哲学をする前段階での懸念 (648レス)
上下前次1-新
1(1): 2024/08/20(火)22:58 ID:0(1/646) AAS
哲学にまつわる概形的な議論、議論の前段階での思索について意見を求めています。
主に哲学をやりたいが足を踏み入れるのに胡散臭さを感じている人のためのスレ、以下の議題になんらかの意見を持つ人を求めています。
1.言語的側面での懸念
言葉で言葉を定義して遠回りの循環論法に陥ってはいないか。
知った顔して未定義の専門用語を使い砂上の楼閣のような思索をしてないか。
専門用語を無駄に作ってハリボテのような難解かさを醸し出し、矛盾や誤りを隠していないかどうか。
2.哲学の目的について
省7
568: 2024/09/29(日)14:21 ID:0(566/646) AAS
「いへ(家)づと(苞)」という表現が、どのような意識の働きを伝へようとしているのかメタ言語レベルで捉へてみようとすることで、
私自身が、ほとんど十年の時を経て、私がこの掲示板に日本語の古語の表現について書き込むことを始めた歩み出しの地点に戻っていることに気づかされる。
というのも、私が日本語の古語の表現についての勝手な解釈を示すようになったのは、それが最初ではないものの、それ以降、しばらくの間、
考察をつづけるために自分の思ひついたことをメモとして保存しておいた方がよいだろうと感じて、時折、自分の書き込みを保存するようになったのが、確認してみると、
2015年4月のことであり、それは、「つと・め・て(早朝/翌朝)」という表現がなぜそのような意味となるのかよく分からないと感じられる、というものだからだ。
ただし、その時点ではまだ、このように長期にわたって(最大2年間に及ぶ「書込み規制」による不定期の頻繁な中断をはさみながらも)
日本語の古語の表現についての考察を日々書込みつづけることになるとは、思ってもみなかった。
省4
569: 2024/09/29(日)14:59 ID:0(567/646) AAS
10年近く書き込みをつづけているとはいっても、私は堂々巡りのように似たようなことばかりに考へを巡らせている。
それでも、そうしてほとんど毎日のように日本語の古語の表現について、何かがどのようにか私に思ひ浮かぶというのは、
「客観的に見れば」、それ自体、理屈に合はないとても奇妙なことに思えるはずだ。
というのも、私は、いくつかのよく知られた日本の古典文学作品に目を通したことがあるものの、読書においてそのような機会は、
ごく稀であり、日本語で書かれた書籍自体、ほとんど読むことがなく、大抵の場合、目を通しているのは、日本語以外の言語で書かれたものだからだ。
メディアの番組でも、日本語で視聴することがあるのは、スポーツの試合くらいのもので、それ以外に視聴している番組は、
ほぼ全面的に日本語以外の言語によるものである。しかし、それは、私が、それらの日本語以外の言語に精通しているということではなく、
省4
570: 2024/09/29(日)15:26 ID:0(568/646) AAS
さて、「いへ(家)づと(苞)」とは、どのような表現だろうか。このことばが伝へようとする意識の働きをメタ言語レベルで捉へることが、
なぜ、「つと・め・て(早朝/翌朝)」について考へることに戻ることになるのだろうか。
私が「つと・め・て(早朝/翌朝)」について考へて書き込んだことは、今から振り返ってみると、どこに手がかりがあるのか見当もつかずに、
なんとか自分自身を納得させることのできる解釈を見い出そうとしていて、いかにも稚拙である。一般には、そのような稚拙さは、
たちまちのうちに非難され、探求を打ち切ることこそが「聞き分けがよい」≒「理性的である」とされるのだ。
ところで、その稚拙さがどこに由来するのかを「さらによく考へてみる」と、それは、私がその時点で他に手がかりが得られなかったために、
「つと・め・て」の「つと」は、「つと(夙)に」の「つと(夙)」であり、「つと(夙)」は、「早く」≒"early"を意味するという
省1
571: 2024/09/29(日)15:37 ID:0(569/646) AAS
さて、
>lang gehegte Hoffnung
しゅくし · そかい · 宿志 · 素懐
lang gehegter Groll
しゅくい · しゅくえん · 宿怨 · 宿意
lange gehegter Vorsatz
しゅくし · 夙志
省2
572: 2024/09/29(日)15:46 ID:0(570/646) AAS
さらに、
>hegen und pflegen
Etymology
hegen (“to cherish”) + und (“and”) + pflegen (“to care for”)
Etymology
From Middle High German hegen, from Old High German heggan (“surrounded by a fence”),
ultimately from the root of archaic Hag (“hedge”) and modern Gehege (“enclosure”).
省7
573: 2024/09/29(日)15:50 ID:0(571/646) AAS
>万葉集 第20巻 4331番
ことしをはらば つつまはず かへりきませと いはひへを とこへにすゑて
しろたへの そでをりかへし ぬばたまの くろかみしきて ながきけを まちかもこひむ はしきつまらは
(出典: 万葉集ナビ)
「つつまはず」という表現がどのようなことを伝へているか、理解できただろうか。
574: 2024/09/29(日)15:52 ID:0(572/646) AAS
まあ、在宅勤務だと、なんだかよく分からないことになりそうだがw
575: 2024/09/29(日)16:06 ID:0(573/646) AAS
模範的であるとは、率先するように聞き分けがよいということだ。
576: 2024/09/29(日)18:42 ID:0(574/646) AAS
>「いへ(家/伊弊)」≒"Sperrung"(ドイツ語)、「いほ・り(廬/伊保利)」≒"gesperrt"(ドイツ語)⇔《abri》(フランス語)と考へると分かりやすい。
このように意識的に捉へると、さらに気づくことがある。それは、万葉集の歌においては、「いは(祝/斎)ふ」という表現が、
動詞的に捉へられた「いへ(家/伊弊(/敝))」≒"Sperrung"(ドイツ語)に対応する表現として意識されているということだ。
「いはふ」に「伊波布」のような漢字が当てられる場合、「いは(伊波)」は、流れ出して広がるような作用を想起させ、
「〜ふ」は、それを「ひっくり返す」指示として、「閉じ込める」("einsperren/versperren")ことを表現するが、
「〜ふ」およびその活用形(この場合は、「は」)が「ひっくり返す」ことを指示することにおける、その「ひっくり返し方」の
不確かさから、「いはふ」は、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひとしては、現在のドイツ語において一般に通用する表現ではないものの、
省3
577(1): 2024/09/29(日)18:42 ID:0(575/646) AAS
いづれにせよ、私は、人が私の説明を正しいものとして鵜呑みにすることを求めているのではなく、誰であれ、
万葉集に詠まれた歌の事例を逐一、自身で確かめてみることを望んでいる。
>万葉集 第14巻 3460番
多礼曽許能 屋能戸於曽夫流 尓布奈未尓 和<我>世乎夜里弖 伊波布許能戸乎
誰れぞこの屋の戸押そぶる新嘗に我が背を遣りて斎ふこの戸を
たれぞこの やのとおそぶる にふなみに わがせをやりて いはふこのとを
(出典: 万葉集ナビ)
578: 2024/09/29(日)22:23 ID:0(576/646) AAS
このネタ、2度目になるが。
オランダのある宿屋には、墓地を描いた看板の上に、「永遠平和のために」という皮肉な銘が書かれていたという。
という文句は恐らくポエトリーで、作り話だろうというのは恐らく誰もが思っていて、ただし追及も探求もされず、意味がない。それに続くのが、
さてこの言葉は、すべての人間にあてはまるものなのか、それとも戦争に飽きることがない国の政治家たちにとくにあてはまるのか、あるいは死という甘い夢をみる哲学者だけにあてはまるのか、それは「おいておこう」。
という留保であり、絶滅戦争によってあらゆる選択肢(ずっと、〜のとき、もし〜だったら等の命法)を失ったという想定での最期の選択肢が「いずれ〜」だとか「〜かもしれない」という留保だろうという。
省1
579: 2024/09/29(日)22:49 ID:0(577/646) AAS
恐らく大規模言語モデルならカントと同じような発想が導き出される可能性があるんじゃないか?
だとか、それはただ歯切れの悪い話を垂れ流すだけなんじゃないか?とも思うが、それにしたって「言葉と行動が合わない」方が問題なんじゃないか?とも思う。
人間もAIもそれは守れないっていう。
580: 2024/09/29(日)22:59 ID:0(578/646) AAS
>>577
>「『伊波布』許能『戸』乎」は、「『いはふ』この『と』を」と読むものとされているが、
この「戸」は、「と」ではなく、「へ」ではないのか。
なぜなら、万葉集 第9巻 1790番にも見られるとおり、「齊戸」は、「いはひ(斎)へ(瓮)」だからだ。
いづれにせよ、「いは(祝/斎)ひ」(⇔"continence")を象徴する「へ(瓮)」」は、ドイツ語にするなら"Gefäß"である。
581: 2024/09/30(月)06:09 ID:0(579/646) AAS
AA省
582: 2024/09/30(月)06:19 ID:0(580/646) AAS
pufuzuki?
583: 2024/09/30(月)08:00 ID:0(581/646) AAS
日本語以外の私にはまだよく意味の分からないことばの表現に触れて、それにどのようにか似ているように感じられる
日本語の古語の表現につらなることばを連想するとき、結局、私は、何をしていることになるのだろうか。
そのように問ふてみるなら、私にとって、よく「考(かむ)へ」るとは、連想されることの「行(ゆ)き来(き)」/
"Verkehr"のめぐ(巡)りをよくすることであることに気づかされる。
584: 2024/09/30(月)08:00 ID:0(582/646) AAS
例えば、ドイツ語の"Einvernehmen"という表現に出会って、日本語の「聞き分けのよさ」が想起される。
なぜそうのような思ひが浮かぶのか自問してみると、「聞き分けのよさ」を発揮しなければ、
"Einvernehmen"に達することができないからだ。すると、逆に、「聞き分けがない」とは、
「あらそ(争)ひ/あらが(抗)ひ」つづけることであるという思ひが浮かび、そのような振舞ひは、
「理性的」/"vernünftig"ではないと感じられ、「理性的」/"vernünftig"であるとは、
"Einvernehmen"に達することができるように「聞き分けのよさ」を発揮することであるという「理解」/
"in-between stasis"が得られる。そこで、あらためて、「理性」と訳されている"Vernunft"について、
省9
585: 2024/09/30(月)08:01 ID:0(583/646) AAS
そここら ×
そこから 〇
586: 2024/09/30(月)13:38 ID:0(584/646) AAS
日本語以外のことばの表現に触れて、私に連想されるのがなぜ、大抵の場合、現代の日本語ではなく、日本語の古語なのかということについては、
明白な理由がある。それは、私の個人的なの懐古趣味に依るものではない。日本語の現代仮名遣ひは、以前から既に繰り返し指摘してきたとおり、
旧仮名遣ひであれば、自ずと互ひに連鎖して想起されるはずのことばのつながりを人為的に断ち切ってしまっており、
あらかじめかむか(考)へが巡らないようにするよう仕組まれているのである。そのことにより、旧仮名遣ひであれば、
他言語の表現との対応するような表現の連鎖が容易に見出せて、日本語の表現の理解そのものを深めることに役立つような場合でも、
現代仮名遣ひは、まづは対応関係に気づくことを困難にし、さらには、対応関係に気づいた場合でも、その対応関係を孤立させて、
連鎖して考へが巡ることを徹底的に妨害するように働いている。このことからも、日本語で哲学をするのに古語を参照するのは、
省1
587: 2024/09/30(月)14:13 ID:0(585/646) AAS
例えば、万葉集の歌には、「尓(/爾)保杼里(にほどり)」という鳥の名称が詠まれているが、これは、現代では、
「カイツブリ」と呼ばれる鳥を指すものとされる。したがって、「尓(爾)保杼里(にほどり)」は、「ニワトリ(鶏)」でない。
「尓(爾)保杼里(にほどり)」という表現を知らなかったとしても、検索すれば、それは「カイツブリ」のことである、
と辞書に記載されているのだから、なぜ私がそんな当たり前のことを言ふのか、大抵の人は、いぶかしく思ふだろう。
ところで、「ニワトリ(鶏)」が、現代の日本語で「ニワトリ」と呼ばれるのは、それが「には(庭)・つ・とり(鳥)」だからである。
>万葉集 第7巻 1413番
庭津鳥 <可>鷄乃垂尾乃 乱尾乃 長心毛 不所念鴨
省6
588: 2024/09/30(月)14:39 ID:0(586/646) AAS
「た(垂)りを(尾)のみだ(乱)れを(尾)の」如く長たらしい説明はやめておこう。
「に(尓/爾)」は、やはらかく触れるような近接性を感じさせるこわ(声)づか(使/仕/遣)ひである。
日本語の古語においても、二人称の「なんぢ」に「尓/爾」が当てられることがあるように、
中国語においても、「你((Pinyin): nǐ)」は、二人称の相手を指す表現である。
「尓(爾)保杼里(にほどり)」の「尓(爾)」は、「二」としても意識されており、「にほ」が伝へているのは、
相手と仲良く一緒になっていることであり、「にほ」の「ほ」は、「〜ふ」の活用形である。
岩波古語辞典には、互ひに似通った表現について、「〜の転」とする記載が数多くみられるが、
省5
589: 2024/09/30(月)14:46 ID:0(587/646) AAS
英語をメタ言語として利用した現時点での私の暫定的な推論を記しておこう。
には(庭): annex/annexation
にひ(新): annexing
にふ(*): ****
にへ(贄): (what is) to be annexed
にほ(*): annexed(/united)
590: 2024/09/30(月)18:23 ID:0(588/646) AAS
>番号 巻19-4200
漢字本文 多祜乃浦能底左倍尒保布藤奈美乎加射之氐将去不見人之為
漢字本文(左注) 次官内蔵忌寸縄麻呂
読み下し文 多祜の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため
読み下し文(左注) 次官内蔵忌寸縄麻呂
訓み たこのうらのそこさへにほふふぢなみをかざしてゆかむみぬひとのため
現代語訳 多祜の浦の底まで美しく輝く藤波を、髪に挿して行こう。この景色を見ない人のために。
省2
591: 2024/09/30(月)19:13 ID:0(589/646) AAS
ポストモダニズムでは(日本では)筆頭とされているデリダやラカンはシニフィエよりもシニフィアンを重視したと思われる。
まぁ、ざっくりと語の本来の意味や定義の厳密さよりは、発音や質感を重視した上で、同音異義語の問題があるが、日本語の場合は欧米の言語と違って同音異義語が多く、中国語と違って"ひらがな"表記と併記され、しかも主語はもっぱら漢字であるが、述語はひらがな表記もされるという点で誤謬は生じやすいが、それでも「だいたい合ってる」のであり、それは語源を正せば同じなのか、(ポストモダン哲学のような)音にこだわりがあって、自ずと似たような意味に寄ってくるのかは分からない。
日本語でポストモダニズムが重視される理由でもあるかもしれないが、「歌人は"ひらがな表記"に魅了され、愛された。」というのもあるだろう。
まぁ、その理由付けも受容的か、能動的かにも依るだろうし、古代の歌人はそれがポストモダニズムなんて全然考えなかったはずだが、響きの美しさにはこだわっていただろうし。
592: 2024/09/30(月)19:24 ID:0(590/646) AAS
歌人は(ひらがな表記に)「魅了され、愛された」と記してみたのだが、その目的は恐らく主従関係や因果関係を上手にはぐらかす事にあると思わないか?とか。
593: 2024/09/30(月)19:33 ID:0(591/646) AAS
もちろんここでの「愛された」は明らかな誤謬であり、たんに概念である"ひらがな表記"が人間を愛する訳がない。
とはいえ訂正する必要がなく、それは無粋だろうという所に、そうですね。
トラップが仕掛けられているというか。
594: 2024/09/30(月)19:52 ID:0(592/646) AAS
まぁ、わざわざ「魅了され、愛された」と表記したのは「魅了され、愛した」よりも響きが良いからである。
音韻としても、音数としても前者の方が整っているからだが。それ以上のセンスを試しているのか?試されているのか?
まぁ、そういった話かもしれない。
595(1): 2024/09/30(月)19:59 ID:0(593/646) AAS
>多祜の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため
では、「底さへにほふ藤波を」をどう訳すのかと問はれるなら、私に特別な妙案があるわけではない。
ただ、上に提示したメタ言語的な説明に沿って、「に・ほ・ふ」を「ひとつに"annex"された様態にする」ことを意味するものと理解して、
素直に「底までひとつに染める藤波を」とした方がまだ原文の古語の表現に近いのではないかと私は思ふ。
596(1): 2024/09/30(月)20:12 ID:0(594/646) AAS
>>595
字余りじゃん。
597(2): 2024/09/30(月)20:13 ID:0(595/646) AAS
例えば、この山は、日本語としては、朝日に「にほふ」と表現するのが妥当であって、朝日に「輝いている」わけではないだろう。
>Foto von Saas-Fee: Morgenrot am Horizont
tripadvisor.de/LocationPhotoDirectLink-g198839-i237378992-Saas_Fee_Canton_of_Valais_Swiss_Alps.html
598(1): 2024/09/30(月)20:25 ID:0(596/646) AAS
>>597
うーん。妥当かどうかはやはり主従関係や因果関係による。としか。
メカニズムとしては「太陽が照らし、水蒸気が立ち込めてから"匂う"」なのだが、その順序にはあえて注目してないというか。
山が主語というのをこの場合、強調したいのではないのだろうし。
599: 2024/09/30(月)20:26 ID:0(597/646) AAS
>>598
すまん、すまん。
山が主語というのをすごく強調したかった。
という事が分かる。っていう。
600: 2024/09/30(月)20:30 ID:0(598/646) AAS
まぁ、日本語は(欧米と比較して)主従関係や因果関係がおかしいよ!!ってずっと指摘されうる所だろうけども、文化的には無粋や邪推ともされるんだろうなってところ。
601: 2024/09/30(月)21:26 ID:0(599/646) AAS
まーでも面白いよね。
日本での哲学の紹介のされ方って「この概念はこうであるから、こうして誤謬があり(誤謬推理があり)、だからこう言うのが正しい。」という説明書でしかなかった。(主には欧米文化を引用して)
それはまるで「パソコンのOSが新しくなったので覚えてください!」「民主主義2.0」みたいな言い方にしかなっていないが、日本独特の文化に注目すれば、訂正可能性よりも訂正"不可能性"の方が(笑)先立つ。
そしてその理由は、こうして「響きが良くない」だとか、「美しくない」という理由かもしれないだとかだ。
しかし概念とは"建築"であるという文句があるのも確かなのだし、構造主義は「美しくなかった」という理由で採用されなかったのかもしれないし。
602: 2024/09/30(月)22:06 ID:0(600/646) AAS
ポストモダニズムの批判者はプレモダニズムに非ず。そも、モダニズムは持続可能な運動(=定言命法や仮言命法)によって支えられるが、自然哲学者(物理学者)はそうは考えない。「運動は持続的である」が真であり、命法は偽であるとも考えるが、「あの、それって別に両立できますよね?」っていうところに、文系/理系の欺瞞が隠されている。
とか。
603: 2024/09/30(月)22:28 ID:0(601/646) AAS
カントはまぁ、何か新しい概念を構築した訳ではないし、本命はアリストテレス主義の再構築ではあったのだろうが、じっさいは(批判による)大胆な枝刈りだろう。
可能性ではなく、不可能性に賭けた人間だとは伝え聞いてはいるが、たんなるデストロイヤーならここまで有名になることも愛されることもなかっただろう。
604: 2024/09/30(月)22:40 ID:0(602/646) AAS
>>596
>字余りじゃん。
私は、ことばの表現の意味を現代語に訳そうとしているのであって、元の歌を題材にしてそれを現代語の歌に変へようという気は一切ないんだよ。
現代語として歌の形式にするために、古語の「にほふ」を、その訳が妥当でないことを知りながら「輝く」に移したのだとしたら、
それは、万葉集の歌の現代語訳として用をなさないと私は思ふ。 なぜなら、古語の歌について知ろうとすることは、
古語の表現を理解しようとする限りにおいて役立つのであって、その方が現代の言葉で歌になるからという理由で元の表現法を無視するのであれば、
最初から万葉集などとは無関係に現代の歌を聞いていればいい。
省7
605: 2024/09/30(月)22:58 ID:0(603/646) AAS
まぁ、哲学でもよくある"註解"の問題かな。
哲学はある意味で鏡であって、「自己の願望を自ずと映し出してしまう。」とアダム・タカハシさんの『哲学者たちの天球』にもあった。(これが多分本書一番の名台詞であり、要点でもある。)
当然の事ながら、「鏡に映った自分は美しい」と答えるのは自惚れなのだから、建築を口実にしないと成立しないものだろうけども。
606: 2024/09/30(月)23:12 ID:0(604/646) AAS
まぁ、カントの場合、ひたすら前口上が上手い。というのが。
人間がその自然の本性のために、どうしても無関心ではいられない事柄についての研究[である形而上学]に、どれほど無関心を装ったとしても、無駄なことなのである。
自分は形而上学には無関心であると装った人々が、学問的な言葉遣いを[わかりやすそうな]通俗的な調子に改めて、どれほど自分の正体をごまかそうとしたところで、何かについて考えようとすると、あれほどまでに軽蔑的な口調で語っていた形而上学のもとに、戻らざるをえないのである。
ところが[このように人々が装った]無関心な様子が流行したことは、注目と省察に値する現象である。それというのもこの無関心が、さまざまな学問が開花するさなかで発生したものであり、そしてもしも手にいれることができるのであれば、万人が手に入れたいと願い、どうしても手に入れることを諦めきれない知識についての学に向けられたものだからである。
この無関心は、軽率さから生まれたものではなく、もはや外見だけの学問ではごまかされることのない現代の成熟した判断力から生まれたものである。
この無関心は理性にたいして、あらゆる任務のうちでもっとも困難な自己認識の営みにふたたび着手することを、そしてそのために一つの法廷を設けることを求めるものなのである。
この法廷の役割は、理性が妥当な要求を示す場合には理性を堅固なものとするが、根拠のない越権を示す場合には、強権をもってではなく、理性の永遠で不変な法則によって、これを退けることにある。この法廷こそが、純粋理性批判である。
607: 2024/09/30(月)23:47 ID:0(605/646) AAS
しっかしまぁ、このスレのタイトルのようにして「哲学の前段階」というのがあったとして、形而上学というか、アリストテレス主義というか。欧米基準のスタイルは提示できるのだが。
それにしたって、自然の描写は日本古来の歌人の方がずっと上手いとして、それは形而上学なんだろうか?というのはある。
形而上学はあくまで純粋理性で、いわばシミュレーションゲームで、人工自然のようなものというか、自然そのものの描写からはかけ離れるとも思うからね。
608: 2024/10/01(火)07:50 ID:0(606/646) AAS
日本人は禅だから、欧米人のような原理原則で統制されていないのだよ。つまり、principleを持たないのが、日本人のprincipleになっている
欧米人の知は明示的な知であるのに対して、日本人の知は暗黙知であることを示している
609: 2024/10/01(火)07:55 ID:0(607/646) AAS
欧米人が明示的なprincipleを要するのは多民族国家なので、明示的な言語や概念による周知、あるいは、知の多民族的な共有が必要だからだろう
日本人のような島国単一民族は、以心伝心の暗黙知で十分、間に合ってきたのである。だから、歌でも詠んで、場の空気を感じながら楽しんでおり、その代わり明示的な概念や哲学が全く発達しなかったのが日本である
610: 2024/10/01(火)09:05 ID:0(608/646) AAS
古語のことばの表現を妥当に記述するようにメタ言語を磨いてこそ、
それを現代語にうつ(移/写/映)そうとする際に妥当な表現を探求することも可能となる。
例えば、>>597の"Morgenrot am Horizont"と題された山の写真について、
「朝日にほふ」としても現代語としては通じない。そこで、その代はりに「朝日が山肌には(映)える」と言ひ換へることは可能であり、
そのような現代語の表現に訳すことは間違っていないだろうと私は思ふ。
しかし、それでは、古語の「にほふ」という表現の理解を深めることにはならず、この場合、ドイツ語の"Morgenrot am Horizont"という
表現が伝へようとする感覚もうまく伝へることにはならないだろう。そこで、いかにもぎこちなく暫定的なメタ言語的な記述ではあるものの、
省8
611: 2024/10/01(火)09:42 ID:0(609/646) AAS
階層化するように組織された社会制度において「理性的」であろうとすること、つまり、「聞き分けよく」あろうとすることは、
早朝に庭(/廷)から聞こえてくる「には・つ・とり」の鳴き声につねに細心の注意を払って、その鳴き順をうまく聞き分け、
その聞き分けに率先して応じて振る舞ふようにみづから(身づ柄/自ら)を律しようとすることと同義である。
そして、その「理性」/「聞き分けのよさ」は、それを評価されるべき能力として発揮すること自体が、小鳥の鳴き声など、
耳を貸すにあたひ(値)しない無意味な「さへづ(囀)り」として気にも留めないようにすることの裏返しでもあり、
「さへづ(囀)り」が騒がしくなるなら、それを「理性」/「聞き分けのよさ」によって正当化された力の行使により、
しづ(静)かにしているよう強要する態度をみづから(身づ柄/自ら)がとるのを当然のこととするものである。
612: 2024/10/01(火)09:48 ID:0(610/646) AAS
0364 恐怖の鶏頭 2024/09/13(金) 21:26:14.89
>詩人・童謡作家の西條八十(1892〜1970年)は、約100年前の1919年の詩集『砂金』で、ケイトウをこんなふうに詠っています。
鶏頭の下(もと)の
小(ち)さき地獄。
(出典: dot.asahi.com/articles/-/35575?page=1)
613: 2024/10/01(火)11:12 ID:0(611/646) AAS
>英語をメタ言語として利用した現時点での私の暫定的な推論を記しておこう。
には(庭): annex/annexation
にひ(新): annexing
にふ(*): ****
にへ(贄): (what is) to be annexed
にほ(*): annexed(/united) <
このような推論は、私という個人が勝手にそう思ふだけの「こじつけ」だと感じられるだろうか。
省10
614: 2024/10/01(火)11:17 ID:0(612/646) AAS
先にその関係を明示しろ。それができないなら黙っていろ。×
先にその関係を明示しろ。」ということであり、「それができないなら黙っていろ。〇
615(1): 2024/10/01(火)11:22 ID:0(613/646) AAS
Henry IV, Part 1, Act 3, scene 2
KING:
Why, Harry, do I tell thee of my foes,
Which art my nearest and dearest enemy?
Thou that art like enough, through vassal fear,
Base inclination, and the start of spleen,
To fight against me under Percy’s pay,
省3
616: さてね 2024/10/01(火)11:57 ID:0(614/646) AAS
第7巻
歌番号 1413番歌
作者 作者不詳
題詞 –
原文 庭津鳥 <可>鷄乃垂尾乃 乱尾乃 長心毛 不所念鴨
訓読 庭つ鳥鶏の垂り尾の乱れ尾の長き心も思ほえぬかも
かな にはつとり かけのたりをの みだれをの ながきこころも おもほえぬかも
617: 2024/10/01(火)15:57 ID:0(615/646) AAS
「にはつとり」が誰を指すのか不明である以上、「か(懸)け(/鶏)の『を』のながき(嘆きの)こころ」も「にはつとり」とどのような関係性にあるのか確かめようがない。
618: 2024/10/01(火)19:20 ID:0(616/646) AAS
人間個人を表すのにあらゆるヨーロッパ言語において「Person」という単語が通例的に用いられるのは、図らずも的確なことである。なぜなら「persona」【ラテン語】は本来的に俳優の仮面を意味するものであり、確かにいかなる者もありのままではなく、皆仮面を被り役割を演じているのである。
619: 2024/10/02(水)00:05 ID:0(617/646) AAS
ニワトリ?
620: 誰かさん 2024/10/02(水)00:37 ID:0(618/646) AAS
モヅのこゑ(声)ですよ。
>秋野之 草花我末 鳴<百舌>鳥 音聞濫香 片聞吾妹
621: 2024/10/02(水)01:48 ID:0(619/646) AAS
>長き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 娘子墓 中に造り置き 壮士墓
このもかのもに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新裳のごとも 哭泣きつるかも
「にひ・も(新裳)」の「にひ」が伝へている感覚は、「あたら(新)しい」ではないだろう。
622: 2024/10/02(水)02:45 ID:0(620/646) AAS
こういうメタ言語的な話で言うと、松山俊太郎の『漢語の「愛」について』という論考がおもしろかった。
松山は『漢字語源辭典』に載っている「愛」の説明に補う形で反論していくんだけど、
その辞典によると(松山の勝手な解釈も含まれてるが)、「愛」の原字は「㤅」であり、これを形声文字として捉えると、「アィと声を出すようなこころもち」であり、「切ない時に用いる感嘆詞」と説明される。
「㤅」を会意文字として捉えると、「旡」はむせぶと訓じ、「腹をふくらせてのけぞった姿。いっぱいにつまって喉元のつかえること。」としているので、「㤅」は「胸がいっぱいのこころもち」となる。
これらは相反するものではないので、つまり、「㤅」は会意形声文字であり、「胸いっぱいの切ないきもち」と解釈できる。
ただこれでは、「愛」の持つイメージの全てを包摂できないし、別の言葉も「愛」に含めないといけなくなると主張するんだけど、
例えば、この規定によれば、「憂」や「愁」も「愛」とされるし、親子や友人との「幸福な愛」を包摂できなくなる、と。
省9
623: 温故知新 2024/10/02(水)08:36 ID:0(621/646) AAS
>故縁聞而/故縁聞きて/ゆゑよしききて 雖不知/知らねども/しらねども
新喪之如毛/新裳のごとも/にひものごとも 哭泣鶴鴨/哭泣きつるかも/ねなきつるかも
(出典: 万葉集ナビ)
これは、万葉集 第9巻 1809番からの引用だである。
原文には、「新喪之如毛」と記されているにもかかわらず、訓読では、「新裳のごとも」と記されて、
「喪」が「裳」に変へられてしまっているのは、適切ではないようにも感じられるが、この場合、この漢字の置き換へは、
この歌のことばの表現の理解を深めるのに役立つ妥当な示唆として行われていると言へるだろう。
省7
624: 2024/10/02(水)08:36 ID:0(622/646) AAS
引用だである ×
引用である 〇
625: 2024/10/02(水)09:01 ID:0(623/646) AAS
「温故知新」は、「故(ふる)きを温(たず)ね、新(あたら)しきを知(し)る」と読み下されるが、
この漢語の「新」を「あたらし」という日本語の表現に置き換へても、何を伝へようとしているのかよく分かるようにはならない。
しかし、この「新」を、古語の「にひ(新)」のように「親身(しんみ)/肌身(はだみ)に感じる」ような「時間的な近さ」としてイメージするなら、
例えば、英語の"renewed knowledge"という表現のように、すぐにその意味が伝はる表現として感じられるようになるはずである。
>溫故知新
Etymology
From the Analects, Book 2 (《論語·爲政》):
省3
626: 2024/10/02(水)10:07 ID:0(624/646) AAS
「温故知新」、「故(ふ(経)る)き」ものを大切にすると聞くと、「経文」を暗唱するようなことを思ひ浮かべる人が多いだろう。
しかし、私自身も暗記はとても苦手で、何かを「経典」のように扱ふということも嫌いだ。
それでも、何らむづか(難)しく、複雑な知識体系を暗記して身に付けなくても、例えば、「ニワトリ」は、
早朝に「には(庭/廷)」で鳴き声を上げる「には(庭/廷)・つ・とり(鳥)」であり、「庭/廷」は、本来、
「にわ」と転記されるべきものではなく、「には」と表記させる方が妥当だという思ひを抱いているだけで、
「には(庭)」から、「にひ(新)はだ(肌)」の「にひ(新)」、「いけにへ(生贄)」の「にへ」、「にほ鳥」の「にほ」まで
自然に連鎖して想起され、それだけでなく、引用した、私自身、初見のシェイクスピアの劇の台詞、
省2
627: 鶏頭のた(誰)そか(彼)れ(/黄昏) 2024/10/02(水)11:14 ID:0(625/646) AAS
>誰かさんが誰かさんが誰かさんがみつけた
ちいさい秋ちいさい秋ちいさい秋みつけた
むかしのむかしの風見の鳥のぼやけたとさかにはぜの葉ひとつ
はぜの葉あかくて 入日色
この「風見の鳥のぼやけたとさかにはぜの葉ひとつ」を、万葉の歌人であれば、
「はぜの葉『に・ほ・ふ』風見鶏のとさか」として表現しただろうと私は思ふ。
また、「すましたお耳」に「百舌鳥の呼ぶ声」が「聞こえてしまふ」ことは、取りも直さず、「鶏頭のた(誰)そか(彼)れ(/黄昏)」である。
628: 2024/10/02(水)11:15 ID:0(626/646) AAS
入日のはぜの葉にほふ風見のとさか
629: 2024/10/02(水)11:26 ID:0(627/646) AAS
ここでは、「入日」は、「いりひ」ではなく、「にゅうぢつ」と読んでもらいたい。
630: 2024/10/02(水)11:48 ID:0(628/646) AAS
にゅうぢつ
631: 2024/10/02(水)23:44 ID:0(629/646) AAS
お前たちのことはみなわかっている
今はお前たちの気まぐれに付き合っているだけだ
だがそうしながらも俺は太陽のように振舞うのだ
卑しい雲が覆うにまかせ
地上から見えなくなったとしても
いったん自分の姿を取り戻そうと思えば
人々から驚きの目を以て迎えられる
省16
632: 2024/10/03(木)21:12 ID:0(630/646) AAS
>>615
因みにこれはハル王子(Harry)の台詞。
ここでの卑しい雲とはどうやらフォルスタッフの事のようだが、フォルスタッフもヘンリー4世の主要な登場人物となっている。
「戦場にはビリっかす」、大酒飲みで強欲、狡猾で好色だが、限りないウィット(機知)に恵まれ、時として深遠な警句を吐く憎めない人物として描かれ、上演当時から現代に至るまでファンが多い。とのこと。
哲スレは戯曲のようでもあるか?
633: 2024/10/15(火)02:25 ID:0(631/646) AAS
哲学にはある意味で余計な前提は要らない🙂↔
634: 2024/10/17(木)22:41 ID:0(632/646) AAS
宗教化すること
635(1): 2024/10/18(金)08:18 ID:0(633/646) AAS
黒人や日本人に哲学は無理
636: 2024/10/18(金)16:06 ID:0(634/646) AAS
どうせ規制解除のみせかけだけで、また規制中だろう。
637: 2024/10/18(金)16:06 ID:0(635/646) AAS
「し・ろ(白)」とは、「視(⇔「示・見」)認/之認/是認されるように(≒"evidently/affirmatively/certainly")とほ(通/透)り『ぬ』ける(≒"coming through/clear")感覚」を伝へようとする表現である。
「はか」(「『のちのしるし』としてそこにあるもの」としての「ふること」/"the past"))という「しるし(標)」/"insignia"/"enseigne"が
「し(知/領)ろしめす」("enseigner")「しる(著)き」("significant/remarkable") 「た・しか(確)さ」/"affirmation"/"firmeza"とされるのが、
「しか(然)るべき」ことである。
万葉集 第8巻 1577番
秋野之 草花我末乎 押靡而 来之久毛知久 相流君可聞
あきののの をばながうれを おしなべて こしくもしるく あへるきみかも
省4
638: 2024/10/18(金)16:32 ID:0(636/646) AAS
>「しかすが」⇔「可以是可以」⇔「(〜ではあるが)しかし」
>お・しら・さま⇔よ(依)り・しろ(代/白)としてのはか(墓)/や・しろ(社)や・し(敷/領)きのかみ(神)⇔pass⇔passing(パカ・パカ)⇔past(「『のちのしるし』としてそこにあるもの」)
過去("the past")は、いまここに「し(「是」≒"affirmative")・か(「可」≒"whether/or")」ない("nothing")
いまここにしかない過去の(八重なる)重層性を知ろうとしない者こそが「あさ・はか」なのだ。
>fermer
Français
Étymologie
省13
639: 2024/10/29(火)15:12 ID:0(637/646) AAS
>>635
東洋哲学の方が合ってる
640: 01/23(木)00:07 ID:0(638/646) AAS
懸念を懸念する
641: 02/02(日)17:10 ID:0(639/646) AAS
◉今まで長きにわたって「神の有る・無し」について議論がされてきましたが「明確な証拠」による結論が出ました。
この世において「神。それも全知全能で愛のみの神」が存在するという事ほど「神秘的な奇跡」はないと思います。
そして、この事実を知ることができた人は今後の人生を最高の安心、恵まれ・豊かさ意識で生きていけると思います。
このまま私はアドレスのみ置いて立ち去りますが興味のある人は参考にされて、人生が根本・決定的レベルで楽になられて下さい。
人生において『神や転生(魂の不死)、因果法則の存在』などを証拠・確信をもって知っておくと(我々が潜在的に神様から保証されている膨大的な恵み・永遠の命にも気付けて)心に余裕が持ちやすくなり、自分の将来・運命に対してもプラスとなる生き方がしやすくなり、逆に知らなければ人生の長きにわたって遠回り・大損になると思うので、ここに一つの「真理の検証・証拠HP」を残しておきたいと思います。
当サイトでは、共に世界的ベストセラーである神の言葉『神との対話シリーズ』と、その神の言葉の裏付け・証拠となる体験本『喜びから人生を生きる!』という本を関連付けて紹介していますが、
ご自分で直接に本を読んで頂くのみでも『本当に誰にも救いがある事』、『神や転生の存在』に確信を持って頂けると思います。
省1
642: 09/06(土)08:18 ID:0(640/646) AAS
哲学というゲームは、声の大きさを競うもの。
大きさといっても声量というわけではなく、いかに相手を打ち負かすか、多数に伝わるか。
内容など関係ない()
一般的には、自分がいかに暇でありどれだけくだらないことを考えているかをひけらかす。
役に立ったら負け。
643: 09/06(土)08:23 ID:0(641/646) AAS
ってことは、哲学は「釣り」。
どれだけお魚さんが釣れるか。
こないだ古書店で釣り大全だかなんか網羅されている本を見かけた。買ってこようかなと思う。これを元ネタに哲学大全でも書いてみるか。
644: 09/06(土)13:10 ID:0(642/646) AAS
哲学とは何か?
↑哲学
645: 09/06(土)13:22 ID:0(643/646) AAS
「哲学とは何か?」
こういう事を考えてる時、人は凄く頭が良くなる
「哲学とは〇〇である」
こういう事を考えている時、人は凄く頭が悪くなる
疑問を抱くという習性が人の知性であり
疑問を抱ける事こそが人の特権そのものであるというのに
ただ答えが出ないとムズムズするからとか、そんな理由だけで、哲学とはつまり釣りだとか、そういう安易な答えに人は飛びついてしまう
省4
646: 09/06(土)15:21 ID:0(644/646) AAS
釣りの哲学は奥深い。命を直接扱うのだから、そのへんの哲学より格が高いだろう。
釣りの哲学は釣道とも違う。
5chという大規模釣り堀システムにおいて、糸を垂らすのが哲学である。
ここには哲学者とお魚さんしかいない()
647: 09/06(土)16:14 ID:0(645/646) AAS
ジャネットたち
648: 09/07(日)13:58 ID:0(646/646) AAS
哲学者の言葉=(命題が難しいので)間違いが多い
↑相関
詐欺師の言葉=(悪意があるので)間違いが多い
↑相関
哲学者の言葉=詐欺師の言葉
↑疑似相関
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