ルドルフ・シュ夕イナーと人智学31 (472レス)
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395: gzmLJcU8f10p ◆gzmLJcU8f10p [sage] 2024/02/07(水) 00:40:16.24 ID:0 つまり、ブロッホは(ムージルやコンブローヴィッチと同様)ひとりの偉大な革新者と目されていましたが、 近代主義の一般的な、きまりきったイメージにはそぐわなかったのです (といいますのも、今世紀の後半において考慮すべきものは、 体系化された規範の近代主義、いわば叙任された、大学の近代主義であるからです)。 この叙任された近代主義は、たとえば小説形式の解体を要求します。 ブロッホの観点からすれば、小説の形式のもつさまざまの可能性はまだまだ枯渇していません。 叙任された近代主義は、小説が人物という仕掛けを捨て去ることを望んでいます。 この近代主義によれぱ、人物とは要するに作者の顔を隠す無益な仮面にすぎないのです。 ブロッホの人物に作者の私を発見することはできません。 叙任された近代主義は、全体性という概念を追放してしまいました。 これに反して、ブロッホはこの同じ言葉を次のような意味ですすんで使用しています。 すなわち、極度の分業化と過度の専門化とがすすんだ時代において、 小説は人間が生の総体との関係をいまだにもちうる最後の場のひとつである、という意味で。 叙任された近代主義によれば、〈近代〉小説は〈伝統的〉小説から乗り越えがたい境界線によって切り離されています (この〈伝統的小説〉は小説の四世紀のあらゆる段階を雑然と寄せ集めたくず籠なのです)。 ブロッホの観点からすれば、近代小説は、セルバンテス以後のあらゆる偉大な小説家たちの参加した、同じ探究を継続しているものです。 叙任された近代主義の背後には、終末論的信仰の素朴な残滓があります。つまり、ひとつの「歴史」が終ると、まったく新しい基礎に立った(よりよい)もうひとつの「歴史」が始まるというのです。 ブロッホには、「歴史」は、芸術の、それも特に小説の発達に根づよく敵対する状況のなかで終るものだという、「歴史」についての悲観的な信念があります。 (ミラン・クンデラ「小説の精神」) 「叙任された、大学の近代主義」という言葉で、 「ポストモダン」なるもののしょうもなさをブラックジャックのように抉剔しているよね http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1645240850/395
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