慶上明について語るスレ (78レス)
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3: 08/13(水)20:41 ID:DnhWq1+J(1/10) AAS
↑頭沸いてる慶応未熟者大学w
5: 08/13(水)20:49 ID:DnhWq1+J(2/10) AAS
こればっかw
なんで
松室孝良なんかにハマったんだ
慶応未熟w
9: 08/13(水)20:58 ID:DnhWq1+J(3/10) AAS
小林 照彦(こばやし てるひこ、1920年〈大正9年〉11月17日[2] - 1957年〈昭和32年〉6月4日[2])は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。陸士53期。最終階級は帝国陸軍では陸軍少佐、空自では2等空佐。
飛行第244戦隊長として奮戦
1944年(昭和19年)11月末、帝国陸軍史上最年少(満24歳、階級は陸軍大尉)の飛行戦隊長として東京都下調布の飛行第244戦隊に着任[3]。当初は三式戦闘機「飛燕」、1945年(昭和20年)5月以降は五式戦闘機に搭乗して[6]、終戦まで日本本土の防空任務にあたった。
10: 08/13(水)20:58 ID:DnhWq1+J(4/10) AAS
飛行第244戦隊長となった小林も、戦隊長標識を施した三式戦「飛燕」[注釈 2]や五式戦を駆って本土防空戦の陣頭に立ったが、1945年(昭和20年)4月12日に乗機を撃墜されて山梨県大月市付近に落下傘降下した際には、救助してくれた村人に、小林が「自分は調布の戦隊長です」と言っても、村人は「そんな若い部隊長さんなんて嘘でしょ」と全く信じてくれなかったという[8]。
1945年(昭和20年)1月27日、B-29 1機を体当たりで撃墜し、落下傘降下して生還[9]。小林は軽傷(擦過傷、打撲傷)を負ったのみであった[9]。
4月12日にB-29の編隊に単機突入し、護衛のグラマンF6Fの射撃で被弾し、操縦不能となるも、落下傘降下して再び生還[10]。この際、右脚に機関砲弾破片の盲管銃創を受ける(小林の日記の記載による)[10]。
5月15日に、第1総軍司令官 杉山元 元帥陸軍大将から、飛行第244戦隊に部隊感状が授与された[11]。それに先立ち、小林は第1総軍に呼ばれて「こんど感状を授与したいと思うが、君への個人感状にしようか、それとも部隊感状にしようか」と聞かれた[11]。小林は「当然部隊感状にして頂きたい」と即答した[11]。小林はこの時に陸軍少佐に進級し、表彰状、ならびに陸軍武功徽章(乙)[2]が授与された[11]。
11: 08/13(水)20:59 ID:DnhWq1+J(5/10) AAS
サラリーマンを経て航空自衛隊へ
敗戦後、1945年11月1日に復員して東京の自宅に戻る[13]。いくつかの職を転々とするも、1946年(昭和21年)8月に、陸軍で懇意だったある元陸軍技術中佐が経営陣に加わっている佐賀板紙株式会社(外部リンク)に入社して生活の安定を得る[13]。勤務と並行して、1946年(昭和21年)4月に明治大学法学部(二部)に入学し、1950年(昭和25年)に卒業[13]。
サラリーマンとしての勤務を続けながら、「日本空軍設立」の運動に取り組む[14]。
小林は佐賀板紙株式会社で実績を挙げ、将来を嘱望されていたが[15]、1954年(昭和29年)7月に航空自衛隊が創設されると同社を退職して9月4日付でこれに入隊、帝国陸軍時代の経歴から3等空佐(陸軍少佐相当)となった。航空自衛隊幹部学校へ入校し、ふたたび戦闘機操縦者の道を歩んだ。松島基地、築城基地を経て1955年(昭和30年)11月から約半年間、アメリカ合衆国に留学しF-86戦闘機の操縦教育を受ける。
殉職
帰国後、浜松基地で第1飛行団[注釈 3]第1飛行隊長として教官勤務につくが1957年(昭和32年)6月4日、搭乗のT-33練習機が離陸直後に墜落。同乗者の天野裕3等空佐を先に脱出させた(脱出時の高度が低すぎたため天野3佐も殉職し2等空佐に特進)後、市街地に機を墜落させないよう最後まで操縦しての殉職だった。生涯飛行時間は約2千時間であった[3]。殉職により2等空佐に特進し[注釈 4]、正六位に叙され、勲五等瑞宝章を追贈された[16]。
14: 08/13(水)21:03 ID:DnhWq1+J(6/10) AAS
明治大学のあら探しが生き甲斐になってんだw
人生色々
by小泉純一郎w
15: 08/13(水)21:04 ID:DnhWq1+J(7/10) AAS
脱出生還3回! B -29撃墜王「小林照彦」と三式戦闘機 ... - 歴史人
歴史人
外部リンク:www.rekishijin.com›...
2022/11/16 — 愛機の前に佇む小林照彦。3度目の落下傘脱出時には右脚を負傷していたが、日本本土防空戦では、陸地に降下する限りほぼ生還できる強みがあった。
www.rekishijin.com からの小林 照彦
概要
小林 照彦は、日本の陸軍軍人、航空自衛官。陸士53期。最終階級は帝国陸軍では陸軍少佐、空自では2等空佐。 ウィキペディア
省4
16: 08/13(水)21:05 ID:DnhWq1+J(8/10) AAS
ひこうぐも: 撃墜王小林照彦陸軍少佐の航跡 (光人社ノン ...
アマゾン
外部リンク:www.amazon.co.jp›ひこうぐも―撃墜王・小林...
妻の視点からしか知る事の出来ない、小林照彦2佐の人柄がわかります。ラグビーのワールドカップが終わったら、また多磨霊園に小林2佐のお墓参りに行ってきます。
17: 08/13(水)21:08 ID:DnhWq1+J(9/10) AAS
「飛燕」の整備に慣れた部隊では優れた戦果をあげており、アメリカ軍パイロットたちは「日本軍のメッサーシュミットもどき」を警戒していたという。連合軍から“Tony”のコードネームで呼ばれた本機は、対ボーイングB-29スーパーフォートレスが主体となった本土防空戦で一際活躍した。
日本を守るこの戦いで名をあげた名パイロットのひとりが小林照彦だ。1920年11月17日に東京で生まれ、陸軍士官学校に進む。卒業後は砲兵士官となったが、すぐに転科して航空兵となり、ウイングマークを得た。当初は軽爆撃機乗りだったが、1943年に戦闘機乗りとなった。
教官職などを歴任した後、1944年11月末に日本陸軍史上最年少の飛行戦隊長として、24歳で大尉だった小林は飛行第244戦隊に着任し、「飛燕」に乗って本土防空の任に就いた。そして体当たりによるB-29の1機を含む、計12機の撃墜を記録。しかも3回もの落下傘脱出を繰り返し、その都度生還している。
というのも、ひたすら特攻を指向していた海軍航空隊とは違って、陸軍では、貴重な熟練パイロットに可能な限り生還することを求めていたからだ。飛行機の代わりはいくらでも手配がつくが、腕利きパイロットは一朝一夕には育たないという現実を、陸軍航空隊上層部はよく理解していた。
少佐で終戦を迎えた小林は、戦後、航空自衛隊に3等空佐で入隊。F-86セイバー戦闘機などに乗る。しかし1957年6月4日、操縦するT-33練習機「若鷹」が離陸直後に墜落して殉職。2等空佐に特進した。享年36。 明治大学校友
19: 08/13(水)21:21 ID:DnhWq1+J(10/10) AAS
犯人はオマエだっての慶応未熟w
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