坂上田村麻呂とかいう歴史的ヒーロー (20レス)
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8: 2024/06/16(日)14:51 ID:ObR/pdJm(1/2) AAS
青森ねぶたの田村麿賞消滅の背景:浪岡八幡宮所蔵「伝坂上田村麻呂像」が語る歴史

青森ねぶたの最高賞として長年親しまれてきた田村麿賞が廃止されたのは、もう随分前のことになります。この賞が廃止された理由として、ねぶたの題材として描かれてきた坂上田村麻呂が、地元の人々から「征服者」ではなく「逆賊」と見なされるようになったことが挙げられています。

9月16日、私は浪岡八幡宮を調査する機会に恵まれ、御神宝である「伝坂上田村麻呂像」という銅像を拝見しました。八幡宮の縁起によると、この像は延暦12年(793年)に田村麻呂によって創建されたと伝えられ、誉田別命を御祭神として祀っています。像は高さ36cm、台座の幅12.6cm、肩幅8.5cmの重厚な造りで、足元の裏側には「弘仁二(年)九月六(日)調首内人」という刻字が見られます。

像を納めていた箱書きには、昭和10年(1935年)8月に八幡宮が郷社から県社に昇格した記念に奉納されたと記されており、昭和10年以降に御神宝となったことが分かります。さらに箱の中には、中道等氏による像の説明書き、現平成天皇(昭和8年生まれ)の新聞切り抜き写真、濃紺絹布、出征垂幕(「海老名某」の名前あり)が入っており、当時の様子が偲ばれます。

中道等氏は、京都大学・東京大学(共に帝国大学時代)で研鑽を積んだ歴史学・考古学・民俗学の碩学であり、昭和40年代まで青森県における郷土史のリーダーとして活躍しました。氏の説明書きを要約すると、「弘仁2年(811年)はまさしく田村麻呂の命日であり、当時の嵯峨天皇は、亡くなった近臣たちの像(木・画)を集めたと記録に残されています。この像は、その時の田村麻呂像を江戸時代に鋳造したものと思われる。」という記述があります。

田村麻呂は、延暦年間(782〜805年)に征夷大将軍に任命され、蝦夷の地を平定したとされていますが、蝦夷を多数斬首したため「首を調べる内人」という刻字がされたと考えられます。田村麻呂自身は津軽まで足を運んだことはないにもかかわらず、浪岡八幡宮をはじめ、猿賀神社や藤崎八幡宮など、田村麻呂創建と伝える神社は多く存在します。

では、なぜこのような伝承が各地に広まったのでしょうか。

『浪岡町史第1巻』にも示されているように、浪岡をはじめとする津軽地域では、8世紀までの遺跡は極めて少なく、9世紀に入ってから爆発的に増加します。まさに、延暦年間を境に遺跡の状況が変化しているのです。つまり、津軽の集落が農耕社会に移行した「遠い記憶」を、「坂上田村麻呂」という律令国家のシンボルを介して語り継いできた「地域伝承」と捉えることはできないでしょうか。

歴史の真実は闇の中ですが、津軽に田村麻呂伝承が存在する事実は消えることはありません。
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