■細川俊夫、本スレ■ (758レス)
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321: 7分74秒 [] 2008/07/13(日) 07:11:24 ID:z9z52NQw 怪談「Music Tomorrow」 現代音楽論にかえて- (2) 作曲家の意識について・・・ 権利ばかり主張する かつて東京芸大で教えている作曲家と話したことがある。彼は、現代の音楽が社会に受け入れられないことは遺憾なことだが、 しかし、その原因は、作曲家の側だけではなく、受け入れようとしない社会の方にもある、という言い分だった。 これも理屈としては可能な言い分かもしれない。しかし、社会は余りに広く大きく、音楽は余りに小さい存在である。 天動説と地動説の例えがあるが、この言い分はその出発点において天動説である。自分を中心に置いてものを考える。 だから、この発想から出発すると、作曲家の立場としては、できるだけ作曲家のあり方を広く肯定させようとする。 「これでも否定はできないはずだ」「こういうものもあっていいはずだ」「こういうことをして何故いけない」という風に。 しかし、それぞれの主張の是非は別にして、作曲家の側も、自分を中心に置かず、どうすれば音楽が社会との結びつきを可能にし 、拡大できるかを考える、という反対の側からの考え方があってしかるべきではないか。現代の作曲家にはまるでその考え方がない。 権利ばかり主張して自分の役割を反省しようとしない現代の一般風潮がそのままここにも現れているようである。 円を想定すれば、円周に近い外延へ同かって自分の座標を置くことばかり考え、その権利を主張する遠心的方向の発想ばかりである。 そうではなく、いかにすれば社会への機能を回復できるか、という求心的な発想が欠けている。 どうしてこうなったのだろう。余りに自分達が作る音楽が世間から相手にされないのでグレてしまったのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/contemporary/1127610590/321
322: 7分74秒 [] 2008/07/13(日) 07:12:35 ID:z9z52NQw お客無視の行き着く所 こうしてグレた作曲家たちは、それでは誰のために作曲するのだろう? もし売れる仕事なら、どれだけ売れるかで社会のランクが決まる。またそれが目標にもなる。 より売れることを目標に頑張る。しかし、そもそも喜んで聴く相手かいない音楽を作る場合どうなるか。 はじめから売れる売れないなど眼中になく、売れようが売れまい、黙々として自らの信念に基づいて聴く相手がいない音楽を作り続けるかもしれない。これなら倫理的には立派である。 しかし芸術家にもそうよく出来た人ばかりいるわけではない。カネもほしけれは名声もほしい。 しかし、売れないのだからカネの方は無理である。しかりとすれば残るはもう一つの方、名声である。 ここにおいて名声の作り手が登場する。マスコミといいたいが、マスコミほど立派な規模のものではない。 これまた一般社会からは有るのか無いのか分らない、関心も持たれない、小さなジャーナリズムである。 現代音楽評論界である。その緒果により、ナントカ賞が出され、小さなジャーナリズムは写真を載せ、大新聞もこの時だけは文化欄に少しは書いてくれる。 そして彼の経歴には**賞受賞という一項目が加わる。有り体に言ってしまえば、現代の作曲家の、全部とは言わないが、ほとんどはこの目標のために作曲しているのである。 こんなみっともないことを本人達が言うわけがないし、お相手をしている小さなジャーナリズムもそう考えると余りにわびしくなるので考えないことにしている……… といいたいのだから、実はそうでもない、もっとわるい。 自分たちの営みがこのように貧しくわびしいものであることが気もつかれず、 この名声が立派な芸術的成果の証しであると信じ切って、形而上的な価値を創造したと信じている。 カネになるものなら、売れなくなれば、そこでいやでも反省を強いられるが、始めからカネにならぬことを承知で、 生活のための収入源は別に用意してあるのだからカネにならなくても少しも困らない。 かくして反省の機会は全く存在しないから、考えが改まるはずがない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/contemporary/1127610590/322
323: 7分74秒 [] 2008/07/13(日) 07:13:19 ID:z9z52NQw 細川、西村、作品は話にならない愚作 こうした状況から「未来の音楽」とか「明日の音楽」という発想が生まれるのである。 現代では相手にされないことを自分から語っているのである。 自覚せずに自分たちの有様を漏らしてしまった結果がこの名称である。 もっとも、それがヘンなことという自覚がないから、むしろ立派なことぐらいに考えているのだろう。 終りに、今回「Music Tomorrow」で演奏された細川作品と西村作品はどちらも話にならない下らない音楽である。 こんなものをチヤホヤする評論家とは「ワレ鍋に閉じブタ」のいい組合せである。 (おわり) ************************************************** あとがき この文が出てからすでに永い日時がたった。この間に日本の作曲界もだいぶ様子が変った。 当時、自称前衛主義を独善的に鼓吹した雑誌は廃刊となった。いいことである。 その代り、評論界に活気がなくなった。皮肉な結果である。根本的には、 東西の冷戦対立が共産圏の崩壊という歴史的事実のために消滅したことが原因だろう。 是か非かの対立がなくなったから、何を以てよしとするかは個人が自分でそれぞれ決めなければならない。 未来への期待過剰が破産した結果、虚無的無力感が登場した。批評も力がない。激しい議論もない。 これもまた不甲斐ない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/contemporary/1127610590/323
324: 7分74秒 [] 2008/07/13(日) 07:23:29 ID:z9z52NQw 助川敏弥氏の 新「方丈記」から転写させてもらった。 http://www008.upp.so-net.ne.jp/sukegawa/2-Houjouki.htm おそらくここに出てくる助川氏の聞いた「Music Tomorrow」は1989年のものだと思われる。 細川・西村両氏の曲目は ●細川俊夫 オーケストラのための「遠景」? ●西村 朗 2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー 「遠景?」はともかく、「2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー 」は人気のある作品で 川島元晴以下若手にも影響を及ぼしている、傑作だと思うんだが・・・ なんにしても助川氏の世代から見ると話にならない愚作と聴こえたのか。? しかしその主張には耳を傾ける価値はあると思い、貼り付けさせてもらった。 話のたたき台にはなるだろう。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/contemporary/1127610590/324
328: 7分74秒 [] 2008/07/13(日) 21:04:05 ID:z9z52NQw >>326 うむ、ちょっと判断が早まったかも。 本文にもあるように「80年代の終わりごろ」との記述から1989年と思ったが、 1991年の「光の環」の可能性もあるね。 ちょっと手元に「Music Tomorrow」の資料がなくネット検索にも出て来なかったので どっちか判断できません。 細川新作、西村再演とあるので1989年であるほうが可能性は高いと思うのですが。 なんにしても「光の環」も話にならない愚作ってほどの失敗作とも思えないですがね・・・ 「2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー 」だとしたらもっと納得いかないけど。 >>327 新「方丈記」はコンスタントにお書きになっておられるので、病気とかは してないと思う。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/contemporary/1127610590/328
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