【顕正会】広宣流布実現した日本にありがちなこと ★4 (329レス)
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298: 08/26(火)13:07 ID:iEx4vwCD(1/12) AAS
【書評】『日蓮誕生』史料をつきあわせ、鮮やかな論述でうかびあがらせる新しい日蓮像
外部リンク[html]:www.news-postseven.com

【書評】『日蓮誕生 いま甦る実像と闘争』/江間浩人・著/論創社/2420円
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター所長)

高校生のころ歴史の授業で、日蓮のことをならった。
もとは、千葉あたりにいた漁師の子どもである。
だが、天台仏教とであい、法華の信迎にめざめた。
省14
299: 08/26(火)13:07 ID:iEx4vwCD(2/12) AAS
諸史料をつきあわせ、著者は推定する。
父は伊東祐時、母は千葉成胤の娘であったろう、と。
どちらも、鎌倉幕府の有力御家人である。
この血筋をせおった日蓮は、いやおうなく幕府の政局にまきこまれる。
一三世紀なかごろからの鎌倉では、対立しあう二者のかけひきが、政治をうごかした。
ひとつは、北条執権派であり、
いまひとつは京都からむかえた将軍をささえる一派である。
省10
300: 08/26(火)13:08 ID:iEx4vwCD(3/12) AAS
『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.001
外部リンク:ronso.co.jp

2022-10-20論創通信, 日蓮誕生

——日蓮は、一二二二(承久四)年二月十六日、安房国の東条郷(千葉県鴨川市)の漁村で誕生しました。
父は貫名重忠、母は梅菊。「日蓮は、安房国・東条・片海の石中の賤民が子なり」、
「海辺の旋陀羅が子なり」、「東条郷・片海の海人が子なり」と述べているので、
漁師の子か漁村の役人の子です。
省18
301: 08/26(火)13:08 ID:iEx4vwCD(4/12) AAS
そうしたなか日蓮が万が一にも出家できたとして、
そんな無名の僧をなぜ幕府は二度までも流罪にする必要があったのか。
流罪にするということは、幕府がその影響力を認め、
政治的に処分したということです。
しかも、流罪によって日蓮は教説を改めてはいません。
にもかかわらず、幕府は二度とも赦免しています。

これは、幕府にとって日蓮の教えが問題だったのではない、ということを示しています。
省6
302: 08/26(火)13:09 ID:iEx4vwCD(5/12) AAS
『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.009
外部リンク:ronso.co.jp

? 日蓮の出自について

私は、日蓮は伊東祐時の子であると考える(下記、表2参照)。
日蓮が祐時の子なら、伊東の本貫地を継いだ祐光が日蓮の預かりに任たるのが最も自然である。
祐光が日蓮の肉親であればこそ、自身の館の懐に居宅を準備し、敵の多い日蓮の身を最善の防衛で守ったのではないか。

別の視点から見たい。日蓮の弟子の名前は、先の日昭の場合と同様、親の一字を取ることが多い。
省17
303: 08/26(火)13:10 ID:iEx4vwCD(6/12) AAS
『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.010
外部リンク:ronso.co.jp

? 日蓮の出自について

母の血筋
では、日蓮の母は誰を想定できるか。

以前から指摘されているのが、日蓮と千葉氏との関係の深さだ。
日蓮は富木・太田・曽谷など千葉氏と縁の深い門下と終生、強く連帯し、安房を追われた際も下総で鎌倉に向かう準備を整えている。
省11
304: 08/26(火)13:46 ID:iEx4vwCD(7/12) AAS
『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』

日蓮と政治

日蓮の血筋は源頼朝以来の将軍近臣につながる。
門下も将軍家近くに広がり、
日蓮一門は、それまでに歴史の表舞台から消えたかに見えた将軍派が再結集したような教団である。
この立場に立つと、日蓮への圧迫は、将軍執権派と得宗御内派の抗争のうちにあったように映る。
幕府が恐れたのは、日蓮の宗教的な側面ではなく、将軍執権派の政治ネットワークだったのではないか。
省14
305: 08/26(火)13:47 ID:iEx4vwCD(8/12) AAS
『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.018、江間浩人

? 日蓮と政治

〈日蓮教団の政治的立場〉

日蓮と門下の階層

日蓮は安房国長狭郡東条郷の片海に生れた。
この地の中心は、源頼朝が平家を下した戦勝記念として伊勢神宮に寄進した東条御厨である。
日蓮の出自については、日蓮が「旃陀羅が子」と自称していること以外、詳しいことは分からない。
省12
306: 08/26(火)13:48 ID:iEx4vwCD(9/12) AAS
では、日蓮の檀那はどのような社会階層にあったのか。
それを示す一例として、まず日蓮の書簡をみたい。
日蓮が漢文書簡を送ったと判明する檀那は、池上宗仲、富木常忍、太田乗明、
曾谷教信、波木井三郎、大学三郎、妙一尼の七名である。

得宗被官であったが東国武家の南条時光や、やはり武家の四条金吾に漢文書簡は送っていない。
七名は漢文を読みこなせたのであり、その高い教養からは貴族の血筋が想定されよう。

また、弟子の日興は、日蓮の葬送を書き残している。
省7
307: 08/26(火)13:48 ID:iEx4vwCD(10/12) AAS
源内三郎に続く大学三郎は、乳母として配流中の源頼朝を支えた比企尼の孫で、
その家督を継いだ比企能本である。
南条は得宗被官であり、太田乗明は初代問注所執事を務めた三善康信の孫である。
そう考えて序列に矛盾はない。また、富木は千葉氏の被官で貴族出身の官僚であり、
池上宗仲は、藤原氏の出で作事奉行と伝えられる。名越光時、親時の重臣であった四条頼基の序列は低い。

光時は、千葉氏、三浦氏などの名だたる豪族御家人や評定衆を従え、
前将軍頼経を担いでクーデターを起こし、北条時頼と執権職を争った人物である。
省10
308: 08/26(火)19:51 ID:iEx4vwCD(11/12) AAS
得宗御内派である北条重時の伊東流罪、小松原での東条景信の暗殺未遂、
日蓮が、武器を集め狂徒を集めて不穏な動きをしているとして告訴され
受理した門注所が逮捕し、草庵の捜査と詰問
幕府最高実力者の平頼綱、直々の評定所での裁定、武装武士数百人率いての草庵襲撃、
そして捕縛。市中引き回しの上、龍ノ口刑場での斬首未遂、そして佐渡流罪、
赦免後に鎌倉での平頼綱との直々の面談
日蓮の監視と熱原地方の百姓、地主、数十人捕縛、こんな些事に
省1
309: 08/26(火)20:08 ID:iEx4vwCD(12/12) AAS
一連の行動は、平頼綱が日蓮の迅速で広範な情報網と宣伝力、
幕政への影響力を警戒したことを物語る。
日蓮が持つ力は、日蓮と門下の人脈によっており、血縁が核だった。
したがって日蓮没後、ただちに人的結合が解消されたとは思えない。
霜月騒動を前に、日蓮門下の動きを圧迫し、封じておきたいと頼綱が考える必然性はあったといえる。
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