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背理法と対偶って違うの? (117レス)
背理法と対偶って違うの? http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1730979839/
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53: 132人目の素数さん [sage] 2024/11/28(木) 16:46:57.55 ID:XCAq3thN 追加 ・ラッセルのパラドックス=数学の危機 ・ラッセルのパラドックスとは、簡単に言えば”(このカッコに書いてある文はウソです)”というような 自己言及で、自己否定をいう文です。 それを、集合論で 「それ自身を要素として含まない集合」を 作ると矛盾(下記) ・ラッセルのパラドックスから、数学の危機が認識され、当時の数学者たちが努力した 大きく3つの解決法が提案された 1)一つは、ラッセル自身の提案の型理論 2)もう一つは、ヒルベルトを中心とする 公理的集合論 3)3つめが、ブラウワーの直観主義 ・さて、そもそも ブラウワーの直観主義は、「排中律」や「二重否定の除去」を認めないとか言われますが それは、主に ”ラッセルのパラドックス=数学の危機”のためであって、単に古典論理を否定したい ためではありませんw ;p) ・そして、ブラウワーの直観主義は、現代の構成主義(コンピュータ論理)や 量子論理(量子力学の世界の論理)に繋がっています (参考) ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 ラッセルのパラドックス(英: Russell's paradox)とは、素朴集合論において、自身を要素として持たない集合全体からなる集合の存在を認めると矛盾が導かれるというパラドックス ラッセルの型理論(階型理論)の目的のひとつは、このパラドックスを解消することにあった[5]。 概要 「それ自身を要素として含まない集合」を「M集合」とし、「すべてのM集合を成分とする集合R」を作ってみる そうすると、「任意の集合X」に関しては、「XはRに含まれる」⇔「XはXに含まれない」という定式が成り立つ そして特にX=Rとすれば、「RはRに含まれる」⇔「RはRに含まれない」となり、 パラドックスが明示される。 集合論が形式化されていないことが矛盾の原因なのではなく、このパラドックスは、古典述語論理上の理論として形式化された無制限の内包公理を持つ素朴集合論や、直観主義論理上の素朴集合論においても生じる。したがって論理を古典論理から直観主義論理に変更してもラッセルのパラドックスは回避できない。パラドックスの回避については、様々な方法が提案されている。詳細は矛盾の解消を参照。 矛盾の解消 公理的集合論によって何をもって集合とするかについての形式的な整備が進められ、素朴(だが超越的)な Rの構成を許容しない体系が構築された。 集合論の公理は通常の数学を集合論の上で展開するために十分なだけの集合の存在を保証しつつ、パラドックスを発生させる集合は構成できないように慎重に設定する必要がある。 1.公理的集合論による解消[注 1] 略す(注:普通のZFCが代表例) 2.単純型理論による解消[注 2] 項に型と呼ばれる自然数 0, 1, 2,… を割り当て、述語記号 ∈ を (n階の項)∈(n+1階の項) の形でのみ許容する(すなわち論理式の文法を制限する)ことで矛盾を回避する。単純型理論は階型毎に無制限の内包公理を持つが、無矛盾である。 3.部分構造論理による解消[注 3] en.wikipedia.org/wiki/Russell%27s_paradox Russell's paradox つづく http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1730979839/53
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