ほどの期間、痺れが抜歯時の麻酔をしているときのように全く感じなくなったことがありました。このての瞑想中に経験する自分にはまだ早すぎるだろうと思われる経験は、案の定しばらくの間で消えますが、あの麻酔をしているときのような感じが、厭離なのでしょうか?
今感じてる、痺れがあってもそれが邪魔にならない感じも厭離と言えるのでしょうか?
74(1): 2014/08/17(日)10:05 ID:LC3de7YgO携(2/109) AAS
>>71
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
痺れがチョピッと厭離できて、集中力がチョピッとついてきたら、今まで覚悟を決めて心の奥底まで観察し尽くしてやろうと挑んでも、表層しか見えなかったものが、瞑想している時以外の時に、突然顔をのぞかせるようになって来た気がします。
心の奥底に沈殿した不安、悲しみ、恐怖、怒り、劣等感その他もろもろを洗い出して総決算したいのですが、なかなか難しいです。
92(1): 2014/08/19(火)10:24 ID:LC3de7YgO携(3/109) AAS
>>82
鬼和尚、ありがとうございます。さて、(´・(エ)・`)?
無我を知るとは、自他の別なく、快不快、善悪、生死の別もない。全ては幻想であり、時間すらない・・と言う理解でよいのでしょうか?
悟るとそれらの簡単にはに了解できないことが実感できるのでしょうか?ん?実感ではなく、そうであるということに気づくとでもいうのでしょうか?
あるいは修行が成就したさいに全く違う悟り方をすることもあり得るのでしょうか?
善悪をとりあえず分別するのは、修行を支障なく進めるための便宜に過ぎないのでしょうか?
悪よりも善を求めるのでべきであるということは、便宜以外に導かれないのでしょうか?
省1
97(1): 2014/08/20(水)15:53 ID:LC3de7YgO携(4/109) AAS
>>93
鬼和尚、ありがとうございます。
私はいろいろ混同しておりまして、無我とは、意識と無意識のはざま、意識の空白地帯みたいなものでありますか?
>自他の別なく、快不快、善悪、生死の別もない。全ては幻想であり、時間すらない・・
とは、悟りの境地の説明でありましょうか?
全ては、心が作り出したものと言う思想は潔く、清々しく感じます。全責任は自分にあり、得たいもの全ては既にここにありということでありましょうか?これが悟りの境地でありましょうか?
チョピッとづつしか進みませんが、目標達成に向け邁進しますヽ(・(∀)・)ノ
104(2): 2014/08/21(木)03:54 ID:LC3de7YgO携(5/109) AAS
>>99
鬼和尚、ありがとうございます。
>自他の別なく、快不快、善悪、生死の別もない。全ては幻想であり、時間すらない・・
>この世の全ては心によって作り出されている
とは、唯心論の説明でありますか(´・(エ)・`)?
さて、これからすわります。
105(1): 2014/08/21(木)10:11 ID:LC3de7YgO携(6/109) AAS
>>104
訂正; 唯心論 → 唯識論 の説明ですか?
115(1): 2014/08/21(木)22:53 ID:LC3de7YgO携(7/109) AAS
>>114
鬼和尚、ありがとうございます。
>自他の別なく、快不快、善悪、生死の別もない。全ては幻想であり、時間すらない・・
>この世の全ては心によって作り出されている
とは、言葉で表現できない悟りの境地をあえて表現した「実感」でしょうか(´・(エ)・`)?
135(1): 2014/08/22(金)23:03 ID:LC3de7YgO携(8/109) AAS
>>127
鬼和尚、ありがとうございます。
そうでありますね。海を見たことのない私はにいくら言葉で説明されても決して正しく理解できない。野を超え山越え海に辿り着き、飛び込んで全身で感じとるしかないのでありましょうヽ(・(∀)・)ノ
今朝やってみたのは、気に集中し、その集中していることを意識したら、意識したことに気づき・・・と、どんどん意識をラップでくるんでゆくみたいなことを、あ〜ぁ…と思うまでやってみる。それを何度かやってみる。 あまり効率良くないみたいです。
呼吸は過剰に意識を向けると、乱れますが、気は意識を向けても向けなくてもそこにあるものと感じられるので、集中対象として適しておりますね。
156(1): 2014/08/23(土)23:30 ID:LC3de7YgO携(9/109) AAS
>>151
鬼和尚、ありがとうございます。
集中力もイマイチ一進一退なのでありますが、観察も始めています。
どっちか一方にしないと何をやってるのか分からなくなるとのことでありますので、陽気を感じなから、ぼぉ〜っと雑念がわくのを待ち、時に雑念に巻き込まれながらできるだけ早く気付き、その瞬間をとらえることに挑戦してみました。・・・うまく行きませんヽ(;(へ);)ノ
シナリを作り、「自分の死について」とか「卑しさについて」とかテーマを決めシナリオの大枠を決めてその事を思い起こし、観察した方が良いのでしょうか?
その事により、自我の究極の恐怖や苦を見つめ直した上で、それも「止」の行で「夢」のように感じた「雑念」と同じようなものだと実感する方が良いのでしょうか?
174(2): 2014/08/25(月)05:42 ID:LC3de7YgO携(10/109) AAS
>>171
鬼和尚、ありがとうございます。
記憶に起因して生じた雑念がそれに意識を向けるだけでたちどころに消えて行くところはつぶさに見ることができ、実感できます。
その雑念を見ている主体が自我であり、自我という実体のないものが脆くも崩れ去る姿見ているといっても良いのでしょうか?
ただ、雑念が消えた後も、それを観ている自我はあり、だから自我が意識されていない状況から自我が起こる瞬間をとらえなければいけないのでしょうが・・・
自我はあるといえば、常にあるし、かといって、常に意識的にある訳でもなく… 。
朝起きる瞬間の観察を今度こそやってみよう!と今晩から寝る前に念じて寝みよう。
省2
182(1): 2014/08/26(火)00:15 ID:LC3de7YgO携(11/109) AAS
>>181
鬼和尚、ありがとうございます。
>>174で
>雑念を見ている主体が自我であり、
と書きましたし、悟りは勿論、無我もサマディも実感できてない現状では、それが主体であり自我であると感じているのでありますが、それは違うと実感するための修行の過程で、その文章の後段、
>自我という実体のないものが脆くも崩れ去る姿見ているといっても良いのでしょうか?
と言う部分をお尋ねしたかったのです。
省5
190(1): 2014/08/27(水)07:56 ID:LC3de7YgO携(12/109) AAS
>>187
鬼和尚、ありがとうございます。
意識を向けるだけで、記憶の断片である雑念が夢の中での出来事のように瞬く間に消え去ることを以て、
>自我という実体のないものが脆くも崩れ去る姿見ているといっても良いのでしょうか?
とお尋ねしたのですが、
その事は、格別自我を克明に観察しなくても誰でも簡単にできることではないのでしょうか?
7月以降は、「気」を意念や呼吸にのせて動かすのをやめ、丹田に放置していたのですが、昨夜初めて、会陰の辺りを起点に緩やかな=震えが起こりしばらく続く中、陽気が喉の辺りまで上昇しました。
省1
195(1): 2014/08/27(水)22:43 ID:LC3de7YgO携(13/109) AAS
>>194
ありがとうございます。
>自我はそれほど簡単には観られない
やっぱり私は全然理解できていないようです。
私は、朝目覚めて意識が生じる瞬間のような、自我が生じる瞬間をとらえることは難しくても、自我そなものとは普通に当たり前に自分と感じている意識のことかと思っていました。
それで、現状自我と思っている自分の記憶の断片である雑念の消滅する実感が、自我の消滅の様子ににたものかな?と思ったのですが…
無我を実感するために、自我の生じるところをとらえてやろうしてきましたが、そもそも、自我とは現状私が普通の意識ととらえているものとは異なり、自我そのものが、
省3
197(1): 2014/08/28(木)12:41 ID:LC3de7YgO携(14/109) AAS
鬼和尚、こんにちは(・(ェ)・)ノ
自我とはいったい何のことを言ってるのでしょう?
とお尋ねしても、自我とは観念に過ぎないものであり、本来ないものであり、無我だと言うことなのでしょうが、ここでお尋ねしたいのは、現状私が自我だと感じている普通の意識のこと以外に、簡単に観ることができない「自我」があるのであれば、「無我」を実感するための方法として、「自我」の現れる瞬間をとらえようする以前に、そもそも何をとらえればいいのかもわかないことになります。
自我が生じる瞬間をとらえることができれば、無我を実感できる。眠りから目覚める際の状態も無我であるとのご説明から、本来観念に過ぎない自我とは、私の普通の意識を指しているものと思っていたのですが、全く理解できていないのでしょうか?
私が自我と考えるもの=記憶に基づく観念=普通の意識がとらえるもの=意識そのもの・・・ではないのでしょうか?
昨日とほとんど同じ質問ですが、自我とは何のことかとお尋ねしたので、観念であり、無我であるとのお答えをいただくような気がしたので、重ねて質問いたしました。
198(1): 2014/08/28(木)12:52 ID:LC3de7YgO携(15/109) AAS
(・(∀)・)ゞ 書きおわって、思ったのですが、阿頼耶識のことを仰ってるのでしょうか?
意識を見ている意識みたいな!
それならいつでも観ているような気もしますし、これまた全然わかってないのかもしれません。
瞑想中に窓から吹き込んだ風を受けて、その風と一体のように感じたり、ちょっぴっと長めに座って脳内に快感が走ったりしたときに、阿頼耶識っぽい感じのものがそれを観ているような気がします。
200(2): 2014/08/28(木)23:45 ID:LC3de7YgO携(16/109) AAS
>>199
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
例えば、常に正しいことを選択することは可能であると言う観念(=対象)があり、
それを投射して、
自分は正しいことを選択し、話すことができる。自分は正しいという自己イメージをもつ。 だけど、 が正しいのかもわからずにいるのが、本当の自分である。
↑こんな構造でしょうか?
>『自我』が『対象』に『投射されて主体であり、己であると認識される仕組み』を全体として観察しなければならん
省1
202(1): 2014/08/29(金)13:30 ID:LC3de7YgO携(17/109) AAS
鬼和尚、こんにちは(・(エ)・)ノ
今朝早速やってみました。
集中対象である陽気にぺたぁっとまずは日常の意識を貼り付け、雑念がわくのを日常の意識でじっと待ち、雑念が現れたらパコォ〜んとサーチライトを当て、その雑念を観ている日常の意識をアラヤシキらしきもので確認する・・・・
・・・と、自我の全体構造をとらえることにチャレンジしてみました。
けど、しかし、サーチライトを当てるのも日常の意識であり、後ろで観ている意識も、アラヤシキではなく、日常の意識のような気がします。
やろうとすることの方向性としては、これでよいのでしょうか?
204(1): 2014/08/30(土)00:01 ID:LC3de7YgO携(18/109) AAS
>>203
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
右往左往しておりますが、観察します。
幸いなことに、特別な訓練を要せず私は自分の気を感じることができますので、それを観察します。
「気の行」は自我を強める訓練になる一方で、脳内物質に影響を与え、ぱーになることができるらしく実感できますので、そちらの方向を追求するのが私には向いてるのかなと思いました。
206(1): 2014/08/30(土)19:48 ID:LC3de7YgO携(19/109) AAS
>>203
鬼和尚、こんばんは(・(∀)・)
>>200 で「本当の自分」 と書いたのは、>>199 の
> 自分というものの中には自我の言葉とイメージと、投射される対象と、実際の身心の性質がある
というご説明の 「実際の身心の性質がある」、の部分を自分の言葉に置き換えたつもりだったのですが、
>>200 の 「本当の自分」 を「実際の心身の性質」に置き換えた場合、>>200 の理解でよいのでしょうか?
「投射される対象」についての私の理解が間違っているような気がするのですが、対象とは何のことを仰っているのでしょうか?
省1
208(1): 2014/08/30(土)23:18 ID:LC3de7YgO携(20/109) AAS
>>207
鬼和尚、ありがとうございます。
>投射される対象とは身心が受ける刺激
言葉やイメージが身心の受ける刺激に投射される
それが認識と自我の仕組み
→ 言葉やイメージ= 例えば、楽しいことを思い出す。
と それが「投射」されて、
省2
209(1): 2014/08/31(日)10:13 ID:LC3de7YgO携(21/109) AAS
ヽ(・(∀)・)ノこんにちは。
昔、ボケのことを英語では天使の贈り物っていうと聞いたことあるんですが、ガラ携検索サイトで調べても出てきませんでした。
しかし、自他の別なく、善悪の別なく、生死の別も時間もない・・・って、まさにボケ=天使の贈り物 =「悟り」・・・でありますね。
長寿、ボケも楽しみにできます!
違う点は、鬼和尚のように、慈悲の力でこの世に戻り、言葉を操り教えを説くことができる点くらいでしょうか。
216(1): 2014/08/31(日)23:07 ID:LC3de7YgO携(22/109) AAS
>>215
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
やっと当たりました。
痛みの厭離とは、集中力を高めることによる脳内物質の分泌による麻酔効果みたいなものと考えてもよいのでしょうか?
禅病とかクンダリニ-症候群と言われるものは、熱によるシナプスの断絶みたいなものでしょうか?
それを、うまくコントロールできると、サマディーに達するのでしょうか?
あっ、言うまでもありませんが、鬼和尚のことをボケてるなんて思ったことないであります(`・(ェ)・´)/
省1
223(1): 2014/09/01(月)23:01 ID:LC3de7YgO携(23/109) AAS
>>222
鬼和尚、ありがとうございます。
今の足の痺れは、感覚があっても、苦にならない=認識が薄れてる感じで、鬼和尚の仰る通りなのですが、以前2週間ほど、抜歯時の麻酔を打った時のように、ほぼなんの感覚もなくなる不思議な経験をしたので、お尋ねしました。
必ずしも強い集中を要せずに陽気を感じるようになり、クヲダリニ症候群予防のため、「気」の行に取り組み、わりと短期間に「気」を巡らすこともできるようになりました。その過程で後頭部までは陽気のまま上がっても、どうやら頭部には簡単には入らないらしいと実感しています。
上がった気を降ろすことも、なんとなくできますし、そろそろ熱病を怖れず、中央部を目指してみようと、昨日一昨日はかなり長時間、といっても30分〜50分を6〜8回やってみました。
丹田の陽気は強くなり、瞑想中以外にも残ったままなのですが、一度だけ経験した、会陰の辺りを中心とした揺れは再現しませんでした。
また、気の行を始めたばかりの頃に陽気ではなく、頭頂部から身体を貫くように気の柱を感じ、それがまさに「快」であり、安心感を感じました。それも再現しません。
省1
232(1): 2014/09/03(水)00:21 ID:LC3de7YgO携(24/109) AAS
>>229
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
自分にあったやり方で続けます。
今夜は45分座り、かなり深まりました。思考のない状態を観察しているのではなく、その状態と一瞬一体になったような感じでした。次の瞬間、観察している意識が戻り、暗闇で目を瞑っていますが、暗闇の場面が変わったような視覚もありました。
陽気は今夜は丹田でおとなしくしていました。
瞑想を楽しみにます。
242(1): 2014/09/04(木)22:18 ID:LC3de7YgO携(25/109) AAS
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ
今朝、ちょびちょび変わった瞑想体験がありました。
集中が高まってきて、周囲の生活音や鳥や虫の鳴き声、陽気を含めた皮膚感覚等が碁盤の目にきっちり収まるように、ただそこにあるだけで、個々を観察している意識が非常に弱く…と言うか感じられず、かと言って不思議感もなく、それが当たり前のような感じでした。
今から思うと不思議です。
245(1): 2014/09/05(金)14:13 ID:LC3de7YgO携(26/109) AAS
>>243
鬼和尚、ありがとうございます。ヽ(・(∀)・)ノ
きっと、鬼和尚は名前の通り、鬼気迫る集中力なのでありましょう!
鬼和尚と親しくネットでやり取りさせていただき、瞑想の「快」を知りえただけでも私にとっては僥幸とも言うべきことであります。
例え話しで恐縮でありますが、突然の冤罪で死刑を宣告され確定し、法務大臣の気分一つでいつ執行されるかわからない状態に悟った人があると仮定した場合、自他も生死も善悪もない悟り人は、自死を選択するものでありましょうか?
247(1): 2014/09/05(金)22:31 ID:LC3de7YgO携(27/109) AAS
>>246
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ。
そうですよね。
生死の別がない以上、それが当然の結論でありましょう。
ということは、修行の結果悟り、格別やるべきことがなく、自殺する人もいるのでしょう。
そうならないためには、鬼和尚のように本をたくさん読み、悟りの道案内ができるように頑張らなくてはいけないですね。
岩波文庫とかだけじゃダメですか?
253(1): 2014/09/07(日)12:25 ID:LC3de7YgO携(28/109) AAS
>>250
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
中村さんの岩波文庫や、鬼和尚のブログを再々読し、関心あるテーマごとにインターネットで検索してその他のサイトなど読んでみます。
やっぱり、行の進捗を早めるには気合いを入れて集中力を高めるしかないですかね!?
258(1): 2014/09/08(月)00:45 ID:LC3de7YgO携(29/109) AAS
>>255
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
より一層集中力をめちゃめちゃ高めるべく頑張ります。
他の質問者に対するお答え、
>常識とは死に対抗するなんの手段も無い知識だけなのじゃ。
棄てて良いものじゃ。
更に進むのじゃ。
省5
261(1): 2014/09/08(月)23:18 ID:LC3de7YgO携(30/109) AAS
>>260
鬼和尚、ありがとうございます!
ヽ(・(∀)・)ノ うぅぅ! ファイトがわくであります! 気をにらみつけてやるであります!!
264(1): 2014/09/09(火)23:02 ID:LC3de7YgO携(31/109) AAS
>>263
ヽ(・(∀)・)ノ鬼和尚、ありがとうございます。
思ったのですが、集中力をバカみたいに高めようとすると、自我が強まるんじゃなくて、引っ込んじゃうのでしょうか?
そのためにはバカにならなきゃダメですね! 私は中途半端なバカなので、本物を目指します!
ヽ(;(∀);)ノありがとうございます。
288(1): 2014/09/16(火)04:37 ID:LC3de7YgO携(32/109) AAS
>>287
鬼和尚、おはようございますヽ(・(∀)・)ノ
>人には最悪の環境でも学ぶ事が出来る力がある
それを知らなければ被害者は永遠に被害者と思うようになる
>才能や金銭はさまざまな条件によっても変動するからそれによって本人が幸せになるとは限らない
どのような環境に在っても真の幸福への道は自らの本心の中にしかない
これを読んで、初めて「因縁」「因果応報」「輪廻」等の意味が少しわかったような気がしました。
省3
297(1): 2014/09/17(水)03:01 ID:LC3de7YgO携(33/109) AAS
>>294
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>輪廻がないと思えば学びもない私は、自他の別なく、時間もないと言うか考え方の方が突拍子無さすぎて、気に入ってます。宇宙の意志みたいなもののなかに全てが包み込まれており、始まりも終わりもないってのが真実っぽい感じがしています。
ですので、真実も嘘もなく、あると思えばあるのが真実(?)って気がしますし、輪廻もあってもなくてもどっちでも良いと思ってましたが、確かにあると思った方が、修行の励みになるのかなと思えてきました。
>人を悟りに導く法
とは、鬼和尚がブログに書かれてるような 具体的修行法ののことでありますか?
仏法とは悟るための方法論でありましょうから、全ての理論がその為のものでしょうが、例えば、空の理論とか唯識論とかこれは深めに勉強しといた方が良いよというのはありますか?
306(1): 2014/09/18(木)02:04 ID:LC3de7YgO携(34/109) AAS
>>304
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>>305 は頑張って暗記に挑戦するであります。
もし、お許しいただければ、私に名前をつけていただけないでしょうか。
315(1): 2014/09/19(金)00:01 ID:LC3de7YgO携(35/109) AAS
>>312
鬼和尚、ありがとうございますヽ(*・(∀)・*)ノ リュウミョウと読めばよいのでしょうか?
大切にします。精進します。
318(1): 2014/09/19(金)18:04 ID:LC3de7YgO携(36/109) AAS
ヽ(・(∀)・) こまけぇぇこたぁよいのであります。
太郎や花子もたくさんいるのであります。
前世も現世もみぃぃんな、幻想なのであります。
本来無いのであります。
輪廻何てものも、あってもなくてもどーでもよいのであります。 あると思った方が楽になれるでしょ、っていうていどの話でありましょう。
ボクの前世が見えるかな?って心を観察する際に探す対象があったほうがやりやすいでありましょう。
未知への探検隊でありますので、見つからなかったら、見つからなかったでよいのであります。
省3
341(1): 2014/09/22(月)18:08 ID:LC3de7YgO携(37/109) AAS
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
無我であり、自他の別なく、時間もない。全ては幻想である。と鬼和尚は繰り返し説かれ、言葉で説明し得ない「悟り」を修行により自らの実感するための方法として、「前世」「来世」「輪廻」等の幻想を心の深奥に探してみる方法が語られているのだと理解していますが。悟れる人は少数であり、道なかばで人生を閉じる大多数人に対する「慈悲」として説かれてる側面もあるのかなと思いました。
こんな理解でもよいのでしょうか?
346(1): 2014/09/22(月)23:18 ID:LC3de7YgO携(38/109) AAS
>>344
ヽ(*・(∀)・*)ノ 鬼和尚、ありがとうございます。
感動しました!
この感動が悟ってしまったら無くなってしまうなら、悟れない方がいいかなって思うくらい感動しました!
375(1): 2014/09/29(月)21:29 ID:LC3de7YgO携(39/109) AAS
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ 龍明であります。
今、瞑想中20分ほど経過してふと気づくことあり、鬼和尚に聞いてみたくなり、これを書き始めてます。
日常の些事でイライラして、人を非難したり言い負かしたいという感情が起こることがありますが、瞑想するとそういう感情は即座に消えます。
しかし、敢えて瞑想中にそのような感情を思い起こすとそれは生じ、そしてそれがまた他人事のように消えて行く様が観察できます。
これは、観照と言えるのでしょうか?
自分にとって好ましくない負の感情をもつ自我を、すぐ間近に観察している意識のような感じでありました。
377(1): 2014/09/29(月)22:44 ID:LC3de7YgO携(40/109) AAS
>>376
鬼和尚、ありがとうございます。
やっぱり違いましたか(´(ェ)`)ゞ
あまりにも簡単すぎるので違うかなとは思いましたが、チョピッとがっかりです。
やっぱり、朝起きた時に急速集中する訓練が手っ取り早いでしょうか?
382(1): 2014/09/30(火)23:47 ID:LC3de7YgO携(41/109) AAS
>>381
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ龍明でありまし。
しかれども、その主体に気づくことが、凡庸なる龍明には至難なのであります。今後とも鬼和尚の噛み砕いた説明に期待絶大なるは、人類共通の希望にして、至宝でありましょう!
383(1): 2014/10/01(水)04:10 ID:LC3de7YgO携(42/109) AAS
>>381
鬼和尚、また、ふと思ってしまったでありますf(^(ェ)^;)
>何が在る時、自分とか主体と思い、何が無いときにそれは主体ではないと観るのか
→日常の意識がある時、自分とか主体と思うであります。
・・・それで、目覚めの瞬間、意識が生じる刹那を見よと仰られるのでしょうか?
無意識な中に無我があるといってもよいのでしょうか?
日常の意識と無意識の境を見る、夢と現実の境を見るという理解でもよいのでしょうか?
省3
400(1): 2014/10/03(金)19:43 ID:LC3de7YgO携(43/109) AAS
>>391
鬼和尚、ありがとうございます(・(∀)・)ノ龍明であります。
私は、思考があるとき、自分があると感じます。
一所懸命集中を高め、思考が一切消え去る瞬間を多くもてるようにして、そこから、我にかえる瞬間を捉える。とか、目覚めの瞬間を捉える。以外の方法があったら教えてください。
最近目覚めの瞬間を捉えようとし始めたら、やけにリアルでしかも現実の記憶のなか人物と、現実にはなかったやり取りをアドリブでそれっぼくしているような夢を見るようになり、目覚める前から、自我があるような感じになってしまいました。
417(1): 2014/10/06(月)17:56 ID:LC3de7YgO携(44/109) AAS
>>403
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
>縁起を観察する方法
は、方法が今一つわからず、ちょっと違うのですが、
大きな陶器のどんぶり(=心・日常の意識)の中に顔を突っ込み集中力を高め、心の目力(=集中力)で、器のくもり(=雑念)を消して行き、徐々にくもりが消え、器の白い表面が見えてくる。隙間(=集中の途切れ)から湯気(=雑念)が流れ込みまた、曇らせる。
これを、隙間から流れ込むのではなく、意図的に思考を生じさせても、その日常の意識の変化・違いに気づけない。
隙間から勝手に流れ込んだ瞬間に集中してみると、記憶が勝手によみがえる瞬間みたいのがあり・・・すぐそこに、なにか違いが見つかりそうな気がしたのですが、闇の中であります。
省1
421(1): 2014/10/07(火)00:23 ID:LC3de7YgO携(45/109) AAS
>>419
鬼和尚、ありがとうございます。
何一つ満足にできない自分が悔しいであります(≧(へ)≦。)
433(1): 2014/10/08(水)13:05 ID:LC3de7YgO携(46/109) AAS
>>426
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
ですよね! 泣き言いっても、仕方ないですよね!
般若心経は暗唱できます。
金剛般若経は、つまらなくて途中で読むのやめちゃいましたが、探して読み直してみます。
434(1): 2014/10/08(水)19:25 ID:LC3de7YgO携(47/109) AAS
>>426
>>426
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
金剛般若経(岩波文庫)を20ページ読んでから座ってみました。
自我とは、記憶のことであり、観察とは今この瞬間に起こることに気づくことであり、それは記憶に基づき理解することではなく、ただ感じることである。
感じることも、例えば足のしびれ一つとっても、瞑想を始めた頃にはあんなに悩まされたのに、今は身体が慣れたからというのもあるがなんということはない。
要するに身体の記憶が今の感じ方を左右する。
省2
439(1): 2014/10/08(水)22:10 ID:LC3de7YgO携(48/109) AAS
>>438
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
知恵って、どの部分でありますか?
その部分をのばしてみたいと思うので、是非ご指摘下さい。
441(1): 2014/10/09(木)00:34 ID:LC3de7YgO携(49/109) AAS
>>440
鬼和尚、うれしい( 〃(▽)〃)であります!
龍明、精進するであります!
442(1): 2014/10/09(木)18:54 ID:LC3de7YgO携(50/109) AAS
>>440
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
金剛般若経を更に15ページ読んで、座ってみました。読んだ内容とは関係ないけど、縁起の法の実感のしかたに付き最近感じてることがまとまってきた。
集中が高まり、思考が静まってくると、深層心理から、自我=記憶がその状態を邪魔しようとあらわれる。
例えば、忘れかけていた過去の恥ずかしい経験がよみがえり、うぅっと苦しむ。今までも、それは観念に過ぎず、集中対象に戻りさえすれば夢の中の出来事のように、あっさり消えることは経験済みだった。
て言うよりも、私は瞑想によるこの効果の故に瞑想にはまったと言える。
縁起の法を試してみる。その記憶(=思考)を再現し、うぅっと「苦」を感じ、集中対象に戻りそれを消す。
省3
444(1): 2014/10/09(木)23:37 ID:LC3de7YgO携(51/109) AAS
>>443
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
精進します。金剛般若経、チョピッと長いですが、暗記にもチャレンジしてみます。
459(1): 2014/10/11(土)16:28 ID:LC3de7YgO携(52/109) AAS
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
金剛般若経は左側のページは全部読んだので、1日2〜3行づつ暗記してゆきます。
今朝読んでから座り感じたことであります。
まずは集中力を高める。記憶を呼び起こし、感情が生じ、苦が起きる。意思により集中対象に戻る。苦が消える。
ここにおいて、記憶も、感情も、意思も自我である。集中対象も自分の呼吸や気である。全部自我である。
自我で自我を観察だとこんがらがるので整理するため視点を変える。
自我でないのは外界である。外界の音や、においや、気温を五感で感知して、うるさいなとか、腹ペコだとか、寒いとかの感情や思考が生じる。
省10
466(1): 2014/10/12(日)05:24 ID:LC3de7YgO携(53/109) AAS
>>463
鬼和尚、ありがとうございます(´・(ェ)・`)ゞ龍明であります。
で、ありますよね。
なんか自分ではいいとこまでせまれたような気がしたのでありますか、錯覚でありました。
チョピッとガッカリであります。
470(1): 2014/10/12(日)22:14 ID:LC3de7YgO携(54/109) AAS
>>469
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
金剛般若経を読んでると、裏とか逆じゃなくて、般若心経を具体的に、だけど無説明に述べるような、山があることが山のないということ…みたいな、公案のようなことばかり書いてあるので、 考えて結論のでることではないと承知していても、思考が巡ってしまったような気もします。
集中し、無思考の意識を探求します。
暗記も続けます。
480(1): 2014/10/14(火)17:33 ID:LC3de7YgO携(55/109) AAS
>>475
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
>>445さんや >>471さんに対するお返事かたいへん参考になります。
私は、タントウ功をしたり、気の行で陽気が鳩尾辺りに上がって来た時に、体の外側に物理的とも思われる気の存在を実感します。
そこでこの感覚を拡張し、>471さんが引用しているサイトの人のように、意識(=気の実感)を拡張してみようとするは試みは、有効でしょうか?
実は以前試みたましたが、うまく行きませんでした。
やっと金剛般若経1ページ暗記できました。しかし、何で日本のサイトには読み方もほとんどなく、読経のYouTube等もないのでしょうか?
省1
483(1): 2014/10/14(火)23:20 ID:LC3de7YgO携(56/109) AAS
>>482
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
続けてみます。
487(1): 2014/10/15(水)19:45 ID:LC3de7YgO携(57/109) AAS
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
金剛般若経のCD、あるいはできたらネットで聞けるサイトをご存知ないでしょうか?
490(2): 2014/10/16(木)04:34 ID:LC3de7YgO携(58/109) AAS
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
はい。全部暗記したら、ブログでも作って正確な読み方を、書きたいと思います。
どっかに読経が聞けるお寺さんはないかも探してみます。
492(1): 2014/10/16(木)11:49 ID:LC3de7YgO携(59/109) AAS
>>491
ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
私も思い付く限りの言葉で検索してみましたが、見つかりませんでした。中国語のは出てきます。
屋外での大般若経の読経会(?)みたいのはありましたが、音が割れてて聞き取れませんでした。
512(1): 2014/10/20(月)05:05 ID:LC3de7YgO携(60/109) AAS
鬼和尚、おはようございますヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
金剛般若経は3ページ目に入りました。
今朝40分座し、感じたことです。
まず、集中力を振り絞り、丹田の気に意識を張り付け、思考が流込む隙間を塞ぐ。思考は起こらない。
5分くらいして少しずつその張り付ける意識を緩め、普通に集中する。思考はすぐにはわいてこない。自分的には、その集中する意識も日常の意識なのだが、何か厳重に思考が封印されていることを「自我」が警戒し、記憶の倉庫から雑念の種を取り出す機会をうかがってるように感じられた。
そしたら、思考がわいてきた。自分は瞑想に対する期待が非常に強いと言う思考。それは執着だろという思考。
ピタッと張り付けたり、ちょびっと緩めたり、こんな感じのことを繰り返してました。気を緩めるとすぐにあっさり巻き込まれる。
省2
562(1): 2014/10/30(木)05:12 ID:LC3de7YgO携(61/109) AAS
鬼和尚、おはようございます。ヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
金剛般若経はもう少しで5ページです。
今朝の瞑想で気づいたこと。
まず、丹田にペッタリ集中して、思考を排除。5分くらいしたら少しずつ集中を緩め、記憶のおもちゃ箱から雑念がわき上がるのをまつ。
記憶がわき上がる→感情が生じる。悔しいとか不安とかいった分かりやすい感情だと観察しやすい。
その感情を感じてる(=投射されてる?)のが自我と認識する。
すぐに、集中を強めて感情を消すのではなく、縁起の法をやる。
省4
572(1): 2014/11/01(土)19:32 ID:LC3de7YgO携(62/109) AAS
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
ここのところ、記憶と感情の切り離しが急速に進んでいることが実感されます。もう少しで自動的に切り離されてしまいそうな気がします。
その反動なのか、今までなら、ワクワクドキドキ((o(^(∇)^)o))するようなことが起こっても、そのような感情がわかず、むしろそれが押さえ込まれているような、苦痛とは異なるものなのですが、生理的、肉体的に、ある種の負担・圧迫感みたいなものを感じます。
一過性のものでしょうか?あるいは気のせいでしょうか?
591(1): 2014/11/07(金)19:28 ID:LC3de7YgO携(63/109) AAS
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
最近、瞑想中に何かしたいという思い、例えば、電話を留守電にしたか確認したいとか、首にすれるシャツの襟を直したいとか、ほんの些細な思いが突然わいた際に、そのことを我慢するとか、雑念として受け流すというのではなく、そのように感じてる自我を意識が客観的にとらえるだけで、その思い自体がさぁーっと消えて行きます。
この自我の思いを客観的に意識する意識は、アラヤシキなのでしょうか?
何かそんな高度なものではなく、日常の意識で単に自分の意識を分析しなおしてるだけのような気もしますが、そのことにより、欲求がさぁーっと消える感じは、不思議でもあります。
考え過ぎでありましょうか?
金剛般若経は5ページで停滞中であります。4ページまでは適当な節回し()?で抑揚をつけ、調子よく暗記が進んだのですが、5ページの読みにうまく抑揚がのらず停滞しております。
お寺さんとかにお願いすれば唱えかたとか教えてくれるものなのでしょうか?で
593: 2014/11/07(金)23:12 ID:LC3de7YgO携(64/109) AAS
>>592
鬼和尚、ありがとうございますヽ(*・(∀)・*)ノ ちょびっと興奮気味の龍明であります。
まな識でありますか!!
早速調べてみるであります。
日常の意識からチョピッと前へ進めたのでありますね!
嬉しいであります♪
金剛般若経は、解説も全部読んでおりますが、より一層しっかり読むであります!
省1
599(1): 2014/11/09(日)09:35 ID:LC3de7YgO携(65/109) AAS
>>598
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
>観察が出来ている・・・が、しかし、
>それはまだ、まな識辺り・・・なぜなら、
>分別があるから
ということは、分別のない状態=日常の意識での「思い」が自動的、無意識にわかない状態を目指すのですね。 これはまた高いハードルではありますが、がんばりますo(`(^)´*)
例えば、かつてあんなにも瞑想の邪魔をした足のしびれが、いまや全く苦にならなくなったような感じで、思いがわいても気にならない、程度ではダメなのでしょうか?
省1
603(2): 2014/11/09(日)21:43 ID:LC3de7YgO携(66/109) AAS
鬼和尚、こんばんは。
自分はいかに善人のつもりでも、いかに不義理を繰り返してきたことか、いかに恥多き人生であるか…と言う思いが、最近少し薄らいできました。
反省しつつも、今に生きるしかないのでありますね。
>>600
ここはシタラバなのでコテ無しでも、端末変えなきゃ一緒でありましょう。
人のしたことしなかったことを気にするよりも、自分のそれを気にしたいであります。
by 龍明ヽ(・(∀)・)ノ
615(2): 2014/11/12(水)14:52 ID:LC3de7YgO携(67/109) AAS
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
最近、集中して意識のエアポケットみたいな無思考な状態を形成できる時間が少しずつ長くなってきました。
感情を伴う思考が雑念としてわいた際に、そのポケット内で、鬼和尚に仰っていただいたマナシキが察知すると、たちどころに消え去るようなことがよくあります。
しかし、日常においてはそこまで簡単に行きません。
観照とか悟りといったものは、ある日ある時突然壁が破れ視界が広がるような体験なのかと想像しているのですが、筋トレのように徐々に段階を踏み到達するという側面も大きいものなのでしょうか?
瞑想中の雑念処理と同じような状態に、日常においてもなって行くのでしょうか?
何か、そんな気配をチョピッと感じる今日この頃でたります。
616(2): 2014/11/12(水)20:49 ID:LC3de7YgO携(68/109) AAS
鬼和尚、こんばんは。本日二度目であります。
今日座っていて、自分が他人に冷淡であった時の思いが突然わき上がりました。
瞑想時に限らずよみがえる負の感情を伴う記憶の多くは、他人からされたことや理不尽だと思うこと等自分が被害者的立場のものがほとんどですが、自分が加害者的立場の感情を伴う記憶が連鎖的に激しくわき上がったのは初めてかもしれません。
以前何度か、心の深奥を観察してみようと試み、色々試してみましたが、単発的にあらわれることはあっても、ほとんどは表面的なものでした。
今日突然それができちゃったのですが、自分が加害者であり、簡単にできる他人に対する優しさを示すことができなかったこと、ずるさ、卑怯さ、愚劣さ等々の自己のマイナス評価・・・劣等感の根拠みたいなものが、堰を切ったように吹き出しました。
もしかしたら、瞑想時にそれが起きたのではなく、一つの記憶を契機に連鎖的に類似の記憶がよみがえったのかもしれません。
以前、やろうとしてうまく行かなかった心の深奥の探求とは、まさにそういった側面をも含めて自分のありのままの姿を見つめ直してみようとしたのですが、その一部が突然できちゃった感じです。
省6
619(1): 2014/11/13(木)06:03 ID:LC3de7YgO携(69/109) AAS
>>617
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>気付きは一瞬にして訪れる
自分の本心に気づくには時間も掛かる
>自分に嘘をついたり誤魔化したりして本心が判らなくなる
本心が見えてこそ観察が出来て気付きも起こり、悟りは訪れるの
→その訪れる一瞬に向けがんばります。
省4
623(1): 2014/11/14(金)14:00 ID:LC3de7YgO携(70/109) AAS
>>621
鬼和尚、ありがとうございます。
ちょびっといつもとちがうアプローチをしてみたら、壁にぶつかってしまいました。
まず、自分は今あると言う実感を感じてみる。(なんかこんな書名の本がありましたですね。)
この実感は当たり前に簡単に感じる。
今あるという実感、一瞬前も、昨日も、10年前も、生まれてから今この瞬間までずっとあったという実感は確かなものとして揺るがない。
しかし、その実感は一瞬前の記憶に支えられている。
省9
625(1): 2014/11/14(金)21:52 ID:LC3de7YgO携(71/109) AAS
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ
さっきの書き込みをしてから検索してみたら、『私は在る』(マハラジ)というのがありました。彼は真我を前提とするヒンデゥー教の立場(?)で悟りを解説してるのかなと思いました。
折角無我に接近しつつあるので、私なりの「私はある」も観察により是非見切ってやりたいと思いました。
628(1): 2014/11/14(金)22:25 ID:LC3de7YgO携(72/109) AAS
>>626
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>その実感が原因から起こることを観察する
>観察する行為が無ければ、実感も減るかも知れん。
>それを観察する
おー!!まさに目から鱗・・・であります!
今夜、やってみます!
634(1): 2014/11/16(日)18:26 ID:LC3de7YgO携(73/109) AAS
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
あの「自分はある」の確からしさはなんだったんだろう?
鬼和尚に言われた通り、観察するのをやめ、ただ意識が静まったところで「自分はある」という思考を想起し、放置してみた。先日の確からしさの強い思いも混乱も起こらず、記憶に基づく観念の一つとして意識されるのみだった。
先日の強い実在感とのコントラストを感じてると、スゥーッと身体の実体感も薄らぎ、丹田の陽気のみがつよく感じらるた。
まだ、サマディとまでは行きませんが、それに近づいてるのかも知れないのかな…と思いました。
640(1): 2014/11/18(火)11:08 ID:LC3de7YgO携(74/109) AAS
>>636
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>我を想起しなければサマーディも近い
これだけ聞いたのなら、どうしたらいいか戸惑ってしまうところですが、私は最近意識が静まってきたところで、わざと思考や感情を想起しそれを観察するみたいなことをやっていたので、その実験をやめればいいだけでしたので、簡単でした。
まだ、サマディには到達できませんが、思考、感情=自我の想起をやめるだけで、あっと言う間に安楽な瞑想状態になり、夜寝る前にやると、ぐっすりと良質な睡眠がとれる気がしました。
精進します。
654(1): 2014/11/20(木)02:01 ID:LC3de7YgO携(75/109) AAS
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ
いつもは半身浴をしながら金剛般若経を読むのですが、今夜はなぜかふと宇宙が無限だとしたら…ってなことを考えてしまいました。
鬼和尚に、世界も時間も生も死もないと、悟ったら実感できると聞いても、悟るまではそれはあり、又、修行道半ばで人生の時間切れになる公算が高い。
だからこそ、輪廻があると信じないと、救いがない。
悟り得ず、世界も時間も生も死もある者にとって、永遠に今の「苦」が繰り返されるのではなく、いつかはそこから脱したいと願い続け、次の機会にこそはと希望をつなぐ。
宇宙が無限だとしたら、今の自分と同じような遺伝子で、同じような環境で、同じような経験をすることも無限に繰り返されてしまうだろう。
それは、今の宇宙が終わり、次の宇宙が始まっても、無限に繰り返されるのだろう。無限とはそういうことで、輪廻とはその事を言ってるのかな…と思いました。
省1
661(1): 2014/11/21(金)00:25 ID:LC3de7YgO携(76/109) AAS
>>659
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
心強く思います。
がんばります。
もう既に、鬼和尚に教えていただいている方法の実践で今得ているものだけでも十分と思ったてしまいます。
サマディも無我も観照も、まだまだ遠い先でありましょうが、ご指導のお陰で着実に近づきつつあり、1ミリ近づくたびに、「苦」がボロボロと剥がれ落ちて行くような気がしています。 ありがとうございます。
668(1): 2014/11/22(土)01:49 ID:LC3de7YgO携(77/109) AAS
>>666
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>見性は自らの本性を見る事
理想的な観念による自己象を捨て去り、自らの醜さやこずるさや臆病な所などに気付けば見性と言える
それは自らの本心、本性に還る事であり、修行の一歩と言える
>>616 で経験したことが、これだったと言えるのでしょうか?
以前より少しずつ、他人を批判したり非難したりする気持ちは減ってきていましたか、おりにつけそのような気持ちが起こると、縁起の法で解消していましたが、>>616以来、そもそもそのような気持ち(批判したり非難したり怒ったり等)が起こらなくなっている気がします。
省1
670(1): 2014/11/22(土)17:39 ID:LC3de7YgO携(78/109) AAS
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
瞑想に修行感が全くありません。最初の頃は、毎日続けなければとか、少なくても30分以上は座らなければとか、集中を持続して雑念を少なくしなくてはとか、観察を緻密にしなければとか、修行感と言うほどではないまでも、何か頑張ってる感はあったのですが、今は座りたいから座ってるだけです。
最初は多少の努力を要した瞑想が座ると楽になるになり、それが更に、意識の変容と言うことではありませんが、物事の感じかたが自分なりに望ましい方向に変容しているようには実感してますが、サマディを経験できてる訳でもないのに瞑想中毒というか瞑想依存症のようになっています。
鬼和尚は1日20分ほどの瞑想を続けていたとのことでしたが、それは瞑想の安楽さに浸りすぎないように、わざとそのように規制されてたのでしょうか?
675(1): 2014/11/23(日)00:54 ID:LC3de7YgO携(79/109) AAS
>>673
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
信心銘の鬼和尚解説や>>656さんが添付してくれたサイトの訳などを指針にして精進します。
ん?楽しみつつも、何かがんばるぞ感はあるみたいです。
あれもこれも、すべて鬼和尚に出会えたればこそであります。
ありがとうございます。
684(1): 2014/11/25(火)07:39 ID:LC3de7YgO携(80/109) AAS
鬼和尚、おはようございます。
もう一息で何かつかめそうな気がする…
けど、それは思い過ごしで、克服できていたはずの、迷路の中に戻ってしまう。
できてたことが、できなくなってしまう。
そうなると意識だけでなく、気にならなくなっていた足の痺れまでも瞑想の邪魔をしだす。
超、ガッカリして、イラダツ。イライラの克服くらいは前より少し簡単にできる。
今朝やってみたこと。
省4
690(1): 2014/11/26(水)05:40 ID:LC3de7YgO携(81/109) AAS
>>688
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>その意識を前面に立たせないでも良い
>瞑想中に使用するだけで良い
「その意識」で、客観的に自我を観察できてる時、あと一歩で無我に到達できるのではないかと感じてしまいます。
無我を知るためには、自我が「生じる」瞬間を捉え、観察し、観照を起こすことが必要であり、観察されるもの=自我は、観察者=自分ではないと自覚できる…と鬼和尚の教えを理解しておりますが、これでよいでしょうか?
省9
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