[過去ログ] 【イエス】万人救済 16【キリスト】 (1002レス)
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193: Millet 07/15(火)09:28 ID:1zQP1H+2(1/11) AAS
生前悔い改めることのできなかった人たちがゲヘナに行きます。

ゲヘナで罰せられる者たちは、愛の鞭によって鞭打たれる、と私は主張する。いや、愛の責め苦ほど苦く激しいものがあるだろうか?…ゲヘナの罪人が神の愛を奪われると考えるのは不適切だろう…神の愛は罪人を苦しめる…ゆえに、私はこれこそゲヘナの責め苦、すなわち激しい後悔であると述べる。

— シリアのイサク聖人、修行の説教28、141ページ
194: Millet 07/15(火)09:28 ID:1zQP1H+2(2/11) AAS
『シリア人イサクの禁欲的説教』"The Ascetical Homilies of Isaac the Syrian"

シリアの聖イサクによって 688年頃に書かれた、キリスト教の禁欲主義と祈りをテーマにした説教集。各説教では、美徳、悪徳、闘争、信仰など、キリスト教生活のさまざまな側面について論じている。

『禁欲的説教』は、東方 キリスト教の修道士を主な読者として書かれたと思われるが、この本は一般信徒と剃髪者の両方にとって有益であることが証明されている。カリストス・ウェアが言うように、「[イサクの著作]は砂漠だけでなく都市に向けられたものであり、修道士だけでなく洗礼を受けたすべての人々に向けられたものである。

彼は、悔い改めと謙虚さ、外面的および内面的の両方のさまざまな形の祈り、孤独と共同体、沈黙、驚異、宗教的法悦など、すべてのキリスト教徒に関係するテーマについて、鋭く鮮明に語っている[5]この本の中で、イサクは、聖書と聖なる父祖の両方を頻繁に参照しながら、特にヘシカズムとネプシスの禁欲的な労働による知性浄化のプロセスを教えている[6] [7]。彼は、単に概念的な言葉で書くのではなく、砂漠での隠遁者としての実際の経験から書いている[8]。
195: Millet 07/15(火)09:29 ID:1zQP1H+2(3/11) AAS
イサクは歴史を通じて霊的指導者として尊敬されてきた。それは彼の著作が数多く翻訳されていることからも明らかである。セバスチャン・ブロック(en)によれば、イサクは「疑いなくシリア教会が生み出した霊性に関する最も深遠な著述家の一人」である[9]。ドナルド・オーチンはさらに踏み込んで、イサクを「キリスト教東方における最も偉大な霊的著述家の一人」と呼んでいる[10]。さらに、ヘシカストのヨセフ(en)はかつてこう言った。「砂漠の父祖たちの、用心深さと祈りについて教えてくれるすべての書物が失われ、シリアのアバ・イサクの書物だけが生き残ったとしても、静けさと祈りの生活について最初から最後まで教えるには十分だろう[11]

シリアのイサクは、その著作全体を通じて、ヌースを浄化するために静寂が必要であることを強調した(説教1、4、19、48を参照)[Note 2]。それにもかかわらず、彼は教会組織内のさまざまな役割(すなわち、高位聖職者、聖職者、修道士、および平信徒)と、厳格な静寂と苦行を遵守するそれぞれの能力を認識していた[12]。説教4で、彼はこう言っている。「しかし、静寂を実践できない人がいるなら、それは人を門の中に導く神の恩寵であるので、彼は他の道を見捨ててはならない。そうしないと、人生のどちらの道にも参加できなくなるからである。」また、説教 72 では、「しかし、大多数の人々はそのような無垢に到達しません... なぜなら、各人が神のもとへ向かうあらゆる道のあらゆる手段において、神は彼らの前に天国の門を開いてくださるからです。」

イサクによれば、神は愛の化身である。全能者として、神の愛は罪や悪の力によって打ち負かされることはない。同時代の証聖者マクシモスと同様に、イサクは神の愛が聖なる者の喜びと悪の苦しみの両方として機能することを理解している[13]。彼の見解では、受肉はこの愛と人類の罪によって生じた必要性の両方のために起こったという[14]。
196: Millet 07/15(火)09:29 ID:1zQP1H+2(4/11) AAS
以下の引用は、聖変容修道院の 『シリア人聖イサクの禁欲的説教』(1984年)からの抜粋である。

罪人を愛しなさい。しかし、その行いを憎みなさい。その罪過のゆえに彼らを軽蔑してはいけません。そうしないと、同じ罪過に誘惑されてしまう。
目に見える海が静かで穏やかなときにイルカが動き回って泳ぐのと同じように、心の海が怒りや憤りから静まり返っているとき、神秘と神の啓示が常に彼女の中でかき立てられ、彼女を喜ばせる。
静寂は外的な感覚を鈍らせ、内的な動きを復活させるが、興奮はその逆、つまり外的な感覚を復活させ、内的な動きを鈍らせる。
人が心の清らかさに到達したことのしるしは何であるか。そして、人はいつ自分の心が清らかさに入ったことを知るのであろうか。すべての人を善良だと見なし、誰も不潔で汚れているとは思えないとき、その人の心は真に清らかである。
愛を見つけるまでは、私たちの労働は毒麦の地で行われ、たとえ私たちの種が正義の種であったとしても、私たちは毒麦の真っ只中に種を蒔き、刈り取るのである。
蛇は体が砕かれても頭を守り、賢い僧侶は常に自分の信仰を守ります。これが彼の人生の起源だからである。
省1
199: Millet 07/15(火)09:38 ID:1zQP1H+2(5/11) AAS
シリアの聖イサアクは7世紀の修道士です。彼はネストリウス派の教会に所属していましたが、彼の霊性や著作は宗派を問わず受け入れられており、『フィロカリア』や、グレゴリオス・パラマスの『聖なるヘシュカストたちのための弁護』でも引用されています。

神の正義よりも慈しみに重点を置き、地獄に落ちるような人でも救われうること、地獄にも終わりがあるかもしれないこと、謙遜になり、他者を裁かずむしろ祈るように教えています。また、聖イサアクの霊性は『カラマーゾフの兄弟』におけるゾシマ長老の説教のもとになっています。

「主は邪悪をゆるし、罪を取り除かれる」(P22)
「私たちが罪びとであるのに、キリストはなお私たちのために死なれたということを理解する時、神の正義は一体どこにあるのだろう」(P75)
「あなたをつまずかせるものの故に絶望に陥ってはならない……救い難いものと考えてはならない」(P84)
「罪と地獄と死は、神と共には存在しない。それらが効果であって本質ではないからである……地獄は罪が生み出した果実である。時間の中のどこかで地獄には始まりがあった。しかし、その終わりはまだ分からない」(P113)
200: Millet 07/15(火)09:40 ID:1zQP1H+2(6/11) AAS
シリヤの聖イサアク 「主の十字架は私たちの自由への呼びかけ」

 シリヤの聖イサアクは「ニネベのイサアク」とも呼ばれ、七世紀前半ペルシャ湾西岸のカタールに生まれたと伝えられます。彼は修道士でしたが、乞われてニネベの主教となりました。しかし、すぐに主教職を辞し修道院に引きこもり、修道士たちへの霊的指導に専念しました。彼の修道生活についての多くの著作はすべてシリヤ語で書かれましたが、早くからアラビヤ語・エチオピヤ語・ギリシャ語に翻訳され、正統派・単性論派・ネストリウス派を問わず東方教会全域に大きな霊的影響を与えました。  
 ここに紹介した言葉は、ハリストスの十字架上の死という救いの業が、いかに大きな神の愛に基づくかを、「十字架」が私たち一人一人の自由への呼びかけであるという点から明らかにしています。神が人間に備えられた「自由」によって、私たちは罪を犯し神を離れますが、この自由によって神に立ち返ることもできます。現代の正教会の神学者カリストス・ウェアー主教も次のように言っています。
 「自由のないところには愛はない。ポウル・エウドキモフ(現代フランスの正教神学者)が『神は、どんなことでもできるが、われわれにご自身を愛することを強制はできない』と述べているように、強制は愛を追い出してしまう。…自由がなければ罪はなかっただろう。しかし、自由がなければ人間は神のイメージ(像)とは言えないだろう。さらに、自由がなければ私たちは決して神との愛の交わりに入ることはできないだろう」("The Orthodox Way" SVS p76)

 主なる神はご自身がお造りになったものへの熱い愛のゆえに、ご自分のみ子を十字架上の死に渡された。それは、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された(イオアン3;16)」からである。
 それは、神が他の方法で私たちを救うことがおできにならなかったからではなく、それによって神が、み子のすべてを超えた愛をより良く私たちにお示しになるためであり、また、神の独り子の死によって私たちを神のみそば近くに引き寄せて下さるためであった。 …神はその大きな愛ゆえに、…私たちの自由の上に何かを強制することはお望みにならなかった。むしろ、神は、私たち自身の心の中の愛によって、自由に神のみそばに近づくようになることを望まれた。
(梶原史朗訳「同情の心」より。シリヤのイサアクの断片集、聖公会出版)
203: Millet 07/15(火)09:45 ID:1zQP1H+2(7/11) AAS
シリアの聖イサアク

7世紀、現在のイラクを中心に広がるアッシリア東方教会(かつてネストリウス派と呼ばれた教会)で活躍したイサアクは、深い霊性と禁欲主義、そして慈悲深い精神で知られる修道士にして主教でした。ペルシャ湾西岸(現在のカタール)出身とされ、シリア語を話し、正教会では聖人として崇敬されています。正確な生没年は不明ですが、7世紀前半に生まれたと推測されています。イサアクは当初、兄弟と共に修道院に入りましたが、すぐれた修道生活ぶりが認められ、修道院長に推挙されます。しかし、静寂を愛するイサアクはこれを辞退し、隠遁生活を選びました。兄弟たちの説得にも応じず、静かな修道生活を送りました。

彼の聖なる生活は広く知れ渡り、660年代頃にはニネベの主教に選出されます。しかし、隠遁への強い思いは変わらず、わずか5ヶ月で主教職を辞し、再び修道生活に戻りました。イサアクが活躍した時代は、イスラム教が勃興した時代と重なりますが、当時、キリスト教徒とイスラム教徒の間には必ずしも敵対関係はなかったとされています。イサアク自身も、そのような時代背景の中で、修行生活に関する多くの著作を残しました。そして、一介の修道士として生涯を終えました。
204: Millet 07/15(火)09:45 ID:1zQP1H+2(8/11) AAS
イサアクの思想と教え

イサアクの著作は禁欲主義に関するものだけでなく、霊的な教えや瞑想、祈りに関するものが多く残されています。彼の思想の中心には、慈悲、謙遜、祈りの重要性などが強調されています。彼の教えは、次の言葉に見られるように、深い共感と他者への愛に満ちています。

「悔い改めは慈悲への門、この門を通ることなしに人は慈悲を見い出すことはできない」

「自分自身の内に引き受けた姿で、あなたは軽蔑され、退けられなさい。そうすれば、あなた自身のうちに神の栄光を見るであろう。謙遜が花開くところには神の栄光が輝き出る」

「貧しい人を愛しなさい。彼らを通してあなたは慈悲を見い出すであろう」
省5
207: Millet 07/15(火)09:50 ID:1zQP1H+2(9/11) AAS
シリアの聖イサアク(500 年代、イタリアに亡命したシリアの修道士。謙虚さ、慈善活動、思いやり、詐欺師や盗賊を福音主義に改宗させたこと、千里眼の才能、そして来たるべき審判のビジョンで有名)

「愛と憐れみの心とは、人間、鳥獣、悪魔、そしてすべての生き物に対する人間の心の燃え上がる感情である。心を包み覆う大きく力強い憐れみによって、大いなる忍耐によって、人の心は愛と憐れみの心となり、生き物が受けるいかなる害や小さな苦痛にも耐えられない。また、真実の敵、そして自分に害を及ぼす者のためにも、そのような人は涙を流しながら、彼らが守られ、慈悲が与えられるようにと絶えず祈る。地を這う生き物のためにも、彼は心に限りなく湧き上がる大いなる慈悲をもって祈る。ついに、彼の内に神に似たものが生まれる。…] 愛はその力によって人間に二重の影響を与える。それは罪人を苦しめる。友人が時として人を苦しめるように。そして、義務を果たした人を喜ばせる。そのように、「ゲヘナの苦しみは悔い改めにある」

『禁欲論』ロシア語訳第3版、19、253-254ページ。
209: Millet 07/15(火)09:55 ID:1zQP1H+2(10/11) AAS
私は来月まで仕事で忙しいので
8月まで書き込めません
今日はこれで

きなりさん、ぴっぴさん、
また、鷲さん、美魔女さんなど荒らしのみなさま
熱中症で死なないように気を付けてください

さようなら
212: Millet 07/15(火)10:01 ID:1zQP1H+2(11/11) AAS
シリアの聖イサクは、7世紀に生きたシリア教会の修道士で、一時、ニネベ(現在のイラク北部)の主教にもなった人物です。日本ではほとんど知られていませんが、その言葉には、実はどこか、大乗仏教を思わせる響きさえあるようです。幸いに、英訳からの重訳ですが、その語録がオーチン編『同情の心─シリアの聖イサクによる黙想の60日─』(聖公会出版)として出ていますので、今、そこから私なりに大意を要約して、いくつか紹介してみましょう。

「…憐れみの心とは、人間も動物も悪霊も、ある限り全てのもののために燃える心である。それらを見る度に、彼は激しい憐れみによって涙を流す。彼は、それらが僅かな苦を受けることにも耐えることができない。」(p.35)

「…霊父たちは、霊のことがらについて、自在な言葉で語る。簡明な言葉で定義できるのは地上のことがらのみで、「新しい世界」については不可能だ。後者は、あらゆる言葉をはるかに超えた、直截で単一な認識である。そして、この世を超えた霊的な認識を持つ霊父たちは、そうした認識について、彼らの好むがままの名称を用いる。何が正しい名称なのかは、誰も知らないのだから。」(pp.58〜59)

前者からは仏・菩薩の大悲を、後者からは中観の仮設(仮名=プラジュニャプティ)と、そこから仏の大悲によって無功用に成就した「秘密荘厳」のマンダラや浄土の世界を想起します。思えば、『入中論』も、こうしたことを説く論書でした。もちろん、これは、まずは私の個人的な感想にすぎませんが。

そういえば、本書の英語の原題も“The Heart of Compassion”ですが、これは「慈悲の心」とも訳せますね。神学生の「師」という語感にも、どこか、仏教に通じるものも感じたことでした。
外部リンク[php]:kishin-syobo.com
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