哲学板の凋落とその変貌 (561レス)
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1(2): 2022/05/13(金)12:39 ID:0(1/560) AAS
自演波平スレやめろよ
481: 09/12(金)22:53 ID:0(480/560) AAS
>>478
これは、既に随分以前にも同じことを指摘したが、実のところ、比較言語学を専門とする人々は、このような対応関係に気づいていたとしても、それに気づかないふりをしつづけなければならないはっきりとした理由がある。
それは、「それ」に気づいて、「それ」をことばの表現の基本的な性質であると認めてしまふことは、比較言語学がその基礎としてきた言語系統論を根拠づける原理に極めて大きな不都合を生じるのだ。
ここで私が「それ」と言ってゐるのは、ことばの「声遣ひ」に対応させられる「意味解釈のキアスム的反転」である。
「それ」を、比較言語学を専門とする研究者自らが全面的に認めることは、いはば「背信行為」となってしまふのである。
482: 09/12(金)23:00 ID:0(481/560) AAS
「意味解釈のキアスム的反転」とはどのようなものか、中国語の「疼」をふり返ってみればすぐに分かるだろう。
「疼」は、「痛みを生じる」ことを意味するように用ゐられる一方で、「目に入れても『痛くない』」ように「可愛がること」、つまり、「痛みが生じないようにする」ことを意味するようにも用ゐられる。「疼」の漢字が当てられてゐる「同じ声遣ひ」がまるでひっくり返った意味解釈を生じてゐるのである。
483: 09/12(金)23:03 ID:0(482/560) AAS
比較言語学における言語系統論は、基礎的な語彙と考へられることばの中で、別々の言語間でその意味が互いに対応するものと考えられる名詞を比較して、声遣ひに規則的な対応関係が確認できるかどうかに基づいている。
484: 09/12(金)23:14 ID:0(483/560) AAS
ところが、「同じ声遣ひ」でもその意味解釈がまるでひっくり返ってしまふことがよくあるだけでなく、それが例外中の例外であるどころか、ことばの表現を生成する基本的な原理として働いているとしたらどうだろうか。
ことばの意味がまるで逆であるように感じられるとしても、対応関係を認めざるを得なくなる。すると、別々の言語の間で任意にひろってきた語彙の対応関係は、いくらでも恣意的に見出すことができるように感じられるようになるだろう。
といふのも、「語根」に遡ってゆけばゆくほど、音節は、短くなり、声遣ひの重なりは増えつづけてゆくからである。
しかも、比較言語学には、私が「似非数学的な喩」を用ゐて提示したような意味解釈の方法論は、欠如している。
なぜなら、比較言語学にとっては、ことばの基本は、ものごとの「名前」であり、ものごとが「どのようであるか」を示す「様態の表現」ではないからである。
485: 09/12(金)23:19 ID:0(484/560) AAS
したがって、私がここで提示しているようなことは、それに気づかざるを得ない状況に追い込まれたとしても、少しも有り難くはないのだ。
486: 09/13(土)01:58 ID:0(485/560) AAS
で、結局何がしたいんだ、言語学専攻でその界隈なら通用するん?
学校や研究にも行かず、こんな2chで似非言語学者でもしたいのかい
487: 09/13(土)06:49 ID:0(486/560) AAS
ドイツ語の»scheuen«と»schonen«の語源的な対応関係は、日本語の古語の「すさまじ」といふ表現の声遣ひについて考えてみれば、容易に説明がつく。
488: 09/13(土)06:57 ID:0(487/560) AAS
私は、「すさまじ」の「す」は、「す(素)」の感覚を伝へるものとして、また、「さ」は、「さび(寂)し」、「さむ(寒)し」と同様に「おほ(覆)ひ」を「さ(去)」られた、つまり、「〜ざらし」の様態を表現する「さ」の感覚を伝へるものとして用ゐられていると考へることができることを指摘した。
489(1): 09/13(土)07:07 ID:0(488/560) AAS
すると、ドイツ語の»scheuen«は、「『す(素)』のままに『さら(晒)され』てしまふ(つまり、「すさみ」が生じる)(のを避けようとする)」感覚を表現する声遣ひであると理解することができ、また、
»schonen«は、「『す(素)』のままに『さら(晒)され』(つまり、「すさみ」が生じ)ないようにする(ようにおほ(覆)ふ)」感覚を表現する声遣ひであると理解することができる。
490: 09/13(土)07:11 ID:0(489/560) AAS
明治以来、日本に西洋の哲学を輸入しようと努めてきた人々は、西洋の哲学書で用ゐられていて、日本語の日常語でうまく訳すことができない表現を日本語に取り込むために漢語を多用してきた。
それがどのような行為であるのかを明確に意識できるようにするためには、日本語と中国語の関係をふり返ってみる必要がある。
491: 09/13(土)07:17 ID:0(490/560) AAS
そこには、いくつかの似て非なるプロセスがかかはっていることを指摘することができるはずである。
一つ目は、私がこれまで繰り返し強調してきたとおり、日本語は、中国語を形成しているのと共通する声遣ひを大々的に流用していることだ。
そして、このる声遣ひを流用するプロセスは、文字として漢字を日本語に取り入れるプロセスとときに同期しながらも、それとは別のプロセスである。
492: 09/13(土)07:25 ID:0(491/560) AAS
古代から日本列島の全域と中国大陸、朝鮮半島の間で人々は、水路により行き来してきた。
それらの人々は、文字を使わなくても口頭で互いに意思の疎通をはかってきたはずである。
そのことにより、共通して使へる声遣ひを取り入れて、独自に体系化するプロセスが進んだ。
万葉集の表記法を見れば、分かるとおり、そのプロセスにも文字としての漢字は、大々的に流用されているが、そこにおける漢字の用ゐられ方は、中国大陸における漢字の、声遣ひへの当てられ方からは、切り離されてゐる。
493: 09/13(土)07:37 ID:0(492/560) AAS
「中国大陸における漢字の、声遣ひへの当てられ方」といふ言い方をしたが、日本語における漢字の用法について、
まづ、中国大陸における漢字の「正しい読み」があり、日本語は、漢字とは無関係のことばに、声遣ひを区別するための補助として、
その「正しい読み」とは無関係に、「表意文字」としても、「表『声』文字」としても漢字を用ゐている、とする見え方が生じる。
しかし、漢字と声遣ひの関係をそのように見ることには、根本的な問題がある。
494: 09/13(土)07:49 ID:0(493/560) AAS
といふのも、そのような見方では、あたか(恰)も、声遣ひに先立って文字としての漢字が存在し、中国大陸においては、漢字の読みとして正しく対応する声遣ひとして言語が成立しているかのような錯覚が生じるからである。
しかし、中国語においても、ことばの表現の声遣ひの区別を容易にするために、声調の区別が利用されるとともに、「表意文字」としても、「表『声』文字」としても漢字が用ゐられてきたとする方が妥当である。
つまり、日本に「漢語」が「漢語」として、つまり、「外来語」として意識されて輸入されるとき、「漢字とその『正しい読み方』」は、セットになって一体化して取り込まれているが、「文字」としての漢字に「本来的に正しく対応する声遣ひがある」と考へるのは誤りである。
495: 09/13(土)07:53 ID:0(494/560) AAS
さらには、日本語に輸入された「外来語」としての「漢語」は、日本列島で独自に流用されて、日本でしか通用しない「和製漢語」が利用されるようになるとともに、
そのようにして生成された和製漢語の一部は、中国大陸に輸出/逆輸入されて、中国語として取り込まれて利用されるようになっている。
496: 09/13(土)08:06 ID:0(495/560) AAS
中国大陸において、漢字は、「表『声』文字」としてよりも、「表意文字」として発達させられてきた。
「表意文字」は、英語で"ideogram"と訳されることからも分かるとおり、「ことばの声遣ひ」の意図を「概念化して」表象しようとする文字である。
ところで、中国語は、漢字のみを用ゐて表記されるが、そのことは、「ことばの声遣ひ」が伝へようとする感覚、「ことばの声遣ひ」により伝はってしまふ感覚に先立って、中国語のことばが漢字により表象される「概念」として存在することを意味しているわけではない。
497: 09/13(土)09:04 ID:0(496/560) AAS
さて、ここで、西洋の哲学を、和製であれ、中国語として通用するものとしてであれ、外来語としての「漢語」を用ゐて日本語の取り込もうとするといふのが、どのような行為をしていることになるのかといふ問ひに戻ろう。
498: 09/13(土)09:10 ID:0(497/560) AAS
西洋で哲学してきた人々は、漢字のような「表意文字」ではなく、アルファベットといふ「表『声』文字」を用ゐて哲学してきた。
西洋の西洋で哲学的な言説において、敢へて、日本語における「漢語」に相当するのは何かと問ふなら、それは、ラテン語や古典ギリシア語のままで扱はれる「概念」といふことになるだろう。
499: 09/13(土)09:16 ID:0(498/560) AAS
言ひ換へるなら、西洋の哲学は、それがラテン語のキリスト教神学の言説やギリシア語の哲学の著作において検討される「概念」と取り組む限りにおいて、所与の「概念」をどのように捉へ直すことができるか、どのように捉へ直すことが望ましいと「感じられる」のかを、「表『声』文字」によることばの表現によりどのようにか「うまく概念化しよう」としてゐると云ふことができるだろう。
500: 09/13(土)09:43 ID:0(499/560) AAS
ところが、日本語における「漢語」は、それが中国語にはない日本語独自の新たな漢字の組み合わせであった場合でも、そこで用ゐられているのは、ことばの声遣ひを表象しようとする「表『声』文字」ではない。
さらに深刻なことには、中国語において「漢字」は、ことばの声遣ひを「概念化して」区別しようとするために用ゐられる「表意文字」であるのに対して、日本語における「漢字」は、それ自体では「意」を表さない「音(おと)」としての読みとセットになった「既成の概念」を表象する文字となっていることである。
つまり、いくら日本語として新たな和製漢語を創作してみたところで、それは、既成概念を組み合わせるパズルにしかならないのだ。
そして、西洋の哲学の言説を日本に輸入しようとするときに、それに取り組んだ人々が漢語を多用したことは、それらの言説において捉へられた感覚の概念化を、概念化の取り組みなしに既成概念のパズルにより写して取り込もうしたことになっている。
これは、仏典がインドの言語から中国語にうつされたときに、それを単に既成の概念として漢字に対応させようとしたのではなく、声遣ひを写そうとしながら、いはば、漢字を万葉仮名のように用ゐてそれが試みられたことと比べても、安易なやり方である。
501: 09/13(土)09:48 ID:0(500/560) AAS
そして、残念ながら、日本の思想・哲学の研究においてその安易なやり方は、現在に至るまでつづいている。
単に、漢語を用ゐたり、漢字で造語をする代わりに、輸入された概念のカタカナ表記が多用されるようになっただけのことだ。
502: 09/13(土)09:57 ID:0(501/560) AAS
挙句の果ては、「日本語では哲学することができない」などと言ひ出す始末である。
既に概念化された表現としての漢字と、日本語の声遣ひに対応してゐない新仮名遣ひを用ゐることを原理原則として、どのようにして感覚をうまく捉へて概念化して伝へることができるだろうか。それで、日本語では哲学することができないなどと嘯くのは、全身の関節をギプスでグルグル巻きにしたうえで、この身体では、野山を歩き回ることができないと訴えているようなものだ。
503: 09/13(土)09:59 ID:0(502/560) AAS
訴え ×
訴へ ○
このとおり、ごく簡単なことを日本語で表現しようとするのにも、新仮名遣ひは逐一、それを妨げる。
504: 09/13(土)09:59 ID:0(503/560) AAS
とおり ×
とほり ○
505: 09/13(土)10:11 ID:0(504/560) AAS
スレ違うしまだ言語板の方が通じるんじゃない知らんけど
506: 09/13(土)12:02 ID:0(505/560) AAS
チンポマンZ
507: 09/13(土)19:04 ID:0(506/560) AAS
>>489
>ドイツ語の»scheuen«は、「『す(素)』のままに『さら(晒)され』てしまふ(つまり、「すさみ」が生じる)(のを避けようとする)」感覚を表現する声遣ひであると理解することができ
これを感覚的につかむには、例えば、一方で、英語の諺で次の表現における"shy"の用法を、
>once burned, twice shy
Once one is hurt by someone or something, one will be extra cautious to avoid that person or thing in the future.
他方で、『古事記』の「稻羽(いなば)之(の)素(しろ)菟(うさぎ)」のエピソードを想起してみるといい。
この場合、「素(しろ)菟(うさぎ)」」の「しろ(素)」は、毛皮を剥がれて「『す(素)』のままに『さら(晒)され』てゐる」、フランス語を用ゐるなら《délaissé》に対応する様態を表現してゐるだろう。
508: 09/14(日)03:48 ID:0(507/560) AAS
>>1
波平死んだよ
509: 09/14(日)08:31 ID:0(508/560) AAS
哲学するとは、定義された概念を表すことばから成るパズルを与へられた規則に正しく従って組み立てることではない。
哲学の言説を紡ぐことがそんなことであるのなら、そんな作業は、AIにやらせておけば済むのである。
510: 09/14(日)08:36 ID:0(509/560) AAS
しかし、それは、知られている元素の厳密な定義と知られている化学式を人工知能に与えて勝手にさまざまな試行の操作させておけば、化学の実験は不用となると信じるような幻想である。
511: 09/14(日)10:15 ID:0(510/560) AAS
なにがどのように感じられるのかをうまく捉へて、ことばにして記述しようとこころみてゐると、専門の学者を含む一般の大多数の人々は、すぐに話を「『権威』」と『権限』の問題」にすり替へようとする。
512: 09/14(日)10:19 ID:0(511/560) AAS
例えば、似非数学的な喩を用ゐて説明しようとしたなら、「お前は数学の『権威』なのか」、「それを正しいこととして主張する『権限』を誰がお前に与へたのか」といふわけだ。
513: 09/14(日)10:32 ID:0(512/560) AAS
実際、私自身については、数学どころか、簡単な計算をする算数の能力すら、小学生とたいして変はらないだろうし、中国語や朝鮮半島のことばの表現を例とし提示しても、私は、それらの言語の学習に取り組んでいるわけですらなく、
せいぜい、TVドラマを観てその台詞が印象に残る程度でしかないので、それらの言語の運用能力については皆無である。
しかし、そのことは、私が似非数学的な表現を喩として用ゐることの妨げにはならないし、中国語や朝鮮半島の言語のことばの表現をどこかから引用してきて例として提示することの妨げにもならない。
それは、私が気象についてなんら専門的な知識がなくても、そよ風や暴風や凪などのだれにでも感じられる「風の吹き方」といふ気象現象を喩や具体例として用ゐる妨げにはならないのと同じことである。
514(1): 09/14(日)10:42 ID:0(513/560) AAS
そもそも、私は、「なにがどのように感じられるのかをうまく捉へて、ことばにして記述しようとこころみ」において、私にそれなりに妥当であると感じられる記述を、「何らかの権威と権限に基づいて正しいと認められるもの」として受け入れるよう他人に求めているわけではない。
私は、単に、「それが自分にも妥当であると感じられるかどうか各自に自身で確かめてみる」よう、不特定多数の人に求めているだけである。
515: 09/14(日)10:44 ID:0(514/560) AAS
以上の前提を踏まえたうえで>>373の中国語の例文に戻ろう。
他的話使我非常感動。
(彼の話に私は非常に感動した。)
516: 09/14(日)10:57 ID:0(515/560) AAS
中国語におけるこの「使」の用法は、日本語における文法説明において「使役」として説明される。
そして、日本語においては、漢語としての「使役」は、「使役」の概念を表現するものとして用ゐれている。
その一方で、日本語において漢字の「使」は、「つかふ」といふ表現の意図を区別するために、つまり、「使(つか)ふ」と「仕(つか)ふ」と「つか(遣)ふ」を区別するために利用されている。
このため、概念として用ゐられる「使役」といふ表現における「使」の漢字も、「使(つか)ふ」といふ、本来、「使」といふ漢字によって表現されてゐた「声遣ひ」とは、まったく無関係「声遣ひ」によって表現される感覚と分かちがたく結びつくことになる。
517: 09/14(日)11:13 ID:0(516/560) AAS
ここで、まづ、中国語においては、「使」といふ漢字が当てられた「声遣ひ」と、「始」といふ漢字が当てられた「声遣ひ」は「声(こゑ)」として重なっていることに留意しよう。
外部リンク:en.wiktionary.org
しかし、日本語において、漢字一文字の「音読み」、この場合、「音読みとしての『し』」は、ことばの表現の意味を区別するための「声遣ひ」としては用を成しておらず、意味に結びついていない。
したがって、「使(つかふ)う」に結びついた日本語における「使(し)」と、「始(はじ)める」に結びついた日本語における「始(し)」は、漢字の「音読み」として、偶々、読み方が重なっているだけで、互いに無関係であると見做される。
518: 09/14(日)11:29 ID:0(517/560) AAS
ここで具体的に実験をしてみよう。
日本語を母語として、日本語における漢字の用法は習得しているものの、中国語の知識は皆無であるものとする。
そこで、次の例文、
>他的"名詞句X"使我"動詞Y"。
を与えられ、ここで、「他的」は「彼の」を意味し、「"名詞句X"」は、この文の主語であり、「我」は「私」を意味し、「使」は、「『使役』の関係」を表現し、「動詞Y」は、「私」の「動作」であると説明されたら、この文をどう解釈するだろうか。
519: 09/14(日)11:31 ID:0(518/560) AAS
>>514
記述しようとこころみ ×
記述しようとするこころみ ○
520: 09/14(日)11:43 ID:0(519/560) AAS
日本語において「使役」は、「何か/誰か」をどのようにか役に立つように働かせるといふ意味で「つか(使)ふ」ことを意味するのだから、
この文は、「私」を、配下の使用人としてであれ、何かの道具のようにであれ、あるいは役に立つ動植物のようにであれ、「私」に「動詞Y」を「させる」ことを表現しているものと解釈されるだろう。
したがって、
>他的"名詞句X"使我"動詞Y"。
は、全体として、
>彼の〜は、私に〜する「ように『させた』」
を表現しているものとして解釈されることになるだろう。
省1
521: 09/14(日)11:56 ID:0(520/560) AAS
「他的話使我非常感動。(彼の話に私は非常に感動した。)」における「使」は、日本語における「使役」の概念の一般的な捉へ方とは異なり、「〜が〜に〜する「ように『させる』」ことを表現しているわけではない。
また、「他的話(彼の話)」は、文の主語ではあっても、「我(私)」に「〜するように『させる』」、つまり、「私」を「従僕として」どのようにか「つか(使)ふ」主体ではない。
この場合、「他的話(彼の話)」は、「我(私)」が「感動する」ことを「ひきおこす/始動させる」/"to let off"/《déclencher》役割をする「きっかけ/引き金」、つまり、英語を用ゐるなら"trigger"である。
522: 「『始』動装置」としての「引き金」 09/14(日)12:08 ID:0(521/560) AAS
>他的話使我非常感動。
(彼の話に私は非常に感動した。)
つまり、ここで、「使」が、「使役」を表現しているとするなら、その「使役」の「使((Pinyin): shǐ)」が伝へようとしてゐるのは、「つか(使)ふ側」/ 「つか(使)はれる側」という関係性ではなく、フランス語を用ゐて説明するなら、《déclencheur》/《déclenché》の関係性であることを確かめることができる。
523: 09/14(日)12:19 ID:0(522/560) AAS
ここで、日本語において、「お(落)ちる」と「お(落)と『す』」の対比について考へてみるといい。
>急につまづ(躓)いて手にもっていたものを「落と『し』た」
と表現する場合、この「落と『し』た」が、中国語において「使役」とされる「使((Pinyin): shǐ)」が伝へようとする「声遣ひ」にそのまま対応していることに気づくだろう。
524: 09/14(日)12:36 ID:0(523/560) AAS
繰り返すが、私は、このような記述が「何らかの権威と権限に基づいて正しいと認められるもの」として受け入れるよう他人に求めているわけではない。
私は、中国語についても、フランス語についても、私の母語である日本語についても、「〜語学」とされるような研究については、完全に「素人「しらふと」である、つまり、「稻羽(いなば)之(の)素(しろ)菟(うさぎ)」のごと(如)く「『す(素)』のままに『さら(晒)され』た」/《délaissé》の様態にある。
だからと云って、私は、他人に「可愛そう」と思って「可愛がって/いたはって」もらふことを求めているといふわけでもない。私は、単に、私に妥当であると感じられる記述が、他人にもそう感じられるのかどうか、自身で確かめてみることを不特定多数の人々に求めているだけである。
525: 09/14(日)12:51 ID:0(524/560) AAS
哲学することは、なにかをきっかけに誰でもいつからでも始めることができる。
しかし、哲学することは、誰かにそうするように指示されなくても、自づとそのように気づき方をつねに働かせてしまふ習慣なのだ。
だから、これまで自身の振舞ひが「何らかの権威と権限に基づいて正しいと認められる」ことにばかり気を配っていた人が、急に思ひ立ってできるようになることではないのである。
526: 09/14(日)13:07 ID:0(525/560) AAS
終わりんこ
527: 09/14(日)14:06 ID:0(526/560) AAS
つひ(費/終)へることがないのが哲学だ。
日本語の「しろ(素)」と直接に関係ないが、「しろ」と聴くと、朝鮮半島のことばとしての「싫어」といふ表現が想起されてしまひ、
>Middle Korean 슬〮ᄒᆞ〮야〮ᄒᆞ다〮 (Yale: súl-hóyá hòtá), equivalent to modern 싫- (sil-, “to be hateful”)+ -어 (-eo, infinitive suffix) + 하다 (hada, “to do”).
の"싫- (sil-, “to be hateful”)"が、どのような感覚を伝へる声遣ひなのかが気にかかってしまふ。
528: 09/14(日)14:11 ID:0(527/560) AAS
私は、朝鮮半島の言語を習得しようとして学習してはゐない。だから、そんなことを気にかけるのは、一般的に見れば、何の役にも立たない無駄なことだ。
そして、その「何の役にも立たない無駄なこと」といふのは、一般には、「人事評価にもつながらず、金にもならない」ことを意味してゐる。
そういう無駄なことを気にかけるのは、よほど他にすることのない暇人か、それがどのようにか「人事評価にもつながる、または「金にもなる」と誤認してゐる愚か者のすることとされる。
529: 09/14(日)14:19 ID:0(528/560) AAS
私にしても、そのようなことを気にかけることが、私自身にとって「人事評価にもつながらず、金にもならない」ことはよく分かっている。
それでも、そんなどうでもいいようなことが気にかかるのは、生きてゐる限り、ものごとの理解を円滑にしようとする動機が自づと働くからである。
例えば、「싫- (sil-, “to be hateful”)」といふ声遣ひに日本語のどのような表現が声遣ひとして対応するのかを考へてみると、私にすぐに想起されるのは、「しっ、しっ」と追い払ふ声(こゑ)である。
530: 09/14(日)14:29 ID:0(529/560) AAS
なぜそのように想起されるのかと言へば、中国語の中古音として想定される"Middle Chinese: nyit"が、日本語としては、「にっ(日)ぽん(本)」の「にっ」になるのに対して、朝鮮半島の言語では、"일(il))"になり、この語末の"-t"、「〜っ」、「ㄹ(l)」の対応関係は、規則的だからである。
このことは、「出(しゅっ)発(ぱつ)」と「출발」が対応関係にあることからも分かるだろう。
531: 09/14(日)14:36 ID:0(530/560) AAS
すると、「しっ、しっ」といふ日本語の声遣ひからすぐに想ひ起こされるのが、「叱(しっ)責(せき)」の「叱(しっ)」だが、
漢語としての「叱」は、朝鮮半島の言語としては、「질」といふ声遣ひで取り込まれていて、カタカナ表記すれば、「しっ」ではなく「ちっ」に近い。
532: 09/14(日)14:44 ID:0(531/560) AAS
ただし、中国語と日本語と朝鮮半島の言語の対応関係において、「し」と「ち」の声が近いことは、「七」の中国語の中古音が"tshit"であったと想定されているのに対して、日本語では、それが「しち」になり、朝鮮半島の言語では、「칠(chil))」となっていることからも知ることができる。
また、朝鮮半島の言語において、日本語で「しゅ(酒)」とされる「酒」は、"술(sul)"としても"주(ju))"としても取り込まれている。
533: 09/14(日)14:50 ID:0(532/560) AAS
ところで、日本語の「しっ、しっ」と追い払ふ声(こゑ)に対応するように英語で用ゐられる表現は、"shoo"である。
>shoo
exclamation
You say 'shoo!' to an animal when you want it to go away.
Shoo, bird, shoo
外部リンク:www.collinsdictionary.com
534: 09/14(日)14:56 ID:0(533/560) AAS
英語で「矢(や)を放(はな)つ」ことは、"shoot an arrow"と表現する。
中国語の「矢((Pinyin): shǐ)」が、既に見た通り、「放(はな)たれ」る様態を声遣ひとして伝へようとしていると考へるなら、これらの声遣ひも案外、互ひに感覚的に近いにのではないかと思える。
535: 09/14(日)15:00 ID:0(534/560) AAS
さらには、「パラシュート」/"parachute"の"chute"を想起してみれば、その声遣ひも「放(はな)たれて落ちる」感覚を伝へようとしていることに気づくだろう。
>From a merger of Old French cheüe, chue (from Vulgar Latin *cadūta) and cheoite (from Vulgar Latin cadecta), both feminine past participles of cheoir, whence modern choir (compare chu).
536: 09/14(日)15:20 ID:0(535/560) AAS
哲学することを習慣としてゐると、ふとしたきっかけから、このような連想が自づと働いてしまふ。その気づきが、どのようにかぴたりとそろふことになるなら、そのことが人事評価や、金儲けにつながらなくても、思考の効率化につながるといふ意味で、自分自身にとって「役立つ」。
しかし、それと同時に、哲学することは、しばしば、日常的に大きな不便をもたらすことがあるのも確かである。それは、ふとしたことから、その場で現に生じている感覚に反応的に対応することよりも、感覚によって生じた気づきがどのように整合性のとれるようにまとまるのかの方が気にかかってしまふことによる。つまりは、現場の状況から気が逸れることが著しく生じやすくなるのである。
537: 09/14(日)15:26 ID:0(536/560) AAS
哲学することの大きな利点としては、実質的に何もしていなくても、「何もすることがなくて暇を持て余す」といふ感覚が生じることがないことだ。
何かが気にかかって考へを巡らせているうちに、あっと云ふ間に時間ばかりが過ぎている。それを無駄に時間を過ごしたと感じるか、有意義に時間を過ごしたと感じるかはひとそれぞれだろう。
前者の人は、哲学することには向ひていない。
538: 09/14(日)15:47 ID:0(537/560) AAS
まず世に出てる哲学者がこんな暇人社会不適合者でもなかろうww
539: 09/14(日)15:54 ID:0(538/560) AAS
ところで、漢語の語末の"-t"のが朝鮮半島の言語に取り込まれるときに「ㄹ(l)」に移されるのは、なぜなのだろう。
「〜っ」に対応するような発音は、普通に用ゐられているのだから、ほとんどそのまま取り込めないはずがない。
変化させられるのには、それなりの理由があるはずであるが、それを検索しても、英語や日本語のサイトでは、まともな説明は見当たらない。
朝鮮半島の言語について、私自身には、何の知識もないが、第一印象としては、「ㄹ(l)」により、表現を動名詞化して捉へようとしているようにも思えるが、どうなのだろう。
540(1): 09/15(月)07:27 ID:0(539/560) AAS
比較言語学における言語系統論についてどのように私が考へているか、ここで「はっきりと」私の見解を述べておこう。
言語系統論は、比較により系統を辿るために「所与の個別の言語」を「存在者」として先立てるが、声遣ひを対比により系列化して参照されるべき体系として活用する発話遂行的な行為により「こころ(意/心)」をかよ(通)はせることに先行して、所与の個別の言語を使用する人々の集団が存在者として存在すると信じ込む限りにおいて、存在者の存在を、比によりきは(際)だ(立)つことに先立てる思想であり、哲学的に見れば、その根本において誤ってゐる。
541: 09/15(月)07:30 ID:0(540/560) AAS
言ひ換へるなら、比較言語学は、方法論として、比較の対象とする言語を存在者として先立てるが、その方法論により、個別の言語が「系統的に存在する存在者」であると信じ込む錯覚に陥っている。
542: 09/15(月)07:41 ID:0(541/560) AAS
ここで、専門の研究者だけではなく、一般の大多数の人々にも確実に奇妙に思はれるだろう問ひを発しよう。
仮に中国語および日本語が、文字として漢字を用ゐていなかったとしても、中国語および日本語は、印欧諸語とは別系統の言語であると分類されることになったのだろうか。
543: 09/15(月)07:49 ID:0(542/560) AAS
まづ基本を確認しておこう。
声遣ひは、対比により系列化して参照されるべき体系として活用して、こころ(意/心)」をかよ(通)はせることに役立たなければ、「ことば」として「つか(使)ひものにならない」ので、ことばとしてつか(使/仕/遣)はれるこゑ(声)は、
単独で変化することはなく、その変化は、体系的な変位として生じる。それが音韻変化の規則性である。
544: 09/15(月)07:54 ID:0(543/560) AAS
そして、その音韻変化の規則性は、漢字により表記される漢語が、中国大陸から、朝鮮半島の言語や日本語として取り込まれた際の発音の移され方の規則性にも見ることができる。
545: 09/15(月)09:44 ID:0(544/560) AAS
中国語としては、漢字は、声調による区別とともに、声遣ひの意図を明確に区別するための「表意文字」として主に用ゐられてゐるのに対して、
日本語においては、漢語として意識されることばは、「外来語」として扱はれ、その場合、漢字は、日本語のことばとしては明確に概念化されていない「『概念』を表す文字」と見做され、
その「音読み」は、現代のカタカナ語と同様に、日本語のことばとは関係ないものと、一般に信じられてゐる一方で、
漢字は、その音読みとは独立に「『概念』を表す文字」として、漢語ではない日本語のことばのの声遣ひの意図を区別する目的で大々的に流用されて、声遣ひの表記に当てられてゐる。
にもかかわらず、中国大陸、朝鮮半島、日本列島の全域にわたる古代からの人々の交流により、中国語や朝鮮半島のことばの声遣ひと共通性のある声遣ひが、文字から切り離された口語として、数多くの日本語のことばの表現を形成していることにも疑ひの余地はない。
そして、それらの中国語や朝鮮半島のことばの声遣ひと共通性のある声遣ひには、中国語においては、「表意文字」としての漢字が当てられている。また、漢語ではない日本語の声遣ひを表記するための「ひらがな」も、漢字由来であり、
日本語において、ことばの声遣ひとその漢字およびひらがなによる表記法は、容易には解きほぐすことのできないように多重に絡み合っている。
546: 09/15(月)10:05 ID:0(545/560) AAS
例えば、私は、>>540において、「はっきりと」といふ表現を用ゐたが、日本語を母語とする人でこれを漢語であると感じる人はいないだろう。
では、この「『はっ』きりと」の「はっ」は、「明白(めいはく)」といふ誰でもが漢語として認識することばの「白(はく)」とは無関係なのか。
日本語で蚕の繭の「しろ・さ」を表現する「しろ」には、その表現の意図を、「しろ(城)」、「しろ(代)」などとは区別するために「白」の漢字が当てられるが、
では、「白」の音読みである「はく」は、「しろ」の声遣ひとは何の関係もない。では、「しろ」の声遣ひは、漢語としての「糸/絲(し)」とは、無関係なのか。
>束ねた糸を象る。 「いと」を意味する漢語{絲 /*sə/}を表す字。 『説文解字』では「糸」は「覛(ベキ)」と読み「絲」とは別字として扱われているが、それを支持する証拠はない。
547: 09/15(月)10:28 ID:0(546/560) AAS
日本語で「やま(山)しろ(城)」と表現するときの「しろ」に当てられた「城」の漢字の音読みは、「しろ」といふ声遣ひとは無関係であり、
万葉集の歌では、一貫して、「城」は、やはり、「城」の音読みとは無関係の「き」といふことばに当てられてゐる。
そして、「おく(奥)つ(津)き(城)」といふ表現に見られるとおり、「き(城)」は、しばしば、墓所を表すのに用ゐられていた。
ところで、漢字としての「城」は、「盛」と一緒に概念化され得るようなことばの意図を伝えようとする文字であるとされる。
日本語においては、「盛」は、「おほ(大)も(盛)り」のように「も」の声遣ひに当てられるが、「盛」の漢字の音読みも「も」とは無関係である。
では、古代の墓(はか)が、基本的に盛(も)り土により造成されてゐたことは、「も・る」の「も」に「盛」が当てられ、なおかつ、墓(はか)の「墓」の音読みが、「も/ぼ」であることとは無関係なのか。
さらには、「はか(墓)」が盛(も)り土により造成されてゐるのは、その場所を祖先を祀る場所として「しろしめす」ためだろう。
省1
548: 09/15(月)10:32 ID:0(547/560) AAS
さらには、「墓」の音読みの「も」が、土の「も(盛)りあ(上)がり」を想起させるとすれば、この「も」は、草木が「も(萌)え」ることを表現する日本語の「も」の声遣ひとは、無関係なのか。
549: 09/15(月)10:39 ID:0(548/560) AAS
ところで、比較言語学における言語系統論においては、複数音節の名詞の比較が基本とされるので、「も(墓)」のような単音節の「名詞」は、比較の対象から除外され、「盛(も)り」や「萌(も)え」も、複数音節ではあっても、動名詞なので、除外されるだろう。
その一方で、スペイン語で"monte"や「山」を意味する名詞であり、複数音節である。フランス語の「mont」は、「モン・サン・ミッシェル」を想起してみれば分かるとおり、声遣ひとしては、単音節化するが、そのつづりからも対応関係が明白なので、スペイン語で"monte"とフランス語の「mont」は、問題なく同系統のことばの事例であるとされる。
550: 09/15(月)10:41 ID:0(549/560) AAS
しかし、このような複数音節の名詞を比較の対象の基礎とする言語系統論が、いかに恣意的に比較対象を取捨選択することになるか、もはや明白だろう。
551: 09/15(月)10:49 ID:0(550/560) AAS
ちなみに、日本語の「しろ(白)」を漢語の「絲」に関連するものとして説明する比較言語学者は見当たらないが、英語の"silk"は、この漢語の「絲 /*sə/」に由来するものとされてゐる。
>ultimately from an Oriental language (represented now by e.g. Chinese 絲
外部リンク:en.wiktionary.org
552: 09/15(月)13:10 ID:0(551/560) AAS
隔離板だからね
553: 09/16(火)06:25 ID:0(552/560) AAS
おまんこ舐めたい
554: 09/16(火)17:06 ID:0(553/560) AAS
やだあ
555: 09/17(水)04:50 ID:0(554/560) AAS
ウンコしたい
556: 09/17(水)12:59 ID:0(555/560) AAS
ちんぽまんこ
557: 09/18(木)00:21 ID:0(556/560) AAS
変な人しかいません
558: 09/18(木)12:21 ID:0(557/560) AAS
お爺ちゃん お昼よ
559: 09/18(木)15:08 ID:0(558/560) AAS
意味が分かりません
560: 09/18(木)23:00 ID:0(559/560) AAS
悲劇ですね
561: 09/18(木)23:19 ID:0(560/560) AAS
ヒデキデスネ
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