古本屋のつぶやき2 (410レス)
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400: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 05/30(金)19:08 ID:TTsYa2/M(1/2) AAS
見る作用と私は一つだとすれば、では聞く者は誰?ということになる。
そうすると、一体ではないが、別体でもない、というのが正しいだろうか。
しかし同じでもないし異なるのでもないという言い方は、ふつう、論理的には排除され、世間の言語においては通用しないものである。
逆にいえば、世間の常識の言語世界は、じっはこのように矛盾を安易に排除した、浅薄な、虚偽に満ちた論理と認識の上に成り立っていることが知られてくる。
「私は(~を)見る」という、きわめて単純素林で至極当然な言い方のなかに、すでに大いに問題が潜んでいたのである。
それは、基体と作用をあらかじめわけておいて、しかもつなぐところが問題だったのだ。
それにしても、いつも我々は、私は、私は、と言っているが、その私っていったい何なのであろうか。
省6
401: 栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm 05/30(金)19:09 ID:TTsYa2/M(2/2) AAS
400:栖雲居士 ◆dqam8SqGUPdm :[sage]:2025/05/30(金) 19:08:04.86 ID:TTsYa2/M
見る作用と私は一つだとすれば、では聞く者は誰?ということになる。
そうすると、一体ではないが、別体でもない、というのが正しいだろうか。
しかし同じでもないし異なるのでもないという言い方は、ふつう、論理的には排除され、世間の言語においては通用しないものである。
逆にいえば、世間の常識の言語世界は、じつはこのように矛盾を安易に排除した、浅薄な、虚偽に満ちた論理と認識の上に成り立っていることが知られてくる。
「私は(~を)見る」という、きわめて単純素朴で至極当然な言い方のなかに、すでに大いに問題が潜んでいたのである。
それは、基体と作用をあらかじめわけておいて、しかもつなぐところが問題だったのだ。
省8
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