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闇夜の鮟鱇★
2012/03/30(金)11:35 ID:???0
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106: 闇夜の鮟鱇★ [] ●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(3/6) それから第41回で額田王を取り上げた時、その最初の歌に関して、 天皇が本当にそんな粗末な宿に泊まったのか、と疑問が出されていました。 秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処(みやこ)の 仮廬(かりいほ)し思ほゆ (秋の野の草を刈り、それで屋根を葺いて明かしたあの夜の、 宇治の粗末な仮御所のことが、懐かしく思い出されます。) でも……当時の貧しさは今日、我々が想像する範囲を軽く越えるだろう、 ということを、我々は十分に想定して置く必要があると思います。 天皇がそういう粗末な宿に泊まっても、別に不思議はないということですね。 第48回で、大伴氏の家族が稲刈りに出かける話にしてもそうですよね。 講師は、稲刈りの間に彼らが寝泊まりした仮屋の『たぶせ』というのは、 いくらなんでも謙遜した表現だろうとか言っていましたが、これまた、 当時の貧しさを考えるなら、そうとは言い切れない気がします。 更には、山上憶良の貧窮問答歌は、彼が死ぬ暫く前に作られたようですが、 そこに描かれている貧しさも、我々の想像を軽く越えていますね。 第五巻 : 風雑り雨降る夜の雨雑り雪降る夜は http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/five/m0892.html 人並に 我れも作るを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け (私も人並みには働いているのに、綿も入っていない麻衣で、 海藻のように切れ切れになった、ボロだけを肩にかけて) いくら何でも、一度は地方の長官まで勤め上げた人物が、 その晩年に、こういう悲惨な状況に置かれるというのは、 現代人には、にわかには信じがたい話ですよね。 無論、晩年の彼は藤原氏に冷遇された可能性が当然ありますが、 それにしても一度落ちぶれると、ここまで行くという事の背景には、 当時の圧倒的な貧しさを考える必要があるのではないでしょうか。 で再び、天皇の描写に話を戻しますが結局、明治期以降、 天皇の権威が極端に肥大化した、という事情がありますよね。 そうした近世の常識に捕らわれると、間違えるのではないかと思います。 万葉集の色々な所を読むと、当時の天皇の権威というものは、 せいぜい、今日の我々が考える地方豪族に、 毛の生えた程度のものだったようなふしもありますからね。 彼ら自身、そのようなものと意識していたような気配もあります。 その点では『天皇を神として讃える歌』をしきりに作った人麻呂などは、 例外とも見えますが……だからこそ、渡来人説が出るのかもしれません。 つまり、当時の政権を安定させる上で、天皇を権威付けすることが、 必要不可欠だったと思いますが、その意味で渡来人の人麻呂が、 政権に多少とも迎合的だったことが、好都合だったとも考えられます。 そういう近世的に肥大した天皇の権威を常識とする立場からすると、 万葉集の歌が相聞歌・挽歌・雑歌の三分野に別れていて、 皇室行事の歌が雑歌に入っていることを、奇妙に思う人も多いようです。 この講師の場合、そこを逆に解釈して『雑歌というのは、 現代人が考えるような「その他もろもろの歌」 という意味ではない』とか言ってましたけどね。 でも、それはむしろ明治期以降に肥大化した天皇権威に流された結果、 生じる歪みであって、むしろ逆立ちした発想ではないんでしょうか。 つまり、万葉の編者にしてみれば、この歌集は別に、 天皇の権威を高める為に作った分けではなく、あくまで、 歌の価値に重点を置いているのだ、と考えれば良い分けです。 言い換えると、皇室の権威を讃える為の歌集を編みたいのなら、 それ専用の歌集を作れば良いわけで、万葉の編者には、 必ずしも、そういう意識は無かったということなんでしょう。 その意味で、皇室行事の歌は挽歌でもないし相聞歌でもないから、 自動的に雑歌に入った、ということに過ぎないだろうと思います。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/3729/1069922074/106
書き言葉の衝撃と万葉人の責任感 それから第回で額田王を取り上げた時その最初の歌に関して 天皇が本当にそんな粗末な宿に泊まったのかと疑問が出されていました 秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処みやこの 仮かりいほし思ほゆ 秋の野の草を刈りそれで屋根を葺いて明かしたあの夜の 宇治の粗末な仮御所のことが懐かしく思い出されます でも当時の貧しさは今日我が想像する範囲を軽く越えるだろう ということを我は十分に想定して置く必要があると思います 天皇がそういう粗末な宿に泊まっても別に不思議はないということですね 第回で大伴氏の家族が稲刈りに出かける話にしてもそうですよね 講師は稲刈りの間に彼らが寝泊まりした仮屋のたぶせというのは いくらなんでも謙遜した表現だろうとか言っていましたがこれまた 当時の貧しさを考えるならそうとは言い切れない気がします 更には山上憶良の貧窮問答歌は彼が死ぬ暫く前に作られたようですが そこに描かれている貧しさも我の想像を軽く越えていますね 第五巻 風雑り雨降る夜の雨雑り雪降る夜は 人並に 我れも作るを 綿も無き 布肩衣の 海松みるのごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 私も人並みには働いているのに綿も入っていない麻衣で 海藻のように切れ切れになったボロだけを肩にかけて いくら何でも一度は地方の長官まで勤め上げた人物が その晩年にこういう悲惨な状況に置かれるというのは 現代人にはにわかには信じがたい話ですよね 無論晩年の彼は藤原氏に冷遇された可能性が当然ありますが それにしても一度落ちぶれるとここまで行くという事の背景には 当時の圧倒的な貧しさを考える必要があるのではないでしょうか で再び天皇の描写に話を戻しますが結局明治期以降 天皇の権威が極端に肥大化したという事情がありますよね そうした近世の常識に捕らわれると間違えるのではないかと思います 万葉集の色な所を読むと当時の天皇の権威というものは せいぜい今日の我が考える地方豪族に 毛の生えた程度のものだったようなふしもありますからね 彼ら自身そのようなものと意識していたような気配もあります その点では天皇を神として讃える歌をしきりに作った人麻呂などは 例外とも見えますがだからこそ渡来人説が出るのかもしれません つまり当時の政権を安定させる上で天皇を権威付けすることが 必要不可欠だったと思いますがその意味で渡来人の人麻呂が 政権に多少とも迎合的だったことが好都合だったとも考えられます そういう近世的に肥大した天皇の権威を常識とする立場からすると 万葉集の歌が相聞歌挽歌雑歌の三分野に別れていて 皇室行事の歌が雑歌に入っていることを奇妙に思う人も多いようです この講師の場合そこを逆に解釈して雑歌というのは 現代人が考えるようなその他もろもろの歌 という意味ではないとか言ってましたけどね でもそれはむしろ明治期以降に肥大化した天皇権威に流された結果 生じる歪みであってむしろ逆立ちした発想ではないんでしょうか つまり万葉の編者にしてみればこの歌集は別に 天皇の権威を高める為に作った分けではなくあくまで 歌の価値に重点を置いているのだと考えれば良い分けです 言い換えると皇室の権威を讃える為の歌集を編みたいのなら それ専用の歌集を作れば良いわけで万葉の編者には 必ずしもそういう意識は無かったということなんでしょう その意味で皇室行事の歌は挽歌でもないし相聞歌でもないから 自動的に雑歌に入ったということに過ぎないだろうと思います
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