マルティン・ハイデガー6 (749レス)
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86: 考える名無しさん [] 2020/02/10(月) 09:24:11.23 ID:0 >>80 >有るとは、常になにものかであるということ。 それは〈有ること〉についての一規定であって、現象学をそこで思い起こせばよい。 「何かがある」「何かである」という場合、「何か」「(何かがあると言明する主体)」「何かを直観 する対象化」という3つがある。 「何ものか」だけに照明を当てるしかしないとなれば上記のような、「何ものか」だけにしか 視点が行かないことになる。そうなると事態を正確に視てはいない、ということになる。 実際には直観においては視る主体が先に有る。視るからには誰かが有らねばならない。 人間が先に有らねば何もない。対象化する人間(誰か)がいなければ対象もないのだよ。 そこがなければ学問もなにもない。研究者も人間だからね。 そこで〈有ること〉とは何か、に問題を移すことには必然がある。むしろ学問以前の問いと して起こる必然がある。現象学の先行領域として有の問いがある。有の問いに現象学が 含まれるとするのも当然だとなる。現象学は当時の学問をさらに事態に即して発展させよう とした。学問の基礎付けとして。しかしそこに謂わば噛みついたのがハイデガーであり 有の問いなわけだ。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1568810360/86
90: 考える名無しさん [sage] 2020/02/10(月) 20:50:41.08 ID:0 >>86 君の文は、主観(主体)と客観(客体)がごちゃごちゃになってる。 現象学というのがまさに主客の混同から生まれた哲学。 結局収拾がつかなくなって、人間の態度の問題という主観の海に沈んだのがフッサール。 ハイデガーは、無意味な存在一般なるものを想定したが、同じく主観の海に落ちてしまった。 「存在」といっても「有」といっても、そこに神を見出したかっただけともいえる。 哲学者ではなく、宗教家であり、処世家であると見られることが多いのも理由のないことではない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1568810360/90
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