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483: 2020/02/18(火)19:38 ID:5aO4L82o0(29/38) AAS
に射抜いた。12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの死骸だった。
熊風
ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2.7mにも及び、胸間から背中にかけて「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑を交
えた大物であった。推定7 - 8歳と見られ、頭部の金毛は針のように固く、体に比べ頭部が異常に大きかった。これほど特徴のある熊を誰
も見たことがないという[15]。隊員たちは怒りや恨みを爆発させ、棒で殴る者、蹴りつけ踏みつける者などさまざまだった。やがて誰ともな
く万歳を叫びだし、討伐隊200人の声がこだました。終わってみると12日からの3日間で投入された討伐隊員はのべ600人、アイヌ犬10頭
以上、導入された鉄砲は60丁にのぼる未曾有の討伐劇であった[16]。
ヒグマの死骸は人々が引きずって農道まで下ろされ、馬ぞりに積まれた。しかし馬が暴れて言うことを聞かず、仕方なく大人数でそりを引
き始めた。すると、にわかに空が曇り雪が降り始めた[16]。事件発生からこの三日間は晴天が続いていたのだが、雪は激しい吹雪に変わり
[2- 1]そりを引く一行を激しく打った。言い伝えによればクマを殺すと空が荒れるという。この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継
いだ[17]。
解剖
猛吹雪に、5kmの下り道を1時間半かけてヒグマの死骸は三毛別青年会館に運ばれた。雨竜郡から来たアイヌの夫婦は、「このヒグマは
数日前に雨竜で女を食害した獣だ」と語り、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。あるマタギは、「旭川でやはり女を食ったヒ
グマならば、肉色の脚絆が見つかる」と言った。山本兵吉は、「このヒグマが天塩で飯場の女を食い殺し、三人のマタギに追われていた奴
に違いない」と述べた。解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆、そして阿部マユが着用していたぶどう色の脚絆が、絡んだ
頭髪とともに見つかり、皆は悲しみをあらわにした。犠牲者の供養のため肉は煮て食べられたが、硬くて筋が多く、味はよくなかったという。
皮は板貼りされて乾燥させるため長い間さらされた。その後、肝などとともに50円[注釈 8]で売却され、この金は討伐隊から被害者に贈ら
れた。毛皮や頭蓋骨は消息不明である。

頭部に傷を負いながらも気丈な姿を見せたヤヨは順調に回復したが、背負われたまま噛みつかれた明景梅吉は、後遺症に苦しみつつ2年
8か月後に死亡した。この少年を含め事件の死者を8人とすることもある。同じ家でヒグマの襲撃から生還した明景勇次郎は、事件の27年後
に太平洋戦争で戦死した。長松要吉も回復し翌春には仕事に戻ったが、川に転落して死亡した。ヒグマに受けた傷が影響したのかは定か
ではない。
事態は解決しても、村人に心理的恐怖を残した。村外を頼れる者は早々に六線沢を去ったが、多くはそのようなつてを持っていなかった。
壊された家屋を修理し、荒らされた夜具や衣類の代わりに火にあたりながら、なんとか越冬した。しかし春になっても村人は気力を取り戻せ
ず、家族を亡くした太田三郎は家を焼き払って羽幌へ去り、その後生まれ育った青森に移ったが早くして死去したという。六線沢は、ひとりま
たひとりと村を去り、下流の辻家を除いて最終的に集落は無人の地に帰した。
ヒグマを仕留めた山本兵吉はその後もマタギとして山野を駆け回り、1950年に92歳で亡くなった。彼の孫によると、生涯で倒したヒグマは300
頭を超えるという。

区長の大川与三吉の息子・大川春義(おおかわ はるよし、当時7歳)は、その後名うてのヒグマ撃ちとなった。これは、犠牲者ひとりにつき10頭
のヒグマを仕留めるという誓いによるもので、62年をかけ102頭を数えたところで引退し、亡くなった村人を鎮魂する「熊害慰霊碑」を三渓(旧三
毛別)の三渓神社に建立した。また春義の息子・高義も同じく猟師となり、1980年には、父・春義も追跡していた体重500kgという大ヒグマ「北海
太郎」を8年がかりの追跡の末に仕留めている。さらにその5年後には、他のハンターと2人で、体重350kgの熊「渓谷の次郎」も仕留めている。
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