戦国公家!近衛前久 (414レス)
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413(1): 09/07(日)16:24 ID:w9HCjZRa(1) AAS
慶長のはじめ、豊臣秀吉は近衛前久という人物を京都の鷹峯に訪ねたという。太閤が、関白の地位を譲ってもらったとはいえ、かつての主君を訪ねるというのは、いかにも律儀なことではないか。かれが秀吉に与えた影響は、単に官職を斡旋したというだけではない。信長、秀吉、家康という三英傑の時代を生き抜き、おのれの運命を世の大きな流れに委ねた稀有な公家。その足跡をたどってみたいと、ふと思いついた。
令和4年9月7日、私は新幹線に乗り、大阪を発った。最初の目的地は、九州である。前久は、信長の比叡山焼き討ちの際に叡山に匿われ、その縁でか、九州に下向したことがある。永禄12年(1569年)、大友宗麟を頼って豊後(現在の大分県)に赴いたのだ。目的は、公家の権威を利用して九州の戦国大名たちの争いを調停することであった。しかし、かれの思惑はうまくいかず、やがて大友家を離れ、薩摩の島津氏のもとに身を寄せた。
大分駅から特急に乗り換え、別府を目指す。海に面したこの地は、温泉と海鮮に恵まれている。宿で供された関アジ、関サバの刺身は、口に入れた途端、身が弾けるような新鮮さだった。公家は、このような豪勢な海の幸を口にすることがあっただろうか。京の都では、せいぜい若狭から運ばれてくる塩漬けの魚が精一杯だったろう。前久は、この地の豊かな食文化に触れ、京とは異なる風土に何を感じたのだろうか。
翌日、私は鹿児島へと向かった。島津義久を頼った前久は、ここで7年間を過ごす。薩摩では、公家の生活には程遠い、質素な暮らしを強いられたという。しかし、この地で島津家の庇護のもと、連歌会を催し、教養人としての矜持を保ち続けた。島津家は、その権威を借りて、九州統一の正当性を内外に示した。前久と島津家、互いに利用し合う関係ではあったが、そこには確かに文化交流があった。
鹿児島の地で、私が食べたのは、鶏飯であった。鶏の出汁で炊いたご飯に、ほぐした鶏肉、錦糸卵、椎茸などを乗せ、熱い出汁をかけていただく。素朴ながらも滋味深いその味は、かつての薩摩の暮らしぶりを偲ばせる。前久が口にしたかどうかは知る由もないが、この地の豊かな食材は、公家の暮らしに新たな彩りを与えたに違いない。
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