【九州の星】メディアカフェ フリースペース (424レス)
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410: 2024/11/21(木)19:12 ID:cF40nuJl0(1/2) AAS
1ごまカンパチ ★
垢版 | 大砲
2024/11/17(日) 17:50:15.61ID:RtzBlPeK9

 古墳時代に北部九州一帯を影響下に置いた大豪族「筑紫君」一族の歴史に焦点を当てた特別展が、九州歴史資料館(福岡県小郡市)で開かれている。
中央集権を図るヤマト王権と激しく争った一族の長・磐井の盛衰を中心に、考古遺物と文献の両面から実像を検証している。(北村真)

律令国家が編さんした日本書紀(720年)によると、磐井は新羅など朝鮮半島の国々と独自に通じて勢力を強めたが、外交の一元化を図るヤマト王権と衝突。
527年に始まり、1年半にも及んだ「磐井の乱」で敗死したとされる。
省8
411: 2024/11/21(木)19:12 ID:cF40nuJl0(2/2) AAS
磐井を反逆者ではなく、地域首長連合の盟主として捉える研究も進んでいる。
成城大の篠川賢名誉教授(日本古代史)は「王権に従属しながらも支配地域を持った独立性の高い存在だった」と強調する。
乱が起きた要因として、ヤマト王権側が各地の首長を「国造」に任命し、兵士の提供などを義務づける中央集権的な支配制度を導入しようとしたことを挙げる。
書紀によると、王権側は反乱の鎮圧後、境界を定めた。
これは、王権側が乱の前から、磐井の勢力範囲を限定しようとしていたことをうかがわせる記述だと篠川名誉教授はみている。

特別展は、歴史から消えた後の筑紫君一族の「その後」の動向についても焦点を当てている。
書紀は磐井の敗死後、子の葛子が博多湾沿岸にあった支配地「糟屋屯倉」を献上し、死罪を免れたことを伝える。
省8
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